< 工 事 中 >
「野付牛兵村」
入植年:明治30、31年
入植地:北見市春光町(1区)、泉町(2区)、屯田東・西町(3区)、三輪(4区)
「野付牛兵村入植配置図」「notsukeusi1.pdf」をダウンロード
出身地:31府県
入植戸数:198戸
「野付牛兵村入植者名簿」「notusukeusi2.pdf」をダウンロード
屯田歩兵第4大隊(1中隊:端野、2中隊:野付牛、3中隊:相内、4・5中隊:湧別で編成)
大隊長:初 代 小泉正保少佐(和田・太田の4大隊長から赴任)
第2代 三輪光儀少佐(元当麻兵村の中隊長 水稲の将来性を見込む)
第3代 徳江重隆少佐
明治30年の入植
第1便 武陽丸(6月2日網走港着)
移 動:武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
第2便 武陽丸
移 動: 武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
第3便 武州丸(6月6日網走港)
移 動: 七尾~新潟~青森~小樽~網走
入植日:6月7日
明治31年の入植
第1便 東都丸
移 動: 門司~大分~三津ヶ浜(愛媛)~尾道~神戸~四日市~館山~萩浜(宮城)~網走
第2便 東都丸(9月 網走港到着)
移 動: 敦賀~七尾~新潟~酒田~網走
給与地:琴似兵村以来の密居性を取る。中隊を4区(38戸~68戸)に区分し、各区は半密居性にした。同年に入植した端野、相ノ内、湧別もこの方法を取った。耕地とも言うべき給余地は第1次給与地として幅30間、奥行60間(1,800坪基準)、追給地は兵村の回りに約13,000坪割り当てられた。
第4大隊第2中隊
中隊長:初 代 喜多鑑治大尉
第2代
第3代
野付牛兵村出身県別入植者数
青森県 1
秋田県 1
宮城県 5
福島県 7
栃木県 1
山形県 23
新潟県 3
富山県 21
埼玉県 1
福井県 14
石川県 29
岐阜県 22
愛知県 6
三重県 4
奈良県 2
和歌山県 6
兵庫県 1
滋賀県 1
京都府 1
島根県 2
鳥取県 4
広島県 3
山口県 1
香川県 2
徳島県 2
高知県 7
愛媛県 3
熊本県 3
大分県 1
佐賀県 12
福岡県 9
計 31県 198名
Ⅰ 野付牛兵村の特色
野付牛とは「ヌプウンケシコタン」、野の端にあるの意味
1 地理的特質
(1) 常呂川沿いに細長く開けた北見盆地の中心で、常呂川とその支流である無加川、訓子府川等が集まる肥沃な地。常呂川は端野の隘路を流れオホーツク海へ注ぐ。
(2) 中野付牛(現北見の中心地)は、常呂川の支流が集まる地で、西北方が台地上の地形を形成しており、この地域の政経中枢を担う地形上の要素を満たしている。
(3) 北見盆地の気候は寒暖の差が激しく夏は温暖(平成10年8月6日37.1度を記録)、冬の寒さは厳しい。また、年間の日照時間が長いく、冬の降雪量も含め年間の降水量は少ない。
(4) 常呂川は護岸工事を行うまでは度々氾濫し暴れ川の別名をもつ。流域は肥沃な土地で作物の栽培には適する。
(5) オホーツク防衛の要点(現在自衛隊は美幌に部隊を配置している)。その際、中央道路は部隊の機動、兵站線として価値。
2 時期的特色
(1)明治24年、網走監獄の囚人達の労働によって上川から網走まで延びる中央道路が開通
(2) 明治29年、第7師団創設、屯田司令部廃止
(3)明治30年「北海道国有未開地処分法」が公布。
