屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

端野兵村の今(平成23年)

2011-06-27 18:34:28 | 端野屯田兵村

<ルポ:現在の端野兵村(平成23年6月)>
 北見市の中心から国道39号線を北東方向に走ると、見慣れた大型店舗の看板が目に付く。さらに走ると、1条道路を跨いだところに、ほんの数年前に建てたと思われる洒落た住宅が並んでいるのに気付く。それを過ぎると、屯田兵第1中隊本部があった場所が見えてくる。そこに現在建っているのが、北見市端野支所、図書館、文化センター、郷土資料館等町の主だった公共施設である。
 端野兵村は平成18年まで端野町であったが、市・町合併にともない今は北見市の一部になってしまった。このことは、屯田兵の入植以来営々と築いてきた端野の伝統継承を難しくする。開村記念行事をはじめ端野町として行ってきた『まつりごと』はすべて廃止となり、唯一北見市が主催する行事が「戦没者開拓功労者追悼際」と名を代えた先祖の御霊を鎮める行事である。
 「合併から5年の年月が経ち、予想された事態が現実のものとして受け止められるようになった」。と苦痛に満ちた表情で話されるのは、最後の端野町長であった自らも屯田兵3世であるというT氏である。

 第4大隊第1中隊として入植した端野兵村には、他にない出来事がある。
 それは、明治31年9月7日に起こった洪水である。この水害は北海道の災害史の中で未だに語り継がれる大洪水で、全道各地で大きな被害をもたらした。明治31年に入植した北見3個兵村の屯田兵は、この最中の9月2日~15日にかけてそれぞれの地に入植した。 
 特に被害の大きかったのは常呂川の川下の兵村である端野兵村で、それも1区が壊滅的な被害を受けた。すべての兵屋と耕地は水没し、移転を余儀なくされてしまった。65戸全を常呂川対岸の高台の地に移転させるまでには4年間の歳月を要したが、それにより、安心して農耕に励むことができるようになった。
 この高台への移転が、その後の端野兵村発展の過程で他の兵村と一線を隔することとなる。

 「常呂川の流れ」

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 端野兵村は37個兵村の中で割合恵まれた兵村といわれる北見の3個兵村にあっても特出している。現在、一戸あたりの作付け面積は25ヘクタールもあり、これは、大規模畑作地帯で知られる十勝地区の農家に匹敵する数字である。北見薄荷の発祥の地は端野1区で、寒河江直助が遠軽から薄荷の苗を取寄せ始めて栽培を試みた。また、現在全国一の出荷を誇る玉ねぎを最初に作付けしたのも端野1区である。
 これの意味するところは、入植当時稲作への願望が強かった屯田兵であったが、端野1区の屯田兵は高台へ移転したものだから、当初からその夢を断ち切られてしまった。
 そのため、畑作で生きていかざるを得なかった。皮肉にもその結果が薄荷での成功を生み。その後、豆類、小麦、甜菜、玉ねぎへと移り変わる中で、収益を上げ、豊かさを享受し発展を遂げていった。
 「美瑛の丘を思わせる1区の風景」
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 「2区の玉葱畑」
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 「3区の水田」
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 1区には、現在も入植64戸中、15戸の直系子孫が残っているという。分家を含めると、その6割が屯田兵関係者だという。これは、同じ端野兵村の2区、3区比較し驚異的な数字である。
 現在、端野兵村には子孫会はない、過去2回ほど子孫会が作られたらしいが、自然消滅と言う形でなくなってしまったらしい。
 そんな中、新たな動きが芽生えてきている。
 北見市との合併が反動となり、このままでは、端野の歴史が消し去られてしまうとの危機感を持つT元町長が中心となって、「歴史を語る会」立ち上げ。まだ、数名の会員しかいないようであるが、旧端野町の歴史を調べ、町として行ってきた祭事を記録に残し、子供たちへ伝える活動を行おうと準備されている。

 都市化の波に飲まれつつある中、屯田兵4世、5世が農業経営を目指さなくなった北見の兵村。屯田兵の歴史を、屯田兵子孫の方だけで伝承するのは難しい現状にあって、屯田兵子孫という枠を超え、広くこの地を開拓した多くの方々の子孫が郷土の歴史を調べ、子供たちに分かる言葉で伝えていく活動。T氏の推奨する活動が今求められているように思う。端野に住む人達の中から、一人でも多くこの活動に加わってもらいたいものである。

