屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ:滝川兵村の今(平成23年)

2011-09-17 19:10:01 | 滝川屯田兵村

<ルポ:現在の滝川兵村(平成23年)>
 滝川市には性格の異なる二つの兵村が存在する。それは、この項の対象である滝川兵村と、昭和46年市町村合併で滝川市に組み込まれた江部乙兵村である。
 滝川屯田兵は明治22年~23年に入植。士族屯田兵の最後であり、出身地は西・南地域の人の中に山形県人と奈良県の十津川移民の人達が含まれる。対して江部乙屯田兵は明治27年に滝川兵村にほぼ連接する形で北側の地に入植。入植者は一般平民を対象とし、出身地は全国20府県にもおよぶ。任務的にも滝川屯田兵は、交通の要衝として発達するものと見込まれていた中空知地域の警備という要素が大きい。対して、江部乙屯田兵は内陸部の開発といった殖産という面が大きい。また、滝川は明治、大正、昭和、平成と移り変わる時代の中で、中空知の中心地として歴史の舞台に立ってきた地である。
 そんなことから、それらの踏み跡を少しでも感じ取ろうと精力的に動き回わり取材をした。
 事前に地元郷土史研究家のS氏、滝川屯田兵子孫会「滝川市屯田遺徳顕彰会」の副会長であるS氏に取材依頼を取りつけてあった。郷土史研究家のS氏には過去から現在に至るまでの滝川の移り変わりを、子孫会のS氏には自身が育った滝川兵村の当時の姿等を主題としてお話しを聞いた。

 郷土史研究家のS氏は元滝川市の博物館の館長をされた方で、現職時代から現在に至るまで、滝川市史の編纂や各種郷土資料の収集・整理に携わり、滝川の生き字引と行っても過言でないほど詳しい知識を持たれていた。
 滝川盛衰の歴史を時代を追って説明してもらった。
 この中で、滝川の歴史は巡風なものではなく、屯田兵が入植した明治22年頃から30年頃にかけは滝川が北海道開発の拠点であり、人・物資が滝川に集中され繁栄を極めたが、明治31年、鉄道が忠別太(現旭川)まで延伸されたことにより、また、同年に大水害に見舞われ滝川が大打撃を受けたことにより、開発の中心地は旭川に取って代わられた。滝川の町は火の消えたように低迷してしまった。その後の復活は富良野まで延びる鉄道の開通(現在の根室線)であり、歌志内、赤平、芦別等採炭地の繁栄である。
 また、先の大戦の最中に人造石油会社が滝川に設置され、約1万規模の人口の増加と知的財産の集積を生んだ時代もあった。当然その工場は終戦とともに閉鎖し貴重な人材は散り散りとなってしまった。そんな話しを例話を交えながら伺った。丁度話しも終わりかけた頃に滝川青年会議所の方がS氏と用談のために来られた。丁度良いので三人で話しをしましょうと言うことになり、古写真を眺めながら説明を聞いた。時間にして約1時間、写真の枚数は約100枚。滝川の歴史を象徴する写真であり、「これは明治何年の何々の時の写真」。「これは、何々で、これは誰々」。とか、一枚一枚丁寧に説明をされた。それらの写真から滝川の姿が見えてきた。

「滝川市屯田遺徳顕彰会」副会長のS氏は屯田兵3世の方で御歳90歳という高齢ではあるもの、面談をした滝川神社まで自転車で来られるほどに元気であった。
 親子2代にわたって国鉄マンで、農業に携わることはなかったが、兵村のあった給与地の状況をよく覚えられていた。昭和の始め頃の状況として、兵村の南側では牛を、中程では馬を飼い、北側ではリンゴを、石狩川沿いでは畑作を行っていたという。稲作が行われるようになったのは戦後であると言われた。また、空知川河畔の北側に製麻工場があったことから麻の栽培も行われていたのだろう。
 空知川が石狩川に注ぎ込む付近の地域は大雨の時に必ずと言っていいほど洪水に見舞われ、石狩川の沿岸部では雪解けの時期、大雨の時には水に浸かった。兵村は高台にあり水に浸かることはなかったと話された。
 この話で見えてくるのは、上川道路と言われた国道12号沿いの給与地は市街地化するまで牛・馬の牧場であり、リンゴ畑であったと言うことである。地区ごとに農耕の仕方が違う。これは生活の知恵というか、屯田兵の人達は、当時においても適地適作の農業を行っていたと言うことであろう。 
 S氏は、馬を飼っていた人の中から馬産地である太田兵村(厚岸)へ、牛を飼っていた人の中から酪農の地である安平へ移り住む者がいたと話された。屯田兵子孫の方達は新たなる地を求めて再チャレンジをする人が大勢いたようである。

