屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

端野兵村の紹介

2011-06-27 18:22:36 | 端野屯田兵村

< 工 事 中 >

「端野兵村」
部隊名:第4大隊第1中隊
入植年:明治30、31年
入植地:端野町1区、2区、3区
Photo

「端野兵村入植配置図」「tanno1.pdf」をダウンロード

出身地:30府県
入植戸数:200戸

「端野兵村入植者名簿」「tanno2.pdf」をダウンロード

屯田歩兵第4大隊(1中隊:端野、2中隊:野付牛、3中隊:相内、4・5中隊:湧別で編成)
    大隊長:初 代 小泉正保少佐(和田・太田の4大隊長から赴任)
      第2代 三輪光儀少佐(元当麻兵村の中隊長 水稲の将来性を見込む)
      第3代 徳江重隆少佐

明治30年の入植(最終6月7日)
   第1便
    便 船:武陽丸(6月2日網走港着)
    航 路:武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
    移 動: 網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
   第2便 
    便 船:武陽丸
    航 路: 武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
    移 動:    網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
   第3便 
    便 船:武州丸(6月6日網走港着)
    航 路 七尾~新潟~青森~小樽~網走

明治31年の入植    
    第1便
     便 船:東都丸
     航 路: 門司~大分~三津ヶ浜(愛媛)~尾道~神戸~四日市~館山~萩浜(宮城)~網走
    第2便 
     便 船:東都丸(9月)
     航 路:敦賀~七尾~新潟~酒田~網走

給与地 
  琴似兵村以来の密居性を取る。中隊を60~70戸の3区に区分し、各区は半密居性にした。
  第1次給与地 幅30間、奥行60間(1,800坪基準)
  追給地は約13,000坪割り当てられた。

第4大隊第1中隊
 中隊長:初 代 浜田高三大尉
     第2代 鈴木次郎大尉

端野兵村出身県別入植者数
山形県  12
宮城県   4
青森県   1
秋田県   1
福島県   9
愛知県  10
富山県  21
千葉県   1
新潟県   3
茨城県   1
埼玉県   1
三重県   4
福井県  23
石川県  33
岐阜県  23
鳥取県   5
兵庫県   2
奈良県   2
島根県   2
滋賀県   2
広島県   2
和歌山県  6
山口県   1
香川県   2
愛媛県   2
高知県   1
熊本県   2
徳島県   5
佐賀県  11
福岡県   7
大分県   1
 計 31県 200名

 
Ⅰ 端野兵村の特色
1 地理的特出
(1) 常呂川沿いに細長く開けた北見盆地の東北端。
(2) 端野は北見盆地に注ぐ各河川が北見付近で常呂川に集約されて、仁頃丘陵の隘路を常呂へ流れる入口。いわゆる川下に位置し、常呂川流域一帯で大雨が降る度に氾濫した歴史を持つ。反面、この地域は肥沃で作物の栽培には適する。
(3) 気候は北見盆地とオホーツク海洋性の気候の両方を持ち夏は温暖、冬の寒さは厳しい。
(4) オホーツク正面防衛の要点で、野付牛を主戦とする場合に前衛となる地。

2 時期的特色
(1)明治24年、網走監獄の囚人達の労働によって上川から網走まで延びる中央道路が開通。
(2)明治25年、端野屯田兵2区の地に端野2号駅逓開設。
(3)明治29年、第7師団創設、屯田司令部廃止。
(4)明治30年「北海道国有未開地処分法」が公布。
  (北海道土地払下規則を廃し,「無償貸し付け・成功後無償付与」の「北海道国有未開地処分法」が公布され、土地貸し付け面積の上限(一人に付き開墾の土地は150万坪、牧畜には250万坪、植樹には200万坪、会社や組合には2倍まで)が大幅に引き上げられた。
   屯田兵の入植後、多数の団体が入植した。
(5)日清戦争終結、その勝利の翌年に端野兵村は配置された。
(6)明治31年北海道全域に徴兵令が施行。
(7)明治32年旭川の鷹栖に第7師団設置を決定、明治33年~35年にかけて七師団が旭川に移駐。
(8)明治34年北海道会法、北海道地方費法公布に伴うところの屯田兵給与地に対する課税問題が持ち上がり、明治35年北海道屯田倶楽部結成される。
(9)各地で米の生産が開始され一部商品価値化。
(10)明治36年屯田兵現役解除、第4大隊本部も解散。
(11)明治37年屯田兵条例廃止。日露戦争勃発。

