屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

大田兵村の紹介

2011-06-24 07:09:09 | 太田屯田兵村

< 工 事 中 >

「太田兵村」
入植年:明治23年
入植地:厚岸町太田地区

  Photo_39

「太田兵村入植配置図」「ohota1.pdf」をダウンロード

出身地:東北、北陸、中国を中心に9県
入植戸数:440戸

「北太田兵村入植者名簿」「kitaohota2.pdf」をダウンロード 

「南太田兵村入植者名簿」「minamiohota3.pdf」をダウンロード

第4大隊(1・2中隊:和田、3・4中隊太田)
 大隊長 初 代 和田正苗少佐:明治9年開拓使に出仕、西南戦争従軍、東京鎮台勤務の後、根室外9郡長拝命、明治23年から上川の大隊長
     第2代 小泉正保少佐:大隊長心得として就任、屯田兵副官として司令部転出、日清戦争で4大隊長に復帰、後に初代野付牛4大隊の大隊長
     第3代 栃内元吉少佐:永山武四郎本部長に同行し道内視察、後屯田司令部永山武四郎の腹心として活躍、和田では約5年間にわたって勤務し問題点を提起している。

移 動
 第1便
  便 船:石崎丸?
  航 路:坂井(福井)~新潟~酒田~厚岸
  入植日:6月26日
 

 第2便(宮城県入植の12戸)
  便 船:新潟丸(萩の浜~函館を結ぶ日本郵船の定期船)、
      駿河丸(寿都~函館~根室を結ぶ定期船)
  航 路:萩の浜(石巻)~函館~厚岸
  入植日:6月27日頃
 

 第3便
  便 船:和歌の浦丸
  航 路:神戸~岩国~坂井(福井県)函館~厚岸
  入植日:6月29日
  (以上、移動については釧路大学教授高島氏の論文を参照)

給与地 宅地兼給与地:約5,000坪
      1次追給地:5,000坪
      2次追求地:5,000坪

南大田兵村
第4大隊第3中隊~第1中隊
 中隊長:岩渕繁隆大尉
    (明治29年後備役まで務め、そのまま太田に残る。昭和5年82歳で他界) 

出身県別入植者数
 山形県  89
 新潟県  74
 石川県  57
    計 220名            

北大田兵村
 第4大隊第4中隊~2中隊
 中隊長:初 代:門田見陳秀大尉(明治26年12月休職)
      第2代:

出身県別入植者数
 山形県  11
 宮城県  12
 兵庫県  13
 石川県  48
 福井県  79
 山口県  37
 和歌山県 20
    計 220名

Ⅰ 太田兵村の特色
1 地理的特質
(1)厚岸湾から北方約5km上った根釧台地の南東端に位置する。根釧台地は阿寒山地から釧路、根室方向の太平洋岸に向かってのびており、台地内に無数河川が流れ、釧路川以外は小河川で台地を鋭く切り込んでいる。また、平地を流れる河川の周囲は湿地となっている。
(2)春から秋にかけては濃霧に包まれることが多く、気温(8月の最高平均気温20度)は上がらない。冬季積雪は少ないが気温は低い。
(3)太田の大地はアイヌの往来も寄せ付けない程の大森林で土壌はあまりよくなかった。
(4)厚岸湾内は穏やかな広大な内海である。また、牡蠣の養殖で有名な厚岸湖は厚岸湾に連接している。江戸末期、千島列島方面へ航海する場合の中継地として湊が栄え、漁業が盛んで厚岸場所があった。しかし、水深が浅く大型船の接岸が出来ず近代に入り港としては発展しなかった。
(5)標茶を起点に囚人が作った道路により釧路と結ばれており、以降、網走まで道路が開かれた。現在も釧網線が釧路~標茶~網走まで走っている。

「釧路集冶監本監(現標茶町郷土館)」

  

(6)大田村から標茶までは丘陵地が広がっており所々に牧場が存在する。この地一帯は大酪農地帯である。

2 時期的特色
(1)明治19年、明治15年の開拓使廃止から4年間続いた3県時代が終わり道庁時代に入る。同年、北海道土地払下規則公布。
(2)明治20年~21年にかけて屯田本部長である永山武四郎が米、露、清を視察その中でコサックの屯田兵制を研究。
(3)明治20年、永山武四郎本部長の下で、屯田兵制度の大々的な見直しと20個中隊増強計画を立ち上げる。
(4)明治21年標茶の集冶監の囚人達によって標茶~厚岸間40km及び標茶~釧路間の道路開削。明治22年~23年にかけて和田兵村の建設に当たる。
(5)明治19年~明治22年にかけて根室和田兵村入植。太田屯田兵とで4大隊を編成。
(6)明治23年、屯田兵条例(服役期間現役3年、予備役4年、後備役13年の20年となる)、屯田兵土地給与規則(給与地は1万5千坪となる)、その他関連規則の改正が行われる。
(7)太田屯田兵は滝川とともに最後の士族屯田兵。
(8)日清戦争を4年後に控え朝鮮半島では緊張が高まる。
(9)予備役として日清戦争に出征3月四日充員招集受け。和田屯田兵とともに3月23日厚岸港を出航。5月30日帰村。
(10)明治30年後備役に入る。