「滝川市遺徳顕彰会」は年1回の7月1日に滝川市長臨席のもとに屯田兵慰霊行事を行っているそうである。残念かな、現在参加される子孫の方は3世を中心に15人程度であるという。皆さん高齢になってしまい、慰霊碑を誰がどの様に守っていくのか今後のことが心配であると話された。
 お二方のS氏から話を受けた翌日、屯田兵の住居があった給与地、その周辺にあった追給地、番外地と言われた市街地等を見て回った。
 国道12号線と、国道38号線が交差する街の中心にレトロな建物が二棟建っている。その一つは昭和7年に建築された「北海道銀行滝川支店」の建物で現在「北洋銀行滝川支店」として使われている。もう一つの建物は明治23年に「丸井今井商店滝川支店」として建てられた現「中川金物店」である。中川金物店に入らせて頂き見学をさせてもらった。店の人はなれているのかテキパキと説明をしてくれた。柱には丸井のマークが刻印されていた。梁は一本の大木を荒削りにしたもので黒く輝き、年輪と当時の栄華がしのばれた。奥にある蔵は現在物置代わりに使われているが、何処かで見た豪商の蔵のように立派なものであった。

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「旧北海道銀行滝川支店」

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「旧丸井今井商店滝川支店」

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「太い梁と丸井のマーク」

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「滝川の中心十字街」
 ここまで来たのだからと、駄目もとで滝川の自衛隊に電話を入れた。元人造石油工場の本部であり、現在滝川自衛隊の本部庁舎として使われている建物の写真撮影をお願いした。衛兵が厳重な警戒をする正門前で、担当自衛官の立ち会いの下写真を撮影させてもらった。

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「旧人造石油工場本部」

 滝川、いや中空知の農地は今まさに実りの秋である。整然と区画されたに田んぼで太陽と水の恵みを受け、すくすく育った稲穂が黄金色に輝いていた。
 そして、丁度稲刈りが始まった。

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「滝川の農村風景3景」

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「三日月湖(ラウネ川)」

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「滝川市庁舎」

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「滝川駅」


滝川兵村の紹介

2011-09-17 18:51:44 | 滝川屯田兵村

<工 事 中>

「滝川兵村」
入植年:明治22、23年
入植地:滝川市一の坂町、朝日町、黄金町、二の坂町、滝の川町など

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「滝川兵村入植配置図」「takikawa01.pdf」をダウンロード 

出身地:九州中心に7県
入植戸数:440戸

「北滝川兵村入植者名簿」「takikawa02.pdf」をダウンロード

「南滝川兵村入植者名簿」「takikawa03.pdf」をダウンロード 

第2大隊
大隊長
 初 代:野崎貞次(M23.6.23~)後の第1大隊長(一已)
 第2代:吉田清憲(M25.2.2~)
 第3代:菊池節蔵(M27.1.26~)(日清戦争時の大隊長)
 第4代:佐藤當司(M28.7.23~M32の大隊廃止まで)

入植
○十津川移民の入植
  奈良県十津川村から陸路神戸港へ移動、神戸港~小樽港へ海路移動、明治22年11月6日~18日の間に滝川兵村に到着。
○主力の入植
☆第1便
 便 船:日の出丸 
 航 路:岩国~八代(熊本)~博多~小樽(7月3日着)
☆第2便
 便 船:日の出丸(第1便として輸送した後、酒田港へ回送し第2便として使用) 
 航 路:酒田(山形)~小樽
 小樽からの移動:手宮から無蓋貨車の石炭車で市来知(三笠)まで列車移動。そこから徒歩で沼貝村(美唄)へ、石炭を発掘するため設置された空知監獄署出張所で一泊、翌日滝川兵村に到着。
入植日:明治23年7月  日

