屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

端野兵村の今(平成23年)

2011-06-27 18:34:28 | 端野屯田兵村

<ルポ:現在の端野兵村(平成23年6月)>
 北見市の中心から国道39号線を北東方向に走ると、見慣れた大型店舗の看板が目に付く。さらに走ると、1条道路を跨いだところに、ほんの数年前に建てたと思われる洒落た住宅が並んでいるのに気付く。それを過ぎると、屯田兵第1中隊本部があった場所が見えてくる。そこに現在建っているのが、北見市端野支所、図書館、文化センター、郷土資料館等町の主だった公共施設である。
 端野兵村は平成18年まで端野町であったが、市・町合併にともない今は北見市の一部になってしまった。このことは、屯田兵の入植以来営々と築いてきた端野の伝統継承を難しくする。開村記念行事をはじめ端野町として行ってきた『まつりごと』はすべて廃止となり、唯一北見市が主催する行事が「戦没者開拓功労者追悼際」と名を代えた先祖の御霊を鎮める行事である。
 「合併から5年の年月が経ち、予想された事態が現実のものとして受け止められるようになった」。と苦痛に満ちた表情で話されるのは、最後の端野町長であった自らも屯田兵3世であるというT氏である。

 第4大隊第1中隊として入植した端野兵村には、他にない出来事がある。
 それは、明治31年9月7日に起こった洪水である。この水害は北海道の災害史の中で未だに語り継がれる大洪水で、全道各地で大きな被害をもたらした。明治31年に入植した北見3個兵村の屯田兵は、この最中の9月2日~15日にかけてそれぞれの地に入植した。 
 特に被害の大きかったのは常呂川の川下の兵村である端野兵村で、それも1区が壊滅的な被害を受けた。すべての兵屋と耕地は水没し、移転を余儀なくされてしまった。65戸全を常呂川対岸の高台の地に移転させるまでには4年間の歳月を要したが、それにより、安心して農耕に励むことができるようになった。
 この高台への移転が、その後の端野兵村発展の過程で他の兵村と一線を隔することとなる。

 「常呂川の流れ」

  Photo_15

 端野兵村は37個兵村の中で割合恵まれた兵村といわれる北見の3個兵村にあっても特出している。現在、一戸あたりの作付け面積は25ヘクタールもあり、これは、大規模畑作地帯で知られる十勝地区の農家に匹敵する数字である。北見薄荷の発祥の地は端野1区で、寒河江直助が遠軽から薄荷の苗を取寄せ始めて栽培を試みた。また、現在全国一の出荷を誇る玉ねぎを最初に作付けしたのも端野1区である。
 これの意味するところは、入植当時稲作への願望が強かった屯田兵であったが、端野1区の屯田兵は高台へ移転したものだから、当初からその夢を断ち切られてしまった。
 そのため、畑作で生きていかざるを得なかった。皮肉にもその結果が薄荷での成功を生み。その後、豆類、小麦、甜菜、玉ねぎへと移り変わる中で、収益を上げ、豊かさを享受し発展を遂げていった。
 「美瑛の丘を思わせる1区の風景」
 Imgp7505  

 「2区の玉葱畑」
 Photo_13  

 「3区の水田」
 Photo_14 

 1区には、現在も入植64戸中、15戸の直系子孫が残っているという。分家を含めると、その6割が屯田兵関係者だという。これは、同じ端野兵村の2区、3区比較し驚異的な数字である。
 現在、端野兵村には子孫会はない、過去2回ほど子孫会が作られたらしいが、自然消滅と言う形でなくなってしまったらしい。
 そんな中、新たな動きが芽生えてきている。
 北見市との合併が反動となり、このままでは、端野の歴史が消し去られてしまうとの危機感を持つT元町長が中心となって、「歴史を語る会」立ち上げ。まだ、数名の会員しかいないようであるが、旧端野町の歴史を調べ、町として行ってきた祭事を記録に残し、子供たちへ伝える活動を行おうと準備されている。

 都市化の波に飲まれつつある中、屯田兵4世、5世が農業経営を目指さなくなった北見の兵村。屯田兵の歴史を、屯田兵子孫の方だけで伝承するのは難しい現状にあって、屯田兵子孫という枠を超え、広くこの地を開拓した多くの方々の子孫が郷土の歴史を調べ、子供たちに分かる言葉で伝えていく活動。T氏の推奨する活動が今求められているように思う。端野に住む人達の中から、一人でも多くこの活動に加わってもらいたいものである。