3 入植者の特色
(1)3中隊(南兵村)は山形、新潟、石川の3県、4中隊(北兵村)は東方、北陸、近畿、中国にまたがり7県からの入植。
(2)南・北の兵村で入植者に特徴があり、南兵村では藩まとまって、北兵村では多くの藩が少人数で入植している。南兵村には米沢藩、高田藩、村上藩、大聖寺藩、新庄藩(新庄藩は南北兵村に分けて)が入植。
(3)南兵村3中隊には米沢藩上杉家の重鎮である本庄家、柿崎家が入植。

4 任務上の特色
(1)重要港(厚岸港)の防衛と千島からの脅威への備え
(2)日露戦争出征
   大田村から184名出征、戦死37名(内17名は戸主)

5 発展過程上の特色
(1) 太田への屯田兵入植は地域の住民の嘆願があって実現された。
   
   「厚岸方面へ屯田兵御配置相成度儀ニ付願」(明治18年4月2日)
                 宛 県令 湯地定基

(2)夏の海霧と低温で作物が育たず。開墾は困難を極める。
   開墾状況:10年経過した開墾状況29%、最も良いのが永山兵村で94%

   (一戸当たりの平均年収)
     新琴似:188円
     永 山:185円
     太 田: 63円(新琴似、永山の1/3)
     和 田: 56円

(3)自給自足が困難なことから、現金収入の獲得のため積極的に出稼ぎに出る。6月から8月にかけての鰊業には厚岸の漁場(厚岸、奔渡、真龍、苫多、仙鳳趾等)に、その他、集治監の監視人、亜麻の職工等へ転職するもの多数。
(4)入植者の大部分が離村し村は荒廃
   明治31年(入植8年後、後備役に)時点で半数近くが離村。日露戦争はさらに拍車をかけ、給与地は荒廃し、第2給与地は顧みられることはなく、作付けされている耕地は兵屋の周りの3~4反という有様で馬鈴薯、麦、蕎麦、稲黍、燕麦等自家用の食料を補う程度になってしまう。給与地を没収された者29戸(南兵村5名、北兵村24名)なお、和田兵村64戸、輪西20戸と農耕に適さぬ地に配置させられた兵村で没収多数。
(5)その後、残った者と新に入植した人達の手によって馬産~酪農に活路を見いだす。
(6)農耕の状況
  ア 畑作
    粟、燕麦、豆類等17種類の作付けをするも、地域の気象等条件に応ずるか否か不明で多くは失敗に終わる。
  イ 養蚕
    明治26頃、自生していた桑をえさに養蚕を始め、明治政府の奨励もあり年々盛んとなり一時期1200本以上を植え付ける農家20戸を数えたが、森林の伐採などで海霧の発生のため成育不良となり衰退して行った。5番通に残る桑並木は養蚕を試みた名残。
  ウ 稲作
    試みはあったが、不成功。 
  エ 酪農
   「馬産地としての太田」
    明治23年入植とともに、軍馬、農耕馬として根室から30頭の馬を導入。その後、新冠の御料牧場、明治35年には真駒内の種畜場から種牡馬を買い入れるなど馬の改良と繁殖を行う。大正2年には道東の重要な馬産地として釧路の大楽毛とともにその名をはせる。
   「肉牛から乳牛へ」
    明治24年、青森県から6頭の牡牛を購入し繁殖を図る。当時苦しい農業の傍らに肉牛を飼育。大正8年北海道乳製品株式会社が5番通りに進出し集乳事業を開始するも販売不振。昭和10年代に入り乳価の高騰により肉牛から乳牛への転換が図られる。これが、現在の太田の酪農につながっている。
(7)太田村の合併
   1955年(昭和30年)大田村は分村し厚岸町と標茶町と合併

6 太田屯田兵関係の著名人
  太田紋助:弘化3年(1846年)厚岸場所の請負人山田文衛門の番人であった南部出身の中西紋太郎とアイヌ女性の子として生まれる。8歳の時から国泰寺で下働をし、当時の住職から読み、書き、そろばんと農業のことについて学ぶ。明治2年、佐賀藩が厚岸郡を支配した祭、開墾係りとなりアイヌの人達を誘導しこの地方の開墾に尽力。熱心さを買われ開拓使になってからも牧畜取扱係に任ぜられる。屯田兵設置に関しての働き他数々の功績を認められ兵村に太田の名がつけられる。
        
