屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ:湧別兵村の今(平成23年)

2011-06-23 11:02:14 | 湧別屯田兵村

<ルポ:湧別兵村の現在(平成23年6月)>
 5月の連休を過ぎる頃になると、新聞の紙面にチュウリップの開花情報を『チュウリップの里』とよばれる上湧別の花の写真とともに紹介される。
 そんな、チューリップの里で有名になった上湧別兵村。

「チュウリップの里」

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上湧別は、今尚屯田兵の面影を色濃く残す兵村である。りんご、薄荷の栽培等、入植後の営農にも成功し土着する者が多く、その後も農業を中心に発展を遂げている。
 このように入植後早い時期から営農が軌道に乗り、現在に至るまで農業一筋に発展を遂げている兵村はまれなケースで、これが、これから説明する現在の上湧別屯田兵村の特色に現れているものと思われる。

 屯田兵が入植した1区、2区、3区と地名のつく地区にあっては、住人の殆どが屯田兵関係者で占められているところもある。今、1区、2区と言う地名を使ったが、これも珍しく。未だに4-1区、5-2区と言う地名が通用し(これは4中隊1区、5中隊2区の意味)、地図にも北兵村、南兵村と記されている。

「南1区の遠景」

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「南2区」

「南2区の家並み」

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「南3区の農作業」

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「北1区の玉ねぎ畑」

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「北2区の遠景 五箇山から」

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「北3区の牧場」

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「豊かな恵みを与えた湧別川の流れ」

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 上湧別兵村を訪ねて一番感じたことは、屯田兵の伝統を後世に伝えていこうという取り組を鋭意進めていることと、住民のチャレンジ精神である。
 その一端を紹介しておこう。
 屯田兵の伝統を後世に伝えていこうという活動であるが、湧別町には人口1万人の町には似つかわしくない壮大な建築物である博物館『JRY』がある。補助金で箱物を作る自治体の悪評をよくマスコミに取り挙げられるが、ここで話したいのは、逆にその施設を有効に使った伝統継承の活動である。
 『湧別町ふるさと館JRY』の付帯施設として体験用の屯田兵屋が建っている。ここ上湧別では、本館とこの屯田兵屋を使った体験学習を年間通して行っている。その主対象は湧別町にある小、中、高校生であるが、他に網走管内の先生方、PTAの方等にも明治開拓時代の衣・食・住の体験学習(研修)、さらには子供たちに対し宿泊体験、町内めぐり等の学習支援活動を行っている。もう6年近く行っているというが、その成果は着実に実りつつあるという。
 これに近い体験型の学習は他の博物館でも行われていると思うが、それを、郷土の歴史と伝統継承に結び付けているのはここだけであるように思う。

「体験学習用兵屋」

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 では、同じ様な試みを他の市・町で行った場合はどうだろうかと考えたときに、成功の確率となると疑問符がつく。
 湧別町の行うこの試みがなせるのは、屯田兵とその子孫たちが培ってきた農民としてのチャレンジ精神であるように思う。入植直後にりんごの栽培を手がけ成功を収め、さらには換金作物としての可能性を秘めた薄荷栽培に挑戦しこれまた成功。その後、小麦、豆類、甜菜、玉葱等次々と新しい作物に挑戦した気概が前を向いて進む上湧別の町民性を生み出したのだろう。

 湧別町文化センターTM前には「屯田兵が拓いたチューリップの里」と書いた大きなディスプレーが掲げてある。
 上湧別のチュウリップの栽培は、輸出作物としての外貨獲得のため昭和32年から始まった。しかし、10年も経たない間に大きな成果を得ないまま衰退してしまった。
 そんな時に始まったのが老人達のボランティア活動で、現在のチューリップ公園で栽培が細々と行われ出した。約10年の歳月をかけてその成果が身を結び。今では毎年10万人の観光客を呼び寄せる全国的にも名の知れたイベントに成長している。
 これらが、屯田兵の入植から幾多の困難を克服し、小さいながらも農業を中心繁栄してきた上湧別兵村の伝統である。

