屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

屯田兵の歴史年表

2012-04-02 20:12:03 | A屯田兵の歴史

屯田兵の歴史年表

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屯田兵制の変遷

2012-04-02 20:06:32 | A屯田兵の歴史

屯田兵制の変遷
 
   北海道開拓使の時代、明治8年に北海道の防衛と開拓、窮乏士族授産等の目的から始った屯田兵制度であるが、情勢の変化(それは、ロシアの脅威の変化であり、開拓の促進であり、明治時代の国家建設そのものの中で生起する事象でもあるが)とともに、その求めるものも変化した。
  以下に記す第1期~第4期の区分は、情勢の変化に基づき制度が変化した時期ととらえ筆者が区分したものであり、オーソライズされた明確な根拠に基づくものではないことを前置きし、各期の状況をながめていきたい。

1第一期「屯田兵制度の発足から屯田兵条例制定まで」(M8~M17)
  早期、北海道に防衛・警察力を置く必要から屯田憲兵例則が制定され屯田兵制度が発足。明治8年に琴似、明治9年に山鼻、発寒(琴似兵村の一部)に屯田兵480名を配置した。当初の計画では、3ヶ年に68万円の予算を投入し1500戸の屯田兵を入植させるものであったが、明治10年の西南戦争への出兵等、予期せぬ事態が発生し計画は頓挫した。その後、明治15年の開拓使廃止にともない陸軍省へ移管。
   この時期は、試行錯誤の中において屯田兵制度を作り上げて行った時期ともいえる。

(1)屯田憲兵例則(明治7年10月制定)に基づく屯田兵制度の導入
   明治6年、時の北海道開拓使次官(後の長官)黒田清隆から出された屯田兵制試行の建議により屯田兵制度が発足。それまで、警備態勢が未完であった北海道に初めて本格的な兵力(屯田兵)を投入することになった。憲兵という名前をつけたのは、まだ国境が確定していなかったロシアを刺激しないため。

(2)樺太・千島交換条約の締結と琴似、山鼻屯田兵の入植
   明治8年、樺太・千島交換条約が締結されることにより、ロシアとの間に国境が確定した。幕末から明治の始めにかけて存在した樺太、千島列島におけるロシアとの緊張は、この条約の締結をもって一時小康状態を保つこととなった。
   そんな中、明治8年に琴似(その一部である発寒には明治9年)、明治9年に山鼻屯田兵が入植した。これらの入植者は伊達藩、会津藩、庄内藩等、戊辰戦争で朝敵の汚名をきせられた東北諸藩の士族が主体であった。

(3)西南戦争への出兵と屯田予備兵の編成
  西南戦争には琴似、山鼻兵村の屯田兵を中心として屯田第1大隊を編成し参戦した。
    この時、さらなる戦力の投入を予期し、旧伊達藩、会津藩、稲田家の士族を中心に屯田予備兵を編成し出動態勢を取った。(これらの予備兵は実戦には参加せず。)
    戦争終結を期にこれらの編成をもって、北海道有事の際に出動出来る態勢を作るべく屯田予備兵720名を編成した。

(4)農業試験場的な役割を担わされた屯田兵
   明治9年に札幌農学校の開校。その前年の明治8年には、当初東京に設置された開拓使の官園を七重へ、明治9年には札幌へ移すとともに、開拓使から雇われた農業技術者であるエドウィン・ダン、ルイス・ベーマ等を移動させ、北海道において本格的な農業指導を行った。
    その内容は、養蚕、亜麻、畜産・酪農、各種野菜、果樹の栽培、各種西洋型農機具の使用方等で、まさに、その実地試験が琴似、山鼻兵村で行われた。そして、その成果は、その後入植する屯田兵、開拓民へ受けつがれ北海道農業の発展に大きく寄与した。

(5)開拓使の廃止(明治15年)に伴い陸軍省へ移管
   明治15年開拓使の廃止に伴い屯田兵は陸軍省へ移管をした。
   開拓使は、当初68万円の予算で3年間に1500戸の屯田兵を入植させる計画であったが、開拓使が廃止となった明治15年までに入植したのは、琴似兵村240戸、山鼻兵村240戸、江別兵村29戸計509戸にすぎなかった。
   その理由は、当初見積もった68万円の費用では不足したことと、応募するであろうと予測した青森、宮城、酒田県(山形)及び福山(松前)、江差の士族から計画戸数を集めることが出来なかったことがある。その為、士族屯田と言われた琴似、山鼻屯田兵の中にも多くの平民が混在していた。
    その後、開拓使から屯田兵の移管を受けた陸軍省は、北海道全域に常備兵を常駐させるのは時期尚早との考え、当初、屯田兵の配置について消極的な立場を取った。

(6)陸軍省最初の屯田兵の入植
    資金不足と開拓使の廃止で江別、篠津兵村の建設は頓挫したままであったが、
   屯田事務局長の永山武四郎は、陸軍省と太政官に補充を上申。明治14年以来中断していた入植を再開し、明治17年江別兵村に75戸の入植を行った。

2第二期「屯田兵条例の制定と防衛警備・治安を優先した屯田兵の入植」(M18~M23)
   明治15年の開拓使廃止にともない、北海道は三県(札幌、函館、根室)時代を経て、明治19年から北海道庁の時代に入った。初代北海道長官に返り咲いた岩村通俊は、それまでの、直接移住者を救済する方式から、インフラの整備、民間の大資本を導入することにより開拓の促進を図る方式に変換した。
    開拓使の廃止により陸軍省に移管された屯田兵は、明治18年に「屯田兵条例」が制定されたことにより、陸軍組織中における屯田兵の位置づけが明確となった。
    国は、明治19年新たに「北海道土地払下規則」を制定。これは「無償貸し付け・一定期間後有償払下げ」の形で入植を奨励し、国有未開地の開墾を目指すもので、これの効果もあり、北海道開拓が大きく進展し人口も飛躍的に増大した。

    明治 2年:  5.8万人
    明治14年: 22.3万人
    明治18年: 27.6万人
    明治33年: 98.5万人
    明治42年:153.9万人

    これに呼応するかのように本格的な屯田兵の入植が開始された時期である。

(1)屯田兵条例制定による陸軍内における屯田兵の位置づけ決定
  北海道の開発も軌道に乗り、急激な人口の増大に伴う治安維持の面から、軍事・警察力を早急に整備する必要が生じてきた。また、北海道はそれだけではなく、開拓という要素を伴うことから屯田兵を如何に陸軍軍制の中に組み込むかが問題となり、明治7年に制定した「屯田憲兵例則」の検討を加えることとなった。 
    その結果、「屯田憲兵例則」を廃止し、「屯田兵条例」(明治18年5月7日)を制定、合わせて組織機能及び志願兵としての屯田兵を召募する規定を骨子とした「屯田兵本部概則」(明治18年10月16日)、さらには、「屯田兵服務規則」(同12月)を制定した。