  
  庄田萬里:高田藩出身の庄田直道の3男。戸主稲美とともに太田に入村。後に、札幌農学校を卒業し湧別兵村の看護卒として勤務。住民の湧別に医師をとの希望をかなえるため、東京慈恵医学校に学び、明治37年医術開業試験に合格。大阪の病院で臨床実習を努め湧別に帰り生涯この地で医療に尽くす。

Ⅱ 太田兵村の伝統を伝える

  (太田兵村の史跡等配置図)

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○資料館等
「太田屯田開拓記念館」
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○屯田兵関係の催し

○ゆかりの神社
「豊受神社」

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○屯田兵ゆかりの学校
「太田小学校」

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○太田兵村の文化財等

「開村の碑」

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「屯田兵屋(道指定)」

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  兵屋番号119番松本英男氏宅に復元「裏返し型」により立てられている。

「太田屯田の赤松(町指定)」

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  第3中隊長の岩渕大尉が寒さ厳しいこの地方で開墾を行う屯田兵や華族の人達の心
  を少しでも慰めようと郷里の青森から苗を取り寄せ植え付ける。

「太田屯田の桑並木(町指定)」

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「西野家行のう帳(町指定)」

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「太田紋助の墓」  

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「中隊本部の碑」

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本庄家古文書:
 本庄家は米沢藩(上杉家)の重鎮で、本庄孝長が太田屯田兵として入植、南北朝期から戦国期の多数の文書を持参(道庁赤レンガ文書館に本庄家文書として多数保管)

西野家行長嚢帳(厚岸町有形文化財):
 西野嘉太郎の屯田兵志願から郷里の新庄を旅立ち、太田への移住、屯田兵としての生活などを絵日記風に綴ったもので、嘉太郎の弟、要三郎が往時を追想して記したもので、太田屯田開拓記念館において所蔵。

○屯田兵子孫の会の紹介
 なし。
 屯田兵子孫と大田村に移り住んだ人たちにより伝統の継承活動を行っている。


ルポ 和田兵村の今(平成23年)

2011-06-24 05:46:28 | 和田屯田兵村

<ルポ:和田兵村の現在(平成23年6月)>
 

 平成22年9月、この地を訪ねたとき、「現在も17戸の屯田兵子孫が和田の地を守り酪農を営んでいる」。と聞いた。屯田兵37個兵村。道内26箇所に入植地があるが、このような例は他にない。
 それは、何故なのかと関心を持ち翌平成23年6月に再度訪した。
 根室半島は春から秋にかけて海霧に覆われる。しかし、訪問した3日間は、初日こそ海霧に覆われたものの、残りの2日間は青空が拝め、われの訪問を歓迎しているかの様であった。

 そんな中、屯田兵子孫の方が経営する3軒の牧場を訪問し酪農の実態を確認した。
 それぞれの牧場で飼育の仕方が違っていた。一軒の牧場は300頭の乳牛と、30頭の肉牛、20頭の羊、3頭の馬を飼育し、ロボット搾乳を行っている牧場で和田一番の大規模経営を行っている。次の一軒は、第8回全日本ホルスタイン共進会の大会で、時の農林水産大臣から優等賞を受賞する等数々の優良牛を産出している牧場で、牛にとっては勿論、飼育する人にも優しい環境を追及していた。
 最後の一軒は、3年前の平成20年に牧畜の最先進国であるデンマークの酪農を研修。それらで得た最新の飼育法を参考に、より効率的な飼育を追求していた。
 経営者等の皆さんから一言コメントを頂いたが、皆さん酪農に対する情熱には並々ならないものがあり、和田の地に対する郷土愛、祖先を敬う気持を強く持たれていた。
 そんな中、一人の方が言われた「酪農とは農業の芸術である」。という言葉に皆さんの思いが代弁されているように感じた。

「松浦牧場」
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「矢部牧場」
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「佐々木牧場」
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 酪農は土を育て飼料を生産し、牛を飼育する。牛のし尿から堆肥を作り、土を育てる。この循環の繰り返しであるが、それらの一つでも欠落していたら健康で沢山の乳を出す牛は育たない。  
 それと、経営とは戦いでもある。「より能率的に」、「より高品質」、「より多く」、「より良い環境に」務めなければ生き残れない。酪農は数千万円から億円単位の大資本の投入が必要であり、そのためには日進月歩で進む技術を追い求め、先を読まなければならない。そんなことを現場から感じ取った。
 それぞれの牧場を経営するのは屯田兵4世の方が中心で、5世の方々も跡継ぎとして酪農経営を目指している姿を見て心強いものを感じた。
 和田の地を守るのは彼らの力であり、彼らの背中を押したのは父の姿であり、その父の背中を押したのは祖父の背中であり、突き詰めれば、和田屯田兵として入植した440戸2208名の入植者の血と汗の結晶である。120数年前に入植した彼ら屯田兵の伝統が生きているのだ。
 