(北海道土地払下規則を廃し,「無償貸し付け・成功後無償付与」の「北海道国有未開地処分法」が公布され,1人当たりの貸し付け面積の上限(一人に付き開墾の土地は150万坪、牧畜には250万坪、植樹には200万坪、会社や組合には2倍まで)が大幅に引き上げられた。屯田兵の入植後、多数の団体が入植した。
(4)屯田兵が入植する一ヶ月前の30年5月に高知県の北光社移民が入植した。
(5)日清戦争勝利の翌年に野付牛兵村が配置された。
(6)明治31年北海道全域に徴兵令が施行。
(7)明治32年旭川の鷹栖に第7師団設置を決定、明治33年~35年にかけて七師団旭川に移駐
(8)明治34年北海道会法、北海道地方費法公布に伴うところの屯田兵給与地に対する課税問題が持ち上がり明治35年北海道屯田倶楽部結成される。
(9)各地で米の生産が開始され一部商品価値化
(10)明治36年屯田兵現役解除(兵役5年)、第4大隊本部も解散
(11)明治37年屯田兵条例廃止。日露戦争勃発。
3 入植者の特色
(1)全国の31県からの入植で、同時期に入植した端野、相内兵村と同一地域。石川県が29戸と一番多く、山形県23戸、岐阜県22戸、富山県21戸で北陸・東北からの入植者が多い他は数名単位で入植
(2)指導者としての士官達は、それまでの兵村で農事の経験を積み重ねていた。
4 任務上の特色
(1)オホーツク正面の防衛と同地の開拓
(2)日露戦争出征
名出征 戦死者 名
5 発展過程上の特色
(1)中央道路が開通する前の北見圏は陸の孤島の感があり、当時の物流は函館あるいは小樽から北は稚内を回り、東は根室を回りで回漕するという回路のみが唯一の輸送手段であった。冬流氷により阻まれた時には食料、燃料にも事欠く事態が起こった。
(2)明治24年の永山屯田兵の入植から6年、開拓も軌道にのりだした。中央道路の開通により旭川からの連絡が可能になるとともに、網走港を起点とし、同港から約50kmの野付牛まで物資の輸送が可能となった。また、網走には網走監獄が開設されており人・物の集積が図られていた。
(3)野付牛には明治30年6月の屯田への入植に先立ち、高知県人の団体「北光社」の移民(主催者の中に坂本龍馬の甥にあたる坂本直寛がいる)112戸が5月から訓子府に入植し北光社農場を開設した。
(4)和田、太田で4大隊長を経験した小泉少佐、その後、明治31年9月当麻で中隊長を経験した三輪少佐が大隊長として勤務し、的確な営農指導の元に北見の風土にあう適作農業を推し進め、北見農業発展につながる礎を築いた。
(5)全道的に大被害をもたらした明治31年9月7日の大水害に遭遇、特に第1中隊の端野は大被害を被った。常呂川沿いの農地で水没するところ多数。9月10日野付牛中央尋常小学校(現西小学校の前身)が開校。
(6)適作作物の生産
ア 畑作
入植初期には燕麦、麦類、馬鈴薯、きび、そば。日露戦役の終わった頃から換金作物として菜豆、鋺豆、小手亡等の豆類を主作物とした。
イ ハッカ
明治34年頃から試作が始まり、明治40年の作付面積は全国の80%を占め、その70から80%を北見・湧別が占める。大正期に入りその名を世界にとどろかせた。大正から昭和にかけて一時期世界の生産の7割を占めていた時もあった。ハッカ景気に沸き屯田兵の定着と北見の発展に大きな貢献をした。
★ 屯田兵は当時の金で2000円もする土蔵の「倉」を建てたという話がある。
ウ 稲作
上川、空知で既に稲作を行っていたことから強い関心があり、明治33年寺前彦太郎、寺西政吉等が発起人となり無加川水利組合を設立し稲作の試作が行われた。2代目の大隊長大隊長の三輪光儀は水利条件や耕地の状況から水田の耕作が可能と考え、明治34年~5年にかけて大規模な灌漑溝掘削事業を展開した。日露戦争への出征で一時中断したが、兵村において米の自給の体制が出来たのは大正4年頃からである。
