<ルポ:和田兵村の現在(平成23年6月)>
平成22年9月、この地を訪ねたとき、「現在も17戸の屯田兵子孫が和田の地を守り酪農を営んでいる」。と聞いた。屯田兵37個兵村。道内26箇所に入植地があるが、このような例は他にない。
それは、何故なのかと関心を持ち翌平成23年6月に再度訪した。
根室半島は春から秋にかけて海霧に覆われる。しかし、訪問した3日間は、初日こそ海霧に覆われたものの、残りの2日間は青空が拝め、われの訪問を歓迎しているかの様であった。
そんな中、屯田兵子孫の方が経営する3軒の牧場を訪問し酪農の実態を確認した。
それぞれの牧場で飼育の仕方が違っていた。一軒の牧場は300頭の乳牛と、30頭の肉牛、20頭の羊、3頭の馬を飼育し、ロボット搾乳を行っている牧場で和田一番の大規模経営を行っている。次の一軒は、第8回全日本ホルスタイン共進会の大会で、時の農林水産大臣から優等賞を受賞する等数々の優良牛を産出している牧場で、牛にとっては勿論、飼育する人にも優しい環境を追及していた。
最後の一軒は、3年前の平成20年に牧畜の最先進国であるデンマークの酪農を研修。それらで得た最新の飼育法を参考に、より効率的な飼育を追求していた。
経営者等の皆さんから一言コメントを頂いたが、皆さん酪農に対する情熱には並々ならないものがあり、和田の地に対する郷土愛、祖先を敬う気持を強く持たれていた。
そんな中、一人の方が言われた「酪農とは農業の芸術である」。という言葉に皆さんの思いが代弁されているように感じた。
酪農は土を育て飼料を生産し、牛を飼育する。牛のし尿から堆肥を作り、土を育てる。この循環の繰り返しであるが、それらの一つでも欠落していたら健康で沢山の乳を出す牛は育たない。
それと、経営とは戦いでもある。「より能率的に」、「より高品質」、「より多く」、「より良い環境に」務めなければ生き残れない。酪農は数千万円から億円単位の大資本の投入が必要であり、そのためには日進月歩で進む技術を追い求め、先を読まなければならない。そんなことを現場から感じ取った。
それぞれの牧場を経営するのは屯田兵4世の方が中心で、5世の方々も跡継ぎとして酪農経営を目指している姿を見て心強いものを感じた。
和田の地を守るのは彼らの力であり、彼らの背中を押したのは父の姿であり、その父の背中を押したのは祖父の背中であり、突き詰めれば、和田屯田兵として入植した440戸2208名の入植者の血と汗の結晶である。120数年前に入植した彼ら屯田兵の伝統が生きているのだ。
和田屯田兵はその厳しい環境(気象、土地等)のため、他の兵村に類を見ないほど苦労を重ねたと言われている。兵役満了。日露戦争からの凱旋。明治40年頃にはその名を残すのみで殆ど離散してしまった。このことは、見方を変えれば二つのことが言える。その一つは、畑作から酪農へ変換することによって20戸程度の戸数しかこの地の農業経営者は必要なかったということ。もう一つは、根室地方には任期を終えた屯田兵達の受け皿があった事ことある。3県時代を終えた明治19年の根室には20数箇所の国・道の支所があったという、任期を満了した屯田兵達は公職に奉じる官員として、教育者として、または、出面取りとも言われたが、漁業、運送業の労働力として吸収されていった。
当時の畜産業には販路が少なく、必ずしも順調な経営ではなかったが、その窮乏を救ったのが軍馬と言う馬に対する需要である。和田は軍馬の一大産地として発展する。酪農が軌道に乗るのは大東亜戦争の後のことである。
官員、教育者等に奉じた元屯田兵、その子孫の中から、根室を牽引する人物が育ち、畜産に携わる屯田兵達を行政と言う面から支援したことも大きな要因である。先にも述べたが酪農経営には膨大な資金が必要で、国からの補助は欠かせない。それらの道筋をつけたのは屯田兵あがりの官員たちの力でもあった。
幾度か危機がおとづれた。その最大のものは戦後の農地解放で、土地を手放なさなければならないという危機に直面したが、分家に分配するという方法で旨く切り抜けた。
17戸の子孫の方がこの地を守り通せた訳は、そんな、みんなでこの地を守ろうという強い郷土愛に他ならない。
屯田兵の入植から120年余りの年月が経過し、不毛の地とも言われた和田の地は緑豊かな牧草地へと変化した。しかし、厳しい気象条件と、ロシアと国境を接す防衛の最前線である事には変わりない。そんな厳しい条件下で営々と土地を守り、牛を育てるのが和田屯田兵子孫の方々である。
牧場を廃業したある老婦人が「牛と分かれるのは寂しいことですよ」と涙目で話された。
和田の人達はこの地と牛たちをそれほどまでに愛し続けている。
「島牧場」
和田兵村を去る日の朝、落石と昆布盛まで足を伸ばした。この地は、屯田兵達が出面取りで昆布取等の漁業、馬での運送業などを行っていた場所である。
港ではあわただしく出漁準備をする人々の姿があった。
「落石の風景」