屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ:篠津兵村の今(平成23年)

2011-11-29 13:37:00 | 江別・篠津屯田兵村

<ルポ:現在の篠津兵村(平成23年11月)>

  江別の市街地から石狩川を渡り、対岸の篠津に入ると風景が一変する。そこは、水田と麦畑が広がり、牛舎の姿も見える。ここにあるのが、江別屯田兵中隊の一部60戸が入植した篠津兵村である。

「篠津兵村史跡地図」

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 篠津兵村には、他の兵村にない幾つかの特色がある。
  その一つは、今、記した通り石狩川を挟み中隊が二分されていること。これは、当初、1個中隊220戸を篠津地区に配置しようとしたのだが、度重なる水害のため60戸の入植で中止したことにより生じた。その二は養蚕立村を追求したこと。屯田事務局(明治14年までの呼称)では屯田兵及び家族授産のため換金作物として養蚕を奨励した。そして、篠津兵村はその試験的な役割を担った。その三は60戸の小さな兵村であるが、入植地がさらに2個地域に区分され、入植時期が違い、入植者の出身県も違うことなどである。
  これらの特色が、その後の発展の過程で色々な事象となって現れ、現在に受け継がれている。
 
 「篠津の風景」
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 「40戸兵村の今」

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 「煉瓦作りの牛舎」

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 篠津兵村の事を調べて行く中で篠津兵村は江別兵村の一部、分村ではなく、独立した一個の兵村であると思うようになってきた。中隊が二分された例として、琴似兵村と、その分村発寒兵村があるが、こちらの方は、琴似発寒川を挟み別れて入植しているものの、同一の発展過程を踏んでおり、関係は密で同一の兵村と捉えて差し支えない。
  江別屯田兵遺族会会長のT氏にお話しを聞く機会があったので、このことについて質問してみた。
 指摘のとおりその気風は強いと話された。明治11年、江別屯田兵の第一陣10戸が入植した時に札幌郡江別村が誕生したのに対し、篠津村は石狩郡に属していた。江別村と篠津村が一緒になったのは明治39年で、江別村、篠津村、対雁村が集まって江別町となった時からである。
  そんなことから江別屯田兵の遺族会も別々に作られ、開村記念行事も江別、篠津で別々に行われているという。現在、江別、篠津兵村間での交流は殆ど無く、逆に江別屯田兵遺族会と野幌屯田兵遺族会間での交流の方が深いともいう。
 石狩川に分断され、土地の条件も違うことから、同じ中隊であるにもかかわらず篠津、江別兵村それぞれが別個に発展したことが分かった。
 
 二つ目の特徴である「養蚕立村」を追求したことであるが。
 篠津屯田兵の第一陣として明治14年に入植した場所は、明治8年、開拓使が養蚕所を設置した場所で、琴似、山鼻屯田兵の家族の人達を旧豊平川の川船で行き来させ、養蚕の仕事に従事させていた。

 「篠津太養蚕室跡碑」

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 そもそも、篠津の地に屯田兵を入植させようとしたのは、この地に天然の桑の木が自生していることから篠津で養蚕事業を展開・発展させ、三年間の扶助期間満了後の屯田兵及び家族の生活を安定させることにより、この地への定着ねらったものと思われる。
  そのため、明治14年、最初に入植した19戸の屯田兵は士族であるとの条件を外し、青森、盛岡、酒田の養蚕経験者を入植させる等慎重な配慮を行った。

  11月下旬、江別市在住酪農学園大学のK先生と申し合わせ、屯田兵子孫のNさん宅を訪問した。
  この方は3世で、お爺さんである屯田兵が入植した当時と同じ場所に住んでおられた。若い頃は学業のため小樽で過ごされ、現役兵として召集、復員後地元に戻り、鉄道マンとして勤務したというサラリーマンであったが、小さい頃に過ごした篠津の状況を鮮明に憶えられていた。
 
