屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ:篠津兵村の今(平成23年)

2011-11-29 13:37:00 | 江別・篠津屯田兵村

<ルポ:現在の篠津兵村(平成23年11月)>

  江別の市街地から石狩川を渡り、対岸の篠津に入ると風景が一変する。そこは、水田と麦畑が広がり、牛舎の姿も見える。ここにあるのが、江別屯田兵中隊の一部60戸が入植した篠津兵村である。

「篠津兵村史跡地図」

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 篠津兵村には、他の兵村にない幾つかの特色がある。
  その一つは、今、記した通り石狩川を挟み中隊が二分されていること。これは、当初、1個中隊220戸を篠津地区に配置しようとしたのだが、度重なる水害のため60戸の入植で中止したことにより生じた。その二は養蚕立村を追求したこと。屯田事務局(明治14年までの呼称)では屯田兵及び家族授産のため換金作物として養蚕を奨励した。そして、篠津兵村はその試験的な役割を担った。その三は60戸の小さな兵村であるが、入植地がさらに2個地域に区分され、入植時期が違い、入植者の出身県も違うことなどである。
  これらの特色が、その後の発展の過程で色々な事象となって現れ、現在に受け継がれている。
 
 「篠津の風景」
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 「40戸兵村の今」

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 「煉瓦作りの牛舎」

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 篠津兵村の事を調べて行く中で篠津兵村は江別兵村の一部、分村ではなく、独立した一個の兵村であると思うようになってきた。中隊が二分された例として、琴似兵村と、その分村発寒兵村があるが、こちらの方は、琴似発寒川を挟み別れて入植しているものの、同一の発展過程を踏んでおり、関係は密で同一の兵村と捉えて差し支えない。
  江別屯田兵遺族会会長のT氏にお話しを聞く機会があったので、このことについて質問してみた。
 指摘のとおりその気風は強いと話された。明治11年、江別屯田兵の第一陣10戸が入植した時に札幌郡江別村が誕生したのに対し、篠津村は石狩郡に属していた。江別村と篠津村が一緒になったのは明治39年で、江別村、篠津村、対雁村が集まって江別町となった時からである。
  そんなことから江別屯田兵の遺族会も別々に作られ、開村記念行事も江別、篠津で別々に行われているという。現在、江別、篠津兵村間での交流は殆ど無く、逆に江別屯田兵遺族会と野幌屯田兵遺族会間での交流の方が深いともいう。
 石狩川に分断され、土地の条件も違うことから、同じ中隊であるにもかかわらず篠津、江別兵村それぞれが別個に発展したことが分かった。
 
 二つ目の特徴である「養蚕立村」を追求したことであるが。
 篠津屯田兵の第一陣として明治14年に入植した場所は、明治8年、開拓使が養蚕所を設置した場所で、琴似、山鼻屯田兵の家族の人達を旧豊平川の川船で行き来させ、養蚕の仕事に従事させていた。

 「篠津太養蚕室跡碑」

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 そもそも、篠津の地に屯田兵を入植させようとしたのは、この地に天然の桑の木が自生していることから篠津で養蚕事業を展開・発展させ、三年間の扶助期間満了後の屯田兵及び家族の生活を安定させることにより、この地への定着ねらったものと思われる。
  そのため、明治14年、最初に入植した19戸の屯田兵は士族であるとの条件を外し、青森、盛岡、酒田の養蚕経験者を入植させる等慎重な配慮を行った。

  11月下旬、江別市在住酪農学園大学のK先生と申し合わせ、屯田兵子孫のNさん宅を訪問した。
  この方は3世で、お爺さんである屯田兵が入植した当時と同じ場所に住んでおられた。若い頃は学業のため小樽で過ごされ、現役兵として召集、復員後地元に戻り、鉄道マンとして勤務したというサラリーマンであったが、小さい頃に過ごした篠津の状況を鮮明に憶えられていた。
 
