屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ:琴似兵村の今(平成23年)

2011-11-30 11:28:56 | 琴似屯田兵村

<ルポ:琴似兵村の現在(平成23年11月)>

 北海道新聞の札幌市内版に、国指定文化財「琴似屯田兵屋」で『琴似屯田菜園鍬入種蒔式』なるものが行われるという記事が掲載されていので、興味をいだき見学に行った。イベント会場の「琴似屯田兵屋」では、その内・外に大勢の人が集まり、地元TV局の取材の中、兵屋裏の畑で種蒔きと、苗の植え付けが行われていた。

「琴似屯田菜園鍬入種蒔式」

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 見学の帰りに、『琴似屯田歴史資料室』のある旧西消防派出所の建物に立ち寄った。入口には鍵が掛かっていたが、玄関に「コ(5)ト(1)ニ(2)の日」のチラシが掲示してあり、そのタイトルに「琴似小学校の誕生と屯田兵・・・郷土を学ぶフィールドワーク」と記してあった。
 最近、地元紙である北海道新聞に度々琴似で行われる文化活動の紹介記事が載る。その中に屯田兵関係のものも多い。札幌には琴似、山鼻、新琴似、篠路の4箇所に屯田兵が入植しているが、特に琴似で行われている活動が目につく。
 何故なのか。やはり屯田兵制度が出来て最初に入植した屯田兵としての誇りなのか?入植者が会津、伊達の亘理等、戊辰戦争で賊軍の扱いをうけた藩出身者で反骨精神の気風があるからなのか?
 そんな疑問をぶつけるために、琴似屯田兵の3世であり、琴似で行われている伝統継承活動の牽引者でもあるN氏に面談を求め話しを聞いた。

 意外な回答であった。琴似で屯田兵を中心とした歴史を伝える活動が行われるようになったのは最近のことで、平成17年(2005)に「かがやけコトニ屯田兵の里まつり」のイベントを行ったのがきっかけであると言われた。
 この時、歴史講演会、屯田兵のパレード、バザー、パネル展示等、地域を上げて数々の催しが行われたという。イベントの後に夢を語り合おうと「ほらふき大会」なるものを開催し、各自それぞれ好き勝手にほらをふいた。その時に生まれたのが「琴似屯田歴史館建設期成会」であり、その会が主催する「カルチャーナイト」という歴史講演会が、翌平成18年から始まり現在まで継続実施されているという。
 その後、「コ(5)ト(1)ニ(2)の日」が生まれ、札幌市西区が主導する事業として「土曜はコトニ」という企画が始まった。

「市役所庁舎で行われたイベントの写真(タイムカプセルに入れる絵)」

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 新聞に琴似の話題が掲載されるきっかけを作ったのは平成17年に行われた「かがやけコトニ屯田兵の里まつり」であったようである。
 そして、そのイベントを成功裏に終えることができたことにより、区民の心の奥底に仕舞われていたDNAを呼び起こすことになり、屯田兵が開拓した地として、琴似の歴史を伝えていこうという活動が動き出すこととなった。そして、夢のある活動へと発展していった。
 「琴似屯田歴史館建設期成会」設立の目的は、書いて字の通り、琴似屯田兵の歴史館を建設しようと言うものであるが、過去、琴似には「琴似屯田兵記念館」が存在した。大正13年に行われた屯田兵入植50周年事業として屯田兵子孫の人達がお金を出し合い、琴似神社境内に記念塔と記念館を建設し、記念誌を作成した。しかし、残念かな、不審火により焼失してしまい現存しない。
 その中には、「屯田兵」育ての親でもある永山武四郎の子孫武敏氏、第3代中隊長の荒城重雄大尉の子孫から資料等の寄贈をうけ展示していたというから、屯田兵制度を解き明かす貴重な資料が沢山あったのだろうと思う。非常に残念である。
 現在ある『琴似屯田歴史資料室』の屯田兵関連の資料は、その後、琴似屯田兵子孫の方から寄贈を受けたものであるが、その中にある西南戦争従軍記録は他にない貴重な資料である。「琴似屯田歴史館建設期成会」の活動の輪が広まり、新しい「琴似屯田兵記念館」が建設されることを期待したい。

「記念塔と記念館の古写真」

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 琴似兵村は札幌市内にある他の3個兵村とは大きな違いがある。琴似兵村のあった琴似村は、屯田兵入植時から存在し、その中心は屯田兵中隊本部があった場所で、琴似村が琴似町、札幌市の西区になった現在に至るまで変化はなかった。西区役所前のミニ公園に「琴似屯田兵本部跡碑」があり、「開村記念碑」等、屯田兵に関わりのある記念碑が並ぶ。これは、中央区の山鼻兵村、北区の新琴似、篠路兵村にはないものである。