(2)屯田兵増殖計画から屯田兵20個中隊増強計画
 ○屯田兵増殖計画 
    開拓使の廃止後、農商務省所掌において「移住士族取扱規則」をつくり、明治15年度~明治22年度の8カ年間、窮乏士族の救済と北海道開拓の目的をもって毎年250戸を移住させる開拓事業を行っていた。しかし、この計画は一向に進展せず、明治17年には中止、明治18年には廃止となった。
    そこで、この資金によって屯田兵の増殖を図ろうと発案したのが屯田事務局長の永山武四郎である。「屯田兵編成ノ為定額金増加ノ義」(明治18年4月18日)を建議した。これに合わせるように、受入れ側の根室、札幌、函館県から「屯田兵増員ノ義ニ付」上申。また、屯田兵志願者の出身県知事が内務省、陸軍省、農商務省へ屯田兵及び家族の移住を嘆願「屯田兵ノ義ニ付」建議をした。
 ○屯田兵20個中隊増強計画
    明治20年~21年にかけて露国を視察し、2代目の北海道長官長に就任した屯田兵本部長でもある永山武四郎は、屯田兵20個中隊増強計画「屯田兵増強ノ義付」上申(明治21年11月17日)を行った。これは、明治22年~明治26年の5年間に20個中隊約4,400戸を入植させるもので、ロシアの南下政策に対処するためには急務であるとの認識のもとに行われた。
    時の内閣総理大臣は屯田兵の創設に携わり屯田兵の必要性を理解する黒田清隆であったこともありその上申は認められた。
    なお、当初の予算は陸軍省からではなく、北海道庁の殖民費から充てる旨上申された。(その後、明治22年7月、主管は陸軍大臣へ変更となった。)

(3)防衛・警備上の要請に基づく入植
    屯田兵増殖計画中、重要港の防衛で根室(和田兵村:明治19、21~22年)、室蘭(輪西兵村:明治20、22年)、厚岸(太田兵村:明治23年)に。道都及び重要地域の防衛・警備で、新琴似(明治20、21年)、篠路(明治22年)、滝川(明治22、23年)、に1,980戸が入植した。

(4)屯田兵本部長永山武四郎による屯田兵制度の研究
   相前後したが、明治20年3月から21年2月にかけて、米・欧・露、清国を視察した永山武四郎は、特にロシアのコサック制度の視察で得た成果をもって屯田兵制度の改革に着手した。

(5)屯田兵条例の改正、諸規則の制定
   屯田兵20個中隊増強計画の実施により、屯田兵条例ほか関係規則の抜本的な見直しが必要となり、屯田兵条例の改正(明治22年、23年)、屯田兵服務規則の改正(明治22年)、屯田兵司令部条例の制定(明治23年)、屯田兵召募規則の制定(明治23年)等が行われた。
    特に明治23年に行われた屯田兵条例の改正は、屯田兵制度実施の一大転換で、今まで服役期間は世襲するとしていたものが、20年(現役3年、予備役4年、後備役13年)と定められた。召募範囲も、それまで行われていた士族だけからではなく、広く一般の人へと拡大した。
    その他に、給与地の面積を10,000坪から15,000坪に拡大するとともに、出征中の家族を援助する等の目的のために一戸あたり15,000坪の公有財産が兵村に与えられることとなった。

3第三期 「国の富国強兵政策による開拓を優先する屯田兵の入植から、第七師団の創設」(M24~M29)
   屯田兵条例の改正等、屯田兵制度の一大改革の後に行われたのがこの時期の入植である。
    明治も20年代に入り、維新の混乱も漸く落ち着き、明治22年明治憲法の発布、翌23年第1回帝国議会の開催等、近代国家としての態勢が整い富国強兵が叫ばれた時期である。しかし、国内には旧士族階級を中心として生活に窮する国民が未だ多く存在した。
    この頃、北海道の開拓は札幌周辺から上川道路(現国道12号線、明治22年開通)の延伸にともない、北空知~上川地区へ向かう段階まできた。明治18年に岩村通俊が上川の近文台(国見山)に登り、開拓促進のために「上川に北京を置くべし」と北京設置の建義を行ったのも、これらを見越した構想で、北海道開拓の促進を図る為には、上川(旭川)へ天皇にお越しいただき、人心を北海道の地に集めることが肝要であるとした。
    そして、北空知の雨竜原野に三条実美、蜂須賀茂韻、菊亭脩季、戸田康泰等が発起人となり華族農場を建設しようと行動を起こしたのもその一環である。残念かな、三条実美が死去しこの構想は実現を見ることはなかった。
    この様な情勢下、内陸部の開拓のための先兵という位置づけとしての屯田兵に対する期待は高く、上川に離宮は設置されることはなかったものの、北海道の中心に位置し石狩川及びその支流に育まれた肥沃な大地である上川地区へ大規模な入植が開始された。そして、明治24年を境に今まで士族中心であった屯田兵から平民屯田兵へと移行した。
    上川入植当初の屯田兵は永山(明治24年)から始まり、旭川(25年)、当麻(26年)。その後、北空知、空知地区へと本格的な入植が行われた。
    そんな中、明治28年に日清戦争の勃発。屯田兵にも召集がかかり、臨時第七師団を編成し東京で出動態勢を取った。
    戦争終結後の明治29年北海道に第七師団が創設された。

(1)20個中隊増強計画に基づく内陸部の開拓・防衛を優先する屯田兵の入植
    本計画に基づき明治22年から明治29年(当初の計画は5カ年4,400戸)に行われた入植は以下である。

    明治22年:篠路(220戸)、室蘭(110戸)、滝川 (95戸)
          根室(105戸)                   計530戸
    明治23年:滝川(345戸)、厚岸(440戸)          計785戸
     明治24年:永山(400戸)、美唄(100戸)          計500戸
    明治25年:旭川(400戸)、美唄(100戸)          計500戸
    明治26年:当麻(400戸)、美唄(100戸)          計500戸
    明治27年:江部乙(400戸)、美唄(100戸)         計500戸
    明治28年:一已(200戸)、納内(100戸)秩父別(200戸) 計500戸
    明治29年:一已(200戸)、納内(100戸)秩父別(200戸) 計500戸
                          
