創造的深化

より納得のできる未来を、考えてみるには・・・

思春期をどうとらえるか

2015-12-01 10:57:43 | 意識・意思・精神
■思春期をどうとらえるか
 フロイトにいわせると思春期という子供から大人へと移行する過渡期は、心と体の発育過程が分離してしまう。しかし、「性器の神経支配」にまで及ぶ「激しい愛の激情の爆発」により、正常な「愛の機能は統一」されるのだという。誰しもが感じ、ほとんどの心理学者や教育者も同類のことを言っている。ただ、性器の神経支配と表現した学者は見たことがない。身体が急激に脱皮していくように大人へ身体的な変身を遂げることは確かだ。細胞内に組み込まれた遺伝子が、有性生殖の宿命を身体内部のひとつひとつの細胞に創造主が命令を下すとしか言いようがない。神とはいえないが、生命を誕生させた創造主が作り上げた宿命に従い、私たちは命の継承の役目をひとりひとりの体が受け継いでいることは確かだ。冬眠していた「性」がムックリと起き上がる。しかし、予告なく突然、その命令は私たちの身体内部から目を覚ます。この時、人間は自分の体と「対自的」になる。つまり向き合うことを強いられる。しかも、性の欲動はまさに異性を意識するように激しく突き上げることは確かであり、その快感を対自的に体感し、自己内へと閉じ込める快感が初めに訪れるといえる。この快感をともなく性の実行行為への誘惑や、性についての現実的な情報は、このときから切実な課題となって突然出現する。実行を伴う性愛の現実は、閉じることと、外に向かうべきこととの両極が分離した状態で襲い掛かってくるともいえる。この両極と向き合う事態を、個人で受け止めることになる。このとき、乳幼児期から無意識に形成されていた人格のすべてが、大混乱を起こしながらなんとか実社会と折り合いをつけようと、今まで過ごしてきたように自分の変化した体を、日常の生活のなかへと連れ出さざるを得ない。ただし、自分が昨日とは違っている。異性が、別の存在として現れる。もちろん自分の別の存在となっているに違いない。しかし、何事もなく変化のない、今まで通りの日常が周囲は流れている。これが、身体に変化が起きてからの象徴的な実感のはずだ。「性器の神経支配」は、性欲動の奇襲から身体内部の遺伝子の命令で始まった。むろんリビドーも表裏一体となって現実社会をゆがめて見せる。「激しい愛の激情」は、性対象として異性へと関心が激変してしまうにもかかわらず、精神的な交流が新たな課題として現れる。相手は性の対象であるはずにもかかわらず、心の世界も広がりを見せてくる。愛の幻想と現実との落差、性の欲動と性対象としての異性との均衡をどう折り合いをつけるべきかが、このとき実は大きな、しかも人類にとっての普遍的な課題として個人を捉えていることになる。異性へのあこがれと現実的な性行為とは、どう折り合いをつけるのか。「愛の機能の統一」などという、たやすい言葉で済ませるものではないことが分かるはずだ。このとき、個人をなにが左右するかで、本人の生き方も大きく変わるはずだ。

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