給与地
 第1次給与地:5,000坪(125間×40間or160間×31.25間)
 追給地:10,000坪

「南滝川兵村」
部隊名:第5大隊第1中隊→第2大隊第3中隊
中隊長
 初 代:県 左門(M22.12.27~)
 第2代:吉田清憲?
 第3代:友田 正(M26~M29.10.17)
 第4代:菊池節蔵?
 第5代:平井正道(M30.1.16~M30.3.31)

(初代の中隊士官)
 中尉:伊地地四郎兵衛(後の南江部乙兵村3代目中隊長)
 中尉:福井重吉(後の当麻、剣淵の中隊長)
 少尉:藤本専作(後の北滝川兵村3代目中隊長)
 見習士官:菊池直人
 曹長:北郷小一郎
 軍曹:鷲山実平
 軍曹:片山勝太郎
 軍曹:古川栄三郎

出身県別入植者数
 山形県   45
 奈良県   57
 熊本県   15
 山口県   47
 佐賀県   31
 福岡県   17
 鹿児島県  10
        計   222名

「北滝川兵村」
部隊名:第5大隊第1中隊→第2大隊第4中隊
中隊長
 初 代:山県俊信(M23.5.21~)
 第2代:星 願造(M24.11.20~)
 第3代:藤本専作(M29.4.24~M30.3.31)

(初代の中隊士官)
 中尉:友山 正(後の南滝川兵村2代目中隊長)姓名?
 少尉:秋山有明
 見習士官:川上親興
 曹長:佐藤現八
 軍曹:永森余所三郎
 軍曹:四ノ宮立本
 軍曹:大坪与市

出身県別入植者数
 山形県  57
 奈良県  38
 熊本県  12
 山口県  53
 佐賀県  27
 福岡県  22
 鹿児島県  9
 計7県 218名

Ⅰ 滝川兵村の特色
  地名の由来は、空知川の語源であるアイヌ語の「ソーラプチペッ」(滝のある川)を意訳したことによる。
1 地理的特質
(1)北海道一の大河石狩川とその水源を夕張山系及び大雪山十勝山系とする空知川が合流する空知平野の中央部で、入植した地域は北東方向が小高くなった丘陵地。
(2)北へは石狩川沿いを遡上すると上川盆地へ、東へは空知川沿いを遡上すると十勝方面へ結ぶことが可能な交通の要衝。また、空知平野が狭まる場所に位置し、石狩川を渡河し増毛街道(現国道275号線)との連接が容易。
(3)近隣の歌志内、赤平、芦別、上砂川に炭鉱が開かれ、それらの地域を支える物流の中心地。
(4)気候は、夏と冬の気温の差の激しい内陸性気候で、冬期の積雪は多い。

2 時期的特色
(1)屯田兵制度・組織関連
a明治20年~21年にかけて屯田本部長である永山武四郎が米、露、清を視察その中でコサックの屯田兵制を研究。
b明治20年、永山武四郎本部長の下で、屯田兵制度の大々的な見直しと20個中隊増強計画を立ち上げる。
c明治23年、屯田兵条例(服役期間現役3年、予備役4年、後備役13年の20年となる)、屯田兵土地給与規則(給与地は1万5千坪となる)、その他、関連規則の改正が行われ屯田兵制度が確立する。
(2)明治19年、開拓使廃止から4年間続いた3県時代が終わり道庁時代に入る。同年、北海道土地払下規則公布。これにより、会社、結社組織による団体移民が始まる。
(3)明治22年、奈良県で大規模な水害が発生し、十津川の住民約600家族、2,600人が北海道(新十津川)へ移住。その年、滝川の屯田兵屋で冬を越す。
(4)明治22年樺戸集冶監の囚人達の手によって滝川兵村の建設、上川道路の開削。
(5)明治22年北海道炭鉱鉄道会社設立。明治24年手宮~歌志内まで、明治25年滝川まで、明治31年忠別太(現旭川)まで鉄道延伸。大正2年富良野線開通。
(6)明治23年北海道炭礦鉄道空知採炭所(歌志内)開坑。以降大正2年にかけて空知川沿(赤平、芦別)上砂川に炭鉱が開かれる。
(7)明治27年、滝川兵村に隣接して江部乙屯田兵が入植。
(8)日清戦争を4年後に控え朝鮮半島では緊張が高まる。
(9)予備役として日清戦争に出征。
(10)明治30年兵役満了、後備役に入る。