 「Nさん宅近くにある兵村のバス停」

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 「20戸兵村の今」

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  養蚕はどうでしたかと聞いたところ、「成功しなかった。篠津川流域の地では、牛・馬を数頭飼い、畑作を主体に営農を行った」と言っていた。米の栽培は昭和に入ってからで、40戸が入植した篠津川の右岸から当別寄りの地区から始まったそうだ。やはり、石狩川から離れるに従い土質は泥炭質となり、土地改良を進めなければ畑作農地として適さなかったのだろう。
  Nさん宅の向かえに住んでいたのが、名越源五郎(青森県出身の元会津藩士、入植時伍長)で屯田兵7337名の中で指より数えられるほどに有名な人物である。後に陸軍将校となり、室蘭、永山、一已、和田、北見、士別の屯田兵村で指導的役割を担う。陸軍歩兵少佐で退役、初代江別町長に就任。屯田兵の字引といえる人材であり、篠津屯田兵の生みの親、育ての親でもある。分家の子孫の方は現在も近くに住まわれている。

  三つ目の特徴である入植地がさらに2個地域に区分され、入植時期が違い、入植者の出身県も違うことであるが。
  これは良い面と悪い面が結果となって表れた。
  まず、良い面であるが、20戸と40戸が分置されたことにより、兵村の廻りに10,000坪(明治23年の給与地規則の改正で15,000坪となる)の給与地の配当を受ける事が出来たことで、これは、農作業を行う上で大変有利であった。この成果は、明治30年、31年に入植した野付牛、湧別屯田兵に生かされ、当該兵村では中隊を3個~4個単位に区分し、各区約60~70戸ずつ入植させ給与地を宅地の近くに配当された。これらの兵村での定着率は高い。
  それに対し悪い面であるが、最初に入植した屯田兵は東北の人達で、後に入植した人達は九州、四国、中国地方出身者。入植した場所が分離していたことから言語の問題が長きにわたりつきまとったようである。他の屯田兵村でも言葉が通じなかったという記録が残っているが、篠津兵村に関してはその中でも特に酷かったのではないだろうか。

 篠津は今なお入植当時の面影が所々に残る。
 石狩川流域に入植した兵村の位置をながめていて気づくことがある。札幌、江別、美唄、滝川、上川の屯田兵はすべて石狩川左岸に入植していることで。石狩川右岸に入植した兵村は雨竜屯田兵の一已、納内、秩父別と篠津の外をおいてない。これが意味するところは、石狩川右岸に農耕地に適する土地が少なかったことである。上川道路(現12号線)と函館本線が走る石狩川左岸沿の地域が農業と商工業複合都市として発展したのを尻目に、当別、篠津、月形、浦臼、新十津川、雨竜と続く石狩川右岸沿いは農作物の生産拠点としてのみ発展した。
 そのため、これらの地域では、殖民区画が明瞭に残り、篠津兵村のあった場所は、今でも入植当時の面影を残している。

 「旧石狩川」

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 「篠津川」

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 「町村農場」

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 子孫のN氏と話しをしている中で、昭和30年頃、兵屋のあった付近をプラウで掘り起こしていたところ、煉瓦の破片が見つかったという話題に移った。この煉瓦の破片は、ロシア風の兵屋に設置してあったペチカの残骸に違いない。当時、価値のあるものとは思わず破棄してしまい何処に行ったか分からないと言われた。
 この言葉に、同行した酪農学園大学のK先生の目の色は変わった。何とか探し当てることが出来ないものかと色々訪ねられた。もし発見されれば貴重な資料として江別市セラミックアートセンターに展示されるのにと言われた。K先生の探求心に火がついたように見えた。
 明治12年、樺太のコルサコフ(大泊)の視察から帰国した永山武四郎(当時の屯田事務局長)が自生していた桑樹の林をみてこの地に養蚕の拠点を作ろうとし、ロシアのコサックの住居を参考にログハウス風の兵屋を建築した。しかし、残念かな、養蚕事業は成功せず、ログハウスも腐蝕したため10数年で撤去され和式の兵屋に建て替えられた。
 夢ははかなく潰え、江別屯田兵が試験的に行った西洋式農業が篠津に定着し、現在に受け継がれている。

 「ログハウス風の兵屋」

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 「養蚕場の建物」

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ルポ:江別兵村の今(平成23年)

2011-11-16 11:36:03 | 江別・篠津屯田兵村

「ルポ:江別兵村の今(平成23年)」

 国道275号線を当別方向へ向けて走り、新石狩大橋の手前を右に折れ江別へ向かった。この付近は対雁といい、旧豊平川が石狩川に注ぐ場所で古くから開けていた。
  また、「樺太千島交換条約」の締結に伴い、南樺太に住んでいたアイヌの人達が移り住まわせられた場所でもある。さらに東に向かうと市営墓地があり、この地でなくなった多くの樺太アイヌの人達を慰霊する墓がある。

