屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

和田兵村の紹介

2011-05-31 18:56:03 | 和田屯田兵村

< 工 事 中 >

「和田兵村」
 
入植年:明治19年、21年、22年
入植地:根室市東和田、西和田

  Photo_11 

「東和田兵村入植配置図」「higasiwada1.pdf」をダウンロード

「西和田兵村入植配置図」「nisiwada1.pdf」をダウンロード

出身地:東北、北陸、近畿を中心に14府県
入植戸数:440戸

「東和田兵村入植者名簿」「higasiwada2.pdf」をダウンロード

「西和田兵村入植者名簿」「nisiwada2.pdf」をダウンロード

大隊長   初 代 和田正苗少佐:明治9年開拓使に出仕、西南戦争従軍、東京鎮台勤務の後、根室外9郡長拝命、明治23年から上川の大隊長
     第2代 小泉正保少佐:大隊長心得として就任、屯田兵副官として司令部転出、日清戦争で4大隊長に復帰、後に初代野付牛4大隊の大隊長
     第3代 栃内元吉少佐:永山武四郎本部長に同行し道内視察、後屯田司令部永山武四郎の腹心として活躍、和田では約5年間にわたって勤務し問題点を提起している。

明治19年入植
  便 船:和歌の浦丸
  移 動:日本海経路
  入植日:6月6日

明治21年入植
  便 船:兵庫丸(新琴似の屯田兵も乗船、函館で新琴似屯田兵は田子の浦丸に乗船し小樽へ)
  移 動:横浜~岡山~徳島~大分~博多~境~函館
  入植日:5月27日

明治22年入植
  便 船:高砂丸(輪西、篠路の屯田兵も乗船。室蘭に寄港したあと根室へ)
  移 動:博多~石川~室蘭~根室
  入植日:7月18日

★入植が3年にわたった理由は
   当初19年~20年に入植させる計画であったが、3県時代から北海道庁時代に入り屯田事務局が屯田本部となり陸軍省の所管となった。こうした中、道庁付近の屯田兵の充実と、室蘭にできた第5海軍区鎮府の警備を優先した。

給与地
  宅地兼給与地:40間×125間 合計5,000坪
  1次追給地:5,000坪
  2次追求地:5,000坪

東和田兵村
部隊名:第2大隊第1中隊(後に第4大隊第1中隊へ改編)
中隊長:初 代:篠崎彦二大尉
     第2代:
   
入植:明治19年入植
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 *出身地の特徴:鳥取県の3名以外東北、北陸出身者

西和田兵村
部隊名:第2大隊第2中隊(後に第4大隊第2中隊~3中隊へ改編)
中隊長:初 代:吉田勇蔵      
    第2代:太田資忠(23.12着任) 琴似屯田兵出身 後の初代旭川下兵村中隊長
   
入植:明治19年、21年、22年入植
  Photo_3

 *出身地の特徴:石川県、鳥取、福岡県で約90%を占める。

Ⅰ 和田兵村の特色
  根室のアイヌ語の語源は「ニムオロ」(樹木の繁茂するところ)で、半島は鬱蒼とした原始林に覆われていた(現在の根室半島にその面影はない)。以外に、「蓑(ミノ)」の形をしたところいう説もある。
1 地理的特質
(1)千島列島と向かい合う北海道の最東端の半島で、今昔にかかわらず大国ロシアとの最前線。(先の大戦後、北方領土はロシアに占領されている。)
(2)根室半島は根室湾と太平洋に挟まれた狭隘な半島で、黒潮と親潮がぶつかる場所でもあり、春から秋にかけて海霧が発生し作物の成育ははなはだ悪い。
(3)屯田兵が入植した和田の台地は小河川により深い谷が刻まれ、地質は重粘土層。

2 時期的特色
(1)明治15年開拓使廃止され、3県時代に入り根室県が設置される。時の県令は湯地定基、根室郡長は和田正苗(初代屯田兵第2大隊長)
(2)和田屯田兵の配置は、3県時代の根室県からの要請に基づくもの。
(3)入植開始時の明治19年は、明治15年の開拓使廃止から4年間続いた3県時代が終わり道庁時代に入った年。同年、北海道土地払下規則が公布される。
(4)明治19年の根室は、すでに市街地化が形成されており、戸数1387戸、人口5540人を有していた。
(5)明治20年~21年にかけて屯田本部長である永山武四郎が米、露、清を視察、その中でコサックの屯田兵制を研究。
(6)永山武四郎本部長の下で、屯田兵制度の大々的な見直しと20個中隊増強計画を立ち上げる。
(7)明治23年屯田兵条例の改正(服役期間現役3年、予備役4年、後備役13年の20年となる)、同年屯田兵土地給与規則(給与地は1万5千坪となる)、その他関連規則が改正され屯田兵制度が確立する。
(8)日清戦争を4年後に控え朝鮮半島では緊張が高まる。
(9)予備役として日清戦争に出征(東京待機で終戦)
(10)明治23年召募の屯田兵を最後に明治30年をもって兵役満了。
(12)後備役において日露戦争出征。

3 入植者の特色
(1)東、西和田兵村では出身地、入植年が違う。
  ア 東兵村入植者の出身地は東北、北陸の日本海側の県。西兵村は石川県、鳥取県、福岡県出身者主体。
  イ 入植年は東兵村が明治19年。西兵村は明治21年、22年に入植。
(2)指導者の中には札幌農学校で兵事科を卒業した者が含まれていた。