 北見薄荷の発祥地端野1区は、美瑛の丘陵を思わせるほど雄大な景色が広がる。トラクターで耕したばかりの幾条にも広がる畝の跡、そこに、顔を出す玉ねぎの新芽。夏には花が咲き、緑一面の耕地の中に、白、ピンクの花が織り成す景色はまさに絶景である。
 「T氏と面談した2区兵村に建つレストラン木倉屋」
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 「レストラン前から端野スキー場を望む」
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端野兵村の紹介

2011-06-27 18:22:36 | 端野屯田兵村

< 工 事 中 >

「端野兵村」
部隊名:第4大隊第1中隊
入植年:明治30、31年
入植地:端野町1区、2区、3区
Photo

「端野兵村入植配置図」「tanno1.pdf」をダウンロード

出身地:30府県
入植戸数:200戸

「端野兵村入植者名簿」「tanno2.pdf」をダウンロード

屯田歩兵第4大隊(1中隊:端野、2中隊:野付牛、3中隊:相内、4・5中隊:湧別で編成)
    大隊長:初 代 小泉正保少佐(和田・太田の4大隊長から赴任)
      第2代 三輪光儀少佐(元当麻兵村の中隊長 水稲の将来性を見込む)
      第3代 徳江重隆少佐

明治30年の入植(最終6月7日)
   第1便
    便 船:武陽丸(6月2日網走港着)
    航 路:武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
    移 動: 網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
   第2便 
    便 船:武陽丸
    航 路: 武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
    移 動:    網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
   第3便 
    便 船:武州丸(6月6日網走港着)
    航 路 七尾~新潟~青森~小樽~網走

明治31年の入植    
    第1便
     便 船:東都丸
     航 路: 門司~大分~三津ヶ浜(愛媛)~尾道~神戸~四日市~館山~萩浜(宮城)~網走
    第2便 
     便 船:東都丸(9月)
     航 路:敦賀~七尾~新潟~酒田~網走

給与地 
  琴似兵村以来の密居性を取る。中隊を60~70戸の3区に区分し、各区は半密居性にした。
  第1次給与地 幅30間、奥行60間(1,800坪基準)
  追給地は約13,000坪割り当てられた。

第4大隊第1中隊
 中隊長:初 代 浜田高三大尉
     第2代 鈴木次郎大尉

端野兵村出身県別入植者数
山形県  12
宮城県   4
青森県   1
秋田県   1
福島県   9
愛知県  10
富山県  21
千葉県   1
新潟県   3
茨城県   1
埼玉県   1
三重県   4
福井県  23
石川県  33
岐阜県  23
鳥取県   5
兵庫県   2
奈良県   2
島根県   2
滋賀県   2
広島県   2
和歌山県  6
山口県   1
香川県   2
愛媛県   2
高知県   1
熊本県   2
徳島県   5
佐賀県  11
福岡県   7
大分県   1
 計 31県 200名

 
Ⅰ 端野兵村の特色
1 地理的特出
(1) 常呂川沿いに細長く開けた北見盆地の東北端。
(2) 端野は北見盆地に注ぐ各河川が北見付近で常呂川に集約されて、仁頃丘陵の隘路を常呂へ流れる入口。いわゆる川下に位置し、常呂川流域一帯で大雨が降る度に氾濫した歴史を持つ。反面、この地域は肥沃で作物の栽培には適する。
(3) 気候は北見盆地とオホーツク海洋性の気候の両方を持ち夏は温暖、冬の寒さは厳しい。
(4) オホーツク正面防衛の要点で、野付牛を主戦とする場合に前衛となる地。

2 時期的特色
(1)明治24年、網走監獄の囚人達の労働によって上川から網走まで延びる中央道路が開通。
(2)明治25年、端野屯田兵2区の地に端野2号駅逓開設。
(3)明治29年、第7師団創設、屯田司令部廃止。
(4)明治30年「北海道国有未開地処分法」が公布。
  (北海道土地払下規則を廃し,「無償貸し付け・成功後無償付与」の「北海道国有未開地処分法」が公布され、土地貸し付け面積の上限(一人に付き開墾の土地は150万坪、牧畜には250万坪、植樹には200万坪、会社や組合には2倍まで)が大幅に引き上げられた。
   屯田兵の入植後、多数の団体が入植した。
(5)日清戦争終結、その勝利の翌年に端野兵村は配置された。
(6)明治31年北海道全域に徴兵令が施行。
(7)明治32年旭川の鷹栖に第7師団設置を決定、明治33年~35年にかけて七師団が旭川に移駐。
(8)明治34年北海道会法、北海道地方費法公布に伴うところの屯田兵給与地に対する課税問題が持ち上がり、明治35年北海道屯田倶楽部結成される。
(9)各地で米の生産が開始され一部商品価値化。
(10)明治36年屯田兵現役解除、第4大隊本部も解散。
(11)明治37年屯田兵条例廃止。日露戦争勃発。

