屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ 相内兵村の今(平成23年)

2011-07-02 08:50:51 | 相内屯田兵村

<ルポ 相内兵村の現在(平成23年6月)> 

  野付牛(現在の北見)から国道39号を相内~留辺蘂に向け車を走らせた。北見の市街地の西はずれに位置する三輪地区(野付牛屯田兵村4区)を過ぎ、東相内に差し掛かった辺りから急に大型店舗の看板がなくなり、そして、石北本線の線路を超えた途端に田園風景が目に入るようになった。
  東相内が相内兵村1区のあった場所で、鉄道線路を超えたところが2区の美園地区である。美園地区の西はずれには相内神社があり、この付近に、第3中隊本部、練兵場等相内兵村の中心となる施設があった。さら西に進むと相内小学校が、そして、新しい相内支所の建物がある。ここが、現在の相内の中心であるのだが、周りには商業施設等はほとんどなく、開いている店も僅かである。3区の豊田地区はさらに西奥にある。相内は1、2、3区とも当時の区割りが明瞭に残り、農業を営む家も多く入植時の面影を色濃く残す。

「1区東相内地区」
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「2区美園地区」
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「3区豊田地区」

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 相内支所の近くに一軒の和菓子屋さんがあったので、ちょっと話を聞いて見ようと暖簾をくぐった。創業は80余年前というものの、店で応対に出られた方は年配の方ではなく、昔のことを聞き出すことはできなかった。
 80余年前というと昭和のはじめで、相内が薄荷景気に沸いていた頃。さらには、この地域で稲作栽培が本格的に始まった時期と重なる。相内が一番活気に満ち溢れていた頃ではなかったろうか。この店にも多くのお客さんが足を運び、界隈は人の往来も多く、華やいだ雰囲気がただよっていたのだろうと当時の賑わいを想像した。
 明治30年、31年、1中隊の端野、2中隊の野付牛とともに入植し、開拓の鍬を下ろした相内であるが、野付牛は地域の中核都市北見市として発展したのを尻目に、相内は、端野とともに現在に至るまで農業中心に町・村を維持してきた。
 昭和30年、国の施策により北見市と合併し半世紀の歳月が流れたが、当時の賑わいを失わせてしまい。相内の伝統を伝えて行くことも困難な状況に追い込まれているのではと感じた。

「相内支所」

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「相内支所付近の景観」

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「訪ねた和菓子屋さん」

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 和菓子屋さんで応対してくれた女性に話を聞いたところ、「北見の市街地が近くにあるため、皆さん買い物は市街地周辺でします。学校を卒業した若い人達の中で農家の跡を継ぐ人は殆どいません。この付近の住人は年配の人ばかりになってしまいました」。と話してくれた。
 端野町は北見市と平成18年に合併して5年が経過し、伝統継承をしっかり行わなければと警鐘を鳴らしているが、合併後半世紀を経過した相内は、もう取り戻すことができないほどに影響を受けてしまった気がする。端野は、元端野町時代に郷土資料館、図書館等の文化施設を開館し、郷土史資料の編纂に意を注いだが、合併から世代交代が2度行われた現在の相内にあって、どのような形で、屯田兵の歴史を含め郷土の歴史を伝えて行くことができるのか心配である。
 ちょっと暗い話しをしてしまい、相内に住む人には申し訳ないと思うが、相内支所付近の景観を観て町村合併が地域に及ぼす影響というものをひしひしと感じた次第である。

 相内は南北の丘陵がせり出し、耕地の幅は狭く、屯田兵に与えられた給与地、追給地も無加川沿いに留辺蘂付近一帯まで広がる。その距離東西約20km。給与地規則の定めのない時期に入植した琴似(明治8年)、山鼻(明治9年)を除き特異な例である。
 そんな、給与地・追給地は今どうなっているのだろか。また、三輪大隊長の発意で掘削した灌漑溝はどうなっているのだろうか。そんなことを確かめたいために、3区の豊田から西相内~泉地区~留辺蕊へと向った。
 豊田川と北側の山裾を流れる用水路に囲まれた農地が延々と続く、留辺蘂の手前である泉地区に入ったあたりから、北側の丘陵がせり出し農地の幅が狭くなった。そして、さらに進むと灌漑溝の取水口に到着した。

