屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ:士別兵村の今(平成23年)

2011-06-23 08:48:37 | 士別屯田兵村

<ルポ:士別兵村の現在(平成23年6月)>
 士別を訪ねた平成23年の春、士別市郷土博物館はリニューアルされており、明るい雰囲気になっていた。
 このリニューアルをするきっかけとなったのは、館内の照明が薄暗く展示物を気味悪く思う子供たちがいることらしい。展示してある野鳥の剥製はさほどではないが、熊の剥製は明るくなった今でもあまり気持のいいものではない。そんなことを話題にしながら博物館を見学した。

 残念かな、屯田兵の歴史についての資料は博物館にそれほど残っていなかった。屯田兵入植当時の情景を写した写真も士別市には無く、北海道大学の北方資料室に保管されていると言う。
 予想するに、その理由の大きなものとして、士別屯田の置かれた状況にあったのではないだろうか。現役終了の年に日露戦争が勃発し出征。現役5年間は公共事業と勤労奉仕に明け暮れ自らの土地を省みる余裕が無かった士別屯田兵。給与された土地に恵まれず。土地の優位さから後に入植した上士別、多寄の開拓団の力に押されていった。また、その後の士別発展の中心は、中隊本部等のあった番外地からではなく、さらに南寄りの鉄道駅周辺に移っていった。そんなことから、屯田兵の入植地が疲弊し、屯田兵達の主導権が逐一失われていったのかも知れない。
 士別屯田兵関連資料を散逸させた要因はそんなことからではないだろうか。

「士別兵村の配置図」

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「士別団体入植者配置図」

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「北町付近の給与地の今」

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 (士別屯田兵に給与された土地で、天塩川と剣淵川が合流する地点にある。)

 昭和の20年代には『九十九会』という2世を中心に屯田兵関係者で作る会があったらしいが、7年間の活動を最後に解散してしまったという。
 現在士別には郷土史研究会がある。その名を『士別市郷土史研究会』呼び。昭和32年に設立され45年の伝統を誇る。『士別よもやま話』等の郷土史資料の出版、博物館展示物資料の作成などの数々の事業を手がけ士別市の郷土史の掘り起こしと、収集・整理、啓蒙活動につとめている。会員は士別だけではなく札幌にも多く在住し「札幌士別会」も立ち上げて広く活動を展開している。
 今思えば、『九十九会』が、現『士別市郷土史研究会』へ発展的に移行していってくれたならと思う。

 士別屯田兵は現役満了後何処へ行ってしまったのだろう。
 昭和11年に調査した資料によると、町内に居住する者39戸、屯田兵以来の家屋に留まる者9戸とある。以外に多い数字である。町内に残る39戸の数字のうち、駅周辺で新たな事業を起こした者や、給与地や周辺の地区へ移転し農業をやっている者もいるのではないだろうか。4世、5世の時代に入ってきている現在、自分が屯田兵の子孫であると認識している人は少ない。分家しこの地域に残る人の数を数えるとかなりの数に上るはずである。残念かな個人情報のうるさい現在にあっては足取りを辿ることはできない。
 昭和  年の新聞記事に「士別屯田兵 足跡調査など難航」と言う見出しで、士別市郷土博物館で士別の開発に携わった屯田兵に関する資料の収集に努めているが、その収集に難航を極めていると記されていた。
 士別を去る日、2年前に東京から故郷の士別市に戻ったという屯田兵子孫の方から話を伺う機会を得た。その氏曰く「祖先である屯田兵の踏み跡を調べたいと思っている。学生時代の昭和30年頃のまで士別に住んでいたとき、近所に数人の屯田兵子孫の人もいた。今、その人達は何処にいるのだろう。人づてに調べていこうと思っている」。と話された。
 新しい動きである。そんな人達の輪が大きくなることを期待したい。

 以外であると思うかもしれないが、士別市は一時期50万俵もの米を生産し、全道一の米処としてその名をはせた時もあったという。天塩川流域に広がる広大な農地には田・畑がひろがり、東西の丘陵地には家畜のむれが草をついばむ姿がある。
 士別を紹介する士別市要覧によると、士別開拓の歴史は明治32年の屯田兵入植により始まり、現在は羊と雲の丘「サフォークランド」、スポーツ選手の「合宿の町」、積雪寒冷地の特性を生かした「自動車等試験研究」等を目玉とし、自然との調和が取れた町づくりを目指しているようである。
 「サフォークランド」のある剣淵川西側に広がる丘陵は牧歌的で、また、その高台から眺める士別盆地の遠望は疲れた心を癒してくれる。そんな、丘陵地の南側にある博物館近くの森では合宿中のランナーが林間を走行していた。