3 入植者の特色
(1)全国の31県からの入植で、同時期に入植した野付牛、相内兵村と同一地域。石川県が33戸と一番多く、福井県23戸、岐阜県23戸、富山県21戸で北陸からの入植者が多い。他県は数名単位で入植。
(2)指導者としての士官達は、それまでの兵村で農事の経験を積み重ねており、適切な指導が出来た。

4 任務上の特色
(1)オホーツク正面の防衛と同地の開拓
(2)日露戦争
    出征  名、戦死者:5~6名

5 発展過程上の特色
(1)明治31年の大水害
   屯田兵の第2陣が入植した直後の明治31年9月7日、全道的に発生した大洪水に見舞われ、特に端野兵村1区の被害が甚大で、兵村のほとんどが水没した。
   その結果、1区兵村すべてを現在の高台に移転することとなった。
(2)明治34年に1区でハッカの栽培が試みられる。
(3)明治44年に池田~野付牛間、大正元年に野付牛~網走間に鉄道開通。
(4)農耕の成功から定着率が高く、家族、分家等を含めるとその数は相当なものとなった。
  その中から、他の職に転ずるもの、川向、緋牛内、常呂、留辺蘂へ移り住む者等が発生、また、それが、開拓民の移住熱に火をつけ、端野および周辺地域の発展に大きく寄与した。
(6)大正10年野付牛町から分村し端野村となる。
(6)昭和36年端野町となる。
(7)平成18年北見市に吸収合併。
(8)農耕の状況
ア 畑作
  入植初期には自活のため、燕麦、麦類、馬鈴薯、きび、そば等を栽培。
  日露戦役の終わった頃から、換金作物として菜豆、鋺豆、小手亡等の豆類を主作物とした。
イ ハッカ
  明治34年頃から試作が始まり、明治40年では北海道の作付面積が全国の80%を占め、その内の70から80%を北見・湧別が占める。大正期に入りその名を世界にとどろかせた。
  端野では明治34年10月、1区の寒河江直助が湧別から種根の分譲を受け2、3人に分
  けて新畑に植えたのが始まりで、反収が大きいこと、運搬が容易でかつ腐敗の心配がないということから一気に広まった。ハッカ景気に沸き屯田兵の定着と北見の発展に大きな貢献をした。
(薄荷成金、豆成金と言われた。)
ウ 稲作
  屯田兵が入植した上川、空知で既に稲作を行っていたことから強い関心があり、入植の翌年から試作が行われた。又、2代目大隊長の三輪光儀は水利条件や耕地の状況から水田の耕作が可能と考え、明治34年~5年にかけて大規模な灌漑溝掘削事業を展開した。
   日露戦争への出征で一時中断したが、兵村において稲作の自給体制が出来たのは大正4年頃からである。

★屯田兵の子弟達の進む道
  長男:跡取り
  次男・三男、その他:学校を出て兵村を出て行く。(屯田兵は向学心が高かった。親は次男、三男等を勉学に励ませた。端野村で高等教育を受けるものの殆どは屯田兵の子弟であったという。)
  姉妹:豪農へ嫁ぐ。(端野屯田兵の娘は引きてあまたであった。それは、他に比較し生活は豊かで躾が行き届いている等の理由から。)
    この話から推測されるのは、端野兵村の開拓は旨く進んだということ。屯田兵及びその家族は教養人の集まりであったこと。端野をリードする人材を輩出する土壌があったこと等である。

6 端野兵村関係の著名人

Ⅱ 端野兵村の伝統を伝える
○資料館等
「端野町立歴史民俗資料館」

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「屯田兵の肖像画」
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「屯田兵屋」
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○屯田兵関係の催し