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「江別兵村史跡地図」

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「旧豊平川口(対雁)」

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「対雁番屋・駅逓跡」

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「榎本武揚の像」

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「樺太アイヌ慰霊の碑」

  この付近まで来ると、黙々と白い煙を吐き出す煙突が見えてくる。王子特殊紙工場の煙突である。その工場の脇を通り、国道12号線に入り、千歳川にかかる「新江別橋」を渡ると、直ぐ右手に「江別河川防災ステーション」という建物があり、館内に実寸大の「上川丸」の模型が展示してある。
  2階フロアには展示スペースがあり、明治44年当時の写真を忠実に再現したジオラマ、壁には当時の姿を物語る絵図がある。
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「王子特殊紙工場(旧富士製紙工場のあった場所にある)」

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「富士製紙工場のジオラマ」

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「明治44年の江別の景観」

 中々リアリティーに富んでいる。これを見て、江別屯田兵が入植して20年余り後の江別の変貌ぶりがうかがえたのと、江別は、それ以北の開発の中継基地として重要な位置づけにあったのだということが分かった。
  それと、もう一点、江別屯田兵村の東側一角を潰して富士製紙工場を建設したことの意味するものは何なのか?明治37年に屯田兵制度が廃止となり、江別に屯田兵が存在すること自体必要でなくなってしまったのか?そう言えば、重要港の防衛という理由で明治20、22年に配置した室蘭の輪西兵村も同じである。明治40年、輪西兵村のあった場所に製鋼所が建設された。
  給与地の売買を30年間禁止された一方で、給与地に製紙所、製鋼所が作られる。少々疑問を持った。
  
 江別の歴史の中で屯田兵と関係する特徴ある事象として、水運と鉄道をつなぐ中継基地以外に、①西洋型農業の試験場として開かれたこと②大東亜戦争末期、富士製紙工場が木製飛行機の製造工場となり、兵村の大部分が飛行場、そして、誘導路となってしまったこと等がある。
  江別兵村の第一陣が入植した明治11年は、「ボーイズ、ビィ アンビシャス」の言葉で有名なクラーク博士により札幌農学校が開かれて2年後である。西洋型農業の普及を目論んでいた開拓使は江別をその試験場として捉え、エドウィン・ダンほか開拓使のお雇い外国人技術者と札幌農学校で教育をうけた生徒達を派遣し技術指導にあたった。
  屯田兵と家族達は西部開拓史時代の米国の建物を真似て建築した兵屋に住み、ハロー、プラウなど西欧式農機具と馬・牛を使い開墾を行った。
  そして、エドウィン・ダンの指導により日本で初めて瓦管による湿地の排水も行われた。

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「米国式の兵屋」

「エドウィン・ダン記念館にある江別兵村の開墾風景」

「北大旧第2農場に保管してある当時の瓦菅」

  明治11年江別に入植した屯田兵はわずか10戸である。こんな少人数の人達にこれ程までに熱をいれ開墾の指導を行った訳は。屯田兵制度が出来て4年目、この制度を成功させるための不退転の決意がうかがえそうである。
  明治8年、9年に入植した琴似、山鼻兵村は指導組織も整わない中で、当初、桑の栽培と養蚕を中心に農業指導が行われたのに対し、江別兵村の第一歩は西洋式農業の伝授で踏み出した。
  当時は稲作の栽培を堅く禁止しており、これら実地でおこなわれた西欧型の農業技術、養蚕技術等が以降に入植する屯田兵、更には一般開拓者に受け継がれ各地に普及していった。

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「厚岸太田兵村に残る桑並木」

  現在、江別兵村のあった場所は市街地化、住宅地化、工場用地として生まれ変わり、西洋型の農業を今に伝えるものは殆ど残っていない。あるとすれば、旧町村農場跡くらいかも知れない。
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「旧町村農場」