 和田屯田兵はその厳しい環境(気象、土地等)のため、他の兵村に類を見ないほど苦労を重ねたと言われている。兵役満了。日露戦争からの凱旋。明治40年頃にはその名を残すのみで殆ど離散してしまった。このことは、見方を変えれば二つのことが言える。その一つは、畑作から酪農へ変換することによって20戸程度の戸数しかこの地の農業経営者は必要なかったということ。もう一つは、根室地方には任期を終えた屯田兵達の受け皿があった事ことある。3県時代を終えた明治19年の根室には20数箇所の国・道の支所があったという、任期を満了した屯田兵達は公職に奉じる官員として、教育者として、または、出面取りとも言われたが、漁業、運送業の労働力として吸収されていった。
 
 当時の畜産業には販路が少なく、必ずしも順調な経営ではなかったが、その窮乏を救ったのが軍馬と言う馬に対する需要である。和田は軍馬の一大産地として発展する。酪農が軌道に乗るのは大東亜戦争の後のことである。
 官員、教育者等に奉じた元屯田兵、その子孫の中から、根室を牽引する人物が育ち、畜産に携わる屯田兵達を行政と言う面から支援したことも大きな要因である。先にも述べたが酪農経営には膨大な資金が必要で、国からの補助は欠かせない。それらの道筋をつけたのは屯田兵あがりの官員たちの力でもあった。
 幾度か危機がおとづれた。その最大のものは戦後の農地解放で、土地を手放なさなければならないという危機に直面したが、分家に分配するという方法で旨く切り抜けた。
 17戸の子孫の方がこの地を守り通せた訳は、そんな、みんなでこの地を守ろうという強い郷土愛に他ならない。

 屯田兵の入植から120年余りの年月が経過し、不毛の地とも言われた和田の地は緑豊かな牧草地へと変化した。しかし、厳しい気象条件と、ロシアと国境を接す防衛の最前線である事には変わりない。そんな厳しい条件下で営々と土地を守り、牛を育てるのが和田屯田兵子孫の方々である。
 牧場を廃業したある老婦人が「牛と分かれるのは寂しいことですよ」と涙目で話された。
 和田の人達はこの地と牛たちをそれほどまでに愛し続けている。
「島牧場」
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「海星小中学校の校歌」
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 和田兵村を去る日の朝、落石と昆布盛まで足を伸ばした。この地は、屯田兵達が出面取りで昆布取等の漁業、馬での運送業などを行っていた場所である。
 港ではあわただしく出漁準備をする人々の姿があった。
 「落石の風景」
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 「昆布盛の風景」
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 「屯田兵被服庫 改修された柱」
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  「お世話になった エクハシの宿」
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ルポ 野付牛兵村の今(平成23年)

2011-06-23 12:09:59 | 野付牛屯田兵村

<ルポ:野付牛兵村の現在>
 野付牛兵村の一区は小泉、2区は鉄南、3区は屯田、4区は三輪地区という。これは、当初からあったわけではなく昭和17年に市制が施行され野付牛から北見市へ変換。その後の北見市発展の過程で名付られたものと思うが、それぞれ特徴ある地名をつけている。1区の小泉町は初代大隊長の小泉正保、2区の鉄南とは鉄道線路の南側、4区の三輪は2代目大隊長三輪光儀、そして、3区は屯田と付けた。

 屯田兵中隊を区単位に区分し、兵村を離隔した方法は明治30年、31年のオホーツク地区に入植した屯田兵のみである。今回野付牛兵村を訪ねてみて、各区独立の気運が強いように感じた。
 入植者にとっては心のよりどころでもある神社も各区にそれぞれ存在する。1区、2区には野付牛の護国神社でもある北見神社が、3区は屯田神社が、4区は三輪神社が建立されている。各区の60戸程度世帯は丁度まとまりやすい数である。また、爾後の発展過程においても区単位で発展していったようである。

「野付牛の遠景」

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「2区鉄南の街並」

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「3区屯田の街並」

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「4区三輪の街並」

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「豊かな恵みを与えた常呂川の流れ」

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 その野付牛発展の過程であるが、鉄道駅の付近の1区、2区から発展した。3区の屯田はその後に。4区の三輪が市街地化の波に飲まれたのはごく最近の話である。その、三輪地区には入植者65戸のうち、現在も同地区に居住する直系の子孫は20戸あると聞いた。
 これは、都市化した兵村にあって非常に多い数字である。

 野付牛を含む北見盆地の3個兵村が入植したのは明治30年、31年。寒冷地での営農もある程度の軌道に乗り出した時で、稲作の試作も上川地区まで行われていた。また、北見盆地、訓子府盆地は緯度の割には比較的夏温暖な地で、日照時間も長く農耕に適した土地であった。
 絶大な権限を有する大隊長。特に2代目の大隊長三輪少佐は、いち早くこの地での稲作の可能性を見抜き、相内~野付牛~端野を結ぶ灌漑溝の建設に3個中隊全力をもって当たらせ、入植4年後の明治35年には完成させた。
 また、換金作物である薄荷栽培の成功などもあり、北見にある3個兵村は他の屯田兵と比較し営農が成功したといえる。当然、それまでにいたる苦労は他の兵村同様にあったと思われるが。