                                                                    総計4,315戸

   一つ特徴的なこととして美唄に騎兵1個中隊160戸、高志内に砲兵1個中隊(120戸)、茶志内に工兵1個中隊(120戸)が入植した。

(2)日清戦争と屯田兵
    まず、明治27年に屯田兵条例が一部改正され、兵役期間が現役8年、後備役12年(それまでは現役4年、予備役3年、後備13年計20年)となったことを押さえておく必要がある。これは、屯田兵の多くを日清戦争へ現役兵として駆り出すために行われたもので、清国との間に緊張の高まったことを踏まえ条例が改正された。
  屯田兵に対し動員が下令されたのは明治28年3月4日。永山武四郎少将を師団長とし、屯田兵四個大隊兵員約4600名に将校・下士を加えた人員をもって臨時第七師団を編成した。
    師団は各大隊単位で東京へ移動し、最後尾の第4大隊が東京に到着したのは明治28年4月17日である。
    なお、清国との間に講和条約が締結されたのは4月17日で、臨時第七師団が東京に集結を終えた日と同日である。
    屯田兵の動員の目的は何か?それは、日本の勝利を確定していた中で、更なる兵力の増強を行い、早期の講和条約締結に向けた圧力を清国側にかけようと行ったものと思われる。

(3)第七師団の創設
    明治28年6月、臨時第七師団は日清戦争の終結により凱旋。
    翌明治29年5月渡島、胆振、後志、石狩に徴兵令施行。そんな中、同年第七師団が創設された。(初代師団長は永山武四郎少将 司令部は札幌)これにより、屯田司令部は廃止となり、屯田兵は第七師団に隷属されることになった。なお、北海道全域に徴兵令が施行されたのは明治31年である。

(4)後備役兵村の発生とその監理
    明治28年をもって、後備役となった兵村は、最初に入植した琴似を筆頭に、山鼻、江別、篠津、野幌、和田、新琴似、輪西と続いた。
   こんな折、陸軍省は大隊区司令部条例を改正し、大隊区内に現住する後備役屯田兵の監理を容易なからしめる為の規則の整備を行った。
  屯田兵村には現役から予備役の間は中隊長が兵村に所在し、職権を持って当該兵村の指導、財産の管理、規律の維持等を行っていたが、後備役となった兵村には中隊長は不在となり、それに対処するため各兵村には兵村会を設置し、現役時代に諮問会が行ったのと同様の活動を行うため兵村自治機関の設置・運営を求めた。

4 第四期「第7師団創設以降」(M30~屯田兵制度終了)
 日清戦争後の極東情勢は三国干渉で遼東半島の返還、それに乗じるロシアの進出、シベリア鉄道の建設等、極東及び日本周辺でのロシアの脅威が日増しに増大し戦争の鎚音の迫る時代であった。
   北海道の防衛・警備の体制は、明治29年第七師団の創設~明治31年全道に徴兵令施行。その後、明治32年から同35年にかけて旭川に七師団の主力部隊を駐屯させるための基地の建設が行われ、明治35年旭川に第七師団司令部が移転した。
    屯田兵は先の20個中隊増強計画に基づく入植も完了し、石狩、空知、上川を中心に旅団規模の編成を完了していた。
    この時代は、新編された第七師団の中に徴兵により召集された常備兵と、志願兵でもある屯田兵とが混在する特殊な体制がしばらく続くことになる。
    道内の交通網は、上川道路(札幌~旭川)に連接して明治24年には中央道路が網走まで延び。また、鉄道網は明治31年に旭川まで到達し、和寒から剣淵、士別へ延伸しつつあった。
   このことは、これまで手付かずの状態であった道北、オホーツク地区の開拓が可能になるとともに、悲願であった当該地区への兵備の配置が可能となることを意味した。
    中央道路は、オホーツク正面防衛のための命脈として重要な位置づけにあり、時の長官永山武四郎の要請もあり明治24年の単年度で完成させた。
    なお、この中央道路の建設にあたっては、空知、網走集治監の囚人達が動員されたが、過酷を極めた建設作業のため多くの尊い命が失われた。
    またこの時期は、明治19年に施行された「北海道土地払下規則」を廃し、新に「北海道国有未開地処分法」(明治30年)が公布された時期でもある。これは、1人当たりの貸し付け面積の上限(一人に付き開墾の土地は150万坪、牧畜には250万坪、植樹には200万坪、会社や組合には2倍まで)を認めるもので、大規模な開拓事業を行うことができるようになった反面、土地ブローカーが暗躍することにもつながった。

(1)道北、オホーツクの防衛と屯田兵の入植
○オホーツク地区への屯田兵の配置
    明治30年~31年にかけて常呂川流域の野付牛(現在の北見、端野、相内)に3個中隊(600戸)、湧別川流域の湧別(上湧別)に2個中隊(400戸)を配置した。
○道北地区への屯田兵の配置
    明治32年に剣淵に2個中隊(337戸)、士別に1個中隊(99戸)を配置した。

(2)屯田兵と常備兵の混在
    明治32年の第七師団の態勢は、屯田兵3496名(後備役を除く)、常備兵1703名であった。

(3)屯田兵制度の終了
    明治30年「屯田兵配置表」(陸達第149号)の公示により、将来の屯田兵の配置を計画した。これは、屯田兵制度の縮小を明示したもので、第七師団の徴兵令による常備兵が順調に増加しており、将来屯田兵の召募を中止しても徴兵により第七師団の定員を確保出来るとの目途がたったからである。
    屯田兵の配備は、最後に入植した剣淵、士別の屯田兵である第三大隊の現役が満期となった明治37年3月末日をもってすべて終了となった。
    同年9月9日「屯田兵条例」の廃止。明治39年「屯田兵給与地規則」の廃止。大正8年、剣淵、士別屯田兵の兵役満期(後備役)をもって屯田兵制度すべてが終了した。

(4)日露戦争と屯田兵
    日露戦争は明治37年2月10日の宣戦布告により始まり、明治38年8月29日のポーツマスにおける日露講和条約の成立により終結した。
    屯田兵制度は開戦の年(明治37年)の3月をもって終了し、最後の屯田兵、剣淵・士別屯田兵も5年の任期を終え後備役に入っていた。
    明治37年8月4日、第七師団に対し動員が下令。同年8月7日、後備役屯田兵に充員招集が下る。屯田兵が招集を受けた部隊は野戦歩兵第二五聯隊(連隊長渡辺水哉大佐)、後備歩兵第二五聯隊であった。

入植配置図「map02tr.pdf」をダウンロード

屯田兵服役期間の推移「03tr.pdf」をダウンロード

     