「チュウリップの里ディスプレー」

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 子供たちに体験学習を通じ、上湧別の伝統を伝える活動に携わる湧別町博物館JRYの学芸員であるN氏から、こんな言葉を聞いた。「子供たちには開拓時代の苦労話を伝えるのではなく、開拓者はすぐれたい人間であった。この地を切り開き生き抜いた人達はすばらしい人達だ。誇りと希望を持ち、前を向いて進む人間。そんなことを伝えたいと思っている」

 文中、上湧別兵村のことを説明するのに湧別町、上湧別と言う2つの地名を使ったが、実は上湧別町と湧別町が平成21年に合併し湧別町となっている。町・村合併はその土地の伝統継承を困難にし、場合によっては、そのものを消滅させる可能性を持っている。
 新しい湧別町で行っている今記した取り組みは、この危険を遠ざけるものであることは確かである。

「新生湧別町役場」

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 湧別の子供たちの中から、新しいチャレンジャーが生まれてくることだろう。
 その子供たちが湧別町の伝統を継承し、次の時代へと伝えていく。


湧別兵村の紹介

2011-06-23 10:51:47 | 湧別屯田兵村

< 工 事 中 >

「湧別兵村」
入植年:明治30、31年
入植地:上湧別町南兵村1~3区、北兵村1~3区
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「北上湧別兵村入植配置図」「kitakamiyubetsu1.pdf」をダウンロード

「南上湧別兵村入植配置図」「mimamikamiyubetsu1.pdf」をダウンロード

出身地:35府県
入植戸数:399戸

「北上湧別兵村入植者名簿」「kitakamiyubetsu2.pdf」をダウンロード

「南上湧別兵村入植者名簿」「mimamikamiyubetsu2.pdf」をダウンロード
  
屯田歩兵第4大隊
大隊長: 初 代 小泉正保少佐(和田・太田の4大隊長から赴任)
      第2代 三輪光儀少佐(元当麻兵村の中隊長 水稲の将来性を見込む)
      第3代 徳江重隆少佐

明治30年の入植(6月7日)
      便船: 武州丸(5月25日湧別海岸上陸)
      航路: 七尾~新潟~青森~小樽~網走港

明治31年の入植(9月)   
      第1便: 東都丸
               航路: 門司~多度津(愛媛)~尾道~神戸~大阪~四日市~萩浜(宮城)~網走港
      第2便: 東都丸
               航路: 敦賀~七尾~新潟~酒田~網走港

給与地:琴似兵村以来の密居性を取る。中隊を3区(各区65~70戸)に区分し、各区は半密居性にした。同年に入植した、端野、相ノ内、湧別もこの方法を取った。耕地とも言うべき給与地は、第1次給与地 幅30間、奥行60間(6反 1,800坪基準)、第2次給与地は兵村の周りに4町4反約13,000坪割り当てられた。

北湧別兵村
屯田歩兵第4大隊4中隊
中隊長:初 代:八田大尉(   ~   )
     第2代:      (   ~   )
     第3代:      (   ~   )

出身県別入植者数
 福島県  15
 広島県   1
 岐阜県  17
 福井県   8
 三重県  14
 島根県   1
 新潟県   5
 宮城県   7
 山形県  17
 熊本県  24
 秋田県   2
 愛媛県   6
 和歌山県  3
 岡山県   3
 石川県   9
 佐賀県   3
 富山県   5
 鳥取県   5
 愛知県  36
 兵庫県   2
 千葉県   1
 山口県   2
 香川県   4
 福岡県   3
 奈良県   1
 青森県   1
 高知県   1
 岩手県   1
 徳島県   2
 29県 199名

南湧別兵村
屯田歩兵第4大隊4中隊
中隊長:初 代:内海大尉(   ~   )
     第2代:      (   ~   )
     第3代:      (   ~   )

出身県別入植者数
 山形県  19
 福島県  13
 奈良県   1
 鳥取県   9
 岐阜県  19
 三重県  15
 石川県   9
 佐賀県   2
 高知県   2
 熊本県  19
 富山県   4
 岩手県   2
 千葉県   1
 福井県   4
 埼玉県   1
 兵庫県   1
 秋田県   2
 岡山県   2
 新潟県   6
 愛媛県   4
 宮城県   1
 愛知県  35
 宮城県   9
 京都府   1
 香川県   5
 長崎県   3
 広島県   1
 山口県   1
 福岡県   1
 佐賀県   1
 大分県   1
 青森県   2
 徳島県   2
 和歌山県  2
 34県 200名