○ゆかりの神社
「端野神社」
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○屯田兵が開いた学校
「端野小学校」
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○今に残る屯田兵の踏み跡
 「鎖塚」
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 中央道路(別名囚人道路、現国道39号線)の開削でなくなった囚人達を慰霊する碑で、この道路を開設するのに要した期間8ヶ月、距離225km(旭川~網走)、無くなった人の数212名
  
「開村祈念碑(屯田の杜公園)」
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「1中隊本部被服糧秣庫(現1区神社拝殿)」
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「端野水田発祥の碑」
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○屯田兵子孫の会の紹介
  子孫会はなし
直系子孫の数
1区:15戸/64戸入植
2区:11戸/70戸入植
3区:15戸/66戸入植


ルポ 大田兵村の今(平成23年)

2011-06-24 07:37:31 | 太田屯田兵村

<ルポ:現在の太田兵村(平成23年6月)>
 厚岸の町から標茶へ向かう道々14号線を5kmほど北上すると、S字カーブに差しかかり、その上り坂を越えると台地上に緑豊かな牧場が広がる。今は厚岸町の一部となっているがこの地に大田兵村があった。
 大田地区は屯田兵村時代の区割りが完璧に残り、その区割りの中に赤・青等に塗装した牛舎の屋根が目に付く。ところどころで放牧する牛の姿も眺めることができる。

 太田兵村は同じ3大隊の根室の和田兵村と共通する多くの条件を有している。
 入植した時期が近いこと、気象条件が近いこと、近世以来海上交通の要衝であり寛永年間には場所が開設されていたこと等である。
 春から秋にかけては海霧に覆われ農作物の生育が極めて悪く、両兵村とも血の滲むような開墾の苦労を味わったが、今は豊かな酪農地帯へと取って代わられている。
 今回訪問してみて、現在の和田と大田では少しだけ違いがあることを感じた。それは、和田は屯田兵子孫の方たちだけでその土地を守っているのに対し、大田は屯田兵子孫と戦後入植した開拓民の人達とともにこの土地を守っていることである。初めてこの地を訪ねたとき自治会長でもある屯田兵3世の方から「大田は屯田兵子孫会と言うものはなく、屯田兵だからと声高々に話すことはない」。といわれた。

 大田地区に住む屯田兵子孫の所帯はその家族の世帯数を含めると100軒近くを数えるという。その中で酪農を経営しているのは20軒近く。他は大田に居を構え酪農以外の仕事に就く人である。屯田兵子孫以外の酪農経営者も数名いる。そんな中、大田地区の自治会長に案内され特徴ある2軒の牧場を見学させてもらった。
 その一つは、ロボット搾乳機を導入し大規模に行っている牧場で、屯田兵4世の方が経営されていた。もう一軒の牧場は放牧飼育を行う小規模な牧場で、チーズ工房を持ち乳製品の製造・販売もおこなっていた。
 ロボット搾乳機を導入するということは、それに、見合った牛の飼育、牧草育成、土つくり等、それらを的確・効率的に行う必要がある。大規模経営を円滑に行えるのは基本をしっかり行っているからであると聞いた。
 乳製品の製造・販売を行っている牧場では、その販路は口コミであるといっていた。今流行のインターネット販売は行わず、電話とFAXだけのいたってレトロな方法で行っていると聞いた。

「市川牧場」
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「石沢牧場」
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  (チーズ工房)

 現在のスピードを重視する今の時代にそぐわないが、人と人の関係を大切にするアナログ人間。そんなところに、生き物を育てる酪農の仕事の原点があるのかも知れない。
 先に屯田兵3世の自治会長の「大田は屯田兵子孫会と言うものはなく、屯田兵だからと声高々に話すことはない」。の言葉を記したが、大田はしっかり屯田兵の伝統を継承している。2番通りには入植した当時のままの位置に屯田兵屋を保存し、入植当時植林した松や桑の木の保存に努め、各施設のあった場所には標柱を建て説明をしている。
 また、小学校ではふるさと教室と言う授業が、中学校では屯田ゼミナールという授業があり、屯田兵の歴史と伝統を伝えているといっていた。
 

 太陽が傾きかける頃に大田兵村を後にした。光線に反射する牧草が美しく、放牧されていた牛たちが牛舎付近に集まってきた。まさに牧歌的な風景である。
 牧場を経営すること、生き物を育てることであり、その苦労は大変であると思うが、この牧場の情景を眺めると損得では図れない何か暖かいものを感じた。

