創造的深化

より納得のできる未来を、考えてみるには・・・

像としての母型

2015-12-01 10:59:21 | 対幻想
像としての母型
 生きていくことにまったく受け身で無力な状態を助け出す母の愛は、乳児にとっては、その後、他の人物と接していくにあたっての人間関係のイメージの原型を形成していく。自分を同じように愛してくれる像を重ねて相手を見るようになる。つまり母の像の延長として、自分への細やかな愛情や評価を性愛と同一視する。性感帯から絶えずあふれ出る興奮と満足の源泉であり、母は育児とともに性対象の代理を演じているからだ。その強い性欲動の準備は、性器領域の刺激だけではなく、心的生活の影響で異性愛の原型が形成されるということになる。その逆に、乳児期に母の愛情が不十分な場合には、その原型はゆがみ、その後の性愛に負の大きな心的要因を為政されることになる。また、その像と食い違う場合、その像を無意識に拒否れたことになり、ときには失望の欠落感から神経症の症状を発症することもある。

腎臓と目

2015-12-01 10:58:22 | 身体
腎臓と目
古代では、生殖機能と排泄機能が混在していることの解釈を、腎臓を媒介にして可能となっていると解釈していた。また、異性に対する性欲が生じるのは目に、性欲を生じさせる機能があると考えていた。関係づけは、あるものを媒介にして可能となるように解釈の根拠付のパターンを知ることができる。自然現象は、天にある神が巨岩や巨木を媒介にして雨や風や雷や雪を降らし、その巨岩や巨木を信仰の対象へと転化していった。観念が具体的なものへと転移することで、関係づけの解釈を成り立たせていたといえる。

思春期をどうとらえるか

2015-12-01 10:57:43 | 意識・意思・精神
■思春期をどうとらえるか
 フロイトにいわせると思春期という子供から大人へと移行する過渡期は、心と体の発育過程が分離してしまう。しかし、「性器の神経支配」にまで及ぶ「激しい愛の激情の爆発」により、正常な「愛の機能は統一」されるのだという。誰しもが感じ、ほとんどの心理学者や教育者も同類のことを言っている。ただ、性器の神経支配と表現した学者は見たことがない。身体が急激に脱皮していくように大人へ身体的な変身を遂げることは確かだ。細胞内に組み込まれた遺伝子が、有性生殖の宿命を身体内部のひとつひとつの細胞に創造主が命令を下すとしか言いようがない。神とはいえないが、生命を誕生させた創造主が作り上げた宿命に従い、私たちは命の継承の役目をひとりひとりの体が受け継いでいることは確かだ。冬眠していた「性」がムックリと起き上がる。しかし、予告なく突然、その命令は私たちの身体内部から目を覚ます。この時、人間は自分の体と「対自的」になる。つまり向き合うことを強いられる。しかも、性の欲動はまさに異性を意識するように激しく突き上げることは確かであり、その快感を対自的に体感し、自己内へと閉じ込める快感が初めに訪れるといえる。この快感をともなく性の実行行為への誘惑や、性についての現実的な情報は、このときから切実な課題となって突然出現する。実行を伴う性愛の現実は、閉じることと、外に向かうべきこととの両極が分離した状態で襲い掛かってくるともいえる。この両極と向き合う事態を、個人で受け止めることになる。このとき、乳幼児期から無意識に形成されていた人格のすべてが、大混乱を起こしながらなんとか実社会と折り合いをつけようと、今まで過ごしてきたように自分の変化した体を、日常の生活のなかへと連れ出さざるを得ない。ただし、自分が昨日とは違っている。異性が、別の存在として現れる。もちろん自分の別の存在となっているに違いない。しかし、何事もなく変化のない、今まで通りの日常が周囲は流れている。これが、身体に変化が起きてからの象徴的な実感のはずだ。「性器の神経支配」は、性欲動の奇襲から身体内部の遺伝子の命令で始まった。むろんリビドーも表裏一体となって現実社会をゆがめて見せる。「激しい愛の激情」は、性対象として異性へと関心が激変してしまうにもかかわらず、精神的な交流が新たな課題として現れる。相手は性の対象であるはずにもかかわらず、心の世界も広がりを見せてくる。愛の幻想と現実との落差、性の欲動と性対象としての異性との均衡をどう折り合いをつけるべきかが、このとき実は大きな、しかも人類にとっての普遍的な課題として個人を捉えていることになる。異性へのあこがれと現実的な性行為とは、どう折り合いをつけるのか。「愛の機能の統一」などという、たやすい言葉で済ませるものではないことが分かるはずだ。このとき、個人をなにが左右するかで、本人の生き方も大きく変わるはずだ。

近代資本主義の布石

2015-12-01 10:57:01 | 歴史
 近代資本主義の布石は
 明治維新までは、いわゆる貢納制すなわち米や織物や収穫物を現物による納税として領主や幕府に納めていたものが、明治6年の地租改正で税を金銭で収めるように変えられた。これが近代資本主義の布石を打つことになったと考えられます。もちろん立案にかかわった人物はヨーロッパから招いた経済の専門家たちが主体となったと考えられます。
 さらにもう一つは、敗戦後アメリカの占領軍が主体として実行した農地改革で、大地主の農地の一部を小作人に与えてしまうという、象徴的な農業改革です。残念ながら、このいずれも日本人が独自にやってはいないということです。日本の政治や文化の発端は、すべて外国の指導や模倣の連続で成りたっている国だといえます。  
 憲法も維新の大日本国憲法はドイツのワイマール憲法が見本であり、戦後の日本国憲法もGGQの主導で行われている。自民党の日本国憲法草案は明治憲法の模倣だ。いまこそ、日本市場初めて国民独自の力で憲法を制定するべきときではないか。

人類とは

2015-12-01 10:56:18 | 意識・意思・精神
人類とは
動物と異なる「原人間」は観念的前提を獲得していた。しかし、それは自然過程に不要ではあった。そして原人間があらゆる観念の世界を組織化し、あるいは体系化した。そして、さらには桎梏や矛盾をも生み出していった。その過程こそが、人類の歴史過程であると言い直してもよかった。