 平成23年現在で入植から114年経過した。野付牛(現在の北見市)はオホーツク総合振興局管内最大の都市で、125,000余人が居住する道内8位の人口を有する中核都市として発展した。昭和の初期まで薄荷の大産地で世界の生産量の70%をこの地で生産し、現在は全国一のタマネギの生産を誇る。地域農業の集積基地でもある。  
 そんな中にあって、野付牛兵村は離農が続いている。一番外れである三輪地区にあっても、市街地化の波に飲み込まれ、現在農地はなくなってまった。
 当地に住むもので営農を行っているのは3軒のみで、その耕作地は相内にあるという状態である。4世代目の子弟は高学歴化となり、サラリーマンとなって出て行くのが現状のようである。

「郊外型の大型店舗が並ぶ三輪地区」

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 三輪地区では、屯田兵の伝統を世代を超えて伝えていこうと、昭和53年、3世の方が中心となり入植80周年事業を大々的に行った。「三輪開拓記念碑の建立」、記念誌「八十年の歩み」の発行、入植時寺子屋形式の教育所があった場所の土地を市に寄付し、同地に保育所を設置したりもしている。
 昨今、北見市の市庁舎の移転問題が北海道の新聞紙面をにぎわせた時があった。3世の古老曰く「今ある市庁舎の敷地は屯田兵が寄付した大切な土地である。そんな事を知らない若い世代の者たちが市庁舎の移転決めてしまった」。と声を高らかに非難の声を発せられた。
 都市化する兵村で伝統を伝えていこうと葛藤する姿をこの地で見た。

「野付牛屯田兵3世と」

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野付牛兵村の紹介

2011-06-23 12:06:56 | 野付牛屯田兵村

< 工 事 中 >

「野付牛兵村」

入植年:明治30、31年
入植地:北見市春光町(1区)、泉町(2区)、屯田東・西町(3区)、三輪(4区)
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「野付牛兵村入植配置図」「notsukeusi1.pdf」をダウンロード

出身地:31府県
入植戸数:198戸

「野付牛兵村入植者名簿」「notusukeusi2.pdf」をダウンロード
  
屯田歩兵第4大隊(1中隊:端野、2中隊:野付牛、3中隊:相内、4・5中隊:湧別で編成)
 大隊長:初 代 小泉正保少佐(和田・太田の4大隊長から赴任)
      第2代 三輪光儀少佐(元当麻兵村の中隊長 水稲の将来性を見込む)
      第3代 徳江重隆少佐

明治30年の入植
    第1便 武陽丸(6月2日網走港着)
         移 動:武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
            網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
    第2便 武陽丸
         移 動: 武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
           網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
    第3便 武州丸(6月6日網走港)
         移 動: 七尾~新潟~青森~小樽~網走
    入植日:6月7日

明治31年の入植    
    第1便 東都丸
         移 動: 門司~大分~三津ヶ浜(愛媛)~尾道~神戸~四日市~館山~萩浜(宮城)~網走
    第2便 東都丸(9月  網走港到着)
         移 動: 敦賀~七尾~新潟~酒田~網走

給与地:琴似兵村以来の密居性を取る。中隊を4区(38戸~68戸)に区分し、各区は半密居性にした。同年に入植した端野、相ノ内、湧別もこの方法を取った。耕地とも言うべき給余地は第1次給与地として幅30間、奥行60間(1,800坪基準)、追給地は兵村の回りに約13,000坪割り当てられた。

第4大隊第2中隊
 中隊長:初 代 喜多鑑治大尉
      第2代
      第3代

野付牛兵村出身県別入植者数
 青森県   1
 秋田県   1
 宮城県   5
 福島県   7
 栃木県   1
 山形県  23
 新潟県   3
 富山県  21
 埼玉県   1
 福井県  14
 石川県  29
 岐阜県  22
 愛知県   6
 三重県   4
 奈良県   2
 和歌山県  6
 兵庫県   1
 滋賀県   1
 京都府   1
 島根県   2
 鳥取県   4
 広島県   3
 山口県   1
 香川県   2
 徳島県   2
 高知県   7
 愛媛県   3
 熊本県   3
 大分県   1
 佐賀県  12
 福岡県   9
 計 31県 198名