Ⅰ 湧別兵村の特色
   湧別の由来は「ユペ」アイヌ語で鮭を意味し、昔湧別川河口から近海にかけて多くの鮭がいたことから名付けられた。
1 湧別の地理的特質
(1)北大雪を源とする湧別川の沖積土壌流域延長約13kmと、それに連なる河岸段丘で幅8kmの肥沃な平野。
(2)高緯度ではあるものの夏の日照時間が長く比較的高温になることも多い。気候はかなり安定。(士別とほぼ同緯度)
(3)河川の低地に接していたため、春の融雪期や大雨の時には洪水に見舞われた。
(4)湧別港から兵村の中心(中隊本部)まで約10kmと近く、流通面で有利。
(5)気候風土も安定し海の幸、山の幸に恵まれた。
(6)北兵村と南兵村では地質が違い、北兵村の高台の土地は重粘土質で耕作不適地であった。
(7)北見(野付牛)をオホーツク正面防衛の主力ととらえた場合、湧別はその前衛。

2 時期的特色
(1)明治24年上川から網走まで延びる中央道路が開通。
(2)明治29年第7師団創設、屯田司令部廃止。
(3)明治30年「北海道国有未開地処分法」が公布。
   (明治19年に施行された北海道土地払下規則に代わるもの「無償貸し付け・成功後無償付与」の考えのもと、1人当たりの貸し付け面積の上限(一人に付き開墾の土地は150万坪、牧畜には250万坪、植樹には200万坪、会社や組合には2倍まで)が大幅に引き上げられた。その結果、多数の団体が入植した。
(4)先住者の経験を取り入れた営農計画も立ち、管理も整って画期的な農事経営へと進みつつあった時期。
(5)日清戦争のその勝利の翌年に配置。
(6)明治31年北海道全域に徴兵令が施行。
(7)明治32年旭川の鷹栖に第7師団設置を決定、明治33年~35年にかけて第七師団が旭川へ移駐。
(8)明治34年北海道会法、北海道地方費法公布に伴うところの屯田兵給与地に対する課税問題が持ち上がり明治35年北海道屯田倶楽部が結成される。
(9)各地で米の生産が開始され一部商品価値化。
(10)明治36年屯田兵現役解除(兵役5年)、第4大隊本部も解散。
(11)明治37年屯田兵条例廃止、同年日露戦争勃発。

3 入植者の特色
(1)全国の35県からの入植で、南・北湧別兵村の入植者は同一地域。愛知県が71戸と一番多く、熊本県43戸、岐阜県36戸、山形県36戸、三重県29戸、福島県28戸と多い。北見の3個兵村は東北・北陸が多いのに比較し、中部、西南地域からの出身者が割合い多い。
(2)指導者としての士官達は、それまでの兵村で農事の経験を積み重ねていた。

4 任務上の特色
(1)オホーツク湧別地区正面の防衛と湧別平野の開拓
(2)日露戦争
    32名戦死41名負傷

   ★戦後の悲劇
    召集解除を受け湧別兵村に帰宅途中の佐藤藤作は、北見峠付近で遭難(湧別ふるさと館JRYの資料にあり)