 北見薄荷の発祥地端野1区は、美瑛の丘陵を思わせるほど雄大な景色が広がる。トラクターで耕したばかりの幾条にも広がる畝の跡、そこに、顔を出す玉ねぎの新芽。夏には花が咲き、緑一面の耕地の中に、白、ピンクの花が織り成す景色はまさに絶景である。
 「T氏と面談した2区兵村に建つレストラン木倉屋」
 Imgp0912   

 「レストラン前から端野スキー場を望む」
 Imgp0911


端野兵村の紹介

2011-06-27 18:22:36 | 端野屯田兵村

< 工 事 中 >

「端野兵村」
部隊名:第4大隊第1中隊
入植年:明治30、31年
入植地:端野町1区、2区、3区
Photo

「端野兵村入植配置図」「tanno1.pdf」をダウンロード

出身地:30府県
入植戸数:200戸

「端野兵村入植者名簿」「tanno2.pdf」をダウンロード

屯田歩兵第4大隊(1中隊:端野、2中隊:野付牛、3中隊:相内、4・5中隊:湧別で編成)
    大隊長:初 代 小泉正保少佐(和田・太田の4大隊長から赴任)
      第2代 三輪光儀少佐(元当麻兵村の中隊長 水稲の将来性を見込む)
      第3代 徳江重隆少佐

明治30年の入植(最終6月7日)
   第1便
    便 船:武陽丸(6月2日網走港着)
    航 路:武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
    移 動: 網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
   第2便 
    便 船:武陽丸
    航 路: 武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
    移 動:    網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
   第3便 
    便 船:武州丸(6月6日網走港着)
    航 路 七尾~新潟~青森~小樽~網走

明治31年の入植    
    第1便
     便 船:東都丸
     航 路: 門司~大分~三津ヶ浜(愛媛)~尾道~神戸~四日市~館山~萩浜(宮城)~網走
    第2便 
     便 船:東都丸(9月)
     航 路:敦賀~七尾~新潟~酒田~網走

給与地 
  琴似兵村以来の密居性を取る。中隊を60~70戸の3区に区分し、各区は半密居性にした。
  第1次給与地 幅30間、奥行60間(1,800坪基準)
  追給地は約13,000坪割り当てられた。

第4大隊第1中隊
 中隊長:初 代 浜田高三大尉
     第2代 鈴木次郎大尉

端野兵村出身県別入植者数
山形県  12
宮城県   4
青森県   1
秋田県   1
福島県   9
愛知県  10
富山県  21
千葉県   1
新潟県   3
茨城県   1
埼玉県   1
三重県   4
福井県  23
石川県  33
岐阜県  23
鳥取県   5
兵庫県   2
奈良県   2
島根県   2
滋賀県   2
広島県   2
和歌山県  6
山口県   1
香川県   2
愛媛県   2
高知県   1
熊本県   2
徳島県   5
佐賀県  11
福岡県   7
大分県   1
 計 31県 200名

 
Ⅰ 端野兵村の特色
1 地理的特出
(1) 常呂川沿いに細長く開けた北見盆地の東北端。
(2) 端野は北見盆地に注ぐ各河川が北見付近で常呂川に集約されて、仁頃丘陵の隘路を常呂へ流れる入口。いわゆる川下に位置し、常呂川流域一帯で大雨が降る度に氾濫した歴史を持つ。反面、この地域は肥沃で作物の栽培には適する。
(3) 気候は北見盆地とオホーツク海洋性の気候の両方を持ち夏は温暖、冬の寒さは厳しい。
(4) オホーツク正面防衛の要点で、野付牛を主戦とする場合に前衛となる地。

2 時期的特色
(1)明治24年、網走監獄の囚人達の労働によって上川から網走まで延びる中央道路が開通。
(2)明治25年、端野屯田兵2区の地に端野2号駅逓開設。
(3)明治29年、第7師団創設、屯田司令部廃止。
(4)明治30年「北海道国有未開地処分法」が公布。
  (北海道土地払下規則を廃し,「無償貸し付け・成功後無償付与」の「北海道国有未開地処分法」が公布され、土地貸し付け面積の上限(一人に付き開墾の土地は150万坪、牧畜には250万坪、植樹には200万坪、会社や組合には2倍まで)が大幅に引き上げられた。
   屯田兵の入植後、多数の団体が入植した。
(5)日清戦争終結、その勝利の翌年に端野兵村は配置された。
(6)明治31年北海道全域に徴兵令が施行。
(7)明治32年旭川の鷹栖に第7師団設置を決定、明治33年~35年にかけて七師団が旭川に移駐。
(8)明治34年北海道会法、北海道地方費法公布に伴うところの屯田兵給与地に対する課税問題が持ち上がり、明治35年北海道屯田倶楽部結成される。
(9)各地で米の生産が開始され一部商品価値化。
(10)明治36年屯田兵現役解除、第4大隊本部も解散。
(11)明治37年屯田兵条例廃止。日露戦争勃発。

