フリードリヒの日記

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共同幻想論・巫女論とAKB48

2011年06月09日 08時24分59秒 | 社会・政治・思想哲学

 共同幻想論の巫女論を読んでいたら、こういう記述があった。
「おそらく巫女が所有する能力が共同幻想をじぶんの<性>的な対幻想の対象となしうる能力であるのにたいして、シャーマンの能力は自己幻想を共同幻想と同化させる力だという点にある。巫女はしばしば修行中にも<性>的な恍惚を感じうるだろうが、シャーマンでは心的に禁圧された苦痛がしばしば重要な意味をもつだろう。なぜなら本来的には越えがたい自己幻想と共同幻想との逆立ちした構造をとびこえる能力を意味するからである」

 抽象的で難しい文章である。そもそも、自己幻想、対幻想、共同幻想の正確な定義がよくわかっていない。ただ、この文章を読むと脳みその知的好奇心の部分が刺激され何かを考えたくなる。私にとってはそのほうが重要だ。

 巫女の所有する能力が、「共同幻想を性的な対幻想の対象となしうる能力」というのはなかなか面白い。私なりに簡単に言うと、巫女になりうる女性はリアルな男性と恋愛するだけでなく、「社会的なモヤモヤとした想念のようなもの(共同幻想)」と恋愛できるということである。女性が、特定の男性に向けておしゃれをするのではなく、世間に注目されるためにおしゃれする感覚がそうなのかもしれない。私は、この巫女論の記述を読んだ時、AKB48のことを考えた。彼女らは、特定の男性ではなく、アキバのオタク(それ以外の男性も)の想いのようなものと恋愛しているのである。そのようなことができるタイプがアイドルになるともいえる。社会に注目されるより特定の男性と恋愛するほうがいいと思っている女性は、アイドルとして成功するとは思えない。男のいる女性に興味はないからである。巫女とアイドルはよく似た関係にあるのではないかと思う。
 このような現象が社会的にどのような影響を与えるのかよく分からないが、あれだけ不特定多数の男性を熱狂させるのだから、何らかの作用があるに違いない。

 それに対して、シャーマンの能力は「自己幻想を共同幻想と同化させる能力」だと言っている。これは、どちらかというと作家の能力に近いのではないかと思う。作家は無意識的に社会に漂っている言葉に出来ない問題点を、自己の内面に取り入れ咀嚼しそれを文章にして表現する。この能力は、共同幻想と自己幻想の同化である。それには、苦痛が伴うだろう。社会の問題を自分の内部の取り入れるのだから。

 

 

 

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