 その取水口は、留辺蘂の市街地の北東側にある紅葉山の山裾にあった。そこには石碑が建ち「灌漑溝竣功記念碑」と記されていた。碑の横を用水が流れ、すぐ奥には水門があった。
 竣功は昭和43年と記されていたが、三輪大隊長の時代に端野、野付牛、相内、600名の屯田兵により始められた灌漑溝の掘削。その後、大正後期から昭和の時代に至るまで1世紀に及ぶ年月をかげ延々と整備してきた灌漑溝である。相内屯田兵の人達の思いがこの一条の流れの中に込められている。碑文を読みながら相内屯田兵、その子孫の方達の農地開発かける思いを噛み締めた。

「灌漑溝竣功記念碑」

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「取水口」

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「灌漑溝」

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「西相内の玉ねぎ畑」

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 比較的定着率の高い相内兵村といっても、そこには、土地の良し悪しがあり、どうしても苦労をして開墾した土地を手放さなければならない者が出た。さらには、分家として周辺地域に再入植をした者も多く出た。過去の資料の中に留辺蘂に転出した屯田兵が14戸あったと記してあったが、その家族、関係者を含めるとかなりの人数が留辺蘂地区の開拓にあたったと思われる。
 相内だけではなく、留辺蘂地区を含めこの地域一帯の開拓に尽くしたのが相内屯田兵と家族の人達であり、その功績は大きい。


相内兵村の紹介

2011-07-02 07:02:19 | 相内屯田兵村

< 工 事 中 >

「相ノ内兵村」
入植年:明治30、31年
入植地:東相ノ内(1区)、美園(2区)、豊田(3区)
Photo
 
「相ノ内兵村入植配置図」「ainonai1.pdf」をダウンロード

出身地:28県
入植戸数:199戸

「相ノ内兵村入植者名簿」「ainonai2.pdf」をダウンロード
 
屯田歩兵第4大隊
屯田歩兵第4大隊(1中隊:端野、2中隊:野付牛、3中隊:相内、4・5中隊:湧別で編成)
  大隊長:初 代 小泉正保少佐(和田・太田の4大隊長から赴任)
     第2代 三輪光儀少佐(元当麻兵村の中隊長 水稲の将来性を見込む)
     第3代 徳江重隆少佐

明治30年の入植(6月7日)
 第1便 
     便船:武陽丸(6月2日網走港着)
     航路:武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
    網走港からの移動:網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
 第2便    
      便船:武州丸(6月6日網走港)
    航路:七尾~新潟~青森~小樽~網走

明治31年の入植    
 第1便 
    便船:東都丸
   航路:門司~大分~三津ヶ浜(愛媛)~尾道~神戸~四日市~館山~萩浜(宮城)~網走
 第2便
  便船:東都丸(9月)
  航路:敦賀~七尾~新潟~酒田~網走

給与地:琴似兵村以来の密居性を取る。中隊を60~70戸の3区に区分し、各区は半密居性にした。
    第1次給与地: 幅30間、奥行60間(1,800坪基準)
        追給地: 約13,000坪

第4大隊3中隊
 中隊長:初 代:平井正道大尉
      第2代:川上親與大尉
      
相内兵村出身県別入植者数
 山形県  35
 富山県  17
 岐阜県  17
 石川県  33
 愛知県   8
 福井県  12
 福島県   5
 高知県   4
 山口県   1
 埼玉県   1
 佐賀県   8
 鳥取県   5
 新潟県   6
 和歌山県  8
 三重県   4
 岡山県   1
 兵庫県   6
 熊本県   3
 宮城県   4
 愛媛県   1
 福岡県   7
 栃木県   1
 広島県   3
 徳島県   1
 佐賀県   1
 岩手県   2
 香川県   3
 島根県   2
 計 28県 199名

Ⅰ 相内兵村の特色
1 地理的特質
(1)北見盆地の西方に位置し、北は仁頃山、南は訓子府に連なる丘陵に挟まれた低地を常呂川の支流無加川が流れ、その流れの源は、さらに西に進んだ留辺蕊~温根湯~石北峠・三国峠にある。
(2)無加川の恵みを受けた肥沃な地が東西に広がる。
(3)北見盆地の気候は寒暖の差が激しく夏は温暖(平成10年8月6日37.1度を記録)、冬の寒さは厳しい。また、年間の日照時間が長いく、冬の降雪量も含め年間の降水量は少ない。
(4)オホーツク正面防衛の要点で、端野、湧別を前衛、野付牛を主戦とするならば後衛に位置する。