 郷土資料館に木製飛行機の車輪と、合板、設計図等の資料が展示してある。
  終戦間近、この江別で陸軍の戦闘機「疾風」を模した木製飛行機「キ106」の試作機3機が製造され丘珠まで試験飛行で飛んだとの記録がある。この説明は割愛するが、屯田兵とその後入植した人達によって開墾された農地は滑走路、誘導路として取って代わられた。当然そこに住む人達は移転し、牛・馬等の家畜たちは他に移されたり、と殺処分された。現在の地図に、当時誘導路であった斜めに走る道路が残る。

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「木製飛行機のタイヤ」

 この飛行場の建設により、江別兵村は完全に崩壊してしまった。戦後間もない頃の航空写真をみると、富士製紙工場→木製飛行機製造工場の周りには関連施設、宿舎等が立ち並び、その先に滑走路と誘導路が延びている。周りは畑、あるいは牧場であろうと思われる農家が点在しているが、西側に広がる野幌兵村の景観とは明らかに違っている。この何年か後に、飛行場跡地に住宅、商業施設立ち並んで兵村は消滅することになる。
 
 開基120数年という短い歴史ではあるが、江別は北海道開拓の歴史の中で重要な役割を果たしてきたと思う。そんな歴史があるからなのか、郷土資料館を中心として市民に歴史、伝統と文化を伝えようという活動が精力的行われている。
 野幌兵村中隊本部をはじめ、湯川公園にある屯田兵屋、北越植民社の創設者の一人関矢孫左衛門の住居跡である千古園、野幌森林公園、古い煉瓦作りの建造物などをしっかりと保存し、「子ども学芸員カレッジ」「親子歴史探検」「再発見・江別探訪」「屯田兵講座」など数々の企画を行っている。

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「野幌兵村中隊本部」

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「野幌屯田兵屋」

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「千古園」

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「江別川(現千歳川)船着き場跡」

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「倉庫群」

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「セラミックアートセンタ」

 水運とともに栄えた江別もその役割を負えてしまったのか、過去「上川丸」「空知丸」などの外輪船が行き交った船着き場、煉瓦倉庫群跡はひっそりと静まりかえり、JR江別駅周辺は空き店舗が目立つ。
 聞くところによると、江別市の中心は4つの大学が所在する野幌地区に移りつつあると言うことであるが、地の利は過去も現在も変わるものではない、また新しい産業がこの地に根付き過去の活気が戻ってくるのだろう。

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「上川丸」

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「JR江別駅」

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「江別駅前通り」


江別・篠津屯田兵村の紹介

2011-11-16 10:29:00 | 江別・篠津屯田兵村

 工 事 中

「江別兵村・篠津兵村」
入 植 年:明治11、14、17、18、19年
江別兵村入植地:江別市1~4番通、1丁目~6丁目通
篠津兵村入植地:篠津地区

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   江別・篠津兵村入植配置図(PDF)「ebetsu1.pdf」をダウンロード

出 身 地:東北、九州を中心に14道県
入植戸数:220戸
   江別・篠津兵村入植者名簿(PDF)「ebetsu2.pdf」をダウンロード
   
●明治11年8月の入植(江別屯田兵)
 便 船:?
 移 動:小樽から徒歩で札幌まで、札幌から豊平川を船で江別太まで移動。
     兵屋は建設中で、東光町の江別川(現千歳川)岸にあった仮小屋に入る。
 入植日:8月29日

●明治14年7月の入植(篠津屯田兵)
 便 船:玄武丸
 移 動:小樽から汽車で札幌まで、札幌から豊平川を対雁まで船で移動。
     石狩川を丸木船で渡り篠津兵村へ入る。
 入植日:7月7日

●明治17年5月の入植(江別屯田兵)
 便 船:?
 移 動:小樽から江別まで汽車で移動し江別兵村へ入る。
 入植日:?

●明治18年7月の入植(江別・篠津、野幌屯田兵)
 便 船:佐渡丸
 移 動:小樽から江別まで汽車で移動し徒歩で江別、野幌兵村へはいる。
     篠津兵村へは、さらに石狩川を渡河。
 入植日:7月1日

●明治19年5月の入植(江別、野幌屯田兵)
 便 船:和歌浦丸?
 移 動:小樽から江別まで汽車で移動し徒歩で江別、野幌兵村へ入る。
 入植日:5月27日

●明治19年7月の入植(篠津屯田兵)
 便 船:?
 移 動:小樽から江別まで汽車で移動し石狩川を渡り篠津兵村へ入る。
 入植日:?
   