「琴似屯田兵本部跡碑」

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後方の建物は西区役所で、区役所前の広場はメモリアルパークとなっている。

「開村記念碑」

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 このことから言えるのは、琴似屯田兵は、琴似村から現在の札幌市西区に至る歴史の中で、地域発展の核となる存在であり、屯田兵とその子孫の中から琴似を牽引する人物が現れ、屯田兵の歴史=西区の歴史といっても過言でない程に重要な存在であったようである。
 屯田兵の面影を残すものとして、各記念碑、2棟の屯田兵屋、屯田兵ゆかりの神社、小学校、養蚕場跡の碑などあるが、屯田兵屋が立ち並んでいたJR琴似駅から国道5号線へ向かうメイン通りは大きく変貌を遂げている。両側に商業ビルが建ち並び、多くの人・車が往来し、札幌市の中心である駅前通りに匹敵するくらいの賑わいを見せている。屯田兵と家族達にとって琴似を象徴する山として存在し、朝な夕なに仰ぎ見た三角山はビルの谷間に没して姿を現さない。

「現在の琴似」

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琴似駅前から国道5号線にのびるメインストリート

「現在の発寒」

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「琴似川」

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「三角山」

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 練兵場のあった山の手付近から眺める。

 琴似には何度も足を運び、また、琴似屯田兵ゆかりの地も歩いた。それは、琴似屯田兵がはじめて北海道の土を踏んだ小樽であり、広い地域に 広がる琴似の屯田兵給与地であり、桑畑の栽培された地であり、屯田兵制度の発足に係わった人物の碑であったりした。

「日本郵船建物」

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小樽の旧手宮駅の近くにある。屯田兵や開拓民達が北海道に第一歩を踏み出した場所はこの前浜。

「道知事公邸内の桑園碑」

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山形県人が養蚕を始め、琴似兵村の養蚕事業へと発展。

「黒田清隆像」

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屯田兵生みの親で、大通公園にケプロンの像とともに建つ。

「永山武四郎邸」

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永山武四郎の私邸で、札幌ファクトリーの東側に建つ。

「北海道開拓の歴史村に復元された開拓使本庁舎」

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「村橋久成像」

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サッポロ麦酒の創設者で、琴似兵村の配置に携わる。知事公館入口に建つ。

「農業試験場跡」

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大正14年に琴似に農業試験場か建設された

 そんな中で二つの側面を感じた。一つは、指導する側の開拓使官僚達の失敗は許されないという不退転の決意。これは、ある面において扶助という行動となって現れてくるが、開墾、農業指導、西南戦争への出兵等において最大限の配慮が行われたように感じた。
 もう一つの側面は、屯田兵及び家族の果敢なチャレンジ精神である。こちらの方は、指導する者、される者ともに未知の世界への挑戦であり、その結果が、爾後入植する屯田兵、あるいは、開拓民への道標となっていったのだと感じた。琴似屯田兵の特徴として、屯田兵の中から多く将校(10名)を輩出しことが上げられるが、新琴似の初代中隊長に就任した三澤毅をはじめ、太田資忠(永山)、林源次郎(一已)、山田貞介(上湧別)、縣左門(新琴似)等5名の中隊長を輩出している。この様な例はどの兵村にもない。これは、この二つの側面の中で人材が育ったのではと思う。

 琴似屯田兵子孫会は、「かがやけコトニ屯田兵の里まつり」、「カルチャーナイト」、「コ(5)ト(1)ニ(2)の日」、「土曜はコトニ」等の行事に協賛という立場で参加をしている。カルチャーナイトの企画はまさに、今回お話しをうかがった琴似屯田兵3世のN氏であり、多くの方が色々なイベントに中心人物として、あるは裏方として参加をされている。
 会主催の活動としては開村記念行事、毎年一回の機関誌の発行、屯田兵ゆかりの地を訪ねる旅行等が行われている。
 その中で、西南戦争の戦跡巡を平成21年に行った際、地元鹿児島県の方々と交流をする機会を得たという。また、訪問がきっかけで湧別小学校と、琴似小学校の交流が行われるようになったともいう。 
 今後は、宮城県の亘理、福島県の会津若松等屯田兵出身者のルーツを訪ねる旅の計画もあるというが、屯田兵というキーワードで関係する市町村と結びつき、交流の輪が広まる。
 現在、3世の方中心の活動であるが、4世、5世、6世、あるいは、地元で生まれ育ち郷土に思いを抱く方々へとその輪が脹らみ、琴似の歴史と伝統が後々まで伝承されていくことを望みたい。


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