5 発展過程上の特色
(1)明治24年の中央道路の開通、永山屯田兵の入植から6年、内陸部の開拓も軌道にのりだした時期で、旭川からの連絡が可能になるとともに、湧別港まで10mと近く物流が容易なことから発展の可能性を秘めていた。
(2)明治30年の入植時、兵屋が未完成で柱と屋根だけと言う兵屋もあり、直ぐに開拓に着手出来なかった。
(3)大隊長は、初代小泉正保少佐(元和田、太田の大隊長)、2代目三輪光儀少佐(元当麻の中隊長)で、的確な営農指導のもとに湧別の風土にあう適作農業を推し進め、湧別農業発展につながる礎を築いた。
(4)全道的に大被害をもたらした明治31年の大水害に遭遇。
(5)明治43年湧別村分村。
(6)大正5年湧別線(昭和61年廃線)、大正10年名寄線(平成元年廃線)が開通し物流が飛躍的に拡大。
(6)昭和28年分村し、下湧別村が湧別町に、上湧別村が上湧別町に。
(7)適作作物の生産
  ア 入植2年目の31年にりんごの苗木5000本を植え付け、明治40年頃から収穫を見る。りんご栽培で成功。
    薄荷の試作は明治29年に行い、北見薄荷の基礎を築いた。その後、稲作に着手するも、下湧別では酪農へ、上湧別は畑作へ切り替える。現在ホワイトアスパラの生産は日本一。
  イ 稲作
    明治31年、南兵村2区の菊池勤が郷里の福島から早生種を取り寄せ栽培を試みる。明治33年中隊本部で種籾を無料で配布し試作。その後、潅漑溝の掘削し造田。明治35年の大冷害で失敗に終わるも、解隊後も試作を続け成功に結びつける。
  ウ 薄荷
    一般入植者によって試作され、その後、換金作物として明治34~35年頃から栽培をされるようになる。
  エ 澱粉
    馬鈴薯から澱粉を作るようになったのは明治33年頃。
  オ 大正7年ビートの試作
(8)平成21年湧別町と合併
(9)農耕の成功から定着率が高く、家族、分家等を含めるとその数は相当なものとなる。
(10)チューリップの里をキャッチフレーズに地域の振興

6 上湧別屯田兵関係の著名人
  庄田満里:中隊本部の看護卒として医務室に勤務。後備役になると兵村に医師がいなくなることから、明治34年東京慈恵医学院に派遣され医師免許を取得し帰村。北湧病院の医師として勤務。村民から「庄田先生に診療を受けて死にたい」と言われるほどに慕われた。

   ★明治32年北海道毎日新聞記者のレポート「屯田10号に掲載」
    「北湧別尋常小学校は300~400人入るに足りる。帰宅時間の下校風景は黒山を築くが如く」「・・・・・ほとんど内地農村の観を呈する」「電信架設中」

Ⅱ 湧別兵村の伝統を伝える
○資料館等
  「上湧別ふるさと館JRY(平成8年完成)」

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 「JRY」とは
  J Joint(結びあう)Jewel(宝物)、R Roots(祖先)Record(記録)、Y Yubetsu Farmer Soldier(湧別屯田兵)
  湧別屯田兵の開拓期をイメージし、豊かな自然を木造部分で、平野となだらかな山並みを全体の曲面・曲線で、また、林立するコンクリートの柱は、自然に加えられた人々の手を象徴

  「屯田兵屋」(博物館内)

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○屯田兵関係の催し
  とんでんまつり(9月) 
○屯田兵ゆかりの学校
  「上湧別小学校」

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○ゆかりの神社
  「上湧別神社」

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○今に残る屯田兵の踏み跡
  「屯田兵の肖像画(馬堀法眼画伯作)」
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  「湧別原野入植者上陸の地」

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  「第4大隊第4、5中隊本部跡」

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  「リフォームされ今も使用されている屯田兵屋」

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○屯田兵子孫の会の紹介
 名称:屯田会
 経緯:昭和4年に、屯田戸主会として南北兵村にそれぞれ設立され「上湧別村将来の発展を期し子孫百年の長計を画するため、諸般の事項を協議しその執行者の意見を開陳することにある」をうたった。その後、この活動通じ、開拓者精神を子孫に伝えたいとの思いから昭和32年に「屯田家族会」を結成し活動を継続してきたが、戸主の減少により戸主会を解散し昭和52年、屯田兵2世を中心に湧別屯田会として結成した。平成22年湧別町と合併を期に屯田会と名称を変更
 目的:湧別屯田兵とその家族の苦労をしのび、その偉業を永く後世に伝えるとともに会員相互の親睦を図る。
 行った事業:昭和53年会員全員の寄付と町費により屯田兵の肖像画を作成し資料館に寄贈
 会員:157名(平成22年現在)

○その他
  平成13年、平成14年「フォーラムを開催」
   第1回テーマ「      」
   第2回のテーマ「屯田兵を伝える」