2 時期的特色
(1)北見、湧別地区屯田兵設置までの経緯
  ア 明治21年、米、露、清国の視察より帰国した永山武四郎は、ロシアの大規模なシベリア・樺太開発計画、沿海州の兵備強化、とりわけシベリア鉄道施設計画に脅威を感じ、オホーツク正面の兵備の配置が急務であると認識。
  イ 明治23年の屯田兵条例の改正等屯田兵関連の法令・規則の大規模な改正、屯田兵の増強計画を策定。
  エ 囚人労働により、明治22年の上川道路(現国道12号線)に引き続き、明治24年中央道路(現国道39号線)の開削。
  オ 明治25年上常呂原野、湧別原野の測量、区画の実施し屯田兵設置予定地として決定。
(2)明治24年~明治29年にかけて、上川、空知地区に歩兵12個、特科3個中隊の屯田兵配置。
(3)明治28年、その勝利により日清戦争終戦終結。
(4)明治29年、第7師団創設、屯田司令部廃止。
(5)明治30年「北海道国有未開地処分法」が公布。
  (北海道土地払下規則を廃し,「無償貸し付け・成功後無償付与」の「北海道国有未開地処分法」が公布され,1人当たりの貸し付け面積の上限(一人に付き開墾の土地は150万坪、牧畜には250万坪、植樹には200万坪、会社や組合には2倍まで)が大幅に引き上げられた。屯田兵の入植後多数の団体が入植した。
(6)明治31年北海道全域に徴兵令が施行。
(7)明治32年旭川の鷹栖に第7師団設置を決定、明治33年~35年にかけて第7師団が旭川に移駐。第4大隊は北海道防衛における前方配置部隊としての位置づけ。
(8)明治34年北海道会法、北海道地方費法公布に伴うところの屯田兵給与地に対する課税問題が持ち上がり、明治35年北海道屯田倶楽部結成される。
(9)各地で米の生産が開始され一部商品価値化。
(10)明治36年屯田兵現役解除、第4大隊本部も解散。
(11)明治37年屯田兵条例廃止、1年後の明治38年、日露戦争に出征。

3 入植者の特色
(1)全国の28県からの入植で、同時期に入植した野付牛、端野兵村と同一地域。山形県が35戸と一番多く、次いで石川県が33戸、岐阜県17戸、富山県17戸、福井県が12戸と北陸・東北からの入植者が多い他は数名単位で入植。
(2)指導者としての士官達はそれまでの兵村で農事の経験を積み重ねており、適切な指導が出来た。

4 任務上の特色
(1)オホーツク正面の防衛と同地の開拓
(2)日露戦争
   一部を除き全員出征、戦死9名(内1名は傷病死)