「サフォークランドの羊たち」

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「サフォークランドから士別市街を眺める」

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 士別は昭和29年の士別町、上士別村、多寄村、湯根別村の合併により市制を施行した。さらには、平成17年の朝日町との合併により新生士別市として歩み始めている。
 屯田兵とその後に入植した人達により築かれた士別の地。緑豊かな自然と農地。そして、その地に住む開拓者の子孫が、来訪する人々をやさしく包み込む。

「士別、剣淵の水瓶である岩尾内ダム」

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「天塩川上流の流れ」

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「室蘭輪西屯田兵の給与地 武徳」

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「士別神社から市街地方向」

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士別兵村の紹介

2011-06-01 05:12:32 | 士別屯田兵村

< 工 事 中 >

「士別兵村」
入植年:明治32年(7月2、12、13日)
入植地:士別市北1丁目~北9丁目
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「士別兵村入植配置図」「shibetsu1.pdf」をダウンロード

出身地:28県
入植戸数:99戸

「士別兵村入植者名簿」「shibetsu2.pdf」をダウンロード

部隊名:第3大隊第5中隊
大隊長:平賀正三郎少佐(明治31年9月~)
中隊長:初 代:名越源五郎(青森県出身の江別屯田兵。士官になってから室蘭、和田、一已、永山、野付牛等で勤務したベテラン。稲作を奨励)
    第2代:荒井
    第3代

(移 動)
便船:東都丸
航路:神戸(6月18日)~尾道~宇品~門司~敦賀~新潟~酒田~小樽(28日)

小樽からの移動:7月 日、小樽を汽車で移動。途中旭川駅前の三浦屋旅館で宿泊。7月1日旭川を発し蘭留まで貨車で移動。そこから、台車で工事中の塩狩峠を越え和寒に到着。その後、兵員と元気な家族は徒歩で士別まで移動。老幼婦女子は剣淵のビバガラウスから天塩川支流の剣淵川を丸木舟で下り、士別兵村に近い観月橋付近に上陸した。
入隊式:7月15日

給与地
 1次:宅地15間×150間(2,250坪)
 2次:2町5反8畝10歩
 3次:1町6反6畝20歩
  屯田兵村は密居制を取られた。(山鼻兵村程度の給与地)  

士別兵村出身県別入植者数
 茨城県   1
 広島県   4
 和歌山県  9
 香川県   3
 福岡県   3
 熊本県   3
 岐阜県   5
 山形県   9
 奈良県   1
 愛知県   3
 徳島県   1
 石川県   2
 秋田県   1
 佐賀県   1
 福島県  11
 鳥取県   1
 宮城県  18
 高知県   1
 新潟県   2
 岡山県   1
 福井県   1
 群馬県   5
 山梨県   6
 長野県   1
 埼玉県   1
 岩手県   3
 静岡県   1
 三重県   1
 計 28県 99名

Ⅰ 士別兵村の特色
  アイヌ語で「(シ‐ペッ)、大きい川」の意味。

1 士別の地理的特質
(1)北海道の3大河川の一つである天塩川と、その支流剣淵川が合流する地で南は塩狩峠まで続く剣淵の盆地、北はピアシリの峠まで続く士別・名寄の盆地が広がる。
(2)南側の剣淵川流域は泥炭質、粘土質で耕作不適地。朝日地区から名寄まで広がる天塩流域は農耕適地。
(3)道北へ通ずる物流の拠点であり、道北防衛の要の地(現在の自衛隊は名寄に部隊を配置している)
(4)米作の北限。天候は夏温暖で日照も大、冬は激寒。

2 時期的特色
(1)明治30年「北海道国有未開地処分法」公布。
  (「北海道国有未開地処分法」とは、明治19年に制定された「北海道土地払下規則」に代わるもので、土地を無償貸し付けし、成功後無償付与するというもの。1人当たりの貸し付け面積の上限が150万坪、牧畜には250万坪、植樹には200万坪、会社や組合には2倍までと大幅に引き上げられた。これにより、屯田兵の入植に併せ多数の団体が入植した。)北海道の開拓も全道におよぶ様になった。
(2)日清戦争のその勝利から3年後に入植。日露戦争5年前。
(3)明治31年北海道全域に徴兵令が施行。
(4)明治32年旭川の鷹栖に第7師団設置を決定、明治33年~35年にかけて七師団旭川に移駐。
(5)明治33年、天塩街道(現国道40号線)、天塩線開通が士別まで開通。
(6)明治34年の「北海道会法」「北海道地方費法」公布に伴うところの屯田兵給与地に対する課税問題の発生から北海道屯田倶楽部が結成。
(7)各地で米の生産が開始され一部商品価値化
(8)明治37年5年間の現役満了、屯田兵条例廃止。同年日露戦争勃発により動員下令。