4 任務上の特色
(1)道東の重要港である根室の防衛と露国の千島列島正面からの脅威に対処。
  (明治8年「樺太千島交換条約」によりロシアとの間に国境線は決定し千島列島は日本の領土になっていたが、列島の警備と開発は未だ未完で、早急に防衛・警備の処置をする必要があった。)
(2)日露戦争に出征
    103名出征、戦死   名、戦傷   名
 
5 発展過程上の特色
(1)根室は3県時代(札幌、函館、根室)における道東の中心地で北方領土への玄関口として繁栄していた。
(2)和田屯田兵配置の目的は開拓ではなく、防衛・警備を目的とした兵員配置であったため、内陸部に入植した屯田兵村とは趣を異にした。また、和田地区は夏季間海霧に覆われ、農作物は育たず、自給自足もままならない状況であった。酪農の有望性から早期より牛馬の飼育に着手し研究を重ねた。(明治8年根室には開拓使の牧場が設置され、明治19年根室牧畜場として屯田兵本部に管理を移し、明治20年には民間に払い下げられた。)
(3)農業に適さない地であるばかりか、士官・下士官は農業技術、農業経営の知識に乏しく、経済的に自立できるまでに至らなかった。
 
★入植地選定の誤りを指摘
 明治31年に根室に立ち寄ったニコライ主教が「北海道巡回記」の中にその惨状を記している。
 3代目大隊長栃内元吉は、和田、太田屯田兵の入植地選定に関し誤りであり、当時の当事者が自己県下の繁栄・開拓を希望するがため農耕適地と説き伏したと直談している。

(4)明治28年の日清戦争への応召。明治29年和田村廃村。明治30年後備役となり大隊本部は野付牛へ移転。土地に縛られることが無くなると農作物が育たず生活に窮していたため離村する者が多数に及んだ。
(5)後備役で日露戦争出征。凱旋後、兵村を去る者が続出。離村者の土地を留まるものが買い取り規模を拡大した酪農へと転換。平成22年現在、17戸の屯田兵子孫の方が牧場を経営し大田の土地を守っている。
(6)牧畜の状況
   酪農の始まりは、入植直後の明治19年からで、和田大隊長のかけ声に、酪農経営を目指していた松浦忠順(福井県出身元有馬藩藩士)が吸応。大隊本部から貸与された牛5頭をもって牛の試験育成に着手。
   馬は和田屯田兵の管理となった根室牧場において飼育が始まった。(根室牧場とは開拓使の時代明治8年に開設された牧牛場で、開拓使廃止後は農商務省直営の管理となり、後に多数の人の手に渡り経営された。現在その場所は明治公園となっている)
   明治26年 屯田騎兵大隊において軍馬40頭購買
(7)開墾の成果を得ることなく兵役を終える。
   和田の台地は気象、地形、地質等農耕には不適の地。また、農事指導者の欠如、入植者の農事経験なしと過酷な中での開拓であった。
   給与地没収者は64名。これは、屯田兵入植37兵村にあって最大の数である。因みに第2位は大田兵村(厚岸)29戸、第3位輪西兵村(室蘭)の20戸である。なお、輪西は1個中隊220戸であるので、率的には大田兵村よりも高い。

(離村の理由)
    気候、土質など自然条件が農耕に適さなかった。
    農業の適正化を欠いたこと。
    無肥料による連作。
    作物の選定、品種の誤り。
    農業経験のない戸主。
    森林の伐採により風霧の害の助長。
    漁業が盛んなため農業に対する熱意なし。
    根室市街が近くに存在し就職の受け皿あり。
  
(離村者は何処へ)
    道内の農耕適地を求めて移動。
    公職の仕事に転職。
    市街地に移り職を見つける。
    北見へ移動する者多数。

(8)明治39年4月1日2級町村になる。
      
★和田屯田兵新聞社襲撃事件(イモメシ事件)
 イモ飯屯田兵とこき下ろした新聞社を屯田兵が襲撃
★村名に人物の名前がついた3個兵村
  永山:永山武四郎(屯田兵制度発展の父)
  太田:大田紋助(大田屯田兵の設置に功績のあった人物)
  和田:和田正苗(初代大隊長)

 
6 和田屯田兵関係の著名人

Ⅱ 和田兵村の伝統を伝える
   

   和田兵村史跡等配置図

   Photo_12

○資料館等
  「和田屯田記念館(和田屯田被服庫)」
   Photo_4

○屯田兵関係の催し

○ゆかりの神社
  「和田神社」

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○屯田兵が開いた学校
  「和田小学校(H18年閉校)」
  Photo_6
 

○今に残る屯田兵の踏み跡
  「開拓使根室牧場跡(明治公園)」

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  「大隊本部跡の碑」

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  「グイ松」

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  大隊本部に植えられていた松で色丹島から植樹

  「和田兵村開基100年の碑(和田神社内)」

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  「和田屯田兵の碑」
   Photo_10

  題字は永山武四郎少将による。

○屯田兵子孫の会の紹介


当麻兵村の紹介

2011-05-31 05:29:19 | 当麻屯田兵村

< 工 事 中 >

「当麻兵村」
入植年:明治26年
入植地:当麻町中央、宇園別、北星
 Photo_30   

   
「当麻兵村入植配置図」「thoma1.pdf」をダウンロード

出身地:中部、中国、四国、九州中心を18県
入植戸数:400戸

「当麻東兵村入植者名簿」「thomahigasi2.pdf」をダウンロード

「当麻西兵村入植者名簿」「thomanisi3.pdf」をダウンロード

   
第3大隊
大隊長 初 代 和田正苗少佐(明治24年6月~)元根室和田(根室)太田(厚岸)大隊長
        第2代 渡辺水哉大尉(明治27年6月~)日露戦争において歩兵第25聯隊を指揮
    第3代 津田教修大尉(明治29年1月~)
    第4代 平賀正三郎少佐(明治31年9月~)後の剣淵・士別の大隊長