屯田兵制度の成立

2012-04-02 19:24:52 | A屯田兵の歴史

Ⅱ 屯田兵制度の成立」

   黒船来航の翌年(1854年)「日米和親条約」が締結されたのに合わせ、1855年ロシアとの間に「日露和親条約」が結ばれた。この条約により懸案であったロシアとの間に国境が確定し、千島列島は択捉島とウルップ島の間に国境線が引かれ、樺太は日露双方の雑居地となった。
   だが、それは、クリミヤ戦争(1853年~1856年)でイギリス、フランス、トルコ等と戦い敗戦を向かえることになるロシアと、蝦夷地をロシアの脅威から保全したいと切に願う徳川幕府間で結ばれた妥協の産物であり、将来においても安全が担保されると言うものでは無かった。勢力の均衡が破れた時には、さらに領土の拡張を目指すというロシアの南下政策の企図には変化が無く、蝦夷地と呼ばれた北海道はその脅威の最前線に立っていた。
   それから約15年の年月が経過し、維新の戦乱を経て新しい国家を建設した明治新政府にとっては北方の防衛体制をいかに敷くかが最重要課題であり、その為には北海道に多くの人を送り込み土着させることが必要であった。
   とは言うものの、熊羆など獣の住む島と言われた極寒の地に、好んで移住する人などいない。明治の時代に入り諸藩による分割付与、士族救済のための移住等色々な施策を行ったが、有効な手立てとはならなかった。
   これらのことについては「屯田兵誕生の背景」の中で見てきた。
   いかにして北海道に人々を土着させ、北辺の守りを固めるか?そんな問題を解決するために生み出されたのが北海道屯田兵制度である。
   この項では、まず、屯田兵とはどんなものであったかを前記し、屯田兵設置の根拠である「屯田憲兵条例」の制定まで経緯、同条例の概要につい記す。

1 屯田兵とは
   屯田兵というのは、兵を辺境の地に派遣し、開拓をしつつ防衛・警備に当たらせると言うもので、平時は農耕を行い、いざというときには銃・剣をもって戦う土着の兵隊のこと。
   屯田兵制度の模範となったのはロシアのコサック制度といわれるが、これに類似した制度は古くから存在した。
   中国では、漢の武帝の時、辺境の警備のため兵を駐屯させ開墾に従事させたとの記録もあり、我が国にあっても、律令時代、東北地方を防衛するため鎮守府の戍兵に農耕をさせていた。
   幕末、蝦夷地におけるロシアの脅威が増大する中、幕府が直接経営に乗り出した幕領時代に東北の諸藩に警備を命ずるとともに開墾を行わせたほか、八王子千人同心による白糠、勇払の警備の例がある。これら、幕末に蝦夷地で行った施策も屯田兵の先がけと言っても良い。しかし、人の移動を制限する幕藩制度の中で行われた試みであり、また、北海道の厳しい環境の中にあっては成功を見ることがなかった。

2 屯田兵設置の活動は薩摩藩閥中心に行われた
   幕末の薩摩藩は開明的な藩で、早くから外国の脅威を認識し、国を守るためには国力を増強しなければならない。その為には先進的な諸外国から知識、技術を導入しようと言うことで、具体的な例が、ペリーの来航前の嘉永4年(1851)から既に行われていた洋式大型船の建造であったり、安政4年(1857)に建設された「集成館」による殖産興業事業であり、薩英戦争後の文久3年(1865年)に行われたイギリスへの留学生派遣等である。
   薩摩藩は、「尊王だ」「攘夷だ」と叫ばれていた世相の中で、殖産振興政策を着々と推し進めていた。そして、そんな時代を生きた藩士の中から、北海道の開拓を牽引するリーダーが多数育って行った。
   屯田兵制度の導入は西郷隆盛以下、薩摩藩出身の官使を中心に行われた。
   何故かと言うことで、その辺の処を少しながめてみたい。
   北海道開拓使の初代長官は第10代肥前国佐賀藩主の鍋島正直で、筆頭判官は同藩の島義勇。しかし、両者とも直ぐに交代となり、次の長官は公家出身の東久世通禧、次官に薩摩藩出身の黒田清隆が就任した。そして、黒田清隆が実質的な采配をふるった。
   発足当初の開拓使は薩摩色の強いものではなかったが、黒田清隆が次官から長官代理となった明治4年頃から、薩摩閥が幅を利かせるようになってきた。
   この要因の一つとして、明治4年2月、西郷隆盛の提言により編成した御親兵(薩摩、長州、土佐藩からの献兵)が、同年7月の廃藩置県で解散となり、それと、英国式か仏国式かで争われていた兵制が長州閥の推す仏国式となったことが上げられる。 
   これにより、多くの薩摩藩出身の軍人が身を引き、開拓使の役人となった。屯田兵「育ての親」とも言われた永山武四郎もそんな中の1人であり、明治6年6月開拓使東京出張所に屯田課が設置され、同課所属となった大山重、安田定則、時任為基、柳田友郷、永山盛弘、永山武四郎のうち大山重以外すべて薩摩藩出身である。因みに大山重は、福井越前藩出身で坂本龍馬が作った海援隊士でもあった。
   また、函館戦争で敵味方として戦った榎本武揚、大鳥圭輔等の旧幕臣を開拓使に登用したのもこの時期である。黒田清隆の息の掛かった者が開拓使にどんどん集まってきた。

3 北海道の防衛・警備態勢
   明治2年7月8日開拓使を設置。翌8月蝦夷地を11国、86郡に画定し、北海道と呼称されるようになった。開拓使は要所のみを直轄とし、1省(兵部省)、1府(東京府)、25藩、8士族、2社寺(増上寺、仏光寺)に分割し付与した。 
   北辺の防衛と開拓を各藩に分担させるのがねらいである。
   版籍奉還が行われたのは明治2年7月、廃藩置県が行われたのは明治4年である。新国家が建設されたと行っても、明治2年は未だ藩態勢が維持されており、幕政時代同様に各藩に領地を付与する形でないと容易に領民を移動させることができなかった。結果は、財政難を理由に辞退する藩が続出、入植した藩にあっても「武士の集団」と言うだけで兵力としては程遠いものであった。
  兵部省所掌の警備については、会津降伏人約17,000人を屯田兵化し同省直轄地及び樺太に入植させる構想をもっていた。それらの先陣として明治2年9月家族を含めた約700人を小樽に招致したが、開拓使と兵部省の間で対立が起こり、第一陣の700名は余市に入植することとなった。彼らが入植した土地は、黒川、山田村として現在も残る。因みに黒川村の「黒」は黒田清隆の一字を、山田村の山は、この移住に尽力をした大山重の一字を取ったという。
 それ以降の旧会津藩士の入植計画はなく、兵部省直轄地も明治4年開拓使に移管されることとなった。
 では、開拓使が持つ兵力はどうであったかというと、明治元年箱館裁判所~箱館府の時代「箱館府兵」を編成した。なぜ函館とお思いの方もいるかも知れないが、当時、北海道の中心は、函館であり、松前であった。
 「箱館府兵」は、その後、開拓使の時代になり「函衛隊」と改称され唯一の兵力として保持していた。明治3年には「函衛隊」を「護衛隊」と改称し1個中隊174名の部隊に改編した。その他、羅卒(現在の警察官)を要所に配置していたが、いずれにあっても、北海道にある防衛・警備兵力は1個中隊程度でしかなく、とても、北海道の防衛任務を果たせるものではなかった。