「牧場の風景」 

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大田兵村の紹介

2011-06-24 07:09:09 | 太田屯田兵村

< 工 事 中 >

「太田兵村」
入植年:明治23年
入植地:厚岸町太田地区

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「太田兵村入植配置図」「ohota1.pdf」をダウンロード

出身地:東北、北陸、中国を中心に9県
入植戸数:440戸

「北太田兵村入植者名簿」「kitaohota2.pdf」をダウンロード 

「南太田兵村入植者名簿」「minamiohota3.pdf」をダウンロード

第4大隊(1・2中隊:和田、3・4中隊太田)
 大隊長 初 代 和田正苗少佐:明治9年開拓使に出仕、西南戦争従軍、東京鎮台勤務の後、根室外9郡長拝命、明治23年から上川の大隊長
     第2代 小泉正保少佐:大隊長心得として就任、屯田兵副官として司令部転出、日清戦争で4大隊長に復帰、後に初代野付牛4大隊の大隊長
     第3代 栃内元吉少佐:永山武四郎本部長に同行し道内視察、後屯田司令部永山武四郎の腹心として活躍、和田では約5年間にわたって勤務し問題点を提起している。

移 動
 第1便
  便 船:石崎丸?
  航 路:坂井(福井)~新潟~酒田~厚岸
  入植日:6月26日
 

 第2便(宮城県入植の12戸)
  便 船:新潟丸(萩の浜~函館を結ぶ日本郵船の定期船)、
      駿河丸(寿都~函館~根室を結ぶ定期船)
  航 路:萩の浜(石巻)~函館~厚岸
  入植日:6月27日頃
 

 第3便
  便 船:和歌の浦丸
  航 路:神戸~岩国~坂井(福井県)函館~厚岸
  入植日:6月29日
  (以上、移動については釧路大学教授高島氏の論文を参照)

給与地 宅地兼給与地:約5,000坪
      1次追給地:5,000坪
      2次追求地:5,000坪

南大田兵村
第4大隊第3中隊~第1中隊
 中隊長:岩渕繁隆大尉
    (明治29年後備役まで務め、そのまま太田に残る。昭和5年82歳で他界) 

出身県別入植者数
 山形県  89
 新潟県  74
 石川県  57
    計 220名            

北大田兵村
 第4大隊第4中隊~2中隊
 中隊長:初 代:門田見陳秀大尉(明治26年12月休職)
      第2代:

出身県別入植者数
 山形県  11
 宮城県  12
 兵庫県  13
 石川県  48
 福井県  79
 山口県  37
 和歌山県 20
    計 220名

Ⅰ 太田兵村の特色
1 地理的特質
(1)厚岸湾から北方約5km上った根釧台地の南東端に位置する。根釧台地は阿寒山地から釧路、根室方向の太平洋岸に向かってのびており、台地内に無数河川が流れ、釧路川以外は小河川で台地を鋭く切り込んでいる。また、平地を流れる河川の周囲は湿地となっている。
(2)春から秋にかけては濃霧に包まれることが多く、気温(8月の最高平均気温20度)は上がらない。冬季積雪は少ないが気温は低い。
(3)太田の大地はアイヌの往来も寄せ付けない程の大森林で土壌はあまりよくなかった。
(4)厚岸湾内は穏やかな広大な内海である。また、牡蠣の養殖で有名な厚岸湖は厚岸湾に連接している。江戸末期、千島列島方面へ航海する場合の中継地として湊が栄え、漁業が盛んで厚岸場所があった。しかし、水深が浅く大型船の接岸が出来ず近代に入り港としては発展しなかった。
(5)標茶を起点に囚人が作った道路により釧路と結ばれており、以降、網走まで道路が開かれた。現在も釧網線が釧路~標茶~網走まで走っている。

「釧路集冶監本監(現標茶町郷土館)」

  