便船:東京郵船の「金沢丸」
移動:・・・・   5月5日小樽へ
    5月7日手宮から貨車で空知太(滝川)へ。8日空知太出発し、江部乙~一已~忠別と3日がかりで歩き10日に到着。5月10日~18日の間に全員到着。
  
   ★入植時期は永山6月下旬、旭川8月はじめと比べて早い。これは、入植年度の農耕に有利で、その後の兵村の発展にも大きく影響した。 

給与地:1町5反歩、追給地:3町反歩 

「当麻西兵村」
部隊名:第3大隊第5中隊
中隊長:初 代:三輪光儀(   ~)元札幌の第1大隊で勤務し後に野付牛の大隊長。
    第2代:
    第3代:

出身県別入植者数
 長野県   1
 静岡県   4
 福島県   3
 兵庫県  15
 愛知県  19
 岡山県   5
 鳥取県  18
 島根県   9
 群馬県   1
 山口県  28
 広島県  29
 徳島県  30
 高知県  19
 福岡県   1
 長崎県   1
 佐賀県  17
16県 200名

「当麻東兵村」
部隊名:第3大隊第6中隊
中隊長:初 代:福井重吉(   ~)後の剣淵の中隊長、山鼻兵村出身
    第2代:
    第3代:

出身県別入植者数
 岩手県   1
 栃木県   2
 長野県   3
 新潟県   1
 静岡県   6
 福島県  20
 兵庫県   4
 岐阜県   1
 愛知県  29
 岡山県  12
 鳥取県  10
 島根県   7
 山口県  24
 広島県  25
 徳島県  24
 高知県  13
 長崎県   2
 佐賀県  16
18県 200名

Ⅰ 当麻兵村の特色
1 当麻の地理的特質
  当麻とはアイヌ語の「ト(沼)・オマ(~に入る)・ナイ(川)」から、「ナイ」が落ちてト・オマと呼ばれるようになったといわれている。当麻町には現在もいたるところに湖沼や湿地が存在する。
(1)北海道一の大河である石狩川が大雪山からその源を発し、その流れは狭隘な層雲峡を通りすぎ、当麻兵村の給与地でもある愛別、伊香牛・比布、当麻の平地を流れる。まさに、石狩川の恩恵を最大限に受ける地。
(2)上川盆地の東北方に位置し、牛珠別川の支流である当麻川により育まれた肥沃な地。下兵村ではたびたび水害の被害を受ける。
(3)永山兵村、旭川兵村、当麻兵村、3個兵村のトライアングルの東一角を占める。
(4)気候は内陸性で夏は本州を思わせるほど暑く、冬は厳寒で降雪量も多い。
  (因みに過去日本で最低気温を公式記録したのは旭川で41.0C 明治35年1月25日で、この時、八甲田山で第8師団歩兵5連隊(青森)の遭難事故がある。)
(5)雄大な大雪山を眼前に仰ぎ見る地で、入植した屯田兵・家族が太古の林を切り開き、大雪の嶺を見た時に驚嘆したという。
(6)その他として、近くに当麻鍾乳洞が存在。

2 時期的特色
(1)明治18年、時に司法大輔であった初代長官岩村通俊と永山武四郎らが近文山に登り上川開発を発意し「北京を上川に置く儀」を上申した。
(2)上川開発の準備
  ・明治19年、忠別太に農作試験所(後に上川農事試験場と改称)を建て、麦、雑穀、野菜類を試作し上川における農耕の適否を調査。
  ・明治21年、忠別太に測候所、忠別川・石狩川合流点に水測所設置。  
  ・明治22年上川道路の開削。
(3)明治21年、米、露、清国を視察後、明治22年に二代目北海道長官に就任し屯田本部長でもあった永山武四郎は屯田兵20個中隊増強計画、さらには「北京を置き、上川離宮造営設定」を建議し、神楽に10,500haの御料地を設け、上川の地の開発を鋭意進める。
(4)明治24年旭川から網走に抜ける中央道路が開通。
(5)明治25年、4代目北海道長官に就任した北垣国道は北海道での稲作を奨励。
(6)明治28年、後備役で日清戦争に動員(東京待機で終戦)
(7)明治29年、永山武四郎第七師団長に就任。
(8)明治31年、札幌から旭川まで鉄道が開通。さらに明治32年和寒まで、明治36年士別まで、明治40年帯広まで鉄道が開通。
(9)日清戦争勃発一年前の入植。明治27年の屯田兵条例の改正により、現役3年、予備役4年が現役8年に延長され、兵役が満了したのは明治34年。
(10)明治33~35年旭川に第7師団移転。
(11)明治38年、後備役として日露戦争出征。

3 入植者の特色
(1)中国、四国を中心に全国19府県より入植、広島54戸、徳島54戸、山口52戸、愛知48戸で、北海道の気候になじむ東北の人が少なかった。
(2)明治24年に入植した永山兵村とは違い、明治25年に入植した旭川兵村と同様、各府県入植者を約半数ずつに分け上・下兵村に入植させている。
(3)士官の中には琴似、山鼻に入植し、札幌農学校で西洋式農業の教育を受けた者がいた。

4 任務上の特色
(1)上川盆地の開拓及び警備
(2)明治34年現役満了しても、日露関係険悪のため訓練を続けた。
(3)日露戦争出征:

