屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

山鼻兵村の紹介

2011-12-12 06:39:06 | 山鼻屯田兵村

工 事 中

「山鼻兵村」
入植年:明治9年
入植地:札幌市中央区南6条~南23条 西7丁目~14丁目

Photo    

  山鼻兵村入植配置図(PDA)「yamahana1.pdf」をダウンロード

出身地:宮城県など東北6県
入植戸数:240戸

   山鼻兵村入植者名簿(PDA)「yamahana2.pdf」をダウンロード

第1大隊
 大隊長
    初 代:永山武四郎(西南戦争の大隊長)
  第1代:本田親秀少佐(明治18年5月21日~明治25年2月)
  第2代:野崎貞次少佐(明治25年2月~明治29年1月)
   
移動
 便船:通済丸?
 小樽から徒歩で移動
 入植日:5月29日

給与地
 入植時150坪の宅地と地続きの15,00坪及び兵村の近傍に3,500坪の耕地を配当。その後、明治11年の土地給与規則の制定により5,000坪を、さらには、明治23年の規則の改定で5,000坪が追給され、合計15,000坪の土地か給与された。しかし、追給地は兵村から離隔し甚だ不便を極めた。

第1大隊第2中隊
 中隊長
  初 代:家村住義大尉 (   ~   )
  第2代:安田 安中尉 (   ~   )西南戦争の論功に不満を持ち開拓使を去る。
  第3代:篠崎彦二大尉?

山鼻兵村出身県別入植者数
 青森県  52
 岩手県   2
 宮城県 103
 秋田県  21
 山形県   9
 福島県  53
   計 240

Ⅰ 山鼻兵村の特色
  山鼻は、その昔アイヌの居住地で「ユクニクリ」鹿の多くいるところと呼ばれていた。
  山鼻と言う地名は、和人がつけた地名で、藻岩山が迫り出してきた山麓に位置していることから、山の端、山の鼻ということで「山鼻」と呼ばれるようになった。

1 地理的特色
(1)道都札幌を有する石狩平野は石狩川とその支流である豊平川、千歳川、夕張川等多くの河川により育まれた広大な平野で、これらの河川を利用する交通の要衝でもあり、蝦夷地と呼ばれていた時代から多くの人たちが住み着いていた。
(2)札幌は石狩川の支流である豊平川により作られた扇状地で、南は高燥、道庁・植物園のある付近から伏流水が流れ、北に至るに従い湿潤な泥炭質の地形・土質を形成。
(3)山鼻は、札幌の中心の西南に位置し、定山渓の山々から発した豊平川が札幌の中心へ注ぐ場所で、札幌を象徴する藻岩山の山裾にあり、入植した当時は人跡未踏の鬱蒼とした樹林地帯。山鼻からさらに南下し豊平川を渡ると明治9年にエドウィン・ダンによって築かれる牧牛場があった。
(4)土地は砂礫質で水はけが良く作物の栽培に適した地であった。

2 時期的特色
(1)屯田兵入植以前の状況
○明治2年に函館戦争の終結をもって戊辰の戦乱は終わり、北海道開拓使が設置される。蝦夷地を北海道、北蝦夷地を樺太と改称し北海道という地名が出来あがった。
○新政府はロシアの北方からの脅威に対処するには北海道の開発が急務であると認識し、明治2年、北海道を諸藩に分与するとともに「移民扶助規則」を制定し移民を奨励。

(2)北方の脅威認識と屯田兵制度の発足
○樺太、千島列島には国境線が画定されておらず雑居の地であったが、明治2年樺太の函泊襲撃等北方におけるロシアの脅威が増大。
○明治3年、開拓使は函館港に「函館隊」(1コ中隊)を配置。同年から伊達支藩の亘理、白石、岩出山。会津藩、淡路の稲田家主従等多数が北海道に入植。
○明治6年、黒田清隆は屯田兵制施行について建議。翌明治7年「屯田憲兵例則」制定。
○明治8年、最初の屯田兵として琴似に208戸が入植。

(3)北海道の開拓状況
○明治4年、函館より移し札幌に開拓使本庁を設置。
○明治4年、開拓使顧問としてケプロンが来日。その他、米国を中心に多くの技術者が来日した。その中に草本培養方のルイス・べーマーが明治4年に、農業方としてエドウィン・ダンが明治6年(両者が札幌に来たのは明治9年)に来日した。
○明治9年、札幌農学校が開校し西洋式の近代的農業を指導。
○明治4年、開拓使により札幌空知通り(現北6条、偕楽園に隣接)に御手作畑を設置。明治6年偕楽園試験場と改称。明治8年、開拓使本庁の西側に新たに試験地を増設。明治9年、札幌村に水田を、真駒内に牧牛場を、山鼻村に綿羊場を、札幌村に養豚場を開設。札幌農学校の開校と併せ開拓使による農事指導の体制が整った。
○明治5年、銭函~札幌間に6間道路が開通し札幌までの陸上輸送路が確立された。その他に、明治4年本願寺道路(現国道230号線)が、明治6年札幌新道(現国道36号線)が開通。明治13年には札幌~手宮間に鉄道が開通した。
○本願寺道路(現国道230号線)の開削に相前後し、新潟県から本願寺宗徒ら40戸が山鼻地区に入植。
(4)明治8年、樺太千島交換条約の締結により対露国との国境が確定。樺太の全てが露国の領土に、千島列島は全て日本の領土となった。
(5)明治6年征韓論がやぶれ西郷隆盛ら下野。明治7年佐賀の乱、明治10年に西南戦争勃発。
(6)明治15年開拓使が廃止となり、三県一局時代を経由し明治19年から北海道庁時代に入る。