5 発展過程上の特色
(1)明治24年の永山屯田兵の入植から6年、内陸部の開拓も軌道に乗り出した時期で、上常呂原野(北見盆地周辺)、湧別の開発は、時の北海道開発における最重要正面と認識されており、多くの人・物・金が当該正面に投入された。
(2)和田・太田の第4大隊長を経験した小泉少佐(初代)、上川の当麻で中隊長を経験した三輪少佐(第2代)が大隊長として勤務し、的確な営農指導の元に北見の風土にあう適作農業を推し進め、北見農業発展につながる礎を築いた。
(3)第2陣入植直後に遭遇した明治31年の大水害は甚大な被害をもたらし、無加川沿いの相内兵村にあっても大きな被害を受けた。
(4)適作作物の生産
  ア 入植当初は自活用の芋、豆類を栽培
  イ 気候風土に適した換金作物として薄荷の栽培
    野付牛(北見)で最初に薄荷の栽培を始めたのは明治34年で、端野兵村1区寒河江直助、野付牛兵村2区前田徳五郎、相内兵村3区家族伊藤長次郎である。気候・風土が栽培に適し、保管、輸送も容易なことから、一気に作付けが拡大し、大正時代にはその名を世界にとどろかせた。
  ウ 比較的安定した換金作物として豆類の栽培
    元々自活用に栽培していた豆類であったが、野付牛の市街地化による人口の流入、鉄道の開通(明治44年に池田~野付牛間、大正元年に野付牛~網走)により、道内各地、全国への輸送が可能となり、換金作物として定着。第一次世界大戦により、海外での需要が大きく高低した時期があったが、比較的安定した需要があり、地域の発展に大きく寄与した。
  エ 念願の稲作への転換
    稲作への転換が行われたのは大正末期からで、本格的栽培が行われ出したのは昭和に入ってからである。明治31年北光社の前田駒次が道庁の委嘱を受けて試作開始。全村で試作が行われ出したのは大正6~7年頃。本格的に栽培が行われるようになったのは昭和に入ってからである。そのきっかけとなったのは、この地の天候・気象に適用する新品種(北見赤毛、坊主6号、走坊主等)の出現である。
昭和10年には2,300町歩の作付けをした。ピークは昭和46年で2,892町歩である。
(5)灌漑溝の掘削
   明治34年~35年、第2代大隊長の三輪少佐により行われた灌漑溝の開削であったが、薄荷、豆類等換金作物の成功で、その後稲作に着手することはなかった。本格的な灌漑溝の掘削が行われたのは、稲作が有望であると認識されるようになった大正の終わり頃からで、相内では大正15年相内土功組合が認可され昭和2年に完工、約900町歩の水田が造成された。昭和36年~43年に再工事を行い現在に至っている。
(6)地域の発展へ
   明治36年の現役解除、明治38年日露戦争終結後、第2の新天地を求めて転出する者が多数に上った。さらに、その後の発展過程で、投機的要素の強い薄荷、豆類の栽培で財を得た者と、無くした者の差が生じ、5町歩の給与地を手放し小作人にならざる得ないものも発生した。
   相内に残った人、北見の市街地に流れた人、留辺蕊、網走、訓子府、仁頃等周辺地区に再入植した屯田兵及び家族の人達によって地域一帯が開発されて行った。これらは、北見に入植した3個兵村共通の歴史でもある。
(7)大正10年、野付牛村から独立し2級町村制施行。その後、昭和2年1級町村制を施行。(この年の戸数731戸、人口4、488人)
(8)昭和31年9月30月北見市に吸収合併。
      
   ★日露戦争で戦死した屯田兵7名の妻のうち6名が再婚した。
    それほどに、結婚適齢期の女性が少なかったといえる。
    この状況は他の兵村でも、あるいは一般入植団体でも同じと思われる。

6 相内屯田兵関係の著名人

Ⅱ 相内屯田兵の伝統を伝える。
○資料館等
  なし
○屯田兵関係の催し

○ゆかりの神社
 「相内神社」
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○屯田兵が開いた学校
 「相内小学校」

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○今に残る屯田兵の踏み跡
 「開村の碑」(相内神社内)
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 「中央道路開削犠牲者慰霊碑」
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 「練兵場跡」
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○屯田兵子孫の会の紹介
 「相内屯田会」
  目 的:屯田兵の開拓の偉業に感謝し、地域の発展に協力するとともに会員相互の親睦を図る。

  発足の経緯:

  行っている活動:毎年10月最終日曜日に開拓記念碑際を行っている。
  
  会 員:平成10年現在相内で農業を行って者の数、屯田戸主直系子孫30人、分家子孫8人、戸主の兄弟子孫26人


端野兵村の今(平成23年)

2011-06-27 18:34:28 | 端野屯田兵村

<ルポ:現在の端野兵村(平成23年6月)>
 北見市の中心から国道39号線を北東方向に走ると、見慣れた大型店舗の看板が目に付く。さらに走ると、1条道路を跨いだところに、ほんの数年前に建てたと思われる洒落た住宅が並んでいるのに気付く。それを過ぎると、屯田兵第1中隊本部があった場所が見えてくる。そこに現在建っているのが、北見市端野支所、図書館、文化センター、郷土資料館等町の主だった公共施設である。
 端野兵村は平成18年まで端野町であったが、市・町合併にともない今は北見市の一部になってしまった。このことは、屯田兵の入植以来営々と築いてきた端野の伝統継承を難しくする。開村記念行事をはじめ端野町として行ってきた『まつりごと』はすべて廃止となり、唯一北見市が主催する行事が「戦没者開拓功労者追悼際」と名を代えた先祖の御霊を鎮める行事である。
 「合併から5年の年月が経ち、予想された事態が現実のものとして受け止められるようになった」。と苦痛に満ちた表情で話されるのは、最後の端野町長であった自らも屯田兵3世であるというT氏である。