3 入植者の特色
  全国の28県からの入植で、同時期に入植した剣淵兵村と同一地域。宮城県が18戸と一番多く、福島県11戸と二桁は2県のみその他は数名単位で入植

4 任務上の特色
(1)士別地区の開拓及び道北区正面警備
(2)日露戦争前で訓練は厳しく、また、訓練と称して多くの公共事業をおこなう。
(3)日露戦争
   全員が召集され戦死、戦病死者12名

5 発展過程上の特色
(1)明治30年に施行された「北海道国有未開地処分法」の公布に伴い、屯田兵の入植に合わせるかのように、有望な士別近傍の土地を求め開拓民が大挙して入植した。
(2)現役間は公共事業に明け暮れ。
   区画整理、幹線道路の建設、潅漑溝の掘開、小学校運営資金供出のためマッチ材の伐採・搬出の請負、建設中の鉄道線路の除雪、士別~上士別間の道路掘開、また、剣淵兵村の飲料水確保のために給水支援等、現役5年間は勤労奉仕に明け暮れた。

   ★屯田兵の後日談「現役中は自分の土地の開墾をほとんどやらなかった」。がある。

(3)屯田兵の入植直後から多くの開拓民が天塩川周辺地域に入植。農耕に適した地で成功をおさめる者も多く、士別の中心に位置するも中々成果の上げることができない屯田兵との間で勢力争いが発生。
(4)士別はそれ以北の開発の拠点として発展。市街地に隣接した屯田兵入植地は都市化の波に飲まれる。
(5)明治35年、剣淵から分離独立し士別村戸長役場設置
(6)明治37年屯田兵条例の廃止。同年に日露戦争への出征。勝利により凱旋したものの、入植以来5年、その間に行ったのは公共事業への奉仕と農耕に適さぬ地の開拓。そのため、生活基盤を作り上げることができず多くの屯田兵達は土地を離れ新たな道へ進み出した。
   
   ★屯田兵離村の状況は
    昭和11年末の資料によると、士別に居住するもの39戸、屯田以来の家屋にとどまるもの9戸のみ。)

(7)明治39年2級町村制施行、大正4年士別町施行、昭和29年士別町、上士別村、温根別村と合併し市制施行。旭川以北の中核都市として順調な発展を遂げる。(人口:38,854人)平成17年朝日町と合併。

(8)農耕の状況
  ア 酪農
    乳牛飼育の始まりは明治37年、養豚の始まりは大正6年頃
  イ 亜麻の栽培
    明治末期から大正にかけて士別の花形販売作物であった。戦争とともに盛衰した。40年に日本製麻としてスタート、同年北海道製麻と合併。作付け面積は明治42年で480町歩。
  ウ ハッカ
    明治40年頃は士別を中心とした上川中部が全道ハッカの1/4を生産していた。その後、中心は北見へ移る。
  エ 澱粉
    大正5・6年の士別は全国一の澱粉の主産地。菅原太吉を組合長に天塩澱粉同業組合が結成された。
  オ 稲作
    明治33年、屯田兵としては山畑善蔵が初めて試作、同年、善蔵の誘いを受けた角田寅治も試作。(初代中隊長名越源五郎は稲作を奨励)
    一般入植者も、入植すると間もなく稲作を試みた。明治38年には全ての地域で稲作が試みられている。
    
   ★士別神社の別名は九九神社
    屯田兵として入植したのは100戸であったが、入植間もない7月13日の夜、山梨県出身清水喜助氏の100番兵屋が全焼したため、同氏は剣淵兵村の114番兵屋に移ったため、5中隊は99名となった。それに因みに、神社のある山を九九山といい士別神社を九九神社と呼んで親しんだ。

6 士別屯田兵の著名人

Ⅱ 士別屯田兵の伝統を伝える
○資料館等
  「士別市立博物館」

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  「屯田兵屋」(士別市立博物館敷地内)
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  「内部」

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○屯田兵関係の催し

○ゆかりの神社
  「士別神社」
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○屯田兵ゆかりの学校
  「士別小学校」
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 入植した時には学校はできていたが、先生がいなく、永山屯田出身の山川永太郎校長をむかえてようやく32年10月18日開校となった。
夜学校(6時から9時まで)による補習授業をおこなった。
 青年会「斯文会」の発足。これは『これ文成り』、書のもとに勉学に励めとの意味。

○今に残る屯田兵の踏み跡
  「開村記念碑」
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  「中隊本部跡」
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  「屯田兵家族上陸の地」
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  「名越橋」

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    名越中隊長の名前のついた橋

○屯田兵子孫の会の紹介
 子孫会なし
 昭和11年末において町内に居住するもの39戸、屯田兵以来の家屋に止まるもの9戸