(7)明治42年2級町村制が施行され野付牛村となる。
(8)明治44年池田~野付牛間に、大正元年に野付牛~網走間に鉄道開通。人・物の集積が行われ、北見は野付牛の中枢として発展していった。
(9)農耕の成功から定着率が高く、家族、分家等を含めるとその数は相当なものとなった。川向、緋牛内、常呂、留辺蘂へ移り住む者により地域の発展につながった。それが、開拓民の移住熱に火をつけ北見の発展に大きく寄与。
(10)大正5年町制が施行され野付牛町となる。
(11)大正10年端野村、相内村を分村。
当時の人口
野付牛:21,620人
端 野: 4,764人
相 内: 3,768人
(12)昭和17年市制が施行され北見市となる。
(13)昭和31年9月30月相内村を吸収合併、平成18年3月5日端野町を吸収合併
(14)野付牛の行政の中心を担ったのは元屯田兵であり、屯田兵の子孫である。
明治の末までは、約80%近くが屯田兵関係者、その後町の発展とともに減少するが、屯田兵の役割は大きかった。
(15)北見屯田兵の定着率は高い。
昭和11年で、2中隊(野付牛)62.53%、4中隊(端野)55.5%、5中隊(湧別上兵村)43.2%
6 野付牛屯田兵関係の著名人
居串佳一(屯田兵2世):オホーツクの自然をテーマとして書き続けた画家
Ⅱ 野付牛兵村の伝統を伝える
○資料館等
「北網圏北見文化センター」
「屯田兵屋(北網圏北見文化センター内)」
○屯田兵関係の催し
○ゆかりの神社
「北見神社」
「三輪神社」
「屯田神社」
○屯田兵が開いた学校
「西小学校」
○今に残る屯田兵の踏み跡
「屯田兵人形(信善光寺)」:
大正12年、当時の住職であった加藤氏の母信静尼が名古屋のからくり人形師6代目玉屋庄兵衛氏経営の玉正商会を訪ねて「屯田兵とは厳寒に地でただお国のためにと大変苦労をされ亡くなった。その霊を供養し慰めるのが務めだ」といって発注。「屯田兵人形」は顔は桐材、胴体と鉄砲、台座は椹材を使用し、胴対は肩からつま先まで丸彫りし、帽子は和紙15枚を米を使った糊で重ね合わせ塗料は牡蠣の貝殻と膠を混ぜ合わせた。製作したのは名古屋の人形師木場堅治と師匠の荒川宗太郎氏
「信善光寺」
「大隊本部の碑」
「大隊本部営門柱」(屯田公園内)
「屯田兵上陸の碑(網走ポンモイ)」
平4四年4月17日、屯田兵上陸の地(網走市国道244号線沿いのポンモイ海岸)に北見屯田会、端野屯田会、相ノ内屯田会の共同事業として上陸記念碑が建立された。経費は屯田兵子孫家族からの寄付をもって充てられた。
記念碑の高さ3.5m、幅2.9m、白と黒の御影石を使用。(関連記事30号)
「北光社開拓(記念広場)」
○屯田兵子孫の会の紹介
「北見屯田会」
目 的:北見市屯田兵の開拓功績を永く讃えるとともに会員相互の親睦を図るものとする。
発足の経緯:昭和10年以前に屯田兵の有志が集まり会を設立、故人の慰霊祭と屯田兵相互の親睦を目的に活動を行っていた。昭和24年になり屯田兵諸氏も高齢となり2世が跡を継ぐことになり2世会と名を改めた。昭和56年2世ばかりでなく広く3世も含めた会として発展
活動内容:1回/3年の屯田兵上陸の地ポンモイで祖先をしのぶ行事
毎年屯田神社で総会及び懇親行事
屯田兵子孫会員及び家族を含めた懇親行事
過去に行った活動:西小学校移転改築時の記念植樹
東陵運動公園の植樹
屯田墓地の緑ヶ丘霊園移転敷地料の負担
北見屯田太鼓購入時の寄付
昭和56年(85周年)記念事業のひとつ馬堀画伯の肖像画制作協力
屯田兵上陸の地(網走ポンモイ)に記念碑建立事業に協力
会 員:3世を中心に116名