 第4大隊第1中隊として入植した端野兵村には、他にない出来事がある。
 それは、明治31年9月7日に起こった洪水である。この水害は北海道の災害史の中で未だに語り継がれる大洪水で、全道各地で大きな被害をもたらした。明治31年に入植した北見3個兵村の屯田兵は、この最中の9月2日~15日にかけてそれぞれの地に入植した。 
 特に被害の大きかったのは常呂川の川下の兵村である端野兵村で、それも1区が壊滅的な被害を受けた。すべての兵屋と耕地は水没し、移転を余儀なくされてしまった。65戸全を常呂川対岸の高台の地に移転させるまでには4年間の歳月を要したが、それにより、安心して農耕に励むことができるようになった。
 この高台への移転が、その後の端野兵村発展の過程で他の兵村と一線を隔することとなる。

 「常呂川の流れ」

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 端野兵村は37個兵村の中で割合恵まれた兵村といわれる北見の3個兵村にあっても特出している。現在、一戸あたりの作付け面積は25ヘクタールもあり、これは、大規模畑作地帯で知られる十勝地区の農家に匹敵する数字である。北見薄荷の発祥の地は端野1区で、寒河江直助が遠軽から薄荷の苗を取寄せ始めて栽培を試みた。また、現在全国一の出荷を誇る玉ねぎを最初に作付けしたのも端野1区である。
 これの意味するところは、入植当時稲作への願望が強かった屯田兵であったが、端野1区の屯田兵は高台へ移転したものだから、当初からその夢を断ち切られてしまった。
 そのため、畑作で生きていかざるを得なかった。皮肉にもその結果が薄荷での成功を生み。その後、豆類、小麦、甜菜、玉ねぎへと移り変わる中で、収益を上げ、豊かさを享受し発展を遂げていった。
 「美瑛の丘を思わせる1区の風景」
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 「2区の玉葱畑」
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 「3区の水田」
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 1区には、現在も入植64戸中、15戸の直系子孫が残っているという。分家を含めると、その6割が屯田兵関係者だという。これは、同じ端野兵村の2区、3区比較し驚異的な数字である。
 現在、端野兵村には子孫会はない、過去2回ほど子孫会が作られたらしいが、自然消滅と言う形でなくなってしまったらしい。
 そんな中、新たな動きが芽生えてきている。
 北見市との合併が反動となり、このままでは、端野の歴史が消し去られてしまうとの危機感を持つT元町長が中心となって、「歴史を語る会」立ち上げ。まだ、数名の会員しかいないようであるが、旧端野町の歴史を調べ、町として行ってきた祭事を記録に残し、子供たちへ伝える活動を行おうと準備されている。

 都市化の波に飲まれつつある中、屯田兵4世、5世が農業経営を目指さなくなった北見の兵村。屯田兵の歴史を、屯田兵子孫の方だけで伝承するのは難しい現状にあって、屯田兵子孫という枠を超え、広くこの地を開拓した多くの方々の子孫が郷土の歴史を調べ、子供たちに分かる言葉で伝えていく活動。T氏の推奨する活動が今求められているように思う。端野に住む人達の中から、一人でも多くこの活動に加わってもらいたいものである。

 北見薄荷の発祥地端野1区は、美瑛の丘陵を思わせるほど雄大な景色が広がる。トラクターで耕したばかりの幾条にも広がる畝の跡、そこに、顔を出す玉ねぎの新芽。夏には花が咲き、緑一面の耕地の中に、白、ピンクの花が織り成す景色はまさに絶景である。
 「T氏と面談した2区兵村に建つレストラン木倉屋」
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 「レストラン前から端野スキー場を望む」
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端野兵村の紹介