3 入植者の特色
(1)全国の31県からの入植で、同時期に入植した野付牛、相内兵村と同一地域。石川県が33戸と一番多く、福井県23戸、岐阜県23戸、富山県21戸で北陸からの入植者が多い。他県は数名単位で入植。
(2)指導者としての士官達は、それまでの兵村で農事の経験を積み重ねており、適切な指導が出来た。

4 任務上の特色
(1)オホーツク正面の防衛と同地の開拓
(2)日露戦争
    出征  名、戦死者:5~6名

5 発展過程上の特色
(1)明治31年の大水害
   屯田兵の第2陣が入植した直後の明治31年9月7日、全道的に発生した大洪水に見舞われ、特に端野兵村1区の被害が甚大で、兵村のほとんどが水没した。
   その結果、1区兵村すべてを現在の高台に移転することとなった。
(2)明治34年に1区でハッカの栽培が試みられる。
(3)明治44年に池田~野付牛間、大正元年に野付牛~網走間に鉄道開通。
(4)農耕の成功から定着率が高く、家族、分家等を含めるとその数は相当なものとなった。
  その中から、他の職に転ずるもの、川向、緋牛内、常呂、留辺蘂へ移り住む者等が発生、また、それが、開拓民の移住熱に火をつけ、端野および周辺地域の発展に大きく寄与した。
(6)大正10年野付牛町から分村し端野村となる。
(6)昭和36年端野町となる。
(7)平成18年北見市に吸収合併。
(8)農耕の状況
ア 畑作
  入植初期には自活のため、燕麦、麦類、馬鈴薯、きび、そば等を栽培。
  日露戦役の終わった頃から、換金作物として菜豆、鋺豆、小手亡等の豆類を主作物とした。
イ ハッカ
  明治34年頃から試作が始まり、明治40年では北海道の作付面積が全国の80%を占め、その内の70から80%を北見・湧別が占める。大正期に入りその名を世界にとどろかせた。
  端野では明治34年10月、1区の寒河江直助が湧別から種根の分譲を受け2、3人に分
  けて新畑に植えたのが始まりで、反収が大きいこと、運搬が容易でかつ腐敗の心配がないということから一気に広まった。ハッカ景気に沸き屯田兵の定着と北見の発展に大きな貢献をした。
(薄荷成金、豆成金と言われた。)
ウ 稲作
  屯田兵が入植した上川、空知で既に稲作を行っていたことから強い関心があり、入植の翌年から試作が行われた。又、2代目大隊長の三輪光儀は水利条件や耕地の状況から水田の耕作が可能と考え、明治34年~5年にかけて大規模な灌漑溝掘削事業を展開した。
   日露戦争への出征で一時中断したが、兵村において稲作の自給体制が出来たのは大正4年頃からである。

★屯田兵の子弟達の進む道
  長男:跡取り
  次男・三男、その他:学校を出て兵村を出て行く。(屯田兵は向学心が高かった。親は次男、三男等を勉学に励ませた。端野村で高等教育を受けるものの殆どは屯田兵の子弟であったという。)
  姉妹:豪農へ嫁ぐ。(端野屯田兵の娘は引きてあまたであった。それは、他に比較し生活は豊かで躾が行き届いている等の理由から。)
    この話から推測されるのは、端野兵村の開拓は旨く進んだということ。屯田兵及びその家族は教養人の集まりであったこと。端野をリードする人材を輩出する土壌があったこと等である。

6 端野兵村関係の著名人

Ⅱ 端野兵村の伝統を伝える
○資料館等
「端野町立歴史民俗資料館」

  Photo_2

  
「屯田兵の肖像画」
  Photo_4

「屯田兵屋」
  Photo_5  

○屯田兵関係の催し

○ゆかりの神社
「端野神社」
  Photo_6

○屯田兵が開いた学校
「端野小学校」
  Photo_7

○今に残る屯田兵の踏み跡
 「鎖塚」
  Photo_8

 中央道路(別名囚人道路、現国道39号線)の開削でなくなった囚人達を慰霊する碑で、この道路を開設するのに要した期間8ヶ月、距離225km(旭川~網走)、無くなった人の数212名
  
「開村祈念碑(屯田の杜公園)」
  Photo_9
 
「1中隊本部被服糧秣庫(現1区神社拝殿)」
  Photo_10

   
「端野水田発祥の碑」
  Photo_11

 
○屯田兵子孫の会の紹介
  子孫会はなし
直系子孫の数
1区:15戸/64戸入植
2区:11戸/70戸入植
3区:15戸/66戸入植