読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

「ニッポンの教養」 伊勢崎賢治氏

2008-01-16 02:25:09 | テレビ番組
 15日放送の「爆笑問題のニッポンの教養」で紹介された先生は伊勢崎賢治氏であった。東京外国語大学大学院で平和構築・紛争予防講座を持っておられるし、サンデーモーニングでときどきコメンテーターとして出演される。著書「武装解除 紛争屋が見た世界」(講談社新書)は衝撃的だった。番組の中でもちらっとおっしゃっていたが、シエラレオネにいたときの体験談が紹介されている。

テロを封じ込める決定的解決法

 9.11。世界貿易センターが崩れ落ちるCNNの速報を僕はシエラレオネで見ていた。
 ここは首都フリータウン、国連シエラレオネ派遣団(UNASIL)本部。この1万7千の国連平和維持軍を擁するPKOミッション本部ビルの一室に集まった幹部たちは、皆無言でテレビに見入っていた。(中略)その場にアメリカ人はいなかったが、歴史に残るこの惨劇を目にして、奇妙な沈黙の中で共有されていた気持ちは、「(アメリカにとって)自業自得」という冷めたものではなかったろうか。何の罪もない、アメリカ人ではない人々も多く含まれていたであろう犠牲者の手前、誰もそれを口にすることはなかったが。
 (中略)そんな中で、僕が忘れられないもう一つの報道がある。それは、英国BBCラジオ国際放送。数少ないほぼ中立な情報源としてアフリカ人の中では非常にポピュラーな Focus on Africa という番組だ。その中の電話によるリスナー参加コーナー。テーマは「9.11とテロ世界戦」だった。
 冒頭の電話の主は、フリータウン在住のシエラレオネ人主婦。
 
主婦 「テロ世界戦を終結するために決定的な方法をミスター・ブッシュに提案したいと思います。」
キャスター男 「ほう。その方法とは?」
主婦 「それは、オサマ・ビン・ラディン氏をアメリカ合衆国の副大統領に任命することです」
キャスター男 「・・・・・・」
キャスター女 「(あわてて切り出す)どうしてその方法が良いと思うのですか?」
主婦 「なぜなら、この方法は内戦を止めるためにシエラレオネで実施されたことで、大量虐殺の首謀者で、何千人もの私たちの子供の手足を切った反政府ゲリラのボス、フォディ・サンコゥを副大統領に祭り上げたのは他でもないアメリカなのです。そのお陰で私の国では今、武装解除が始まろうとしているのです。」
キャスター男 「・・・・・。あっありがとうございました。次のかたに行きましょう・・・・・・」

これは本当だ。
米国が醸し出す究極のダブル・スタンダード
 
 9・11.世界貿易センターでの犠牲者は三千人余。
 シエラレオネで、殺人より残酷と言われる手足の切断の犠牲者になった子供たちの数は数千人。十年間の内戦の犠牲者は、五万とも、五十万人とも言われる。この内戦の直接的な指導者は、フォディ・サンコゥ。
 過去の虐殺を犠牲者の数だけで比較するのは不謹慎かもしれない。しかし、三千人しか死んでないのに、なぜそんな大騒ぎを、というのが、千人単位で市民が犠牲になる身近なニュースに馴れたアフリカ人の率直な感想だろう。そして、三千人しか殺してない(それも自爆テロという勇敢な方法で)オサマ・ビン・ラディンが“世界の敵”になり、量的にその何十倍の残虐行為(それも無知な子供を少年兵として洗脳し、親兄弟を殺させ、生きたまま子供の手足を切断し、妊婦から胎児を取り出し、目をえぐり、焼き殺す)を働いた首謀者フォディ・サンコゥが、どうしてシエラレオネの副大統領になるの?というのが、前述のBBCの番組に声の出演をした名もないシエラレオネ人婦人の本音であったろう。

 1997年にクリントン大統領は、ジェシー・ジャクソン牧師(黒人の公民権運動指導者)を「アフリカ支援特使」に任命し、リベリアとシエラレオネの地域紛争を解決しようとした。まず、ジャクソン師は1998年にカッパ大統領によって国家反逆罪で死刑が宣告されていたサンコゥを無罪放免するよう働きかけた。そしてこの世紀の虐殺者を一転、無罪放免にしたばかりか、その郎党を含めてすべての虐殺行為に完全な恩赦を与え、そのうえ副大統領に任命し、さらに鉱山資源開発大臣を兼任させるという内容の「ロメ合意」を締結させた。すばらしい!アメリカの平和外交の賜物です。
 もちろん民衆は怒る。しかも「ロメ合意」のすぐ後にRUF(ゲリラ軍)が暴走して首都に再侵攻。“副大統領”宅に押し寄せた怒れる民衆に恐れをなしてサンコゥは群衆に発砲の後逃亡。ゲリラの武装解除が完了する2002年までどこか秘密の場所でかくまわれていたという。サンコゥが率いていたRUFは2002年5月の総選挙で「一政治政党として“変身”が許され、首都を含め国内各地に選挙事務所の開設を許可されたばかりか、事務所用地、開設費用まで政府負担、そして遺恨を持つ市民の復讐から身を守るための護衛も政府負担で賄い、選挙でで国民の信を問うも大敗。カッパ大統領が再選され、今日に至るのだ。」

