読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

内田樹氏のブログを読んで

2008-01-27 23:52:46 | Weblog
 久し振り(多分一年ぶりくらい)に内田樹氏のブログを読んで、思わず笑ってしまった。「ふつう」のススメ。(あー、リンクしちゃたー。有名人にリンクするとロクなことはないんだけどなあ)
 笑ったのは、ブログの本文ではなくて、コメントを読んで。これは、もちろん内田先生には一切責任はないのだけどね。
やさしいお言葉ですね。d(⌒-⌒)b

どこかのブログに、内田先生が学生さんから「フェミニズムって何ですか?」と反問されてびっくりしたという記事を載せていました。
......._〆(・_・ )v

それを読んだとき、ああ、いい学生さんたちがいる学校なんだなあ、とっても清らかな人たちがいるんだなあと、花の香りを嗅ぐように、むさくるしい中年の鼻をうごめかせたものです。(ー.ー;)。。。

 該当の部分がどの本に書いてあったか探すのがちょっと面倒なのでうろ覚えのまま書くが、それは確か最近の学生の知力が年々低下しているという文脈の中でおっしゃっていたように思う。TOEICの点数では一年に1点づつ平均点が下がってきていて、十年で10点低下した、平均点が10点低下するというのは甚だしい事態だとかって。フェミニズムについても内田氏は「アンチ・フェミニズム宣言」(「ためらいの倫理学」角川文庫)を書いていらっしゃるくらいで、フェミニズムの方法論を批判されているのだが、該当部分は確か、最近の学生はフェミニズム的な論法で議論を吹っ掛けるどころか、顔を見合せて「フェミニズムってなんですか?」と聞いてきたので絶句した、自分はフェミニズムに異論はあるが、「フェミニズム」という概念まで消えてほしいと思っているわけではないのであって、そのような、思想の基本概念について学生にいちいち説明しなきゃいけなくなってきたのかと思うと危機感を覚えたとお書きになっていたはずだ。
 
 あー、あったあった。「狼少年のパラドクス」(朝日新聞社)から「上野千鶴子って誰ですか」
 ゼミの学生が、「エビちゃん」がなぜポピュラリティーを獲得したかというテーマで発表をしたらしい。彼女の言うには、不況時には「稼ぎのある、強い女性」が人気を得るが、好況時には「アクセサリー的に美しい、庇護欲をそそるような女性」が人気を得るという法則があって、その景況による思考の変遷にともなって、デコラティブな美女であるところの「エビちゃん」が現時点での女性理想像なのだとか。
 発表者のKカドくんも「大学デビュー」に際しては「エビちゃん」系ファッションを整える方向で精進されているそうである。ふーむ、たしかに、そういうこともあるかも知れない。しかし、それってさ、フェミニズム的にはちょっと問題発言だよなと申し上げたところ、ゼミ内にやや不穏な空気が漂った。あまり納得されていないのであろうかと思い、さらに言葉を続けた。
 だってさ、そういう男性サイドの欲望を基準にして女性の理想型が変化するのはありとしてもさ、キミたちがそれを無批判にロールモデルにするのって、フェミニズム的にはまずいんじゃないの。どなたからも声がない。
「あの・・・・・」
 中の一人が勇を鼓して手を挙げた。
「はい、何でしょう」
「『フェミニズム』って何ですか?」
「え?」
「キミ、フェミニズムって言葉知らないの?」
 見渡すと、十三人いたゼミ生の大半がゆっくり首を横に振った。
(中略)
「『上野千鶴子』って、知ってる?」
 全員がきっぱり首を横に振った。
 ちょっと、待ってね。「フェミニズムはその歴史的使命を終えた」と私が数年前に書いたのは、事実認知的な意味ではなくて、遂行的なメッセージとしてである。「歴史的使命はそろそろ終わって頂いても、ウチダ的にはぜんぜんオッケーなんですけど」ということを言いたくて、いささか先走り的なことを申し上げたのである。戦略的にそう言ってみただけで、まさか、「ほんとうに終わっている」と思っていたわけではない。
 言い添えておくけれども、うちの一年のゼミ生たちはなかなかスマートな諸君である。これまでのゼミでのディスカッションを拝聴する限り、コミュニケーション能力は高いし、批評的知性も十分に備わっていると見た。その方々が「フェミニズムって、何ですか?」である。

 どこが「いい学生さん」やねん!
 内田氏は「フェミニズムの知的資産の継承を望む」とおっしゃっている。

 
 実は私もちょうど昨日、内田氏のそれに類似した文章を思い起こしていたところだった。内田氏が、女性雑誌の1ページをコピーして学生に配り、わからない言葉にしるしをつけさせたところ、ほぼ全員があちこちいっぱいしるしをつけたので驚いたというところ。ああ、あった。「下流志向」(講談社) p21
 彼ら彼女らにとっては、わからない言葉やわからない概念がそこらじゅうに散らばっている。「矛盾」が読めないくらいですから、新聞の外交面とか経済面では、たぶん三分の一くらいが意味不明の文字で埋め尽くされているのだろうと思います。メディアを通して見える世界は「虫食い」的に、一面に「意味の穴」が開いている。たぶん、そういう状態になっているんじゃないかと僕は想像します。

 で、内田氏は、今の若い人はどうも「世界が虫食い穴だらけ」でも平気であるようなのだと言っている。「意味がわからないことにストレスを感じない」「平気でスキップする」これはもう「能力」と言ってよいと思うと。
 で、この「下流志向」という本の中では、その子供たちの学力低下は、「相対的な学力が下がればうちの子の点数がよくなり、受験が簡単になる」という親の期待によって促進されているのではないかと推測されているのだが、上記のコメントを読んでなーるほどとちょっと思った。「フェミニズム」なんていうヒステリックなバカ女の振りかざす危険思想に染まることのない純真なお嬢様が通う学校って、のどかでよろしいですね、なんてまったく危機感がない。そういう大人が常識的知識の虫食い状態を作ったのじゃないか?

 しまった!そうじゃないと書いてある。「狼少年のパラドクス」p77
それは「この世の中がろくでもないのは、みんな『あいつら』のせいだ」という他責的な語法をフェミニストが濫用したせいで、結果的にそのような語法そのものが批評的なインパクトを失ったせいではないかと思う。だって、いまの日本のメディアもエスタブリッシュメントもみんな「そういう語法」でしか語らないから。

 私はフェミニズムの「知的資産の継承」を望んでいる。
 そのためには、「フェミニズムって何ですか?」という少女たちの出現を構造的危機として重く受け止めるフェミニストの出現が急務であると思う。それを「父権制のイデオロギー装置が奏功して、子どもたちはみんな洗脳されてしまったのだ」というような他責的な構文で説明して安心するのはよした方がいいと思う。

 わお。
 この、自分を批判の対象の埒外に置いといて「悪いのはみんな○○だ」(例えば自民党だとか、日教組だとか、父権的権威主義だとか)と一方的に批判するやり方を内田氏は不毛で恥知らずだとおっしゃっていたと思う。「ためらいの倫理学」の中で。反省、反省。

 ところで、私が上記の「世界が虫食い」という言葉を思い出したのは、姜尚中「在日」(集英社文庫)を読んだからだ。この本は、姜さんが自分の半生を振り返りながら、社会の変化やその時々の政治的事件をどう受け止めたかをたいへん真っ直ぐに書き綴っておられる自伝だ。たとえば1979年のドイツ留学の際、モスクワの空港で見たトイレットペーパーの粗末さや売店の売り子の不機嫌な顔つきから、この共産主義国が制度疲労を起こしていて、ゆっくりと死につつあるということを直感する。時代の移り変わりを敏感に察知し、この次にどうなるということを比較的正確に予測しておられるのだが、それは青年期の学生運動と留学の体験と古典思想研究によって培われた独自の感性によるものだということを書いておられる。また、それは「在日」という立場の特殊さから否応なしに敏感にならざるをえなかったのだとも言われている。私は、この自伝を読みながら、年代が違うにしても、自分がいかに政治的、社会的なことに無関心で過ごしてきたかということを思い知った。新聞が一面ぶち抜きの大見出しを付けていたような事件でも、そのことがどういう歴史的意味を持っていたのかということが今に至るまで理解できていなかった。読みながら「世界が虫食い」というのは私のこの状態のことじゃないかと思ったのだった。
 
 73年の夏、金大中氏拉致事件が起こる。姜さんは「大統領選に立候補した有力政治家ですら、こんなふうに扱われるとしたら、名もない在日の自分たちなど、吹けば飛ぶようなゴミ扱いではないか。」と、戦慄と憤りをおぼえたという。そうか、在日は「炭鉱のカナリア」なのだと私は思った。そして姜さんは、今格差の拡大によって日本社会の中で日本人が在日化するという現象が生じているともおっしゃっている。つまり、ネットカフェ難民や国民健康保険料を払えなくて病院に行けない人たち、年金をもらえない人たち、急増中の下層の人たちはみな今まで在日が苦しんできたような境遇に陥っているというのだ。カナリアを死なせてはいけないと思う。カナリアの声を聞かなきゃだめだと思う。姜さんをテレビで見る度に、その声と表情に深い苦悩と憂鬱があるように感じていたが、それはこのような人生の歩みから発せられていたのかと思った。

つづく

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