Ⅰ 野付牛兵村の特色
   野付牛とは「ヌプウンケシコタン」、野の端にあるの意味
1 地理的特質
(1) 常呂川沿いに細長く開けた北見盆地の中心で、常呂川とその支流である無加川、訓子府川等が集まる肥沃な地。常呂川は端野の隘路を流れオホーツク海へ注ぐ。
(2) 中野付牛(現北見の中心地)は、常呂川の支流が集まる地で、西北方が台地上の地形を形成しており、この地域の政経中枢を担う地形上の要素を満たしている。
(3) 北見盆地の気候は寒暖の差が激しく夏は温暖(平成10年8月6日37.1度を記録)、冬の寒さは厳しい。また、年間の日照時間が長いく、冬の降雪量も含め年間の降水量は少ない。
(4) 常呂川は護岸工事を行うまでは度々氾濫し暴れ川の別名をもつ。流域は肥沃な土地で作物の栽培には適する。
(5) オホーツク防衛の要点(現在自衛隊は美幌に部隊を配置している)。その際、中央道路は部隊の機動、兵站線として価値。

2 時期的特色
(1)明治24年、網走監獄の囚人達の労働によって上川から網走まで延びる中央道路が開通
(2) 明治29年、第7師団創設、屯田司令部廃止
(3)明治30年「北海道国有未開地処分法」が公布。
   (北海道土地払下規則を廃し,「無償貸し付け・成功後無償付与」の「北海道国有未開地処分法」が公布され,1人当たりの貸し付け面積の上限(一人に付き開墾の土地は150万坪、牧畜には250万坪、植樹には200万坪、会社や組合には2倍まで)が大幅に引き上げられた。屯田兵の入植後、多数の団体が入植した。
(4)屯田兵が入植する一ヶ月前の30年5月に高知県の北光社移民が入植した。
(5)日清戦争勝利の翌年に野付牛兵村が配置された。
(6)明治31年北海道全域に徴兵令が施行。
(7)明治32年旭川の鷹栖に第7師団設置を決定、明治33年~35年にかけて七師団旭川に移駐
(8)明治34年北海道会法、北海道地方費法公布に伴うところの屯田兵給与地に対する課税問題が持ち上がり明治35年北海道屯田倶楽部結成される。
(9)各地で米の生産が開始され一部商品価値化
(10)明治36年屯田兵現役解除(兵役5年)、第4大隊本部も解散
(11)明治37年屯田兵条例廃止。日露戦争勃発。

3 入植者の特色
(1)全国の31県からの入植で、同時期に入植した端野、相内兵村と同一地域。石川県が29戸と一番多く、山形県23戸、岐阜県22戸、富山県21戸で北陸・東北からの入植者が多い他は数名単位で入植
(2)指導者としての士官達は、それまでの兵村で農事の経験を積み重ねていた。

4 任務上の特色
(1)オホーツク正面の防衛と同地の開拓
(2)日露戦争出征 
      名出征    戦死者  名

5 発展過程上の特色
(1)中央道路が開通する前の北見圏は陸の孤島の感があり、当時の物流は函館あるいは小樽から北は稚内を回り、東は根室を回りで回漕するという回路のみが唯一の輸送手段であった。冬流氷により阻まれた時には食料、燃料にも事欠く事態が起こった。
(2)明治24年の永山屯田兵の入植から6年、開拓も軌道にのりだした。中央道路の開通により旭川からの連絡が可能になるとともに、網走港を起点とし、同港から約50kmの野付牛まで物資の輸送が可能となった。また、網走には網走監獄が開設されており人・物の集積が図られていた。
(3)野付牛には明治30年6月の屯田への入植に先立ち、高知県人の団体「北光社」の移民(主催者の中に坂本龍馬の甥にあたる坂本直寛がいる)112戸が5月から訓子府に入植し北光社農場を開設した。
(4)和田、太田で4大隊長を経験した小泉少佐、その後、明治31年9月当麻で中隊長を経験した三輪少佐が大隊長として勤務し、的確な営農指導の元に北見の風土にあう適作農業を推し進め、北見農業発展につながる礎を築いた。
(5)全道的に大被害をもたらした明治31年9月7日の大水害に遭遇、特に第1中隊の端野は大被害を被った。常呂川沿いの農地で水没するところ多数。9月10日野付牛中央尋常小学校(現西小学校の前身)が開校。
(6)適作作物の生産
  ア 畑作
    入植初期には燕麦、麦類、馬鈴薯、きび、そば。日露戦役の終わった頃から換金作物として菜豆、鋺豆、小手亡等の豆類を主作物とした。
  イ ハッカ
    明治34年頃から試作が始まり、明治40年の作付面積は全国の80%を占め、その70から80%を北見・湧別が占める。大正期に入りその名を世界にとどろかせた。大正から昭和にかけて一時期世界の生産の7割を占めていた時もあった。ハッカ景気に沸き屯田兵の定着と北見の発展に大きな貢献をした。