(6)大田村から標茶までは丘陵地が広がっており所々に牧場が存在する。この地一帯は大酪農地帯である。

2 時期的特色
(1)明治19年、明治15年の開拓使廃止から4年間続いた3県時代が終わり道庁時代に入る。同年、北海道土地払下規則公布。
(2)明治20年~21年にかけて屯田本部長である永山武四郎が米、露、清を視察その中でコサックの屯田兵制を研究。
(3)明治20年、永山武四郎本部長の下で、屯田兵制度の大々的な見直しと20個中隊増強計画を立ち上げる。
(4)明治21年標茶の集冶監の囚人達によって標茶~厚岸間40km及び標茶~釧路間の道路開削。明治22年~23年にかけて和田兵村の建設に当たる。
(5)明治19年~明治22年にかけて根室和田兵村入植。太田屯田兵とで4大隊を編成。
(6)明治23年、屯田兵条例(服役期間現役3年、予備役4年、後備役13年の20年となる)、屯田兵土地給与規則(給与地は1万5千坪となる)、その他関連規則の改正が行われる。
(7)太田屯田兵は滝川とともに最後の士族屯田兵。
(8)日清戦争を4年後に控え朝鮮半島では緊張が高まる。
(9)予備役として日清戦争に出征3月四日充員招集受け。和田屯田兵とともに3月23日厚岸港を出航。5月30日帰村。
(10)明治30年後備役に入る。

3 入植者の特色
(1)3中隊(南兵村)は山形、新潟、石川の3県、4中隊(北兵村)は東方、北陸、近畿、中国にまたがり7県からの入植。
(2)南・北の兵村で入植者に特徴があり、南兵村では藩まとまって、北兵村では多くの藩が少人数で入植している。南兵村には米沢藩、高田藩、村上藩、大聖寺藩、新庄藩(新庄藩は南北兵村に分けて)が入植。
(3)南兵村3中隊には米沢藩上杉家の重鎮である本庄家、柿崎家が入植。

4 任務上の特色
(1)重要港(厚岸港)の防衛と千島からの脅威への備え
(2)日露戦争出征
   大田村から184名出征、戦死37名(内17名は戸主)

5 発展過程上の特色
(1) 太田への屯田兵入植は地域の住民の嘆願があって実現された。
   
   「厚岸方面へ屯田兵御配置相成度儀ニ付願」(明治18年4月2日)
                 宛 県令 湯地定基

(2)夏の海霧と低温で作物が育たず。開墾は困難を極める。
   開墾状況:10年経過した開墾状況29%、最も良いのが永山兵村で94%

   (一戸当たりの平均年収)
     新琴似:188円
     永 山:185円
     太 田: 63円(新琴似、永山の1/3)
     和 田: 56円

(3)自給自足が困難なことから、現金収入の獲得のため積極的に出稼ぎに出る。6月から8月にかけての鰊業には厚岸の漁場(厚岸、奔渡、真龍、苫多、仙鳳趾等)に、その他、集治監の監視人、亜麻の職工等へ転職するもの多数。
(4)入植者の大部分が離村し村は荒廃
   明治31年(入植8年後、後備役に)時点で半数近くが離村。日露戦争はさらに拍車をかけ、給与地は荒廃し、第2給与地は顧みられることはなく、作付けされている耕地は兵屋の周りの3~4反という有様で馬鈴薯、麦、蕎麦、稲黍、燕麦等自家用の食料を補う程度になってしまう。給与地を没収された者29戸(南兵村5名、北兵村24名)なお、和田兵村64戸、輪西20戸と農耕に適さぬ地に配置させられた兵村で没収多数。
(5)その後、残った者と新に入植した人達の手によって馬産~酪農に活路を見いだす。
(6)農耕の状況
  ア 畑作
    粟、燕麦、豆類等17種類の作付けをするも、地域の気象等条件に応ずるか否か不明で多くは失敗に終わる。
  イ 養蚕
    明治26頃、自生していた桑をえさに養蚕を始め、明治政府の奨励もあり年々盛んとなり一時期1200本以上を植え付ける農家20戸を数えたが、森林の伐採などで海霧の発生のため成育不良となり衰退して行った。5番通に残る桑並木は養蚕を試みた名残。
  ウ 稲作
    試みはあったが、不成功。 
  エ 酪農
   「馬産地としての太田」
    明治23年入植とともに、軍馬、農耕馬として根室から30頭の馬を導入。その後、新冠の御料牧場、明治35年には真駒内の種畜場から種牡馬を買い入れるなど馬の改良と繁殖を行う。大正2年には道東の重要な馬産地として釧路の大楽毛とともにその名をはせる。
   「肉牛から乳牛へ」
    明治24年、青森県から6頭の牡牛を購入し繁殖を図る。当時苦しい農業の傍らに肉牛を飼育。大正8年北海道乳製品株式会社が5番通りに進出し集乳事業を開始するも販売不振。昭和10年代に入り乳価の高騰により肉牛から乳牛への転換が図られる。これが、現在の太田の酪農につながっている。
(7)太田村の合併
   1955年(昭和30年)大田村は分村し厚岸町と標茶町と合併

