読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

映画「純喫茶磯辺」

2008-10-28 23:03:43 | 映画
 「純喫茶磯辺」公式サイト
 なんだか観た後で無性にドラ焼きが食べたくなった。ラストで素子がパクついてた顔よりも大きなドラ焼き、あれはすごい。いくらお腹がすいていてもあんなものを平然と公園のベンチに座って食べるのは尋常じゃない。私なら買おうという気にもなれない(パチンコの景品かもしれないけど、それにしても見ただけでお腹いっぱい)。あれは素子の飢えの象徴じゃないかな。焼き鳥屋で、裕次郎に「私なんてダメです。ほんといい加減なやつなんです」と、ずっと言い続けるシーンを見ていて、「あれ、これどっかで見たような・・・」と思った。田口ランディの「被爆のマリア」(文芸春秋)に出てくる謝ってばかりの主人公にそっくりだ。こういうかんじ。
「アタシ、だらしないですから」
「ほらほら、すぐ人の言葉を肯定しちゃう。それがまさにアダルト・チルドレンだなあ」
「それって、どういうことですか?アダルト・チルドレンって」
「まあ、わかりやすく言うと、生きがたい人ですね」
わたしがそうなの?
「大人になっても傷ついた子供の心を抱えて生きている人のことですよ。幼児期に受けた心的外傷、つまりトラウマによって、生きがたさを感じている。佐藤さんも、子供の頃に辛い思いをしたんじゃないですか?親から虐待を受けたとか、そういう経験があるんじゃないですか」

人の誘いを断れないとか、誰とでも寝てしまうとか、恋人がことごとく暴力男だったとか、外面をよくしようとしてなんでも人に合わせてしまうとか、自己評価が低いせいで、他人から理不尽な仕打ちを受けても抵抗できないのだ。むしろ自分からトラブルを引き寄せてしまうようなところがある。美人なのに、美人らしく振舞おうとせず喫茶店の変な制服は着てしまうし、変態のお客に腕を触りまくられても抵抗しない。ドでかいドラ焼きを外でむしゃむしゃ食べるのもそういう尋常じゃなさを表してるのかなと思った。

 ところで、娘の咲子が母親のアパートで食べてたのはフォーク使ってたから生ドラ(餡に生クリーム練り込んであるの)みたいだと思ってたら、やっぱりそうだった。「純喫茶磯辺」とコラボだそうだ。さっそく翌日地元の虎屋に走って生ドラを買って食べたことは言うまでもない。


 最初はなんというロクデナシ親父かとあきれた。宮迫博之は「蛇イチゴ」の詐欺師といい、ロクデナシ男をやらせると抜群だ。冒頭のやる気なさそうな点呼や、ファミレスの食事シーン、素子を口説くニヤケぶり、優柔不断ないい加減さがにじみ出ていて目を覆いたくなる。「こんな親だと子供は苦労するだろうなあ」と咲子につくづく同情した。この男のダメさ加減が結晶したのが「純喫茶磯辺」なんだから、もうこの店はどうしょうもない。すべてのものがちぐはぐ過ぎる。ストーリーそっちのけで考えてたんだけど、ゼブラ柄のテーブルクロスに合わせるには内装は白を基調としてモノトーンのアイテム、従業員の制服は白と黒ならかろうじてOKか。ギンガムチェックのクロスに合わせるにはパイン材のテーブルやカントリー調のカップボード、メニューに天然酵母の焼きたてパンや手作りパイを入れる。70年代風の悪趣味な柄ののれんをどうしても使いたいんだったら薄いピンクやライムグリーンを効果的に入れて白の面積を多くした内装にしてくれ。だけど、それらはみんな外壁の色と合ってないではないか。レンガタイルの外観及び店名と合わせるのだったら、「煎りたて本格珈琲とジャズの店」とか「懐かしの昭和(インベーダーゲームあります)」とかにしなきゃ。で、倉敷の古道具屋にわんさかとあるようなビクターの犬とかブリキのおもちゃを置く。(あ、入口に犬の置物はあったっけ)大黒(か何か)の置物はまあ許すけど、額入り小判のレプリカはNG。ミラーボールは言語道断。毛皮に至っては、喫茶店で何考えてんだ!コノヤローもの。
 
 だから、この店は流行るはずがない。ありえんのだ。すんなり入れる人はよほど不注意な人か、頭が変な人だ。だから最初のお客がヤーさんだったのだ。
 それを素子のコスプレの力で変な人ばかりを引きつけてきているのだからいずれ何かが起こるのは当たり前だった。

 だけども、見ているうちにこう、あまりにちぐはぐで怪しげなお客ばかりが集まってきてるので、なんだかこれはこれでかまわないんじゃないかという気がしてきた。だいたいこのような変な人たちは、この店がなければ一体どこにたむろすればいいのか。考えてみれば私だって、最近のスタバみたいな店は落ち着かない。いや、落ち着かないように作られているのだ。回転率を上げるために。商店街の隙間にこういう変な店があって、変なお客ばかりが入ってきて、それなりに繁盛するのはいいことじゃないか。そう思ってダメ親父としっかり者の娘をもう一度見ると、咲子がグレたりしないでここまでちゃんと育つことができたのはやっぱりダメなりに父親が全力で体を張って頑張ってきたからだという気がしてきた。そもそも親が立派だからって幸せだとは限らないじゃないか。あそこまで親がダメだと逆に自立心がついて将来についても堅実な職業を選ぶかもしれない。母親に「大人だって恋をしたいのよ」とか「私も年下のいい人ができたから、あんまりここに来ないようにして。あんたはあんたでお父さんとうまくやんなさい」などと薄情なことを言われても、「うん」と頷くのだ。健気だなあ。まだ高校生なのに。素子と再開し、仰天のその後を聞かされてもあまり立ち入らずあっさりと別れる。素子が自分のために嘘をついたということをちゃんとわかった上で、彼女の危なさに立ち入らないという距離の取り方にこの子の健全さを感じさせる。今はそういう健全さが大事なのだと思う。

 そして、ラストのシーン。あいかわらずダラダラしたしゃべり方をする父親と一緒に商店街を帰る咲子を見ながら、「ああ、人生ってしょぼいなあ」と思った。しょぼくって、ままならない。だけどそれはそれでまあいいや。
 まあいいや、と思うと、素子の豪快なドラ焼きの食べっぷりもまあいいかと思えてきた。ドラ焼きがあったらとりあえず食う。でっかいドラ焼きだったらひたすら食う。それでいいんじゃないか。

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