2011-06-27 18:22:36 | 端野屯田兵村

< 工 事 中 >

「端野兵村」
部隊名:第4大隊第1中隊
入植年:明治30、31年
入植地:端野町1区、2区、3区
Photo

「端野兵村入植配置図」「tanno1.pdf」をダウンロード

出身地:30府県
入植戸数:200戸

「端野兵村入植者名簿」「tanno2.pdf」をダウンロード

屯田歩兵第4大隊(1中隊:端野、2中隊:野付牛、3中隊:相内、4・5中隊:湧別で編成)
    大隊長:初 代 小泉正保少佐(和田・太田の4大隊長から赴任)
      第2代 三輪光儀少佐(元当麻兵村の中隊長 水稲の将来性を見込む)
      第3代 徳江重隆少佐

明治30年の入植(最終6月7日)
   第1便
    便 船:武陽丸(6月2日網走港着)
    航 路:武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
    移 動: 網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
   第2便 
    便 船:武陽丸
    航 路: 武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
    移 動:    網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
   第3便 
    便 船:武州丸(6月6日網走港着)
    航 路 七尾~新潟~青森~小樽~網走

明治31年の入植    
    第1便
     便 船:東都丸
     航 路: 門司~大分~三津ヶ浜(愛媛)~尾道~神戸~四日市~館山~萩浜(宮城)~網走
    第2便 
     便 船:東都丸(9月)
     航 路:敦賀~七尾~新潟~酒田~網走

給与地 
  琴似兵村以来の密居性を取る。中隊を60~70戸の3区に区分し、各区は半密居性にした。
  第1次給与地 幅30間、奥行60間(1,800坪基準)
  追給地は約13,000坪割り当てられた。

第4大隊第1中隊
 中隊長:初 代 浜田高三大尉
     第2代 鈴木次郎大尉

端野兵村出身県別入植者数
山形県  12
宮城県   4
青森県   1
秋田県   1
福島県   9
愛知県  10
富山県  21
千葉県   1
新潟県   3
茨城県   1
埼玉県   1
三重県   4
福井県  23
石川県  33
岐阜県  23
鳥取県   5
兵庫県   2
奈良県   2
島根県   2
滋賀県   2
広島県   2
和歌山県  6
山口県   1
香川県   2
愛媛県   2
高知県   1
熊本県   2
徳島県   5
佐賀県  11
福岡県   7
大分県   1
 計 31県 200名

 
Ⅰ 端野兵村の特色
1 地理的特出
(1) 常呂川沿いに細長く開けた北見盆地の東北端。
(2) 端野は北見盆地に注ぐ各河川が北見付近で常呂川に集約されて、仁頃丘陵の隘路を常呂へ流れる入口。いわゆる川下に位置し、常呂川流域一帯で大雨が降る度に氾濫した歴史を持つ。反面、この地域は肥沃で作物の栽培には適する。
(3) 気候は北見盆地とオホーツク海洋性の気候の両方を持ち夏は温暖、冬の寒さは厳しい。
(4) オホーツク正面防衛の要点で、野付牛を主戦とする場合に前衛となる地。

2 時期的特色
(1)明治24年、網走監獄の囚人達の労働によって上川から網走まで延びる中央道路が開通。
(2)明治25年、端野屯田兵2区の地に端野2号駅逓開設。
(3)明治29年、第7師団創設、屯田司令部廃止。
(4)明治30年「北海道国有未開地処分法」が公布。
  (北海道土地払下規則を廃し,「無償貸し付け・成功後無償付与」の「北海道国有未開地処分法」が公布され、土地貸し付け面積の上限(一人に付き開墾の土地は150万坪、牧畜には250万坪、植樹には200万坪、会社や組合には2倍まで)が大幅に引き上げられた。
   屯田兵の入植後、多数の団体が入植した。
(5)日清戦争終結、その勝利の翌年に端野兵村は配置された。
(6)明治31年北海道全域に徴兵令が施行。
(7)明治32年旭川の鷹栖に第7師団設置を決定、明治33年~35年にかけて七師団が旭川に移駐。
(8)明治34年北海道会法、北海道地方費法公布に伴うところの屯田兵給与地に対する課税問題が持ち上がり、明治35年北海道屯田倶楽部結成される。
(9)各地で米の生産が開始され一部商品価値化。
(10)明治36年屯田兵現役解除、第4大隊本部も解散。
(11)明治37年屯田兵条例廃止。日露戦争勃発。