給与地
 前提:明治11年土地給与規則が制定され1戸当たり5,000坪から10,000坪となり、明治23年屯田兵土地給与規則が制定され15,000坪となった。

   「江別屯田兵」
  ●明治11年入植者
   明治11年の土地給与規則制定に併い当初から10,000坪の土地が給与
   (宅地150坪、耕地として2箇所(8,350坪、1,500坪)に分けて給与。
  ●明治14年~19年の入植者 
   5,000坪(100間×50間)or4,000坪(100間×40間)

 「篠津屯田兵」
   4,000坪(100間×40間or80間×50間)

 追給地:10,000坪or9,000坪(明治11年入植の江別屯田兵は5,000坪)

部隊名の変遷
 第1大隊第4中隊~第3大隊第2中隊(明治20年5月)~第2大隊第2中隊(明治24年4月)

大隊長
  第1代(1大隊長):本田親秀少佐
  第2代(同  上):野崎貞次少佐(明治20年10月~  )
  第3代(3大隊長):和田正苗中佐(明治23年12月~  )
  第4代(2大隊長):吉田清憲少佐(明治25年年2月2日~)
  第5代(同  上):菊池節蔵少佐(明治27年1月26日~) 日清戦争時の大隊長
  第6代(同  上):佐藤當司少佐(明治28年7月23日~明治32年の大隊廃止まで)
  
中隊長
  第1代:寺田貞一大尉? 琴似の中隊長から
  第2代:
  第3代:

「江別兵村出身県別入植者数」
 青森県  14
 岩手県  11
 宮城県   1
 秋田県  18
 山形県  19
 福島県  22
 石川県   6
 鳥取県  20
 広島県  11
 山口県   3
 佐賀県   9
 熊本県   7
 鹿児島県 16
 北海道   3
   計 160名

「篠津兵村出身県別入植者数」
 青森県   8
 岩手県   3
 山形県   9
 石川県   5
 鳥取県  15
 広島県   2
 山口県   2
 佐賀県   7
 熊本県   4
 鹿児島県  5
   計  60名

Ⅰ 江別兵村・篠路兵村の特色
●江別とはアイヌ語の「ユペ・オッ」チョウザメのいる川、「イェ・ペッ」濁った川、「イ・プッ」大事な入り口、「ユ・ペッ」硫黄の流れ込む川、「ユペ・オッ」温泉の水が流れ込む川、「イペ・オッ」魚のいる川などの諸説がある。
●篠津とはアイヌ語の「シンノッ」山の崎、「シノット」河の集まるとこと、「シリノッ」(突き出たあご)などの諸説がある。

1 地理的特質
(1)その源を大雪山、夕張山系、暑寒別、千歳・恵庭の山々とする北海道一の大河石狩川が悠々と流れる石狩平野のほぼ中心に位置し、松前藩の時代から太平洋側の勇払と日本海側の石狩を結ぶ水上交通の要衝であった。また、太古の昔、この付近が海峡であったともいわれており、江別、恵庭には縄文時代の遺物が出土されている。
(2)石狩川の流れは肥沃な土を周辺の地にもたらした反面、度重なる川の氾濫により水の被害を受けた。特に篠津兵村が配置された対雁周辺はその被害が大きかった。
   地質は、恵庭~北広島~野幌、そして江別兵村、野幌兵村が配置された石狩川の南西から北東方向に続く高台は火山灰土が、篠津兵村が配置された石狩川流域は沖積土、低地には泥炭地が広っていた。
(3)石狩川と江別川(現千歳川)、旧豊平川が合流する地で、エベツブト(江別)、ツイイシカリ(対雁)は鮭をはじめ川魚の豊富な場所であるとともに、鹿の生息地でもあった。故に、この付近はアイヌの人達が住み着き、松前藩はそれらアイヌの人達を相手に上ツイシカリ場所と下ツイシカリ場所を設け交易を行っていた。
(4)南・北からの風が吹き抜ける地で、夏季は割合温暖である反面、冬は北からの季節風が吹き抜け地吹雪になることも多く、札幌の中心から15km程しか離れていないにもかかわらず、冬の最低気温は5度ほど低い。
(5)江別兵村のある台地は鬱蒼とした樹林地帯で、篠津兵村も樹林地帯であるが兵村を離れ北東方向へ向かうと一面泥炭地の原野であった。

