屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

2011-06-22 19:29:58

2011-06-22 19:29:58 | インポート

<ルポ:現在の永山兵村 平成23年6月>
 旭川の中心から、国道39号線を東に暫く走ると、郊外型の大型店舗の大きな看板が目に付くようになる。この付近が永山西兵村のあった場所で、国道から南側に1条入った両側には新しい住宅が整然と並ぶ。国道の北側は企業関係の建物が多い。
 さらに国道を東に進むと南手奥にこんもりとした緑の林が見えてくる。ここが、第三大隊本部があった場所で永山神社の脇の屯田公園に大隊本部の碑と黒御影石で作られた永山屯田100年記念碑が建つ。この場所は、現在でも永山の中心で上川支庁、永山支所等の建物が集まる。ここからが永山東兵村で、国道をさらに進むと旭川大学、永山新川に差し掛かり、その先は、町並が途切れ田畑が目立つようになる。
 永山兵村は、中央道路(現在の国道39号線)の両脇に東西約7kmにわたり配置され、その給与地は石狩川から牛朱別川の間に配当された。
 永山で屯田兵子孫の方を始め何人かの方と話をする機会を得て強く感じたことは、郷土永山という土地に対する自負心というか、プライドというか、永山が旭川の中心であったという気持をもたれていることである。
 事実、上川の地に始めて戸長役場か設置されたのは永山の地で、永山屯田兵が入植した明治24年、神居村、旭川村、永山村を包括する戸長役場が第3大隊本部に設置された。
 上川の地は、明治24年の永山屯田兵の入植をもって開かれたといってもよい。また、永山の地名は、上川開発の祖とも言うべき、2代北海道庁官、初代第七師団長永山武四郎の名を取って名づけられた。
 その後、明治25年に旭川(現東旭川)、明治26年に当麻屯田兵が入植したが、それらの先輩格にあたり、未開の地を開き、後から入植する者の道筋をつけたといってもいい。
 そして、今、旭川の中心として発展している忠別太に先んじて発展した。
 永山新川の開通にあわせ開館した川のふるさと交流館『さらら』に、当時の賑わいを示す建物の模型・写真が展示してある。
 今紹介した永山新川であるが、永山兵村を含め旭川兵村や当麻兵村の牛朱別川沿いの給与地では度重なる氾濫により大きな被害を受けてきた。これらの水害から農地を守り安心して生活ができるようになるまで1世紀あまりの期間を要したが、平成16年に20年の歳月をかけバイパス水路の工事が完了した。この新川は、永山東兵村の農地を分断する形で流れる水路であり、堤防沿いは地域住人の憩いの空間としても配慮されている。
 永山は上川開拓の先駆者であったが、旧第七師団の近文台への配置等の影響もあり、その後の発達は忠別太(現旭川市中心)に移った。永山村は昭和36年に旭川市に吸収合併されてしまい、今では旭川市のベットタウンとして、工業団地として、また、文京の地として変化している。
 寂しいかな、過去永山にあった屯田兵関係の資料も合併に合わせるかのように旭川市に移され永山には殆ど存在しない。『さらら』に屯田兵関係の展示コーナーがあるが、一部を除き、その殆どはレプリカである。
 永山の伝統を残すものとして、この地に何か無いかと永山支所を訪ねた。そこで紹介されたのが「永山屯田まつり」なる行事。早速、国道を跨ぎ北側にある商工会所の事務局に伺い話を聞いてきた。
 「永山屯田まつり」は、昭和62年に市民手作りのまつりとして創設。平成23年で24回を数える永山地区の一大イベントとして定着をした。
 その趣意書の中に「永山屯田まつりは、先人の偉業に感謝と敬愛の気持を高めると共に豊かな文化遺産を誇りとし、後世に伝えていく使命と郷土永山の益々の発展を祈願し取り組んでいる・・・」とある。
 平成23年は7月29日~31日の間にわたり繰り広げられる。その中には、屯田兵の仮装パレードも行われる。
 「合併により、今まであったまつりごとが無くなった。その結果、過去その地にあった文化と伝統が失われていく」。と話された方がいた。
 永山のこのまつりは、昭和62年に新たに持ち上がったものである。その時のエネルギーは大変なものであると思う。継続するのも住民の思い。永山屯田祭まつりが地域の伝統となるように期待したい。
 上川開拓の先駆者的存在の永山兵村。都市化の波をまともにかぶり、国道沿いではその面影を探すことはできないが、今尚残す当時の区割りと、給与地として付与され、屯田兵とその後入植した人たちにより作り上げられた石狩川から牛朱別川の間に広がる豊かな農地、それと、大隊本部の碑をはじめ屯田兵の偉業を顕彰するか数々の碑。
 永山の伝統を屯田兵子孫の方々と、その後、入植した多くと人々の子孫の方々が守る。