5 発展過程上の特色
(1)当麻兵村は上川盆地入植3個兵村中の3番目に入植した兵村で、明治24年に入植した永山兵村、明治25年に入植した旭川兵村の経験を生かせ、また、上川の開発が進みつつあったため、他の兵村に比較し有利であった。
(2)入植後早期より稲作に着手。当初の主食は給与米と芋、3年目になると粟、黍、麦が取れるようになり、それらが主食となる。米作りは入植直後の明治26年からはじめた。
(3)明治31年空知太から旭川、永山まで鉄道開通し、物資の輸送が容易となった。
(4)明治34年4月現役8年を終了。その年に、永山村トーマから「當麻村」と漢字にあらため戸長制村となる。
(5)明治30年代後半から、開拓した畑の水田造成への変換が盛んとなり、明治32年には260町歩開田、33年水利土工組合を組織、42年には大灌漑溝の完成によって1130町歩、1万8500石の収穫を得る。その結果、屯田農家の経済状況も良くなる。しかし、場所によっては適否があり生活に差が出来た。
(6)当麻を含めた上川に米作地の基礎ができたのは明治40年代に入ってから。
    精米所は明治38年にでき、しばらくして、麦の製粉をすることも可能となり食生活は変わっていった。(直播機「タコ足」が出現したのは明治38年)
(7)大正8年1級町村に昇格し、屯田兵2世の林路氏村長に就任。後の道会議員、衆議院議員へ。
(8)大正11年石北線が開通。 
(9)旧7師団軍用地の払い下げ、大東亜戦争終結後の七師団の軍人・軍属、満州・樺太引き揚げ者等が戦後の開拓民として大挙して入植。
(10)昭和34年当麻ダム完成。それにより500町歩の開田。
(11)現在は「でんすけスイカ」のブランド名を持つスイカの産地。米の品質全道一を11年継続。菊花、バラは道内一の産地。上川3個兵村の中にあって、今なお農村風景を色濃く残す。

  ★当麻農業補修学校の創設
   農事後継者育成のため小学校の生徒に農業補習を授けることを目的として、三輪中隊長の発案により、その志を次いだ福井中隊長が明治31年6月1日開校。教室は尋常小学校の一室を使い、教育期間は3ヶ年。多くの後継者を輩出した。
  なお、(福井中隊長は後に剣淵兵村でも同種の学校を開校している。)

  ★永山屯田とは親類の付き合い(永山武四郎から、永山兵村へ同一番号の当麻屯田兵の面倒を見るよう指示受け)

Ⅱ 当麻兵村の伝統を伝える
○資料館等
  「郷土資料館(旧当麻町役場)」
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  「屯田兵屋」(郷土資料館内)
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○屯田兵関係の催し

○ゆかりの神社
  「当麻神社」
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○屯田兵ゆかりの学校
  「当麻小学校」
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○今に残る屯田兵の踏み跡
 旧当麻町役場に隣接し百年記念歴史公園を開園。園内に多数の記念モニュメント
  「屯田兵像」
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  「屯田開拓の像」
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  「開村の碑」

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  「将軍山」
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  永山武四郎が上川を展望したという山

  「永山武四郎将軍展望の碑」
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  「三輪光儀君頌徳碑」
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   旧当麻神社の跡地に中隊長の功績を顕彰する碑がたっている。

  「当麻神社跡の杜」
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  「当麻屯田兵水田発祥の地」

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○屯田兵子孫の会の紹介
 「当麻屯田会」
  設 立:昭和38年9月
  目 的:当麻町隆盛の基礎を築かれた先人の逞しい開拓魂を尊び、感謝し、これを受け継ぎ、後世に屯田開拓の歴史を伝えるとともに会員相互に語り合い、社会に貢献する。
  活動の概要:「屯田兵家族合同慰霊碑」、「永山武四郎将軍展望の碑」「屯田百年記念碑」の建立、旧役場に「郷土資料館」を開設、平成4年5月7日「屯田百年記念碑」建立の中心的な働きをする。
       毎年6月7日、屯田兵物故者の慰霊祭
  会員:120名(平成23年現在)


永山兵村の紹介

2011-05-30 21:03:19 | 永山屯田兵村

< 工 事 中 >

「永山兵村」
入植年:明治24年7月(6月17日~7月1日)
入植地:旭川市永山町

  Photo_15
   
「永山東兵村入植配置図」「nagayamahigasi1.pdf」をダウンロード

「永山西兵村入植配置図」「nagayamanisi1.pdf」をダウンロード

出身地:東北、四国、九州中心を12県
入植戸数:400戸

「永山東兵村入植者名簿」「nagayamahigasi2.pdf」をダウンロード 

「永山西兵村入植者名簿」「nagayamanisi2.pdf」をダウンロード

」をダウンロード

   
  
第3大隊
大隊長 初 代 和田正苗少佐(明治24年6月~)元根室和田(根室)太田(厚岸)大隊長
            第2代 渡辺水哉大尉(明治27年6月~)日露戦争において歩兵第25聯隊を指揮
     第3代 津田教修大尉(明治29年1月~)
     第4代 平賀正三郎少佐(明治31年9月~)後の剣淵・士別の大隊長
移  動
便  船:第1便 日の出丸(2000トン)
     経 路: 神戸~萩浜(宮城)~小樽
    入植日:6月17日   
    第2便 金沢丸(2000トン)
    経 路:田辺(和歌山)~三番湊(岡山)~博多~小樽
    入植日:7月1日
      小樽からの移動:無蓋列車で空知太(滝川)泊。滝川から徒歩移動で深川の音江の駅逓(音江法華)泊、忠別太(忠別分監)泊。4日目に永山兵村到着。