2 時期的特色
(1)屯田兵以前の入植
 ア 明治4年伊達支藩があった涌谷から24戸が対雁(ツイイシカリ)に入植したが、過酷な環境で夫夫撤退していった。
 イ 明治8年ロシアとの間に樺太千島交換条約が調印され、明治9年、南樺太に住んでいたアイヌの人達が本人の意志に反して対雁に移住させられた。この移住は悲劇を伴い、後に蔓延した伝染病等で多数の犠牲者を出した。(日露戦争の後、日本の領土となった南樺太に再移住した時には半分以下に減じていた。)

(2)屯田兵関連
 ア 明治7年「屯田憲兵例則」制定。明治8年最初の屯田兵として琴似(札幌)、続く明治9年に山鼻(札幌)に、それぞれ240戸が入植し第1大隊を編成。
 イ 明治10年に西南戦争が勃発し、別働第2旅団第1大隊として琴似、山鼻屯田兵が出動。それらの屯田兵の出身は伊達の支藩である亘理、会津、庄内等戊辰戦争で敗者となった東北諸藩の士族が中心で、仇敵を討ち怨念を晴らすべく勇猛果敢に戦った。
 ウ 西南戦争の勃発により中断していた屯田兵の入植は明治11年から再開したが、予算の不足から制限された中でとなった。
 エ 明治12年屯田事務局長の永山武四郎中佐はロシアのコルサコフ(大泊)を視察し、コサック制度、寒冷地の住宅などを研究。(明治14年に入植した篠津の兵屋はコサック式)
 オ 屯田兵設置の根拠として明治7年に制定された「屯田憲兵条例」が廃止となり、代わって明治18年「屯田兵条例」が制定された。屯田兵は「憲兵」から「陸軍兵の一部」と位置づけられた。

(3)開拓使による農業指導
 ア 明治4年、開拓使顧問としてケプロンが来日。その他、米国を中心に多くの技術者が来日した。その中に草本培養方のルイス・べーマーが明治4年に、農業方としてエドウィン・ダンが明治6年(両者が札幌に来たのは明治9年)に来日し西洋型の農業を指導していた。また、明治9年に札幌農学校が開校し西洋式の近代的農業の教育が行われた。
 イ 明治9年、桑が自生している篠津太に養蚕の拠点を築くべく養蚕施設を設置し、琴似・山鼻屯田兵の家族に技術伝授を行いつつ作業に当たらせていた。

(4)地域の発展と交通運輸
 ア 明治19年、札幌~旭川を結ぶ上川仮道路が開通、明治22年上川道路が開通。
 イ 明治12年からはじめられた幌内炭鉱の採掘に併せ、明治15年幌内炭鉱鉄道が開通。明治22年北海道炭鉱鉄道株式会社設立により沿線の開発が急激に進められ人口が増加した。
 ウ 明治14年、札幌~月形間に就航した2隻の監獄汽船から発展し、明治22年に石狩川汽船会社が設立され石狩川の水運が栄えた。昭和9年に廃止されるまでの石狩川の汽船は就航。

(5)明治14年に樺戸集冶監、明治15年に空知集冶監が開設。
(6)明治15年、開拓使制度が廃止、三県一局時代となる。屯田兵の所掌は開拓使から陸軍省へ移管。その後、明治19年から北海道庁時代に入る。
(7)明治19年「北海道土地払下規則」が制定(これは、無償貸し付け・一定期間後有償払下げの形で入植を奨励し国有未開地の開墾を目指すもの)。これに基づき、北越植民社(新潟)等が野幌に入植。

3 入植者の特色
(1)江別兵村
   明治11年及び明治17年の入植者は東北地方出身者。明治18年、明治19年の入植者は中国・九州が主体で一部石川県人が混じる。
(2)篠津兵村
   14年の入植者は養蚕経験のある青森、岩手、山形県出身者。明治18年、明治19年に入植した屯田兵は中国・九州が主体で一部石川県人が混じる。
(3)11年、14年、17年、18年、19年の多年にまたがり、最大で9年の間隔が開いた。