4 屯田兵設置の動き
○ 会津降伏人を屯田兵化する構想
  まず、最初に屯田兵設置の必要を訴えたのは開拓使判官岡本堅輔らで、開拓使設置直後の明治2年9月の樺太視察時、樺太南端、宗谷海峡に面する日本国の拠点と言うべき函泊(現コルサコフ)にロシアが権益を拡大する姿を目のあたりにし、丸山外務丞と連名で「会津降伏人17,000人を北海道、樺太に入植させ屯田兵制を敷いて北海道と樺太の緊急の用に当たらせるべきである」と提言している。
  この提言を計画に反映させたのが、前項で記した兵部省所掌の会津降伏人による屯田兵構想である。
○ 西郷隆盛の屯田兵構想
  明治4年、西郷隆盛兵部卿は部下の桐野利明(幕末時代の名は中村半次郎、別名人 斬半次郎と呼ばれた。西南戦争で戦死)に札幌周辺の警備を調査させている。桐野はこの時の調査報告で「札幌に鎮台設置」を復命した。
  西郷隆盛はこの頃『屯田兵設置論』(明治4年8月5日。伊地知正治宛)でロシアの脅威を述べ黒田清隆等に屯田兵の設置を建策している。
  明治6年1月に徴兵令が布告され、明治4年に配置された4個鎮台から6個鎮台に増強されることになったが、西郷隆盛はこの再編に鑑み、さらに1鎮台を増強し7個鎮台として北海道に配置をすべきとの意見述べているが、いずれも実現には至っていない。
  北海道に軍隊を配置出来ない理由は、鎮台を設置するだけの予算がないことにあるが、そればかりではなく、ロシアに対し過度の刺激をあたえないと言うことも考えられたようだ。因みに最初の屯田兵は正式な軍隊ではなく憲兵という位置づけであった。

5 屯田兵設置の要因となった福山・江差の騒擾
  鰊税の課税がきっかけで明治6年5月から6月にかけて福山、江差等道南の漁民等により引き起こされた騒擾である。ことは複雑で、ただ単に漁民の不満が爆発したと言うだけではなく、旧松前藩の正義隊派、佐幕派をも巻き込み、新政府・開拓使に不満を持つ不平士族が漁民等を応援する形で一大騒擾が生起した。
  明治維新は松前の歴史にとって苦難に満ちたものであり、永年蝦夷地で築き上げてきた地位を奪い去るものでしかなかった。当時18,000人の人口を有し、蝦夷地最大の都市でもあった福山(松前)の町は函館戦争でその半分を焼失した。残った地域も、明治3年6月7日の大火で殆どが焼け出されてしまった。
  開拓使の設置と北海道の開発は、内陸部の開発を優先するものであり、農業、鉱工業を中心とする殖産であったため、沿岸の松前は開発から除かれた。また、沖之口役所、場所請負制度の廃止は、松前に入る収入を枯渇させた。
  福山・江差での漁民の騒擾はそんな窮状の中で発生したことを押さえておくことが必要である。
  反対運動の狼煙は爾志郡の熊石村から始まり、それが、福山に伝わり、最終的には江差で約1,000人もの漁民が一揆を起こした。これは、開拓使が所掌する警備兵力では対処することが不能で、仙台鎮台に軍隊の派遣を要請、青森分営の2個小隊の急派を受け争乱を鎮めることができた。
  この時、開拓使長官の黒田清隆は、急遽東京から現地に駆けつけ、事件の後処理を行った。
  折しも黒田清隆が屯田兵設置を切に願っていた時期で、この事件は屯田兵設置への追い風となり、帰朝後直ちに、開拓使東京出張所内に屯田課の設置を指示した。

6 屯田課の設置と屯田兵設置の建議
 開拓使次官黒田清隆の裁量により明治6年6月、開拓使東京出張所内に屯田課が設置された。課のトップは開拓判官の大山重で、課員として開拓七等出仕時任為基、開拓七等出仕安田定則、柳田友郷、開拓大主典永山盛弘、開拓八等出仕永山武四郎等薩摩出身の官史が就いた。
  そして、明治6年11月14日、開拓八等出仕永山武四郎、開拓大主典永山盛弘、同七等出仕時任為基、同安田定則の4名連署で、右大臣岩倉具視宛建議書を提出している。
  この直前の同年8月には、同内容の文面で、前記4名に加えて、開拓判官大山重と開拓七等出仕柳田友郷の6名連署で、「屯田兵を建設する建言」を黒田清隆開拓次官に提出している。
  この2つの建議と建言を基として、黒田次官は11月18日に建白書をなし、右大臣岩倉具視宛に提出した。

「 屯田兵設立建白書」
 北海道及ビ樺太ノ地ハ、当使創置以来専ラ力ヲ開拓二用ヒ未ダ兵衛ノ事二及バズ。今ヤ開拓ノ業漸ク緒二就キ人民ノ移住スル者モ亦随テ増加ス。
  之ノ鎮撫保護スル所以ノ者無カルベカラズ。況ヤ樺太ハ国家ノ深憂タルハ固ヨリ論ヲ待タズ。故二今日ノ急務ハ軍艦ヲ備ヘ兵備ヲ置ク二アリ。抑モ管内鎮台ヲ設ケ自ラ府県ノ法ニ準ジ施行アルヘシト雖モ其ノ全備ヲ求ムルハ費用甚鉅ナリ、容易ニ弁スヘキニ非ズ。今略屯田ノ制ニ傚ヒ民ヲ移シテ之ニ充テ且耕シ且ツ守ルトキハ開拓ノ業封疆ノ守両ナカラ其便ヲ得シ。因ッテ其ノ費用ノ出ル所ヲ計ルニ、当使嚮キニ大蔵省ヨリ借ル所ノ金百四十五万円アリ、其中本子合五十三万四千八百円余己ニ弁償セシ外、本子尚百十八万二千六百七十円余リナリ。
  明年ヨリ三年間ニ当使定額金ノ中ヨリ弁償スヘキ者アリ、今之ヲ移シテ其費ニ充テ、五十万円ヲ以軍艦一隻ヲ外国ヨリ購入シ、之ヲ海軍省ニ付シ専ラ北海道ノ用ニ供シ、旧館県及青森、酒田、宮城県等士族の貧窮ナル者ニ就テ強壮ニシテ兵役ニ堪ユヘキ者ヲ精撰シ挙家移住スルヲ許シ札幌及ヒ小樽、室蘭、函館等ノ処ニ於テ家屋ヲ授ケ金ヲ支給シテ産業ノ資クル別紙ニ載スル所ノ如クシ、非常の変アレハ之ヲ募テ兵ト為スルトキハ其費大ニ常備兵ヲ設クルニ減シ且ツ以テ土地開墾ノ功ヲ収ムヘシ。豈ニ至便ナラスヤ。封境の守、人民保護ノ道一日モ忽ニス可ラサルヲ以テ敢テ建議奏請ス、夫レ非常ノ事固ヨリ非常ノ断ニ非サレハ成ル能ハズ。今日ノ議実ニ己ムヲ得サルニ出ツ。豈ニ尋常成例ニ拘泥ス可ンヤ。伏シテ乞フ、特例ヲ以テ速ニ充裁ヲ賜ヒ大蔵省ニ下令アランコトヲ。
 頓首再拝謹言。
  