 「Nさん宅近くにある兵村のバス停」

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 「20戸兵村の今」

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  養蚕はどうでしたかと聞いたところ、「成功しなかった。篠津川流域の地では、牛・馬を数頭飼い、畑作を主体に営農を行った」と言っていた。米の栽培は昭和に入ってからで、40戸が入植した篠津川の右岸から当別寄りの地区から始まったそうだ。やはり、石狩川から離れるに従い土質は泥炭質となり、土地改良を進めなければ畑作農地として適さなかったのだろう。
  Nさん宅の向かえに住んでいたのが、名越源五郎(青森県出身の元会津藩士、入植時伍長)で屯田兵7337名の中で指より数えられるほどに有名な人物である。後に陸軍将校となり、室蘭、永山、一已、和田、北見、士別の屯田兵村で指導的役割を担う。陸軍歩兵少佐で退役、初代江別町長に就任。屯田兵の字引といえる人材であり、篠津屯田兵の生みの親、育ての親でもある。分家の子孫の方は現在も近くに住まわれている。

  三つ目の特徴である入植地がさらに2個地域に区分され、入植時期が違い、入植者の出身県も違うことであるが。
  これは良い面と悪い面が結果となって表れた。
  まず、良い面であるが、20戸と40戸が分置されたことにより、兵村の廻りに10,000坪(明治23年の給与地規則の改正で15,000坪となる)の給与地の配当を受ける事が出来たことで、これは、農作業を行う上で大変有利であった。この成果は、明治30年、31年に入植した野付牛、湧別屯田兵に生かされ、当該兵村では中隊を3個~4個単位に区分し、各区約60~70戸ずつ入植させ給与地を宅地の近くに配当された。これらの兵村での定着率は高い。
  それに対し悪い面であるが、最初に入植した屯田兵は東北の人達で、後に入植した人達は九州、四国、中国地方出身者。入植した場所が分離していたことから言語の問題が長きにわたりつきまとったようである。他の屯田兵村でも言葉が通じなかったという記録が残っているが、篠津兵村に関してはその中でも特に酷かったのではないだろうか。

 篠津は今なお入植当時の面影が所々に残る。
 石狩川流域に入植した兵村の位置をながめていて気づくことがある。札幌、江別、美唄、滝川、上川の屯田兵はすべて石狩川左岸に入植していることで。石狩川右岸に入植した兵村は雨竜屯田兵の一已、納内、秩父別と篠津の外をおいてない。これが意味するところは、石狩川右岸に農耕地に適する土地が少なかったことである。上川道路(現12号線)と函館本線が走る石狩川左岸沿の地域が農業と商工業複合都市として発展したのを尻目に、当別、篠津、月形、浦臼、新十津川、雨竜と続く石狩川右岸沿いは農作物の生産拠点としてのみ発展した。
 そのため、これらの地域では、殖民区画が明瞭に残り、篠津兵村のあった場所は、今でも入植当時の面影を残している。

 「旧石狩川」

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 「篠津川」

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 「町村農場」

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 子孫のN氏と話しをしている中で、昭和30年頃、兵屋のあった付近をプラウで掘り起こしていたところ、煉瓦の破片が見つかったという話題に移った。この煉瓦の破片は、ロシア風の兵屋に設置してあったペチカの残骸に違いない。当時、価値のあるものとは思わず破棄してしまい何処に行ったか分からないと言われた。
 この言葉に、同行した酪農学園大学のK先生の目の色は変わった。何とか探し当てることが出来ないものかと色々訪ねられた。もし発見されれば貴重な資料として江別市セラミックアートセンターに展示されるのにと言われた。K先生の探求心に火がついたように見えた。
 明治12年、樺太のコルサコフ(大泊)の視察から帰国した永山武四郎(当時の屯田事務局長)が自生していた桑樹の林をみてこの地に養蚕の拠点を作ろうとし、ロシアのコサックの住居を参考にログハウス風の兵屋を建築した。しかし、残念かな、養蚕事業は成功せず、ログハウスも腐蝕したため10数年で撤去され和式の兵屋に建て替えられた。
 夢ははかなく潰え、江別屯田兵が試験的に行った西洋式農業が篠津に定着し、現在に受け継がれている。

 「ログハウス風の兵屋」

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 「養蚕場の建物」

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