3 入植者の特色
(1)士族最後の屯田兵。
(2)十津川移民92戸を採用
(3)九州、中国地方出身者が中心。その中に山形県人101戸。

4 任務上の特色
(1)空知平野の要衝警備及び中空知地区の開拓。
(2)日露戦争
    名出征、戦死者10名、屯田兵以外の戦死5名

5 発展過程上の特色
(1)十津川移民が明治22年11月に移住し兵屋を間借りしたため、主力の入植時期が23年7月にずれ込む。(その為初年度作物の収穫皆無)
(2)明治22年の上川道路、その後の鉄道延伸工事に伴う資財の供給等で、滝川に多くの人・物が集まり消費が増大。兵村の南側地域は商業施設が建ち並び大いに栄える。屯田兵に
(3)明治31年の大洪水で甚大な被害を受ける。また、忠別太(旭川)まで鉄道が開通したため景気は一気に減退する。滝川屯田兵は明治30年で兵役が満了し、この景気後退は屯田兵の離村を即した。
(4)大正2年、滝川と道東を結ぶ富良野線(現根室本線)の開通によって再びその地位を回復。さらには、昭和に入ってから石炭産業の隆盛によって赤平・芦別など産炭地からの石炭をはじめとする物資の輸送が活発になり、中継基地として商工業が栄える。
(5)農業の発展
a中隊本部からの指示もあり入植当初、麻の作付けを開始。その後、予備役時代になっても麻が主作物であった。他の作付けは格戸ごとに決めていた様で豆類、麦類、牧草などを作付けしたと記録に残っている。苦しい生活であったが、第1次大戦の好景気で一時期をしのいだ。
bりんごの栽培
 屯田司令部からの奨励もあり各戸で作付け。収穫は3、4年後となるので、その間の生計に苦労。有望との期待に反し、明治34年と明治39年の害虫の被害を受け全滅した。
c稲作
 入植の年から個人的な試作の記録が残っている。しかし、本格的に水稲を考え出したのは大正5年に土功組合を結成してからで、明治35年北海道土功組合に関する法律が施行されることにより、道からの助成受け潅漑溝を開削。大正時代後半になって本格的な稲作が始まった。
(6)他の兵村と同様でもあるが、明治末期から大正初期にわたる時代は大変で、耕地に恵まれたと言われる滝川兵村にあっても、この時期に半数以上の屯田兵が離村した。
(7)大東亜戦争中、滝川に石炭から石油を精製する人造石油工場の設置され工員と家族を含めると1万人規模の人員、また、優秀な頭脳集団の流入した。しかし、戦後工場の閉鎖により、それらの人材は離散し一時衰退した。
(8)昭和30年、人造石油工場跡地に自衛隊移駐し、70年の歳月を経過し屯田兵の伝統を継承した。  
(9)明治23年滝川村戸町役場設置、奈江村(現在の砂川市)分村。
  明治32年音江村戸町役場(現深川市)分立。
  明治39年2級村制施行。
  明治42年1級村制施行、江部乙村分立。
  明治43年町制施行「滝川町」。
  昭和33年市制施行「滝川市」
  昭和46年滝川市、江部乙町合併

6 滝川兵村関係の著名人

Ⅱ 滝川屯田兵の伝統を伝える
○資料館等
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「滝川郷土館(昭和52年開館)」

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「郷土館の屯田兵屋」

○屯田兵関係の催し

○屯田兵ゆかりの学校
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「市立滝川第二小学校」

○「ゆかりの神社
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「滝川神社」

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「滝川屯田兵移住記念碑」

○今に残る屯田兵の踏み跡
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「屯田兵第二大隊本部跡碑」

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「練兵場跡碑」

○屯田兵子孫の会の紹介
「滝川市屯田遺徳顕彰会」
 旧滝川市に住む後継子孫77戸、給与地に居住する後継子孫25戸内農業経営者16戸(平成2年調査)