  明治6年11月18日
              右大臣 岩倉具視殿
                                 開拓使次官 黒田清隆

7 黒田清隆は開拓使長官兼ねて陸軍中将屯田憲兵事務総理
  黒田次官の建議に対し、太政官は大蔵・陸軍・海軍の関係三省に諮問の結果、いずれの省も屯田兵の設置には基本的に賛成し、同年12月25日には、太政大臣三条実美から開拓使宛に「其使管轄北海道へ・・・・」云々で、原則的に黒田の建議を承認する達書を送り、ここに屯田兵制度の設置が決定を見ることになった。
 明治7年6月23日付で黒田は陸軍中将兼開拓次官に任命され、開拓次官の黒田に直接兵務を兼務させるのではなく、次官を「陸軍官員」に任官させ、その上で屯田兵の指揮権を与えることで、「兵政両岐」の矛盾を解消しようとした。これにより屯田兵の募集と入殖を具現化する道が大きく開けた。これに基づき、明治8年5月札幌琴似屯田が創設された。

8 「屯田憲兵例則」制定(明治8年10月30日)

  緒 言
  開拓ノ業漸ク緒ニ就キ、戸口従テ繁殖ス。之ヲ保護スルノ兵備ナカルヘカラス。故ニ今般政府ノ允許ヲ経、往古兵ヲ農ニ寓スルノ意ニ基キ、屯田兵ノ制ニ做ヒ、新ニ人民ヲ召募、兵隊ニ編入シ、永世其地ノ保護ヲ為サシム。凡ソ其選ニ當ル者専ラ力ヲ耕稼ニ盡シ、有事ノ日ニ方テ其長官ノ指揮ヲ受ケ、兵役ニ従事スベシ。故ニ平生農隙ノ日ヲ以テ調練ヲナシ、極テ闕乏ナキヲ要ス。因テ條例規則ヲ左ニ掲ク。

  編 制
一、屯田兵ハ徒歩憲兵ニ編成シ有事ニ際シテ速ニ戦列兵ニ轉スルヲ要ス

一、上下士官ノ数多キヲ以テ聯隊、大隊等ニ属スル列外諸員ノ内平常ハ格別ニ之ヲ置カサルモノ多シ、故ニ聯隊、大隊ノ長官適宜ニ編成諸隊ヨリ取リテ其員ヲ充タスヘシ

一、屯田兵ノ一伍ヨリ組テ終ニ聯隊ニ至ル即チ左ノ如シ但シ一分隊ハ六伍、

一小隊ハ四分隊、

一中隊ハ二小隊、

一大隊ハ二中隊、

一聯隊ハ三大隊ニシテ之ニ附属スル諸官ヲ合ス者ナリ
   
  一伍 
     準伍長一名、兵卒四名
 一分隊
     六伍
     準少尉分隊長一名、準軍曹二名、準伍長六名、兵卒二十四名 
                                  合計三十三名
  一小隊
      四分隊、
      準中尉小隊長一名、準少尉四名、準軍曹八名、準伍長二十四名、兵率九十六名、喇叭卒四名、
                                  合計百三十七名

  一中隊 
     二小隊
     準大尉中隊長一名、準中尉二名、準少尉八名、準曹長一名、準軍曹十六名、準伍長四十八名、
      卒百九十二名、喇叭卒八名、
                              合計二百七十六名

  一大隊 
      二中隊
      準少佐大隊長一名、準大尉二名、準中尉四名、準少尉十六名、会計方一名、医官一名、
     下副官準曹長一名、準曹長二名、準軍曹三十二名、準伍長九十六名、喇叭準伍長一名、
     兵卒三百八十四名、喇叭卒十六名、
                              合計五百五十七名

  一聯隊 
      三大隊
      準中佐聯隊長一名、準少佐三名、準大尉六名、準中尉十二名、準少尉四十八名、
      会計方準少尉三名、医官三名、下副官準曹長三名、準曹長六名、準軍曹九十六名、
      準伍長二百八十八名、喇叭準伍長三名、兵卒千百五十二名、喇叭卒四十八名、
                              合計千六百七十二名

  検 査

  年 齢 十八歳乃至三十五歳身体強壮ナルモノ

  下士以下昇級法
一、曹長以下ノ欠員アルトキハ之ヲ補フニハ少クモ左ノ時問ヲ経シ者ニ非サレハ之ニ任スルヲ得ス

   伍長 屯田兵トナリテ六ケ月ヲ経シ者

   軍曹 屯田兵伍長トナリテ六ケ月ヲ経シ者

   曹長 屯田兵軍長トナリテ六ケ月ヲ経シ者

   下副官 屯田兵軍曹トナリテ一ケ月ヲ経シ者

 勤 務
一、聯隊長ハ其保護ヲ要スル最大緊要ノ地ニ在テ部下諸大隊ヲシテ個所及連絡ヲ失ハス有事ニ際シテ直ニ一定ノ地ニ集合セシムルヲ要ス

一、有事ニ際シテ集合ノ場所ハ各小隊毎ニ適宜ニ定メ置キ兵卒全ク集合スルトキハ小隊之ヲ引率シテ又各々定メラレタル地ニ到ルベシ

一、屯田兵諸勤務ハ凡ソ憲兵ノ規則ニ據ルヘシト雖モ目下北海道ニ於テハ人民寡少事務閑暇ナルヲ以テ其細目ノ如キ之ヲ行フトキハ却テ径庭ヲ生スヘキカ故ニ各長官ノ適宜ニ処分スルヲ以テ可トスヘシ

一、火災、洪水、其他非常ノ際ニ於テハ屯田兵直チニ其場所ニ出張シ人民ノ危急ヲ救ヒ又其物品保護ヲ為スベシ

一、銃器、農具等ニ損所アルトキハ伍長ニ申出、伍長ヨリ係リ軍曹ニ申報スベシ

一、一ケ月ニ一度伍長ハ伍中ノ武器ヲ検査シ錆、損所、破綻ヲ改ムヘシ

一、練兵ハ十二月ヨリ四月ニ至ル農事ノ間ニ当テ各所ニ中隊或ハ大隊ノ生兵ヲ集合シ生兵小隊撤兵射的ノ演習ヲ一過スルヲ要ス、巳ニ一過セシ兵ニ於テハ農間ニ当リ各長官ノ見ヲ以テ時々復習セシムルヲ以テ足レリトス