3 入植者の特色
(1)全国の31県からの入植で、同時期に入植した野付牛、相内兵村と同一地域。石川県が33戸と一番多く、福井県23戸、岐阜県23戸、富山県21戸で北陸からの入植者が多い。他県は数名単位で入植。
(2)指導者としての士官達は、それまでの兵村で農事の経験を積み重ねており、適切な指導が出来た。

4 任務上の特色
(1)オホーツク正面の防衛と同地の開拓
(2)日露戦争
    出征  名、戦死者:5~6名

5 発展過程上の特色
(1)明治31年の大水害
   屯田兵の第2陣が入植した直後の明治31年9月7日、全道的に発生した大洪水に見舞われ、特に端野兵村1区の被害が甚大で、兵村のほとんどが水没した。
   その結果、1区兵村すべてを現在の高台に移転することとなった。
(2)明治34年に1区でハッカの栽培が試みられる。
(3)明治44年に池田~野付牛間、大正元年に野付牛~網走間に鉄道開通。
(4)農耕の成功から定着率が高く、家族、分家等を含めるとその数は相当なものとなった。
  その中から、他の職に転ずるもの、川向、緋牛内、常呂、留辺蘂へ移り住む者等が発生、また、それが、開拓民の移住熱に火をつけ、端野および周辺地域の発展に大きく寄与した。
(6)大正10年野付牛町から分村し端野村となる。
(6)昭和36年端野町となる。
(7)平成18年北見市に吸収合併。
(8)農耕の状況
ア 畑作
  入植初期には自活のため、燕麦、麦類、馬鈴薯、きび、そば等を栽培。
  日露戦役の終わった頃から、換金作物として菜豆、鋺豆、小手亡等の豆類を主作物とした。
イ ハッカ
  明治34年頃から試作が始まり、明治40年では北海道の作付面積が全国の80%を占め、その内の70から80%を北見・湧別が占める。大正期に入りその名を世界にとどろかせた。
  端野では明治34年10月、1区の寒河江直助が湧別から種根の分譲を受け2、3人に分
  けて新畑に植えたのが始まりで、反収が大きいこと、運搬が容易でかつ腐敗の心配がないということから一気に広まった。ハッカ景気に沸き屯田兵の定着と北見の発展に大きな貢献をした。
(薄荷成金、豆成金と言われた。)
ウ 稲作
  屯田兵が入植した上川、空知で既に稲作を行っていたことから強い関心があり、入植の翌年から試作が行われた。又、2代目大隊長の三輪光儀は水利条件や耕地の状況から水田の耕作が可能と考え、明治34年~5年にかけて大規模な灌漑溝掘削事業を展開した。
   日露戦争への出征で一時中断したが、兵村において稲作の自給体制が出来たのは大正4年頃からである。

★屯田兵の子弟達の進む道
  長男:跡取り
  次男・三男、その他:学校を出て兵村を出て行く。(屯田兵は向学心が高かった。親は次男、三男等を勉学に励ませた。端野村で高等教育を受けるものの殆どは屯田兵の子弟であったという。)
  姉妹:豪農へ嫁ぐ。(端野屯田兵の娘は引きてあまたであった。それは、他に比較し生活は豊かで躾が行き届いている等の理由から。)
    この話から推測されるのは、端野兵村の開拓は旨く進んだということ。屯田兵及びその家族は教養人の集まりであったこと。端野をリードする人材を輩出する土壌があったこと等である。

6 端野兵村関係の著名人

Ⅱ 端野兵村の伝統を伝える
○資料館等
「端野町立歴史民俗資料館」

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「屯田兵の肖像画」
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「屯田兵屋」
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○屯田兵関係の催し

○ゆかりの神社
「端野神社」
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○屯田兵が開いた学校
「端野小学校」
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○今に残る屯田兵の踏み跡
 「鎖塚」
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 中央道路(別名囚人道路、現国道39号線)の開削でなくなった囚人達を慰霊する碑で、この道路を開設するのに要した期間8ヶ月、距離225km(旭川~網走)、無くなった人の数212名
  