  ★ 屯田兵は当時の金で2000円もする土蔵の「倉」を建てたという話がある。

  ウ 稲作
    上川、空知で既に稲作を行っていたことから強い関心があり、明治33年寺前彦太郎、寺西政吉等が発起人となり無加川水利組合を設立し稲作の試作が行われた。2代目の大隊長大隊長の三輪光儀は水利条件や耕地の状況から水田の耕作が可能と考え、明治34年~5年にかけて大規模な灌漑溝掘削事業を展開した。日露戦争への出征で一時中断したが、兵村において米の自給の体制が出来たのは大正4年頃からである。
(7)明治42年2級町村制が施行され野付牛村となる。
(8)明治44年池田~野付牛間に、大正元年に野付牛~網走間に鉄道開通。人・物の集積が行われ、北見は野付牛の中枢として発展していった。
(9)農耕の成功から定着率が高く、家族、分家等を含めるとその数は相当なものとなった。川向、緋牛内、常呂、留辺蘂へ移り住む者により地域の発展につながった。それが、開拓民の移住熱に火をつけ北見の発展に大きく寄与。
(10)大正5年町制が施行され野付牛町となる。
(11)大正10年端野村、相内村を分村。
     当時の人口
      野付牛:21,620人
      端 野: 4,764人
      相 内: 3,768人
(12)昭和17年市制が施行され北見市となる。
(13)昭和31年9月30月相内村を吸収合併、平成18年3月5日端野町を吸収合併
(14)野付牛の行政の中心を担ったのは元屯田兵であり、屯田兵の子孫である。
    明治の末までは、約80%近くが屯田兵関係者、その後町の発展とともに減少するが、屯田兵の役割は大きかった。
(15)北見屯田兵の定着率は高い。
    昭和11年で、2中隊(野付牛)62.53%、4中隊(端野)55.5%、5中隊(湧別上兵村)43.2%

6 野付牛屯田兵関係の著名人
  居串佳一(屯田兵2世):オホーツクの自然をテーマとして書き続けた画家

Ⅱ 野付牛兵村の伝統を伝える
○資料館等
  「北網圏北見文化センター」
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  「屯田兵屋(北網圏北見文化センター内)」
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○屯田兵関係の催し

○ゆかりの神社
  「北見神社」
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  「三輪神社」
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  「屯田神社」

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○屯田兵が開いた学校
  「西小学校」

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○今に残る屯田兵の踏み跡
  「屯田兵人形(信善光寺)」:

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  大正12年、当時の住職であった加藤氏の母信静尼が名古屋のからくり人形師6代目玉屋庄兵衛氏経営の玉正商会を訪ねて「屯田兵とは厳寒に地でただお国のためにと大変苦労をされ亡くなった。その霊を供養し慰めるのが務めだ」といって発注。「屯田兵人形」は顔は桐材、胴体と鉄砲、台座は椹材を使用し、胴対は肩からつま先まで丸彫りし、帽子は和紙15枚を米を使った糊で重ね合わせ塗料は牡蠣の貝殻と膠を混ぜ合わせた。製作したのは名古屋の人形師木場堅治と師匠の荒川宗太郎氏
  

  「信善光寺」

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  「大隊本部の碑」

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  「大隊本部営門柱」(屯田公園内)

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  「屯田兵上陸の碑(網走ポンモイ)」
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 平4四年4月17日、屯田兵上陸の地(網走市国道244号線沿いのポンモイ海岸)に北見屯田会、端野屯田会、相ノ内屯田会の共同事業として上陸記念碑が建立された。経費は屯田兵子孫家族からの寄付をもって充てられた。
記念碑の高さ3.5m、幅2.9m、白と黒の御影石を使用。(関連記事30号)

  「北光社開拓(記念広場)」

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○屯田兵子孫の会の紹介
「北見屯田会」
 目  的:北見市屯田兵の開拓功績を永く讃えるとともに会員相互の親睦を図るものとする。
 発足の経緯:昭和10年以前に屯田兵の有志が集まり会を設立、故人の慰霊祭と屯田兵相互の親睦を目的に活動を行っていた。昭和24年になり屯田兵諸氏も高齢となり2世が跡を継ぐことになり2世会と名を改めた。昭和56年2世ばかりでなく広く3世も含めた会として発展
 活動内容:1回/3年の屯田兵上陸の地ポンモイで祖先をしのぶ行事
      毎年屯田神社で総会及び懇親行事
      屯田兵子孫会員及び家族を含めた懇親行事

 過去に行った活動:西小学校移転改築時の記念植樹
          東陵運動公園の植樹
          屯田墓地の緑ヶ丘霊園移転敷地料の負担
          北見屯田太鼓購入時の寄付
          昭和56年(85周年)記念事業のひとつ馬堀画伯の肖像画制作協力
          屯田兵上陸の地(網走ポンモイ)に記念碑建立事業に協力

 会  員:3世を中心に116名


ルポ:湧別兵村の今(平成23年)