3 入植者の特色
(1)全国の31県からの入植で、同時期に入植した野付牛、相内兵村と同一地域。石川県が33戸と一番多く、福井県23戸、岐阜県23戸、富山県21戸で北陸からの入植者が多い。他県は数名単位で入植。
(2)指導者としての士官達は、それまでの兵村で農事の経験を積み重ねており、適切な指導が出来た。

4 任務上の特色
(1)オホーツク正面の防衛と同地の開拓
(2)日露戦争
    出征  名、戦死者:5~6名

5 発展過程上の特色
(1)明治31年の大水害
   屯田兵の第2陣が入植した直後の明治31年9月7日、全道的に発生した大洪水に見舞われ、特に端野兵村1区の被害が甚大で、兵村のほとんどが水没した。
   その結果、1区兵村すべてを現在の高台に移転することとなった。
(2)明治34年に1区でハッカの栽培が試みられる。
(3)明治44年に池田~野付牛間、大正元年に野付牛~網走間に鉄道開通。
(4)農耕の成功から定着率が高く、家族、分家等を含めるとその数は相当なものとなった。
  その中から、他の職に転ずるもの、川向、緋牛内、常呂、留辺蘂へ移り住む者等が発生、また、それが、開拓民の移住熱に火をつけ、端野および周辺地域の発展に大きく寄与した。
(6)大正10年野付牛町から分村し端野村となる。
(6)昭和36年端野町となる。
(7)平成18年北見市に吸収合併。
(8)農耕の状況
ア 畑作
  入植初期には自活のため、燕麦、麦類、馬鈴薯、きび、そば等を栽培。
  日露戦役の終わった頃から、換金作物として菜豆、鋺豆、小手亡等の豆類を主作物とした。
イ ハッカ
  明治34年頃から試作が始まり、明治40年では北海道の作付面積が全国の80%を占め、その内の70から80%を北見・湧別が占める。大正期に入りその名を世界にとどろかせた。
  端野では明治34年10月、1区の寒河江直助が湧別から種根の分譲を受け2、3人に分
  けて新畑に植えたのが始まりで、反収が大きいこと、運搬が容易でかつ腐敗の心配がないということから一気に広まった。ハッカ景気に沸き屯田兵の定着と北見の発展に大きな貢献をした。
(薄荷成金、豆成金と言われた。)
ウ 稲作
  屯田兵が入植した上川、空知で既に稲作を行っていたことから強い関心があり、入植の翌年から試作が行われた。又、2代目大隊長の三輪光儀は水利条件や耕地の状況から水田の耕作が可能と考え、明治34年~5年にかけて大規模な灌漑溝掘削事業を展開した。
   日露戦争への出征で一時中断したが、兵村において稲作の自給体制が出来たのは大正4年頃からである。

★屯田兵の子弟達の進む道
  長男:跡取り
  次男・三男、その他:学校を出て兵村を出て行く。(屯田兵は向学心が高かった。親は次男、三男等を勉学に励ませた。端野村で高等教育を受けるものの殆どは屯田兵の子弟であったという。)
  姉妹:豪農へ嫁ぐ。(端野屯田兵の娘は引きてあまたであった。それは、他に比較し生活は豊かで躾が行き届いている等の理由から。)
    この話から推測されるのは、端野兵村の開拓は旨く進んだということ。屯田兵及びその家族は教養人の集まりであったこと。端野をリードする人材を輩出する土壌があったこと等である。

6 端野兵村関係の著名人

Ⅱ 端野兵村の伝統を伝える
○資料館等
「端野町立歴史民俗資料館」

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「屯田兵の肖像画」
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「屯田兵屋」
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○屯田兵関係の催し

○ゆかりの神社
「端野神社」
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○屯田兵が開いた学校
「端野小学校」
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○今に残る屯田兵の踏み跡
 「鎖塚」
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 中央道路(別名囚人道路、現国道39号線)の開削でなくなった囚人達を慰霊する碑で、この道路を開設するのに要した期間8ヶ月、距離225km(旭川~網走)、無くなった人の数212名
  
「開村祈念碑(屯田の杜公園)」
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「1中隊本部被服糧秣庫(現1区神社拝殿)」
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「端野水田発祥の碑」
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○屯田兵子孫の会の紹介
  子孫会はなし
直系子孫の数
1区:15戸/64戸入植
2区:11戸/70戸入植
3区:15戸/66戸入植


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