  休 暇
一、私用ニテ十里以外ニ出ル者、或ハ一泊ノ旅行ハ小隊長ノ許可ヲ得、二泊以上ハ中隊長ノ許可ヲ得ヘシ

一、定例ノ休日ヲ除ク外開墾地へ出勤スベシ 但シ病気其他事故アル時ハ其長へ届出スベシ

一、年中休日左ノ如シ
     元始祭一月三日
     孝明天皇祭一月三十目
     紀元節二月十一日
     神武天皇祭四月三日
     札幌神社祭六月十五日
     天長節十一月三日
     外ニ父母ノ祭日
     十二月二十七日ヨリ一月七日マデ

  諸給助及貸渡定則
一、諸給与ハ屯田ノ家宅ニ入ルヨリ満三年ヲ限トス

一、疾病アル者ハ給助年限中医薬ヲ給シ死スル者アレバ埋葬料ヲ給スヘシ

一、軍功死傷等ノ処分ハスベテ一般ノ軍隊ニ準スベシ

 官 物

武器 一切

  給与品

農具 鍬大小二挺、砥荒中二個、山刀一挺、鐇一挺、鋸一挺、鎌柴刈草刈二柄、莚一枚

家具 鍋大小二個、釜一個、椀三ツ組三人前、手桶一荷、小桶一具、担桶一荷、夜具(但十五歳以上四布一枚三布一枚、十四歳ヨリ七歳マテ四布一枚、六歳以下給セス)

銭糧米 一五歳以上米七合五勺一日一人分、一四歳以下七歳マテ米五合一日一人分、六歳以下米三合一日一人分

塩菜料 一五歳以上金五拾銭一人一ヶ月分、一四歳以下七歳マテ金三拾七銭五厘一人一ヶ月分、六歳以下金弐拾五銭一人一ヶ月分

移住支度金 一五歳以上一人分、十四歳以下ハ金一円

旅費日当 七歳以上金三十三銭、六歳以下ハ半ヲ減ス

駄 賃 一日十里詰金二円六十銭、一戸馬二匹ノ割、単身者ハ此半ヲ減ス

居 宅 一戸、但家族アル者ハ一戸給シ独身ノ者ハ一戸四人トス給助年限中妻ヲ娶ル者ハ別戸ヲ給シ妻子ノ救助ハ夫ノ満期マテトス

埋葬料 兵員金十三円、家族七歳以上金七円五十銭、家族六歳以下ハ金三円二十五銭

  罰

一、有事、平常ニ関セス凡ソ屯田兵兵器ヲ以テ犯セシ罪科ハ軍律ヲ以テ処分ス其外平常ニ在テ武器ヲ用ヒサル者ハ国憲ニ依テ処分スヘシ

    屯田兵諸官ノ職務

聯隊長: 部下屯田兵諸隊ノ事務ヲ総理シ会計等ノ書類ヲ監シ中隊長以下徴細ノ諸件ニ関ルコト無シ 例年一度適宜ニ集合ノ地ヲ定メ部下ノ諸隊ヲ検閲ス

大隊長: 部下中隊勤務ノ良否及会計書類ヲ監シ、聯隊長ト中隊長ノ中間ニ在テ事務ヲ為シ中隊長ヨリ出ス諸件、書類ヲ聯隊長ニ呈ス

中隊長: 部下屯田兵ノ勤務ヲ指揮シ又専ラ会計諸務ニ任シ小隊長ヨリ差出ス諸件ノ書類ヲ大隊長ニ呈ス、又此官ハ部下小隊ノ人員諸官ノ取締ヲ管理スベシ

小隊長: 屯田兵勤務上ノ細件ヲ管シ之ヲ指揮ス、又分隊長ヨリ出ス勤務ノ書類ヲ検シ部下ノ人員調及諸取締等ヲ司トル

分隊長: 平常諸伍ノ勤務ヲ監シ諸伍ヨリ出ス所ノ書類ヲ小隊長ニ出ス

勘定方: 大隊長ノ指揮ヲ受ケ用度金及諸物品武器等諸入費ノ精算ヲ為シ事務多端ナルトキハ軍曹ヲ以テ助役トス、大隊長ノ文書ハ此官之ヲ任シ中隊、小隊、分隊ノ長官及伍長等ヘ直ニ往復ス、中隊ノ人員及馬匹ノ名簿モ又此官ノ司トル所ナリ

下副官: 大隊長ノ側ニ在テ中隊一般ノ勤務及首地ニ在ル諸伍ノ事務取締等ヲ司トル

軍 曹: 分隊長ヨリ部下ノ諸伍ニ下シタル命令ヲ能ク遵守スルヤ否ヤニ注意シ又諸伍ノ武器、諸器械ニ損所アリテ引換或ハ修繕等ノ願イ出ルトキハ精細ニ之ヲ改メ其破損ノ原因ヲ書記シテ分隊長ニ出シ処分ヲ受クベシ

伍 長: 伍中ノ取締ヲ為シ勤務ヲ指揮シ命令ノ布達等ヲ司トル、晝夜ヲ限ラス差シ起リタル事件アルカ又ハ勤務ヲ為シタルトキハ直チニ分隊長ニ報告ス、至急ノ事件アルトキハ小隊長、分隊長双方ニ報知スルコトアルヘシ、伍長疾病不在等ニ当リテハ古参ノ屯田兵代勤ヲ務ムベシ

9 開拓使本庁内に屯田事務局の開設(明治8年3月15日)
(1)事務局長
      初 代:大山 重 (越前 福井藩出身)
      2代目:堀  基 (薩摩藩出身)
      3代目:永山武四郎(薩摩藩出身)
(2)事務局の業務
       作成中

(3)編成
   明治13年の屯田事務局の編成表添付:作成中

★これを見て分かるのは、琴似、山鼻兵村の下士官は屯田事務局員であったことである。
★屯田兵の階級は准の字が前につく。准陸軍少佐、准陸軍大尉、准陸軍軍曹等。これは、憲兵であるとの意味であり、明治15年に陸軍省所掌となった段階で、この冠詞がとれ、一般の軍隊と同じ扱いとなった。


屯田兵誕生の背景

2012-04-02 18:55:50 | A屯田兵の歴史

Ⅰ 屯田兵誕生の背景
  この項では、地勢学上の北海道の価値、幕末の蝦夷地警備、明治新政府の北辺対応などについて概要を記述。その中で、屯田兵制度を導入することになった背景を明らかにしていく。

1「北海道の価値」
   日本における北海道の位置づけは、日本の最北の地、僻地というイメージが強いが、対ロシアから眺めた場合はどうだろうか?
   世界地図を90度左に傾け、ユーラシア大陸から日本列島を眺めると、カムチャッカ半島から南に千島列島、北海道、本州、九州、南西諸島へと伸びる長大な列島は、大陸からの出口を塞ぐバリアーを形成していることが分かる。