★言葉の通じない人達
 篠津屯田兵の古老の話に「ここは(明治14年に入植した地域)東北ばかりですから話しが通じないことはありませんでしたが、明治18年、奥の篠津川向かいに入った人達は広島、鹿児島、佐賀、鳥取から来ましたので、その人達とはさっぱり話しができなかった」。とあります。
 他の兵村も同じ様に方言の問題がつきまとったと思われるが、特に明治11年から17年にかけては東北地方出身者が入植し、明治18、19年には西南地方出身者が入植したとう江別・篠津兵村においては、長年にわたり言葉の壁で苦労したと思われる。

★入植に長期を要したのは
 西南戦争の勃発による予算の不足、明治15年の開拓使の解散から三県一局時代(函館、札幌、根室県)への移行に伴う計画の変更、屯田兵設置に関する新たな方針の決定等のためであった。

4 任務上の特色
(1)札幌の4兵村(琴似、山鼻、新琴似、篠路)とともに道都札幌の防衛及び周辺地区の治安維持。樺戸(月形)、空知(三笠)両集治監の脱獄者、逃亡者からの危害防止。
(2)日露戦争に出征し、戦死者・・名
   
5 発展過程上の特色
(1)西洋式農業を広めた江別兵村の営農
 ア 明治11年に入植した江別屯田兵の第1陣10戸(後に分家し12戸となる)56名には、農耕用の牛・馬ほかプラオやホーク、ハローなど西洋式の農具が支給され、エドウィン・ダンをはじめ札幌農学校教師の営農指導を受けた。
   この時、エドウィン・ダンの指導で低湿地改良のため瓦筒(現在のドレンパイプ)を利用する灌漑溝を設置した。また、兵屋は暖房つきガラス窓のアメリカ式北方寒冷地住宅であった。
 イ 入植当初は、馬鈴薯、大豆、小豆、蕎麦、麦等を栽培した。その後、亜麻、畜産用の飼料栽培等多角的な経営が行われた。また、明治36年には水田が造成された。
 ウ 畜産、酪農は連作で衰えた地力の回復から始まった。農耕馬、軍馬の生産へと続き、酪農を本格的に行うようになったのは昭和の時代に入り乳製品の需要も高まった頃からである。
 エ 明治39年富士製紙会社(現王子特殊紙)の進出、それに伴う発電所の建設、鉄道の引き込み線の敷設等により江別兵村の東側地域一帯が農地から工場用地等に変換した。
  
(2)養蚕得志兵村を担った篠津兵村の営農 
 ア 明治14年に入植した篠津屯田兵の第1陣19戸は、明治9年から篠津で行われていた養蚕事業を屯田兵に普及させるためで、屯田兵は士族をもって募集するという枠を外し、青森、岩手、山形県から養蚕経験者を主体に募集をした。兵屋はロシアのコサック式の耐寒住宅でペチカとガラス窓のある中2階建てのものであった。

★篠津兵村に明治政府の高官が度々視察
 伊藤博文、西郷従道、山縣有朋、小松宮仁親王、松方正義ら新政府の高官が篠津の養蚕施設を視察に来ている。この施設は屯田事務局の管轄にあり事務局長の永山武四郎自ら現地に赴き指導にあたったと言う。永山武四郎としては養蚕室の共同経営を屯田兵授産のモデル事業とそたかったのではないだろうか。

 イ 明治18年、19年に入植した屯田兵は本部の指導もあり亜麻の栽培を、明治30年代は燕麦が畑作の中心となり、管内随一の生産地となった。
 ウ 肥沃な土地ではあったが連作で地力が衰え年々生産力は低下した。その改善策として馬、牛の飼育を行い地力の維持増進を行うようになった。昭和の時代に入り乳製品の需要も高まり酪農を行う者が増えた。
 エ 篠津兵村における稲作への移行は遅く、手付かずであった泥炭地の暗渠排水の実施、酸性土壌の改良等大規模な土地改良が行われてからである。

★「新兵村」と「旧兵村」
 明治14年に入植した石狩川右岸地区のことを「旧兵村」、明治18年、明治19年に入植した篠津川左岸地区のことを「新兵村」と言った。「旧兵村」の地名はバス停名として今も残る。
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 「旧兵村」

★篠津に中隊を配置する計画があった
 篠津地区には1個中隊220戸を入植させる計画であったが、毎年石狩川が氾濫したため、この計画を中止し、江別兵村に隣接する野幌に中隊を置くことになった。
   