給与地:当初1町5反歩、追給地3町5反歩

「永山西兵村」
部隊名:第3大隊第1中隊(明治27年予備役になり5中隊)
中隊長: 初 代      (   ~   )
      第2代      (   ~   )
      第3代      (   ~   )
出身県別入植者数
新潟県   1
愛知県   1
兵庫県  36
和歌山県 39
岡山県  40
徳島県  83
 計6県 200名

「永山東兵村」
部隊名:第3大隊第2中隊(明治27年予備役になり6中隊)
中隊長:  初 代      (   ~   )
       第2代      (   ~   )
       第3代      (   ~   )

出身県別入植者数
宮城県  46
山形県  42
新潟県  22
徳島県  30
高知県  37
鹿児島県 23
 6県 200名

Ⅰ 永山兵村の特色
  「永山」の地名は屯田兵の創設と上川開拓に功績のあった永山武四郎(2代目北海道長官、初代第七師団長)にちなみ命名。
1 永山の地理的特質
(1)北海道のほぼ中心に位置する上川には、北海道の3大大河である石狩川、天塩川、十勝川の源流が集まる大雪山系があり、それらの支流を含めた川筋を進めば四周の枢要な地へ向かうことが可能。
(2)上川盆地は永山を中心として四周に広大な農耕可能地が広がっている。
(3)永山は石狩川と牛朱別川に挟まれた肥沃な低地で、牛朱別川が度々氾濫し甚大な被害をもたらした歴史がある。(牛朱別川を直接石狩川に結ぶバイパス水路として、永山新川が平成16年に20年の歳月をかけて完成し洪水の心配は無くなった。)
(4)入植地は樹林が少なく開墾容易な地であった。
(5)上川盆地の中心で、上川屯田3個兵村のトライアングルの中心に位置する。
(6)気候は内陸性で夏は本州を思わせるほど暑く、冬は厳寒で降雪量も多い。(因みに過去日本で最低気温を公式記録したのは旭川で41.0C 明治35年1月25日で、この時、八甲田山で第8師団歩兵5連隊(青森)の遭難事故がある。)

2 時期的特色
(1)明治18年、時の司法大輔であった初代北海道長官岩村通俊と当時屯田本部長であった永山武四郎らが近文山に登り上川開発を発意。「北京を上川に置く儀」を上申した。
(2)上川開発の準備
  ・明治19年、忠別太に農作試験所(後に上川農事試験場と改称)を建て、麦、雑穀、野菜類を試作し上川における農耕の適否を調査。
  ・明治21年、忠別太に測候所、忠別川、石狩川合流点に水測所設置。  
  ・明治22年上川道路の開削。
(3)明治21年、米、露、清国を視察後、翌明治22年2代目長官に就任した永山武四郎は屯田兵20個中隊増強計画を建議。さらに、「北京を置き、上川離宮造営設定」を建議し神楽に10,500haの御料地を設定、上川の開発を鋭意進める。

  ★永山武四郎の論
  「本道の開拓は内部よりせねばならぬ。ことに上川地方の開拓を以て急務とする。海岸地方のごときは従来方針によって間接に指導誘掖すればよい」

(4)明治23年の屯田兵条例の改正ほか多数の法令・規則の改正があり、屯田兵制度が明治8年の琴似屯田兵入植から15年の歳月をへて確立される。
(5)明治24年、旭川から網走に抜ける中央道路が開通。
(6)明治25年、4代目北海道長官に就任した北垣国道は北海道での稲作を奨励。
(7)明治28年、後備役で日清戦争に動員(東京待機で終戦)
(8)明治29年、永山武四郎第七師団長に就任。
(9)明治31年兵役満了(現役3年、予備役4年)。同明治31年、札幌から旭川まで鉄道が開通。さらに明治32年和寒まで、明治36年士別まで鉄道が開通。
(10)明治33~35年旭川に第7師団移転。
(11)明治38年、後備役として日露戦争出征。

3 入植者の特色
(1)全国10府県からの入植で、徳島県が113戸と一番多く、その他は40戸前後。
(2)東西の兵村では入植者に特徴があり、東兵村は東北からの入植者と南国の入植者が、西兵村は近畿、四国、中国地方出身者が中心。
(3)士官の中には琴似、山鼻に入植し、札幌農学校で西洋式農業の教育を受けた者がいた。

4 任務上の特色
(1)上川地区の開拓及び警備
(2)訓練は午前中が中心で、午後から開墾を行った。また、一年目の冬は当麻兵村建設のため建築材料確保等木の伐採を行い訓練に代えた。
(3)27年7月1日、3年の現役を満了したが、日清戦争前夜で、現役以上の訓練を行った。明治28年の日清戦争に出征(東京待機)。
(4)日露戦争出征
    298名出征、戦死者33名

5 発展過程上の特色
(1)入植した当時、忠別太(現在の旭川の中心地)はまだ発展していなく、上川の開発は屯田兵が入植した永山地区からである。
(2)永山屯田兵が入植した明治24年、神居村、旭川村、永山村を包括する戸長役場が第3大隊本部に設置された。
(3)永山屯田兵入植2年後の明治26年に永山村字トオマに当麻屯田兵が入植。(当時、当麻は永山村内にあり、永山兵村と当麻兵村は関係が深い。)
(4)当初は、畑作で色々な作物(麦、豆、麻、野菜、薄荷等)を作り、畜産・養蚕などを行っていた。地味が肥え上川3個兵村の中で一番土地の条件は良かった。しかし、上川には収穫した作物の販路が無く、現金収入を得ることはできなかった。(札幌から上川まで鉄道が延びたのは明治31年であり、それまでは、馬車による移動であり輸送経費がかかった。)
給与米だけでは主食に事欠き。芋、雑穀主体の食生活をせねばならず。給与米が途絶えた現役終了後の生活は困難を極めた。また、稲藁がないため(わらじ、つまご、わら靴、ぞうり、雨具みの、かます、むしろ、縄等)の材料に困った。それらは、稲作へ望みをかけることにつながった。
(5)上川の水田発祥
    明治24年 神居村で杉沢繁治が1斗5升収穫。
    明治24年 永山村の加藤米吉他1名が試作をしたが未熟。
    明治25年 永山村の石山伝右衛門が山形県より赤毛種を取り寄せ試作し2合の収穫。
    明治25年 戸長の本田親美と大隊長の和田正苗が、道庁から種子の斡旋を受け山口千代吉に明治米の試作を行う。加藤徳太郎の父米作(庄内藩)が管理に当たる。20余束収穫。和田隊隊長はこの成果を受け稲作を奨励するようになった。
    明治26年 作付け面積3.2町歩、明治32年27町歩、明治35年に一気に増え232町歩となった。
    当初上川米は劣等(札幌圏米10円57銭に対し上川米8円97銭)との評価を受けていたが、大正10年頃には逆転(札幌米26円75銭に対し上川米27円35銭)した。
稲作は凶作、冷害、自然との闘いでもあり、明治35~38年、大正2年、昭和6~10年、昭和20年、昭和30年は冷害で大きな被害を受けた。
(6)米どころ永山の衰盛
   ア 日清戦争2年後の明治31年、後備役となると転住、転業が可能となるので、一攫千金を夢見、あるいは借金で身動きが取れない者は土地を売り(当時の永山は兵屋つきで300円から500円)、新天地を求め、兵村を去る者が出てきた。
   イ 稲作は収入が多いことから畑作から稲作へ転換する者が増え、兵村公有財産取扱委員会で1,200町歩の造田計画が持ち上がった。
   ウ 35年から行われた潅漑溝掘削工事代金の支払いに行き詰まり、全ての公有地を売却せざるを得なかった。
   エ 残った屯田兵にあっても明治41年、42年の不作で土地を売るものが続出。全村の60%が不在地主で占められた。永山では土地の売買が盛んとなり小作人が増大。居住者の入れ替わりも激しく、土地に対する愛着、農業への意欲も衰え開村以来の窮乏に陥った。この当時、永山は北海道一の貧乏兵村といわれた。
   オ この窮乏を救ったのが美瑛村から永山村へ明治44年に赴任した清水涼村長と収入役(農会長)の森谷嘉七で、この時の永山は畑、水田半々の状態であったが、収益の高い稲作一本に切り替えようと石狩川、牛朱別川から導水し2,200町歩の造田計画を立ち上げた。
   カ 寒冷地北海道における稲作を定着させるきっかけを作ったのが直播機「タコ足」(明治38年発明)である。手播きの15倍の能率を上げ、北海道だけではなく東北、朝鮮にまで普及した。それと、もう一つは「カラカサ馬廻し機」である。それまでの脱穀は「千把」称する手こきであったが、作業能率を高め、米の収穫・販売時期を早めるなど農家の経済上貢献するところが大であった。「カラカサ馬廻し機」は後に発動機が普及する昭和の始めまで使用された。
    哀れかな、「永山の米は北海道一美味しい米」と評価を受けた時には、屯田兵の多くが離村しており、果実の多くはその後に入植した人達により受け継がれた。
(7)上川の中心として栄える
   明治24年から31年ころまでは旭川に有力な商人が少なかったことから、永山番外地に住む商人が鷹栖、比布、愛別、当麻、東旭川の各村を商圏に収めていた。一時期永山が上川繁栄の中心として栄えた時期もあり、永山では競馬も盛んに行
  われた。
(8)軍都旭川として発展
   第七師団は、明治33年~35年にかけて札幌から旭川へ移駐した。このことは、大きな消費物資が必要となり、それまで販路が無く現金収入の不足を来していた屯田兵及び一般入植者に大きな恩恵をもたらし旭川の発展に大きく寄与した。現在人口35万人を有する北海道第2の都市旭川の基礎を築いた。
(9)明治37年、永山村から独立し当麻村が分村(現在当麻町)。昭和36年に永山町は旭川市に吸収合併。

  ★(北海道農事試験場上川支場)
    前身は忠別農作試験所(明治19年)。その後、上川農事試作場(明治22年)~北海道庁地方農事試験場(明治34年 旭川6条11丁目へ移転)~北海道上川農事試験場(明治41年 永山兵村元練兵場)~北海道農事試験場上川支場(明治43年)に。
   各屯田兵村で稲作の試作に成功したことから、明治29年から官業で稲作の試験が行われ、大正8年には坊主1号が優良品種として発表された。