3 入植者の特色
 東北諸藩の士族を中心に編成された屯田兵で、伊達藩、会津藩、庄内藩等戊辰戦争で朝敵の汚名を着せられ屈辱を味わったそれぞれ藩と、早期に奥羽越列藩同盟を脱し新政府軍側についた津軽藩、秋田藩の入植者も混じる。これは、琴似兵村の入植者との違いである。

4 任務上の特色
(1)道都札幌の防衛と治安維持、あわせて北方地域の脅威に対処。
(2)当初、兵役の期間の取り決めはなく、兵役は相続するとなっていた。
(3)西南戦争に出征。戦死1名、戦病死14名
(4)明治12年開拓使札幌本庁舎の火災時に消防・治安の維持のため出動。また、明治14年明治天皇の札幌行幸時の警護を行う。
(5)日清戦争には兵役を相続した2代目の屯田兵が出征。東京待機で終戦。

5 発展過程上の特色
(1)入植した前年に琴似屯田兵が入植しており、彼らの経験を手本とすることが出来た。その中で、兵村の配置は、琴似兵村で行った密集型の不便性から分散型に取って代わられた。琴似兵村で行われた共同作業による開墾は、山鼻屯田兵においても当初の段階でとられた。
(2)明治7年に屯田憲兵例則は制定されたものの、具体的な制度が整わない中での入植であり、兵としての訓練、開拓、開墾、作物の栽培等、先ずは実行し、その結果をもって軌道修正するという様な試行錯誤を繰り返しながらの開墾であった。それは、琴似兵村同様、寒地北海道の農業を研究する試験農場としての役割を担うものであった。
(3)入植した年の翌明治10年に西南戦争が勃発し、別働第2旅団第1大隊として琴似屯田兵ともに出陣。戊辰戦争の仇敵を討ち怨念を晴らす。この戦争において戦死1名、戦病死14名を出す。(病没者の多くはこの時期流行ったコレラによる。)慰霊する招魂碑が札幌護国神社(中島公園内)にある。この戦争への出陣は開拓に大きな影響を及ぼし、通常3年で切れる扶助期間を、1年延長し4年とする処置が取られた。

(4)営農に関して
○山鼻は大消費地札幌の近郊という立地条件に恵まれ農作物の生産基地として重要な役割を担った。それは、後の僻地に入植する多くの兵村と比較し非常に有利であった。
○まず重視されたのは養蚕で、3年間の扶助期間を終えた後に屯田兵の生計を維持するため最適の農作物として捉えられ、桑の栽培、養蚕技術の指導が組織だって行われた。篠津太に養蚕場を設置し琴似・山鼻屯田兵家族を派遣、維持運営に当たらせたのはそんな計画の一環であった。
○その他、穀物、野菜、大麻、亜麻等、琴似兵村同様に栽培を行うとともに、畜産にも力を注ぎ農業博覧会で数多く入賞するなどの好成績を上げた。
○隣接する真駒内には開拓使時代の牧牛場から発した種畜場が設けられていており、それらの指導を受け、馬匹の飼育を共同経営で行い農耕馬を育て道内の農家に提供をするようになった。また、中島公園に競馬場が開設され、盛んに競馬が行われており、その名馬、騎手の殆どは山鼻兵村出身だったという。

(5)山鼻屯田兵が設置された当時、兵役の義務は子孫まで相続するとされていたが、明治24年の屯田兵条例の改正により任期が決定し、明治24年から予備役に、明治28年後備役に編入。

(6)山鼻兵村のその後
○北都札幌は道庁のある中心地から大通り付近までを官公庁、その南側に商業施設、さらに南側には飲食・遊興施設(薄野、中島公園)を計画的に作り大都市の景観を呈した。山鼻地区はその直近南側に位置し、大正7年「開道50年記念博覧会」が中島公園で行われたのを契機として、住宅地、文教の地として発展していった。
○宅地化により土地を手放す者が多くなり、屯田兵の2代目、3代目の人達の中で官史、教師、警察官、銀行員など農業と関わりのない仕事につくものが多く出るようになった。
○現在の山鼻は住宅地、文教の地(札幌南高校、札幌工業高校、静修高校、北星女子高校、教育大学(昭和62年あいの里に移転)等多数の学校が所在)として存在するものの、札幌市のドーナツ現象化により成熟期に入っている。