(3)江別は交通の要衝、内陸部開発の物資供給基地として発展
   明治11年入植時、道都札幌への交通手段は、対雁から豊平川を遡る海運が唯一であったが、明治14年には当別から篠津、対雁を経由し江別まで通ずる道路が、併せて江別~幌向~岩見沢を経て幌内(炭鉱)まで通じる道路が完成した。明治22年には札幌から旭川を結ぶ上川道路(現国道12号線)が開通した。また、明治13年に開通した手宮~札幌間の鉄道も明治15年には幌内まで延伸され、江別は交通の要衝、内陸部開発の拠点となった。

(4)水害と大火との戦い
   全道的に大被害をもたらした明治31年9月の水害以外に、明治34年、37年・・等たびたび水害に見舞われ、江別兵村の低地、篠津兵村は大きな被害を受けた。また、明治30年、昭和28年と2度に渡る大火に見舞われ、江別市街地の半分近くが焼失するという大被害を受けた。

(5)新たな産業の勃興及び軍による土地の徴用
  ア 富士製紙会社(現王子特殊紙)は1906年(明治39年)に北海道最初の新聞用紙生産工場として建設に着工。江別太付近の第1次入植地一帯を買収し1908年(明治41年)に生産を開始するとともに兵村内に火力発電所が建設された。
  イ 昭和19年大東亜戦争によって王子製紙工場は木製飛行機製作所として軍事工場に変換した。その結果、江部兵村の多くの給与地が軍に徴用され同工場の滑走路・訓練場になり居住者は町内外に移転することとなった。
(6)明治24年の屯田兵条例の改正により明治24年から予備役に、明治28年後備役に編入。
(7)屯田兵の離村
   兵役の満了とともに離村者が増え、屯田兵制度の廃止、土地の売買が自由となった明治末期には入植者の半数近くまで減少した。富士製紙工場の進出は500名余りの雇用を生み出し離農に拍車をかけた。昭和の30年に入ると兵村に残っている者19戸(内給与地を保持している物4戸)のみとなってしまった。屯田兵の多くは製紙工場、炭鉱、鉄道、新たに興った産業等に吸収されていった。また、空知集冶監の看守に応募した者も多数いたという。
(8)江別村の変遷
   明治11年、江別屯田兵入村と同時に江別村開村
   明治13年に戸町役場設置
   明治39年に江別、対雁、篠津3村が合併し江別村に
   大正4年江別町に
   昭和29年江別市となる。
(9)江別市は札幌市に隣接する衛星都市としての性格が強く、農業中心から商工業の地へと順調な発展を遂げ、現在は4つの大学を有する文教の地、大都市札幌のベットタウンとしての地位を固めている。

6 江別兵村の著名人
  「名越源五郎」
  後に将校となり、室蘭、永山、一已、和田、北見、士別の屯田兵村で指導的役割を担う。第七師団衛生隊長、陸軍歩兵少佐、退役後初代江別町長に就任。屯田兵の字引といえる人材であり、篠津屯田兵の生みの親、育ての親でもある。

Ⅱ 江別兵村の伝統を伝える
1 資料館等

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「江別市郷土資料館(本館)」

2 屯田兵関係の催し
  5月27日飛鳥山にある開村記念碑前で開村記念祭を実施

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「開村記念碑」

3 屯田兵ゆかりの神社
●江別兵村

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「江別神社」
飛鳥山神社を明治26年に江別駅に近い市街地に移転し江別神社に社名を変更

●篠津兵村

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「篠津神社」

4 屯田兵がつくった学校
●江別兵村

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「江別市立江別小学校」

●篠津兵村

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「篠津小学校跡記念碑」(昭和62年に閉校)
                                                        
5 今に残る屯田兵の踏み跡(史跡等の紹介)
●江別兵村関連

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「開村記念碑」
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「飛鳥山の競馬場跡」
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「火薬庫」

●篠路兵村関連

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「篠津開村紀念碑」

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「養蚕場跡」


7屯田兵子孫の会の紹介
「江別屯田兵村遺族会」
 設立時期:昭和30年4月3日
 目  的:屯田兵開拓の精神と剛健なる意志を継承し、現下の世相に対処するため、遺家族の親和と団結を計る。
 会  員: