読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

桜庭一樹 二作

2008-01-26 23:56:27 | 本の感想
 「私の男」(文芸春秋社)
 
 とっくの昔に読み終えていたのに感想を書く気になれなかったのは、「素粒子」に続いて、これがおそろしく孤独な人間の話だからだ。直木賞受賞の際の選考委員の講評なるものが、
「受賞作は、いろいろ言ってもしょうがない、で終始する不思議な作品。我々は大きなばくちを打ったのかもしれない」

とかって微妙なのもわかる気がする。きっと「警察小説」書いた人は、軟派の美青年がキャーキャー騒がれてるのを体育館の影から憤怒に燃える目で睨みながら「血と汗にまみれて武道に励んできた俺たちがなぜモテない!」と地団駄踏んで悔しがってる体育会系青年の気分に違いない。私は直木賞とかってどうでもいいが、「赤朽葉家の伝説」ではところどころライトノベルっぽい言い回しが出てきて「あらっ?」と思ったのに、この小説ではそういうのがなくてよいと思った。

 押入れの死蝋化した死体っていえば思い出すのは、宮部みゆきの「楽園」(文芸春秋)だ。あれも、秘密を家族の中に抱え込んでしまって二十年も閉ざしていた話だ。私は「楽園」を読み終わったとき気分が悪かった。どこが楽園じゃー!と思った。この書評にあった
人々は幸せを求め、必ず、ほんのひとときであれ、己の楽園を見いだす。他から見て、それがいかに奇妙で、危うく、また血にまみれてさえいても。そして、そこに支払った代償が、楽園を過酷な地上にひきずり戻すのだ、と。

という解説にそのときは納得がいかなかったのだが、「私の男」を読んだら理解できた気がした。確かに、たとえ死体を抱え込んでいたとしてもこれは「楽園」に違いない。だけど、家を締め切っていると厭な匂いがしてくるように、その閉ざされた楽園は空気が澱み、何もかもが腐って悪臭を放っている。ああ、そうだった親子の名前は腐野というのだ。

 先週(1月19日)のTBS「王様のブランチ」で桜庭一樹さんのインタビューがあって、主人公「腐野花」という名前は「成長できないで子どものまま朽ちていく女性」という意味をもたせているとおっしゃっていた。たいへんわかりやすい。冒頭、私がカチンときた傘を盗むシーンも、「何の罪悪感もなく盗みをする人。道徳意識が欠落していて、何をするかわからない怖い人。」ということをこれで示唆したのだそうだ。ああ、確かにそんな感じがした。そんな人のそばには絶対寄りたくない。

 社会から隔絶したところで、血の繋がった者同士で愛し合っていれば孤独でないかといえば、そうでもないのだ。どんなに血が繋がっていても、濃密な肉体関係をもっていても、けっして人は孤独が癒されるわけではないのだ。きっと必要なのは宗教みたいなものだろうなあ。えーっと、こういうことを誰か書いていたっけな、と思いだしてみたら内田樹氏だった。
内田 樹/釈 徹宗「インターネット持仏堂2 はじめたばかりの浄土真宗」(本願寺出版社)

 レヴィナスはこう書いています。

「形而上学的欲望は、まったく他なる何ものか、絶対的に他なるものを志向する。(・・・・・・)形而上学的欲望は帰郷を求めない。なぜなら、それは一度も生まれたことのない土地に対する欲望だからだ。(・・・・・・)欲望は欲望を充足させるものすべての彼方を欲望する。」(『全体性と無限』)

 レヴィナス先生のフレーズはほんとにいつ読んでもかっこいいですね。「欲望は欲望を充足させるものすべての彼方を欲望する」なんていうフレーズを読むと、心拍数が上がって、ざわざわと鳥肌が立ってきます。
 そんなふうに身悶えするのは私だけかなあ。

いや、かなりの人が身悶えすると思いますよ。
 ま、それはさておき。
 「いまだ存在しないもの」の探求、それが欲望です。
 愛する人を抱きしめているときに(えっと、釈先生の方に差し障りがあるようでしたら、「可愛い子どもを」にしておきましょうか?)もし愛撫が「欠如」であるなら、ぎうっと抱きしめたことによって欠如は満たされ、ガソリンを満タンにしたときのように「はい。どうもありがとうございました」と言って、ほいほいとどこかに出かけてしまう・・・・・・・ということが可能なはずです。でも、実際にはそんなことって起こりませんよね。
 いくらぎうぎう抱いても「満たされる」ということは起きません。
 むしろ、自分がどれほどこの人を求めていて、その不在を耐え難く思っているか、ということばかりが身を切り裂くように実感される、というものです(よね)。
 というわけで、欠如が満たされ得るものが「欲求」欠如が充足されるにつれてますます欠落感が昂進するようなものが「欲望」と呼ばれます。


 えーっと、ここで内田氏は「欲望」の定義について語っているのではなく、レヴィナスの「善」の概念について、「善」とは「欲求」されるものではなく、「欲望」されるものだと述べていることをわかりやすく解説しているのだ。
 善とは、「自分は何をしたらよいのかわからない」のだが、「自分は何をしたらよいのかわからない」という仕方で世界に投じられてあることを「絶対的な遅れ」として引き受け、おのれに「絶対的に先んじているもの」(言い換えれば「存在するとは別の仕方で」私たちにかかわってくるもの)を欲望するという事況そのものを指しているのです。

 えーっと、「絶対的な遅れ」というのは「私家版・ユダヤ文化論」(文春新書)で「始原の遅れ」と言われていたが、私たちはこの「始原の遅れ」を有するがゆえに、絶対的に先んじているもの(神)を焼けつくように欲望し、欲望することの中にすでに善への志向性があるということなんだな。うわー!頭が・・・頭が・・・・・・

形而上的な文章を読んで鳥肌が立つような快感を味わいたい人は原作にあたってくれ。

 ともかくこの小説の親子は決定的に間違っているぞ。この世に存在しえないものを求め続けていたら腐っていくのだ。それはやっぱりある種の地獄に違いない。
 でもちょっと、花が過去を封印したつもりで自分を偽って結婚生活を送りながらだんだんと壊れていくとか、夫の尾崎美郎があのときの幽霊の意味をじわじわと悟っていくとかそういう将来を描いた続編を読んでみたい気がしないでもない。

 「青年のための読書クラブ」(新潮社)
 
 これはライトノベルっぽくておもしろかった。カトリック系の名門女子校といえば「マリア様がみてる」(コバルト文庫)を思い出すがそんなこそばゆくなるような純情ノーテンキな場面は全然ない。むしろ「名門お嬢様学校」なるものをカリカチュアライズしてある。時として悪意すれすれだ。家柄や容姿によってクラブ活動が階層化されていて、頂点に選挙で選ばれた「王子」と呼ばれるスターが君臨するとか、女の子たちがみんな「ぼく」とか「君」とか言っているのもマンガちっくで吹き出してしまった。だけど、廃墟のように古びた煉瓦造りのクラブハウスで、はみ出し者たちがひたすら紅茶を飲みながら本を読むだけという「読書クラブ」の存在は魅力的だった。ああ、目に浮かぶようだ。私もそこにいたらきっと在籍していたに違いない。そういえば、高校の頃よく遊びに行った文芸部がちょっとそんな感じだった。古い木造のクラブハウスで、歴代の部員達が持ち寄った本がたくさんあって、アニメージュに連載されていた「風の谷のナウシカ」も「宮沢賢治詩集」もみんなそこで教えてもらった。残念なことに、その部室も「読書クラブ」そっくりに老朽化していたため、本を置くなと厳しく言われて(床が抜けるから)私が3年の頃にはすっかり片づけられてしまったのだったが。

 一見、はみ出し者の寄せ集めで、日陰にひっそり存在しているかに見える「読書クラブ」が、実は学園内の大事件や流行の影の仕掛け人だったり、学園の創立者にかかわる仰天の秘密を「クラブ誌」によってひそかに語り継いでいる唯一の集団であるというのが愉快だ。さらに、卒業生たちが年を取っても自然発生的に寄り集まって、会員制喫茶店でひたすら本を読んでるっていうのも素敵だ。これこそが「楽園」だ。だれが何と言おうと、絶対「楽園」だ。