<ルポ:現在の滝川兵村(平成23年)>
滝川市には性格の異なる二つの兵村が存在する。それは、この項の対象である滝川兵村と、昭和46年市町村合併で滝川市に組み込まれた江部乙兵村である。
滝川屯田兵は明治22年~23年に入植。士族屯田兵の最後であり、出身地は西・南地域の人の中に山形県人と奈良県の十津川移民の人達が含まれる。対して江部乙屯田兵は明治27年に滝川兵村にほぼ連接する形で北側の地に入植。入植者は一般平民を対象とし、出身地は全国20府県にもおよぶ。任務的にも滝川屯田兵は、交通の要衝として発達するものと見込まれていた中空知地域の警備という要素が大きい。対して、江部乙屯田兵は内陸部の開発といった殖産という面が大きい。また、滝川は明治、大正、昭和、平成と移り変わる時代の中で、中空知の中心地として歴史の舞台に立ってきた地である。
そんなことから、それらの踏み跡を少しでも感じ取ろうと精力的に動き回わり取材をした。
事前に地元郷土史研究家のS氏、滝川屯田兵子孫会「滝川市屯田遺徳顕彰会」の副会長であるS氏に取材依頼を取りつけてあった。郷土史研究家のS氏には過去から現在に至るまでの滝川の移り変わりを、子孫会のS氏には自身が育った滝川兵村の当時の姿等を主題としてお話しを聞いた。
郷土史研究家のS氏は元滝川市の博物館の館長をされた方で、現職時代から現在に至るまで、滝川市史の編纂や各種郷土資料の収集・整理に携わり、滝川の生き字引と行っても過言でないほど詳しい知識を持たれていた。
滝川盛衰の歴史を時代を追って説明してもらった。
この中で、滝川の歴史は巡風なものではなく、屯田兵が入植した明治22年頃から30年頃にかけは滝川が北海道開発の拠点であり、人・物資が滝川に集中され繁栄を極めたが、明治31年、鉄道が忠別太(現旭川)まで延伸されたことにより、また、同年に大水害に見舞われ滝川が大打撃を受けたことにより、開発の中心地は旭川に取って代わられた。滝川の町は火の消えたように低迷してしまった。その後の復活は富良野まで延びる鉄道の開通(現在の根室線)であり、歌志内、赤平、芦別等採炭地の繁栄である。
また、先の大戦の最中に人造石油会社が滝川に設置され、約1万規模の人口の増加と知的財産の集積を生んだ時代もあった。当然その工場は終戦とともに閉鎖し貴重な人材は散り散りとなってしまった。そんな話しを例話を交えながら伺った。丁度話しも終わりかけた頃に滝川青年会議所の方がS氏と用談のために来られた。丁度良いので三人で話しをしましょうと言うことになり、古写真を眺めながら説明を聞いた。時間にして約1時間、写真の枚数は約100枚。滝川の歴史を象徴する写真であり、「これは明治何年の何々の時の写真」。「これは、何々で、これは誰々」。とか、一枚一枚丁寧に説明をされた。それらの写真から滝川の姿が見えてきた。
「滝川市屯田遺徳顕彰会」副会長のS氏は屯田兵3世の方で御歳90歳という高齢ではあるもの、面談をした滝川神社まで自転車で来られるほどに元気であった。
親子2代にわたって国鉄マンで、農業に携わることはなかったが、兵村のあった給与地の状況をよく覚えられていた。昭和の始め頃の状況として、兵村の南側では牛を、中程では馬を飼い、北側ではリンゴを、石狩川沿いでは畑作を行っていたという。稲作が行われるようになったのは戦後であると言われた。また、空知川河畔の北側に製麻工場があったことから麻の栽培も行われていたのだろう。
空知川が石狩川に注ぎ込む付近の地域は大雨の時に必ずと言っていいほど洪水に見舞われ、石狩川の沿岸部では雪解けの時期、大雨の時には水に浸かった。兵村は高台にあり水に浸かることはなかったと話された。
この話で見えてくるのは、上川道路と言われた国道12号沿いの給与地は市街地化するまで牛・馬の牧場であり、リンゴ畑であったと言うことである。地区ごとに農耕の仕方が違う。これは生活の知恵というか、屯田兵の人達は、当時においても適地適作の農業を行っていたと言うことであろう。
S氏は、馬を飼っていた人の中から馬産地である太田兵村(厚岸)へ、牛を飼っていた人の中から酪農の地である安平へ移り住む者がいたと話された。屯田兵子孫の方達は新たなる地を求めて再チャレンジをする人が大勢いたようである。
「滝川市遺徳顕彰会」は年1回の7月1日に滝川市長臨席のもとに屯田兵慰霊行事を行っているそうである。残念かな、現在参加される子孫の方は3世を中心に15人程度であるという。皆さん高齢になってしまい、慰霊碑を誰がどの様に守っていくのか今後のことが心配であると話された。
お二方のS氏から話を受けた翌日、屯田兵の住居があった給与地、その周辺にあった追給地、番外地と言われた市街地等を見て回った。
国道12号線と、国道38号線が交差する街の中心にレトロな建物が二棟建っている。その一つは昭和7年に建築された「北海道銀行滝川支店」の建物で現在「北洋銀行滝川支店」として使われている。もう一つの建物は明治23年に「丸井今井商店滝川支店」として建てられた現「中川金物店」である。中川金物店に入らせて頂き見学をさせてもらった。店の人はなれているのかテキパキと説明をしてくれた。柱には丸井のマークが刻印されていた。梁は一本の大木を荒削りにしたもので黒く輝き、年輪と当時の栄華がしのばれた。奥にある蔵は現在物置代わりに使われているが、何処かで見た豪商の蔵のように立派なものであった。
「旧北海道銀行滝川支店」
「旧丸井今井商店滝川支店」
「太い梁と丸井のマーク」
「滝川の中心十字街」
ここまで来たのだからと、駄目もとで滝川の自衛隊に電話を入れた。元人造石油工場の本部であり、現在滝川自衛隊の本部庁舎として使われている建物の写真撮影をお願いした。衛兵が厳重な警戒をする正門前で、担当自衛官の立ち会いの下写真を撮影させてもらった。
「旧人造石油工場本部」
滝川、いや中空知の農地は今まさに実りの秋である。整然と区画されたに田んぼで太陽と水の恵みを受け、すくすく育った稲穂が黄金色に輝いていた。
そして、丁度稲刈りが始まった。
「滝川の農村風景3景」
「三日月湖(ラウネ川)」
「滝川市庁舎」
「滝川駅」