(7)明治39年山鼻村と円山村が合併し札幌郡藻岩村に、明治43年山鼻村は札幌区に編入。昭和47年札幌市が政令都市となり区制が施行され札幌市中央区の一部となる。

6 山鼻兵村関係の著名人
(1)山鼻屯田兵出身の中隊長
   渥味直茂 篠路兵村の初代中隊長
   福井重吉 当麻兵村、剣淵兵村の中隊長  
(2)将校になって他兵村を指導した人
   鈴木元五郎、鈴木元治、笹沼寅五郎、守谷民冶
   
Ⅱ 山鼻兵村の伝統を伝える
○資料館等
「山鼻記念館」
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 財団法人山鼻記念保存資産が所有する施設で、鉄筋3階建てのメルヘンチックな建物で一階がケーキ屋となっている。

○屯田兵関係の催し
 入植日である5月29日に、山鼻公園の「山鼻兵村開設碑」前で記念祭を開催。

○屯田兵ゆかりの神社
「札幌護国神社」

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○屯田兵ゆかりの学校
「山鼻小学校」

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○今に残る屯田兵の踏み跡
「屯田兵の像」

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「山鼻兵村開設碑」 
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 明治27年9月 兵村開設20周年を記念し建設
「旭可丘の碑」
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 屯田兵第1大隊の弾薬庫があった場所

「射的場跡付近の地」

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「明治天皇巡行の碑」
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 明治14年、明治天皇行幸を記念し建立。山鼻小学校の脇にある。

「屯田兵招魂碑」
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 札幌護国神にあり西南戦争で戦・病死した屯田兵の霊を慰める。

○屯田兵子孫の会の紹介
 財団法人山鼻記念碑保存資産(大正元年9月27日)設立、山鼻記念館の建設基本財産収益、その他の諸収入で碑の保存維持と祭典の経費に充当
 昭和56年6月27日、開村記念祝賀会と明治天皇行幸百年を記念し道知事以下を招待し祝賀会を開催
 平成8年1996「屯田兵入植して120年」記念誌発行
 地区に住む屯田兵子孫は44戸(平成23年現在)


5 コメント

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3週間前、遅い墓参りに帰省し、91歳の母と平岸... (成田 嘉宏)
2012-09-27 17:04:23
3週間前、遅い墓参りに帰省し、91歳の母と平岸霊園に行き、入植時のことを知りたくなり、山鼻屯田でgoogleで検索しましたら、見つかりました。父は、7年前に亡くなり、生前、詳しく、先祖の歴史を聞いておりませんでしたので、大変、助かりました。私も69歳になり、子供たちに我が家の歴史を伝達しておかなければと調査し始めました。4代前の成田春吉が入植時の様子がよくわかりました。ありがとうございます。
埼玉在住 成田
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成田様へ (屯田太郎)
2012-09-27 19:16:34
成田様へ

訪問、そして、書き込みありがとうございます。
お母様は昔、山鼻に住まわれていたのですか?
ご先祖様にお参りをされ喜ばれていたのではと思います。

屯田兵の成田春吉さんは津軽の方ですね。山鼻屯田兵子孫会の名簿には子孫の方が江別市(札幌市の隣)におられる様になっています。
私のほうでは、その詳細は分かりませんし、その名簿が最新のものかどうかも分かりませんが、もし、調査を希望されるようでしたら、子孫会の事務局の連絡先を知っておりますのでお知らせ下さい。
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はじめてコメント致します。 (OK)
2012-12-25 01:48:48
はじめてコメント致します。

札幌在住のゴスペル歌手、Natsukiさんのご先祖が、
山鼻村に入植した屯田兵とのことでした。
http://natsuki74.blog111.fc2.com/
(彼女のブログです。)

「会津藩、吉川良吉(きっかわりょうきち)さん。」

この冒頭の配置図(南8、西15と16の間)にも、名簿にも確かにお名前がありました。

こうなると、136年前という遥か昔に、急にリアリティーが出てくるから不思議です。


以上、失礼致しました。



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吉川良吉氏は、西8の本願寺の南、15と16の中間... (OK)
2012-12-25 01:56:03
吉川良吉氏は、西8の本願寺の南、15と16の中間です。
先ほど、「南8」と書いたかもしれません。

訂正と確認のため、再度コメントさせていただきました。

以上、失礼致します。
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OKさんへ (屯田太郎)
2012-12-25 06:50:43
OKさんへ

書き込みありがとうございます。
natsukiさんのブログも覗かせて頂きました。

「136年前という遙か昔に」とありましたが、
開拓時代の歴史を調べていくと、今につながるものが一杯あり、100年前というのは、それ程遠い過去ではないような気がしてきました。
ただ、歳をとっただけかも知れませんが。

以上、よろしくお願いします。
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