6 永山兵村の著名人
  永山武四郎
  「永山武四郎の像」(永山神社)
    Photo_16   

  「永山武四郎の像」(旭川常磐公園)
    Photo_18     

Ⅱ 永山兵村の伝統を伝える
○資料館等
  「旭川市博物館」
   Photo_19   

  旭川市が管理する博物館で、ここに陳列されている屯田兵関係の資料の多くは永山屯田兵のもの。 

  「北鎮記念館」
   Photo_20

   自衛隊旭川駐屯地が管理する博物館で、旧七師団関係の資料を展示。一部屯田兵関連も展示。

  「川のふるさと館さらら(正式名称:永山新川管理センター)」

   Photo_21

   旭川開発建設部が管理する記念館で2階フロアに永山屯田兵関連のコーナーがある。

○屯田兵関係の催し
  「屯田まつり」

   Photo_22     

○ゆかりの神社
  「永山神社」

   Photo_23

○屯田兵ゆかりの学校
  「永山小学校」
   Photo_24   

○今に残る屯田兵の踏み跡
  「国見の碑」
   Photo_25    

   岩村通俊以下が近文山に登り「上川に北都を置くべし」とい言った場所

  「上川離宮予定地(上川神社内)」
   Photo_26

      
  「上川水田発祥の地」(永山神社境内)

   Photo_27

  「永山屯田百年記念碑」
   Photo_28     

  「屯田歩兵第三大隊本部跡」
   Photo_29 

○屯田兵子孫の会の紹介
 「永山屯田会」
 目 的:屯田開拓家族の親睦(土着心を養う)を図る。
 発足の経緯:昭和7年6月2日、大道寺住職安川温宗、屯田兵岸田兵次郎が発起人となり永山屯田会を創設。
       昭和24年2月1日「二世会」を結成。以降、二世の会員も高齢化し会員が減少してきたことから、会員の幅を三世又は直系でなくとも本会に賛同する者を会員とした。
 活動状況:水田発祥の碑(昭和27年)、屯田歩兵第3大隊本部跡碑(昭和43年)、永山屯田百年記念碑建立
 会 員: 永山屯田縁故者を以て本会に賛同する者により組織する。


旭川兵村の紹介

2011-05-30 16:48:28 | 旭川屯田兵村

< 工 事 中 >

「旭川兵村」
入植年:明治25年8月
入植地:旭川市東旭川町

  Photo_10

「旭川兵村入植配置図」「asahikawa1.pdf」をダウンロード

 
出身地:香川、愛媛中心に12府県
入植戸数:400戸

「旭川上兵村入植者名簿」「asahikawakami2.pdf」をダウンロード

「旭川下兵村入植者名簿」「asahikawasimo3.pdf」をダウンロード
   
第3大隊(永山、旭川、当麻)
大隊長 初 代 和田正苗少佐(明治24年6月~)元根室和田(根室)太田(厚岸)大隊長
    第2代 渡辺水哉大尉(明治27年6月~)日露戦争において歩兵第25聯隊を指揮
    第3代 津田教修大尉(明治29年1月~)
    第4代 平賀正三郎少佐(明治31年9月~)後の剣淵・士別の大隊長

移動
 便船
  第1便:高砂丸 大分(7月22日発)~富山~小樽(8月1日着)
  第2便:山城丸 神戸(7月30日発)~愛媛~小樽
  第3便:高砂丸 富山~秋田・青森~小樽
 小樽からの行動
  朝4時頃小樽を出発無蓋列車で6時間かけて滝川まで、滝川の駅逓(空知太)で一泊。歩いて深川の音江の駅逓(音江法華)で2泊目。旭川大橋の近くにあった駅逓(忠別太)で3泊目。4日目に兵村に入った。
 入植日:8月14日(入植が8月となったのは本州の東海地方で水害があったため)

給余地:当初1町5反歩、追給地3町5反歩

「旭川下兵村」
部隊名:第3大隊第3中隊

中隊長:初 代:太田資忠大尉(明治25年7月12日~)
    第2代:米津逸三大尉(明治26年4月2日~)
    第3代:難波田憲欽大尉(明治30年3月20日~)後の剣淵の中隊長

出身県別入植者数
 青森県  24
 秋田県  13
 埼玉県   1
 富山県  13
 岐阜県   3
 滋賀県   7
 京都府  27
 香川県  44
 愛媛県  46
 大分県  21
 鹿児島県  1
  計 11府県 200名 

「旭川上兵村」
部隊名:第3大隊第4中隊

中隊長:初 代:井田光承中尉(明治25年7月16日~)稲作に理解
    第2代:黒田照信大尉(明治28年9月21日~)
    第3代:菊池直人大尉(明治31年4月20日~)

出身県別入植者数
 青森県  24
 秋田県  14
 富山県  15
 岐阜県   8
 滋賀県   9
 京都府  18
 香川県  45
 愛媛県  47
 大分県  20
  計 9府県 200名

Ⅰ 旭川兵村の特色
1 東旭川の地理的特質
(1)上川盆地の中央から南方に位置し、石狩川の支流である牛珠別川と忠別川に挟まれた肥沃な樹林地。東旭川から忠別川沿い、大雪山系の裾野にある東川、東神楽まで広大な農耕適地が続く。
(2)牛朱別川をはさみ北の永山は疎林、南の東旭川は密林地帯。特に上兵村は一面が樹林に覆われた湿潤な粘土質の低地。
(3)永山兵村、旭川兵村、当麻兵村、3個兵村のトライアングルの南一角を占める。
(4)気候は内陸性で夏は本州を思わせるほど暑く、冬の寒さは厳しく降雪も多い。
  (因みに過去日本で最低気温を公式記録したのは旭川で41.0C 明治35年1月25日で、この時、八甲田山で第8師団歩兵5連隊(青森)の遭難事故がある。)