「開村祈念碑(屯田の杜公園)」
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「1中隊本部被服糧秣庫(現1区神社拝殿)」
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「端野水田発祥の碑」
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○屯田兵子孫の会の紹介
  子孫会はなし
直系子孫の数
1区:15戸/64戸入植
2区:11戸/70戸入植
3区:15戸/66戸入植


ルポ 大田兵村の今(平成23年)

2011-06-24 07:37:31 | 太田屯田兵村

<ルポ:現在の太田兵村(平成23年6月)>
 厚岸の町から標茶へ向かう道々14号線を5kmほど北上すると、S字カーブに差しかかり、その上り坂を越えると台地上に緑豊かな牧場が広がる。今は厚岸町の一部となっているがこの地に大田兵村があった。
 大田地区は屯田兵村時代の区割りが完璧に残り、その区割りの中に赤・青等に塗装した牛舎の屋根が目に付く。ところどころで放牧する牛の姿も眺めることができる。

 太田兵村は同じ3大隊の根室の和田兵村と共通する多くの条件を有している。
 入植した時期が近いこと、気象条件が近いこと、近世以来海上交通の要衝であり寛永年間には場所が開設されていたこと等である。
 春から秋にかけては海霧に覆われ農作物の生育が極めて悪く、両兵村とも血の滲むような開墾の苦労を味わったが、今は豊かな酪農地帯へと取って代わられている。
 今回訪問してみて、現在の和田と大田では少しだけ違いがあることを感じた。それは、和田は屯田兵子孫の方たちだけでその土地を守っているのに対し、大田は屯田兵子孫と戦後入植した開拓民の人達とともにこの土地を守っていることである。初めてこの地を訪ねたとき自治会長でもある屯田兵3世の方から「大田は屯田兵子孫会と言うものはなく、屯田兵だからと声高々に話すことはない」。といわれた。

 大田地区に住む屯田兵子孫の所帯はその家族の世帯数を含めると100軒近くを数えるという。その中で酪農を経営しているのは20軒近く。他は大田に居を構え酪農以外の仕事に就く人である。屯田兵子孫以外の酪農経営者も数名いる。そんな中、大田地区の自治会長に案内され特徴ある2軒の牧場を見学させてもらった。
 その一つは、ロボット搾乳機を導入し大規模に行っている牧場で、屯田兵4世の方が経営されていた。もう一軒の牧場は放牧飼育を行う小規模な牧場で、チーズ工房を持ち乳製品の製造・販売もおこなっていた。
 ロボット搾乳機を導入するということは、それに、見合った牛の飼育、牧草育成、土つくり等、それらを的確・効率的に行う必要がある。大規模経営を円滑に行えるのは基本をしっかり行っているからであると聞いた。
 乳製品の製造・販売を行っている牧場では、その販路は口コミであるといっていた。今流行のインターネット販売は行わず、電話とFAXだけのいたってレトロな方法で行っていると聞いた。

「市川牧場」
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「石沢牧場」
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  (チーズ工房)

 現在のスピードを重視する今の時代にそぐわないが、人と人の関係を大切にするアナログ人間。そんなところに、生き物を育てる酪農の仕事の原点があるのかも知れない。
 先に屯田兵3世の自治会長の「大田は屯田兵子孫会と言うものはなく、屯田兵だからと声高々に話すことはない」。の言葉を記したが、大田はしっかり屯田兵の伝統を継承している。2番通りには入植した当時のままの位置に屯田兵屋を保存し、入植当時植林した松や桑の木の保存に努め、各施設のあった場所には標柱を建て説明をしている。
 また、小学校ではふるさと教室と言う授業が、中学校では屯田ゼミナールという授業があり、屯田兵の歴史と伝統を伝えているといっていた。
 

 太陽が傾きかける頃に大田兵村を後にした。光線に反射する牧草が美しく、放牧されていた牛たちが牛舎付近に集まってきた。まさに牧歌的な風景である。
 牧場を経営すること、生き物を育てることであり、その苦労は大変であると思うが、この牧場の情景を眺めると損得では図れない何か暖かいものを感じた。

「牧場の風景」 

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