6 太田屯田兵関係の著名人
  太田紋助:弘化3年(1846年)厚岸場所の請負人山田文衛門の番人であった南部出身の中西紋太郎とアイヌ女性の子として生まれる。8歳の時から国泰寺で下働をし、当時の住職から読み、書き、そろばんと農業のことについて学ぶ。明治2年、佐賀藩が厚岸郡を支配した祭、開墾係りとなりアイヌの人達を誘導しこの地方の開墾に尽力。熱心さを買われ開拓使になってからも牧畜取扱係に任ぜられる。屯田兵設置に関しての働き他数々の功績を認められ兵村に太田の名がつけられる。
        
  
  庄田萬里:高田藩出身の庄田直道の3男。戸主稲美とともに太田に入村。後に、札幌農学校を卒業し湧別兵村の看護卒として勤務。住民の湧別に医師をとの希望をかなえるため、東京慈恵医学校に学び、明治37年医術開業試験に合格。大阪の病院で臨床実習を努め湧別に帰り生涯この地で医療に尽くす。

Ⅱ 太田兵村の伝統を伝える

  (太田兵村の史跡等配置図)

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○資料館等
「太田屯田開拓記念館」
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○屯田兵関係の催し

○ゆかりの神社
「豊受神社」

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○屯田兵ゆかりの学校
「太田小学校」

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○太田兵村の文化財等

「開村の碑」

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「屯田兵屋(道指定)」

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  兵屋番号119番松本英男氏宅に復元「裏返し型」により立てられている。

「太田屯田の赤松(町指定)」

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  第3中隊長の岩渕大尉が寒さ厳しいこの地方で開墾を行う屯田兵や華族の人達の心
  を少しでも慰めようと郷里の青森から苗を取り寄せ植え付ける。

「太田屯田の桑並木(町指定)」

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「西野家行のう帳(町指定)」

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「太田紋助の墓」  

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「中隊本部の碑」

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本庄家古文書:
 本庄家は米沢藩(上杉家)の重鎮で、本庄孝長が太田屯田兵として入植、南北朝期から戦国期の多数の文書を持参(道庁赤レンガ文書館に本庄家文書として多数保管)

西野家行長嚢帳(厚岸町有形文化財):
 西野嘉太郎の屯田兵志願から郷里の新庄を旅立ち、太田への移住、屯田兵としての生活などを絵日記風に綴ったもので、嘉太郎の弟、要三郎が往時を追想して記したもので、太田屯田開拓記念館において所蔵。

○屯田兵子孫の会の紹介
 なし。
 屯田兵子孫と大田村に移り住んだ人たちにより伝統の継承活動を行っている。


ルポ 和田兵村の今(平成23年)

2011-06-24 05:46:28 | 和田屯田兵村

<ルポ:和田兵村の現在(平成23年6月)>
 

 平成22年9月、この地を訪ねたとき、「現在も17戸の屯田兵子孫が和田の地を守り酪農を営んでいる」。と聞いた。屯田兵37個兵村。道内26箇所に入植地があるが、このような例は他にない。
 それは、何故なのかと関心を持ち翌平成23年6月に再度訪した。
 根室半島は春から秋にかけて海霧に覆われる。しかし、訪問した3日間は、初日こそ海霧に覆われたものの、残りの2日間は青空が拝め、われの訪問を歓迎しているかの様であった。

 そんな中、屯田兵子孫の方が経営する3軒の牧場を訪問し酪農の実態を確認した。
 それぞれの牧場で飼育の仕方が違っていた。一軒の牧場は300頭の乳牛と、30頭の肉牛、20頭の羊、3頭の馬を飼育し、ロボット搾乳を行っている牧場で和田一番の大規模経営を行っている。次の一軒は、第8回全日本ホルスタイン共進会の大会で、時の農林水産大臣から優等賞を受賞する等数々の優良牛を産出している牧場で、牛にとっては勿論、飼育する人にも優しい環境を追及していた。
 最後の一軒は、3年前の平成20年に牧畜の最先進国であるデンマークの酪農を研修。それらで得た最新の飼育法を参考に、より効率的な飼育を追求していた。
 経営者等の皆さんから一言コメントを頂いたが、皆さん酪農に対する情熱には並々ならないものがあり、和田の地に対する郷土愛、祖先を敬う気持を強く持たれていた。
 そんな中、一人の方が言われた「酪農とは農業の芸術である」。という言葉に皆さんの思いが代弁されているように感じた。