2011-06-23 11:02:14 | 湧別屯田兵村

<ルポ:湧別兵村の現在(平成23年6月)>
 5月の連休を過ぎる頃になると、新聞の紙面にチュウリップの開花情報を『チュウリップの里』とよばれる上湧別の花の写真とともに紹介される。
 そんな、チューリップの里で有名になった上湧別兵村。

「チュウリップの里」

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上湧別は、今尚屯田兵の面影を色濃く残す兵村である。りんご、薄荷の栽培等、入植後の営農にも成功し土着する者が多く、その後も農業を中心に発展を遂げている。
 このように入植後早い時期から営農が軌道に乗り、現在に至るまで農業一筋に発展を遂げている兵村はまれなケースで、これが、これから説明する現在の上湧別屯田兵村の特色に現れているものと思われる。

 屯田兵が入植した1区、2区、3区と地名のつく地区にあっては、住人の殆どが屯田兵関係者で占められているところもある。今、1区、2区と言う地名を使ったが、これも珍しく。未だに4-1区、5-2区と言う地名が通用し(これは4中隊1区、5中隊2区の意味)、地図にも北兵村、南兵村と記されている。

「南1区の遠景」

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「南2区」

「南2区の家並み」

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「南3区の農作業」

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「北1区の玉ねぎ畑」

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「北2区の遠景 五箇山から」

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「北3区の牧場」

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「豊かな恵みを与えた湧別川の流れ」

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 上湧別兵村を訪ねて一番感じたことは、屯田兵の伝統を後世に伝えていこうという取り組を鋭意進めていることと、住民のチャレンジ精神である。
 その一端を紹介しておこう。
 屯田兵の伝統を後世に伝えていこうという活動であるが、湧別町には人口1万人の町には似つかわしくない壮大な建築物である博物館『JRY』がある。補助金で箱物を作る自治体の悪評をよくマスコミに取り挙げられるが、ここで話したいのは、逆にその施設を有効に使った伝統継承の活動である。
 『湧別町ふるさと館JRY』の付帯施設として体験用の屯田兵屋が建っている。ここ上湧別では、本館とこの屯田兵屋を使った体験学習を年間通して行っている。その主対象は湧別町にある小、中、高校生であるが、他に網走管内の先生方、PTAの方等にも明治開拓時代の衣・食・住の体験学習(研修)、さらには子供たちに対し宿泊体験、町内めぐり等の学習支援活動を行っている。もう6年近く行っているというが、その成果は着実に実りつつあるという。
 これに近い体験型の学習は他の博物館でも行われていると思うが、それを、郷土の歴史と伝統継承に結び付けているのはここだけであるように思う。

「体験学習用兵屋」

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 では、同じ様な試みを他の市・町で行った場合はどうだろうかと考えたときに、成功の確率となると疑問符がつく。
 湧別町の行うこの試みがなせるのは、屯田兵とその子孫たちが培ってきた農民としてのチャレンジ精神であるように思う。入植直後にりんごの栽培を手がけ成功を収め、さらには換金作物としての可能性を秘めた薄荷栽培に挑戦しこれまた成功。その後、小麦、豆類、甜菜、玉葱等次々と新しい作物に挑戦した気概が前を向いて進む上湧別の町民性を生み出したのだろう。

 湧別町文化センターTM前には「屯田兵が拓いたチューリップの里」と書いた大きなディスプレーが掲げてある。
 上湧別のチュウリップの栽培は、輸出作物としての外貨獲得のため昭和32年から始まった。しかし、10年も経たない間に大きな成果を得ないまま衰退してしまった。
 そんな時に始まったのが老人達のボランティア活動で、現在のチューリップ公園で栽培が細々と行われ出した。約10年の歳月をかけてその成果が身を結び。今では毎年10万人の観光客を呼び寄せる全国的にも名の知れたイベントに成長している。
 これらが、屯田兵の入植から幾多の困難を克服し、小さいながらも農業を中心繁栄してきた上湧別兵村の伝統である。

「チュウリップの里ディスプレー」

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 子供たちに体験学習を通じ、上湧別の伝統を伝える活動に携わる湧別町博物館JRYの学芸員であるN氏から、こんな言葉を聞いた。「子供たちには開拓時代の苦労話を伝えるのではなく、開拓者はすぐれたい人間であった。この地を切り開き生き抜いた人達はすばらしい人達だ。誇りと希望を持ち、前を向いて進む人間。そんなことを伝えたいと思っている」

 文中、上湧別兵村のことを説明するのに湧別町、上湧別と言う2つの地名を使ったが、実は上湧別町と湧別町が平成21年に合併し湧別町となっている。町・村合併はその土地の伝統継承を困難にし、場合によっては、そのものを消滅させる可能性を持っている。
 新しい湧別町で行っている今記した取り組みは、この危険を遠ざけるものであることは確かである。

「新生湧別町役場」

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 湧別の子供たちの中から、新しいチャレンジャーが生まれてくることだろう。
 その子供たちが湧別町の伝統を継承し、次の時代へと伝えていく。