 アメリカって頭いいなあ。びた一文も使わず口先三寸で強引に平和を達成しちゃった。伊勢崎氏は、だから「テロとの戦い」だなんてアメリカがいかに「ダブルスタンダード」で動いているかよくわかるだろうと言う。こういうことがようやく最近アメリカ市民にもわかってきたようだけど、日本人はまだわかってない、まったく当事者意識がないとおっしゃっていた。
 
 「武装解除」に戻ると、東ティモールでも、シエラレオネでも、そしてルワンダでも、内戦終結後人々は虐殺者と鼻突き合わせて暮らさなくてはならなくなる。果たして自分の家族をみんな虐殺し、自分に一生消えない傷を負わせた犯人を許せるかという問題がある。伊勢崎さんは「彼らは絶望から和解する」と言う。
生き残った人々は和解に人間的な価値を見出して、和解するのではない。和解を善行として、和解を受け入れるのではない。『復讐の連鎖』を心配するのでもなく“絶望”から和解するのだ。

もともとRUF放棄のスローガンの一つが腐敗した政権の打破だったように、腐敗、そして法と秩序の崩壊がこの国の日常だったのだ。そして、内戦が終わって復興が始まっても。どんな政権が国を治めても、この本質は変わらない。ずっと世界最貧国だったこの国は、これからもそうあり続ける。これが、十年の内戦を経ても、世界で一番貧しい国であり続ける庶民の“絶望”なのである。つまり復讐する気力も失わせる“絶望”である。

 「アメリカのダブルスタンダード」の他に伊勢崎さんがおっしゃっていたのは「武装解除には武力の後ろ盾が必要。国連平和維持軍に守られてなかったら自分は武装解除できなかっただろう」ということと「日本が平和憲法を持っているということで自分は信用された」ということだ。これはいろいろ議論があるだろうけども、番組で最初に伊勢崎さんが、「やはり、日本ほどの経済大国で軍事大国でもある国は周辺諸国にとってかなりの脅威であって、憲法9条の歯止めがあるということでかろうじて信用されている」ということをおっしゃっていた。憲法論議はもう難しくってしょうがないけど、核による抑止力で世界の平和を構築するという考えで日本も核を持とうなんていう考えは私にはとうてい受け入れられない。特にそんなことを言うのが太平洋戦争の日本軍の行為を正当化しようとする右翼だってんだから、他のアジア諸国だって信用するはずがない。

 あと、何度もおっしゃったのは「平和を唱える側がセクシーでなきゃいけない」ということ。「反対の側(右翼)はセクシーだ。それに対抗するには、もっとセクシーでなきゃいけない。」って・・・。右翼ってセクシーか?最近のネット右翼なんか、ビンボーでヒステリックでバカ丸出しみたいな気がするんだがなあ。そういえば、雑誌「SIGHT」の発行人渋谷陽一さんがおんなじようなことを朝日新聞(1月13日)で、作家高橋源一郎氏との対談の中で言っていた。
渋谷 権力の側が自分たちを合理化し、国民をコントロールしようとする時に使う言葉はものすごく平べったい「ぜいたくは敵だ」とか。
高橋 「感動した」とか。
渋谷 「美しい国」はコピーが大切という方向性は正しかったけど、言葉のスキルが足りなかった。権力がわかりやすい言葉を使ってきたときは注意しないといけない。それなのに、権力と戦う側があいかわらずの政治的な方言を使っていたんでは負けてしまう。「おじさんたちの言っていることはわかんなーい」となっちゃう。そういう彼らを批判するのは見当違い。対抗できる言葉を持っていないと、メディアは権力にやられてしまうんじゃないか。 

 ふーん。渋谷さんって、確かすっごく有名な音楽評論家のはずだし、SIGHTにしょっちゅう出てくる坂本龍一なんかもカリスマ的なミュージシャンで、そういうかっこいい人たちが今や「かっこ悪い」存在になり下がってしまった左翼的な言動を今あえてするっていうのはかなりのインパクトがあっただろうなあ。私は斉藤美奈子さんがSIGHTに出ていたのでかなり安心した。

 ついでに1月14日の新聞から「この人、この話題」一橋大名誉教授(日本思想史) 安丸 良夫 
「民衆運動」 「暴力」「狂信」のラベル貼る前に

 たとえば私たちは、宗教的急進主義やナショナリズムと結合した諸運動について、ほんの表面的にしか知らず、よく知らないことについては自分の日常意識から排除して、暴力や狂信のラベルを貼って済ませているのではなかろうか。民衆運動には、外部の観察者には、一見、非合理的でわかりにくいところがあるが、そのことの大きな理由は、非抑圧者の側はみずからの社会的な劣弱性をコスモロジー的な優位、とりわけ宗教的なそれによって代替するからである。しかし、一見不可解なこれら諸運動の特徴も、社会的全体性のなかでこれら諸運動の位置と意味とを見定めてゆけば、それほどわかりにくいものではない、と私は思う。

 この場合の「民衆運動」という言葉を、日本を棚に上げておいてイスラム原理主義とかアメリカのキリスト教原理主義とかに当てはめるとよくわかるが、日本の最近のナショナリズムだってまったくそのとおりに違いない。やっぱり、ぜったい、右翼はカッコ悪いよ。