「松浦牧場」
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「矢部牧場」
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「佐々木牧場」
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 酪農は土を育て飼料を生産し、牛を飼育する。牛のし尿から堆肥を作り、土を育てる。この循環の繰り返しであるが、それらの一つでも欠落していたら健康で沢山の乳を出す牛は育たない。  
 それと、経営とは戦いでもある。「より能率的に」、「より高品質」、「より多く」、「より良い環境に」務めなければ生き残れない。酪農は数千万円から億円単位の大資本の投入が必要であり、そのためには日進月歩で進む技術を追い求め、先を読まなければならない。そんなことを現場から感じ取った。
 それぞれの牧場を経営するのは屯田兵4世の方が中心で、5世の方々も跡継ぎとして酪農経営を目指している姿を見て心強いものを感じた。
 和田の地を守るのは彼らの力であり、彼らの背中を押したのは父の姿であり、その父の背中を押したのは祖父の背中であり、突き詰めれば、和田屯田兵として入植した440戸2208名の入植者の血と汗の結晶である。120数年前に入植した彼ら屯田兵の伝統が生きているのだ。
 
 和田屯田兵はその厳しい環境(気象、土地等)のため、他の兵村に類を見ないほど苦労を重ねたと言われている。兵役満了。日露戦争からの凱旋。明治40年頃にはその名を残すのみで殆ど離散してしまった。このことは、見方を変えれば二つのことが言える。その一つは、畑作から酪農へ変換することによって20戸程度の戸数しかこの地の農業経営者は必要なかったということ。もう一つは、根室地方には任期を終えた屯田兵達の受け皿があった事ことある。3県時代を終えた明治19年の根室には20数箇所の国・道の支所があったという、任期を満了した屯田兵達は公職に奉じる官員として、教育者として、または、出面取りとも言われたが、漁業、運送業の労働力として吸収されていった。
 
 当時の畜産業には販路が少なく、必ずしも順調な経営ではなかったが、その窮乏を救ったのが軍馬と言う馬に対する需要である。和田は軍馬の一大産地として発展する。酪農が軌道に乗るのは大東亜戦争の後のことである。
 官員、教育者等に奉じた元屯田兵、その子孫の中から、根室を牽引する人物が育ち、畜産に携わる屯田兵達を行政と言う面から支援したことも大きな要因である。先にも述べたが酪農経営には膨大な資金が必要で、国からの補助は欠かせない。それらの道筋をつけたのは屯田兵あがりの官員たちの力でもあった。
 幾度か危機がおとづれた。その最大のものは戦後の農地解放で、土地を手放なさなければならないという危機に直面したが、分家に分配するという方法で旨く切り抜けた。
 17戸の子孫の方がこの地を守り通せた訳は、そんな、みんなでこの地を守ろうという強い郷土愛に他ならない。

 屯田兵の入植から120年余りの年月が経過し、不毛の地とも言われた和田の地は緑豊かな牧草地へと変化した。しかし、厳しい気象条件と、ロシアと国境を接す防衛の最前線である事には変わりない。そんな厳しい条件下で営々と土地を守り、牛を育てるのが和田屯田兵子孫の方々である。
 牧場を廃業したある老婦人が「牛と分かれるのは寂しいことですよ」と涙目で話された。
 和田の人達はこの地と牛たちをそれほどまでに愛し続けている。
「島牧場」
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「海星小中学校の校歌」
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 和田兵村を去る日の朝、落石と昆布盛まで足を伸ばした。この地は、屯田兵達が出面取りで昆布取等の漁業、馬での運送業などを行っていた場所である。
 港ではあわただしく出漁準備をする人々の姿があった。
 「落石の風景」
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 「昆布盛の風景」
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 「屯田兵被服庫 改修された柱」
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  「お世話になった エクハシの宿」
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