2 時期的特色
(1)明治18年、時の司法大輔であった初代長官岩村通俊と永山武四郎らが近文山に登り上川開発を発意し「北京を上川に置く儀」を上申した。
(2)上川開発の準備
  ・明治19年、忠別太に農作試験所(忠別農作試験所、後に上川農事試験場と改称)を建て、麦、雑穀、野菜類を試作し上川における農耕の適否を調査。
  ・明治21年、忠別太に測候所、忠別川・石狩川合流点に水測所を設置。  
  ・明治22年上川道路の開削。
(3)明治21年、米、露、清国を視察後、明治22年に北海道長官に就任した永山武四郎は屯田兵20個中隊増強計画、さらには「北京を置き、上川離宮造営設定」を建議し、上川の開発を鋭意進める。
「本道の開拓は内部よりせねばならぬ。ことに上川地方の開拓を以て急務とする。海岸地方のごときは従来方針によって間接に指導誘掖すればよい」と論ずる。
(4)旭川兵村は上川盆地3個兵村中2番目の入植で、1年前の明治24年に入植した永山兵村の経験を生かせた。
(5)明治24年、旭川から網走に通じる中央道路が開通。
(6)4代目北海道長官に就任した北垣国道は北海道での稲作を奨励。
(7)明治28年、後備役で日清戦争に動員(東京待機で終戦)
(8)明治29年、永山武四郎第七師団長に就任。
(9)明治31年、札幌から旭川まで鉄道が開通。さらに明治32年和寒まで、明治36年士別まで鉄道が開通。
(10)明治32年兵役満了
(11)明治33~35年旭川に第7師団移転。

3 入植者の特色
(1)全国の12府県より入植。その中でも愛媛95戸、香川89戸、京都45戸、青森48戸、大分41戸と5県で多く7割を越える。
(2)前年に入植した永山兵村とは違い、各府県入植者を約半数ずつに分けて上・下兵村に入植させている。
(3)士官の中には琴似、山鼻に入植し、札幌農学校で西洋式農業の教育を受けた者がいた。

4 任務上の特色
(1)上川盆地の開拓及び警備
(2)日露戦争出征:
    北韓軍:151名、満州軍:171名
        戦死者 満州軍39名、北韓軍1名

5 発展過程上の特色
(1)入植月が8月で、開墾がおくれ1年目の穀物の収穫はなし。それが後々まで響き「東旭川は貧乏村だ。小作村だ」といわれた。また、東旭川は密林に覆われ、開拓は大変であった。

 ★「旭川兵村には嫁にやるな」といわれ、永山から一人の嫁も来なかったという。

(2)稲作への執念
  ア 上兵村(4中隊)は、中隊長が暗黙のうちに米作りを奨励。下兵村では稲作を禁止
  イ 上兵村では27年に潅漑溝の掘削に着手し米作に着手。29年にはさらに一本、32年に1本を掘削。下兵村でも29年に潅漑溝を堀り、上兵村と同じ水源のため両兵村でトラブル。

 ★これらの潅漑溝の構築のため大変な借金をし、公有地が水田化のため全て無くなってしまう。個人にあっても、土地を担保に高利貸しを利用し借金を背負い土地を手放さなければならない事態となった。

  ウ 33年には第1給与地の全部が水田化。35年以降追給地と公有地の水田化がなされ44年には全て水田化が完了する。

 ★明治34年には兵村で400町歩の水田有り、1反あたり2石24斗の収穫」(加藤鉄蔵の手紙から)

(3)明治31年空知太から旭川まで鉄道開通し、物資の輸送が容易となった。それまでは、作った農作物の販路が近くに無く、滝川まで輸送する場合経費がかさみ採算が取れなかった。
(4)明治33年4月現役7年を終了。生活に困窮し離村が続出
(5)明治35年第七師団旭川移駐完了。稲藁の需要が発生。
(6)明治39年2級町村。42年1級町村。
(7)堤防の整備が完了する昭和15・6年頃までは水害の連続で、水との戦いが続いた。
(8)大正11年石北線が開通。
(9)昭和38年東旭川町を旭川市に吸収合併。 

6 旭川兵村関係の著名人
 ・加藤建夫:加藤隼戦闘隊の隊長 ビルマ戦線にて戦死。
 ・藤田貞元:上川稲作の開祖
 ・末武安次郎(屯田兵家族):「蛸足」38年に発明、寒冷地の稲作の普及に大いなる貢献をした。
 ・吉峰吉次郎(屯田兵家族):「カラカサ馬廻し機」馬力による脱穀機明治40年発明
 ・広沢徳次郎:屯田物語原画(旭川指定文化財)の作者

Ⅱ 旭川兵村の伝統を伝える 
○資料館等
 財団法人「旭川兵村記念館」

  Photo    

○ゆかりの神社
「旭川神社」

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○屯田兵ゆかりの学校
「旭川小学校」
  

  Photo_4   

○旭川兵村の文化財等
「屯田兵屋」:小山雛助の兵屋

  Photo_5   

 
「稲作功労者を顕彰する碑」

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 藤田貞助、末武安次郎、中山久蔵の功績を顕彰

「中隊記録」(旭川市指定文化財)147冊

  Photo_7  

「屯田物語原画綴」(旭川市指定文化財)
 

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「開拓の碑」

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○屯田兵子孫の会の紹介
 名称:「旭川屯田会」
 目的:旭川屯田兵の功績を伝承し併せて会員相互の親睦を図る。
 発足の経緯: 
  M32年後備役になった時に「東旭川村屯田会」として発足
  S15年「東旭川屯田会」を作り、東旭川屯田2世会を組織した
  S56年「東旭川屯田2世会」の名前を変更し「旭川屯田会」と改称
 行事:慰霊祭:8月14日
 会員:元旭川屯田縁故の者で本会の趣旨に賛同する者をもって組織する。
     会員数200名(平成23年現在)