読書と追憶

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映画「マグノリア」

2008-05-01 18:28:51 | 映画
 ポール・トーマス・アンダーソン監督「マグノリア」(1999年)
 宮台真司がよく「制御不可能な偶発事によって、自己完結した〈社会〉の中に不意に名状しがたい〈世界〉が闖入してくる」(「絶望 断念 福音 映画」メディアファクトリー)ことの映画における例として取り上げる、「降り注ぐカエル」を見たいと思ったのでこのビデオを借りてきた。まだ見ていなかったのだ。

 しょっぱなからトム・クルーズが、テレビ伝道師みたいにわけのわからないことをわめいていてげんなりする。腰を振りながら「女をモノにするのは簡単だ」みたいなことを卑猥な表現でいろいろに言うのだ。「コックを崇めよ!」「オー!」とか。この自信たっぷりなカリスマ伝道師ぶりはついこの間見たあれだ。「大いなる陰謀」に出てくる若手上院議員。そうか、トム・クルーズは「マグノリア」で詐欺師の喋り方を習得したのか。
 映画では複数の物語が同時進行していく。マルチスレッド形式というらしい。瀕死の大富豪とその若い妻。テレビの人気クイズ番組の名司会者とその娘。娘に思いを寄せる善良な警官。クイズ番組の常連である天才少年とその父。そのクイズ番組で過去にチャンピオンだったが今は全くのダメ人間で職場を解雇された男。最初はまるで無関係に思えた人間関係だが、33年間も続いているというそのクイズ番組が共通項だ。大富豪はこのクイズ番組の企画者として名前が出てくるし、セックス教の教祖は、昔大富豪が前妻とともに捨てた息子であった。ガンで余命いくばくもない名司会者は、実は昔娘を性的に虐待したことがあり、娘はそのせいでドラッグに溺れて人生を台無しにしてしまっている。天才クイズ少年は学校にもいかずひたすら図書館で勉強して、父親に高額の賞金を稼がせている。そのような天才少年のなれの果てが、電気店を解雇されたダメ男。彼は両親に食い物にされ、雷に打たれてバカになってからは何もかもうまくいかず、今では借金まみれ。

 私はクイズ番組が大嫌いだ。特に「ファイナルアンサー?」なんていうのが虫唾が走るほど嫌いなのだけど、子どもが見たがるのでいつも喧嘩になっていた。あんなものを見て知識や教養が増えると思ったら大間違いだ。なんで嫌なのかうまく言えなかったのだけど、「マグノリア」にそのヒントが出てきた。天才クイズ少年が質問に答えて「カルメン」のハバネラをきれいなボーイソプラノで歌うのだ。そのあと音楽は継続して、善良な警官と彼が恋した娘とのデートシーンにつながる。そうだ、まったくトリヴィアルな知識には、「カルメン」を見ながらこの歌を聞いた時に喚起された感情や、人生で誘惑したりされたりしたときのときめきなどは、まるで含まれてない。そんな知識をいくら持っていても社会で生きていくのにあまり役に立たないことは、解雇された勤め先からお金を強奪しようとするダメ男をみればわかる。子どもを学校にも行かせないで賞金を獲得することだけに目の色を変えている父親は何考えているんだ。とんでもない奴だ。

 きっとみんなをつなげているこのクイズ番組は、人間の真っ当な生き方をダメにしてしまうものを象徴しているんだと思う。だからほら、ハバネラで言っているじゃないか。“prends garde à toi!”(気をつけろ!)

 ところであのカエルはどうだったかといえば、私はアマガエルかと思っていたところがバカでかいウシガエルだったのでびっくりした。そのでかいカエルが、すごい速度で大量に雨あられと降ってくるのだ。車のフロントガラスに当たってバスッ、バスッ!と不気味な音を立てながらはらわたを飛び散らせ、血と粘液でそこらじゅうを汚し、家の窓ガラスをぶち破って飛び込んでくる。そりゃあみんな悲鳴をあげるわ。
 魚やいろいろなものが空から降ってきた事件は過去にもいろいろある。竜巻に巻き込まれて上空に運ばれたものが落ちてくるのだ。それこそトリビア的知識で何例か挙げることもできる。だけども、実際にその光景を見た人は肝を潰すだろうし、キリスト教圏では即座にヨハネの黙示録を想起するだろうと思う。特にこの映画では最初に「偶然の一致」が起こった事件を出してきて、そのような「ありえないこと」が、なんらかの意味を持っているということを示唆しているから、当然カエルは何かの予兆なのだ。宮台は、このカエルを「黙示録」ではなく「福音」であると言っている。たしかに、「ありえないもの」を見てしまった後で、道に迷ってしまっていたような彼らは誠実になり、自分の本当の気持ちを直視するようになる。カエルは、神の裁きと破壊の象徴ではなく、見失っていた大事なものを取り戻し、新しい自分を再構築するための契機となった。

 だけども、私は思うんだけど、ちょっとはお仕置きもしてるじゃないの。あの、「虐待は誤解だ」とか「覚えてない」とか最後まで言い逃れをしていた司会者のまさにピストルを持つ手の上に落ちてくるとか、後悔して金を返しに戻ったダメ男の顔を直撃して雨どいから落下させ、歯をへし折るとか(歯の矯正のために金を盗んだのに)。きっと、裁きも福音も天にとっては同じことなんだと思うな。だって、元天才少年のダメ男は雷に打たれてアホになり、アホになることによって強欲な両親から解放されたわけだ。だから、雷もカエルも実は同じだ。雷によって人生が狂い、カエルによってそれが正常になったと思うのは間違いだ。

 雷が気になるのは、実は私にも経験があるからだ。打たれたわけではないが、雷が教えてくれたことがある。
 二年ほど前、夜庭に出ていたらいきなり閃光が走り、一瞬外が昼間のごとく明るくなった。何事かと思っていたら再び閃光が走り、雷鳴が聞こえた。そしてそれが私に、「お前は監視されている」ということを警告してくれた。
 まさか、そんなことはありえないと思っていたが、視覚的にも聴覚的にも誰かに監視されているということがそれから毎日のように新聞に載るようになったので、ただの被害妄想ではないということがわかった。今は載らない。私が脅したのでやめたらしい。監視の方はいつでもOKよ状態のままだ。
 そんなことがあったので私は、「神」とは言わないが、私たちを見ている何かの存在を少しは信じるようになった。この世には特別なパワーを持つ存在があって、その目は世界の隅々まであまねく感知していて、私らは何ひとつ隠し事などできないのだと思う。そして私は予知能力とか霊感とかテレパシーとかそういうものは一切ないが、どうも何かを読み取るかすかな力はあるらしいのだ。それが何かはわからないが。「マグノリア」のカエルと同様、それは「天罰」と「福音」の両方の意味合いを持っているように思える。あの時の雷はわたしにとって、「警告(悪いニュース)」であったと同時に「お前を監視する彼らも監視されている」という私にとってのよいニュースでもあった。みんな平等に監視されてるんだからいいじゃん。カエルはみなに平等に降り注ぐのだ。まさにそのことが福音だ。

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