Kyokuto_2

   北海道は、日本にとって北の外れであっても、ロシア側から見れば太平洋への出口を塞ぐ列島の中心であり、戦略的に見た場合に非常に重要な地である。ここを手に入れた場合、オホーツク海を完全に自国の内海とすることができ、太平洋へ容易に乗り出すことが可能となる。是非とも手に入れたい地である。
   このことは、18C後半からたびたび樺太、千島列島経由で日本近海に出没し、隙あらば自国の領土にしようとしたロシアの企図がそれを表している。
   その延長線上にあるのが、第二次世界大戦終了直後の南樺太、千島列島への侵攻と北方領土の占領である。 
   終戦直後の昭和20年8月22日、留萌沖で泰東丸、小笠原丸、第二新興丸、3隻の輸送船がソ連潜水艦の攻撃を受け撃沈、大破させられたが、当時、ソ連は北海道の北半分(留萠~釧路を結ぶ線)を占領する企図をもっており、この事件はその作戦の一環として行われた。原爆を持つアメリカの圧力に屈しその企図を実現させることは出来なかったが、それ程に北海道は戦略上重要な地である。
   もう一度ロシア側から日本列島を眺めて見よう。一目瞭然、北海道の価値が分かるはずである。
 
2「幕末の蝦夷地警備」
(1)幕末頃の北辺の状況
   まず、知っておかなければならないのは、江戸の末期まで、北蝦夷と呼ばれた樺太、そして、千島列島はその領有が明確になっていない空白地帯であったこと。また、蝦夷地と呼ばれた北海道は、道南の一部を松前藩が治め、海岸部の魚場に和人が進出し、アイヌ人との交易のため場所(場所請負制度)が設けられているだけで、蝦夷地の大部分は幕府の治政が及ばぬ地であったことである。
   蝦夷地では米が穫れないことから、松前藩には石高はなく、蝦夷地の領知権、徴役権、交易の独占権が認められ、それらから上がる収益を年貢に代えるという変則的な統治を行っていた。 
   海産物を中心とした蝦夷地の住人(アイヌ人)との交易は膨大な利益を生み「松前の春は江戸にもない」と言われるほど城下町は豪華絢爛たるもので、上方の文化が近江商人からもたらされた。
   しかし、そんな、蝦夷地の住人(アイヌ人)を支配しない統治のあり方は、南下政策を続け領土の拡大を目指すロシアの前には、危険極まりない状況を露呈し、蝦夷地を不安定な状態に陥れることとなった。
   ロシアが、蝦夷地周辺の海域に出没し出したのは、1700年代の後半頃からである。

(2)大国ロシアの極東での動態
   国境を接する大国ロシアの東方への拡張は17世紀中頃から加速し、1700年の中頃にはカムチャッカ半島までその勢力を広め、矛先を千島列島から蝦夷地(北海道)へ指向していた。その辺のところを少し。
   ヨーロッパでは後進のロシア帝国は、西の出口バルト海、南の出口黒海から地中海への進出を阻まれ、空白地代であったシベリアへ指向を変更し1700年頃にはカムチャッカまで到達をした。
   ロマノフ朝第8代女帝エカチェリーナ2世統治の時代(1762年~1796年)、カムチャッカから千島列島を経由し北海道近海へ度々ロシア船が出没するようになった。
   この時期北米大陸では独立戦争(1775~1783年)を行っている頃で、アリューシャン列島からアラスカ、北米大陸の西海岸までは、未だ列強の勢力が及ばぬ時代であった。
   1792年(寛政4)ラスクマンは漂流民大黒屋光太夫らを連れて根室に来航し交易を求めた。これは、極東進出の一環で、隣接する日本から食料、燃料等の補給を受けるためであった。
   幕府は鎖国下の時代で、この申し出を拒否した。
   それから暫くした1804年(文化1)ロシア帝国の外交官、露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)の代表であるレザノフが長崎に来航し、皇帝の親書を携えて交易を求めた。ロマノフ王朝も第10代皇帝アレクサンドル1世の時代となっていた。この時も幕府は交易を拒否した。
   その結果、日露間で緊張状態が続き、ロシア艦艦長のゴローニン、高田屋嘉兵衛の捕獲にまで発展する。
   次に極東情勢が緊迫するのは、1850年頃からである。その要因は、世界の覇権国イギリスの極東進出である。イギリスは1840年のアヘン戦争を契機に清国へ触手を伸ばしだした。それは、ロシアの極東での権益を脅かすもので、座視出来ないものであった。ロシア
   はイギリスのこの行為に対するかのように沿海州から樺太へと地歩を固めだした。
   幕末から明治維新にかけての極東は、イギリス、フランス、ロシア、アメリカ等列強の覇権争いの舞台となっていた。中でも国境を接するロシアの動態は、直接我が国の国益に重大な影響を及ぼすものであった。

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(3)江戸幕府の蝦夷地対策
   幕府が取った蝦夷地の警備を語る場合に、ロシアの動態から2つ期に区分することができる。その第1期は、東方へ進出を続けるロシアがカムチャッカまで到達し、千島列島を南下し北海道の近海に現れ日本と接触を求めた時期。
   第2期は、一旦収まりかけた北辺での緊張が、イギリス、フランス、ロシア、アメリカ等列強の極東への進出によりにわかに高まった1840年から徳川幕府の崩壊までで、この時期のロシアの指向の重点は沿海州~樺太、そして、北海道であった。
   以下二つの期区分について眺めて行きたい。

「第1期(1780年頃~1821年)」
   第8代女帝のエカチェリーナ2世、第10代皇帝のアレクサンドル1世治世の時代で、ロシアが極東から太平洋へ権益を伸ばそうとしていた時期である。
   日本は鎖国下であったものの、唯一交易を行っていたヨーロッパの国オランダこれらの情報はもたらされていた。蘭学者であり医師でもある工藤平助が「赤蝦夷風説考」を、同門の経世家である林子平が「海国兵団」を署したほか、多数の蘭学者等がロシアの脅威を訴えた。
   丁度そんな頃にロシア軍人のラスクマンがエカチェリーナ2世の親書を携え、漂流民大黒屋光太夫を連れて根室に来航した。
   幕府はオランダ等を通じて収集した情報が真実であることを知ることになる。これにより、ロシアの脅威を認識し、蝦夷地(北海道、千島列島、樺太)の本格的な調査を開始する。この時に、調査・探検を行ったのが最上徳内であり、近藤重蔵、伊能忠敬、間宮林蔵らである。
   また、淡路島の漁師であった高田屋嘉兵衛が北前船交易で膨大な富を得、択捉島まで進出し出したのも丁度この時期である。
   ラスクマン来航の12年後の1804年(文化1)、今度はロシア帝国の外交官、露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)の代表であるレザノフが、第10代皇帝のアレクサンドル1世の親書を携えた正式な使節団として長崎に来航した。レザノフは、極東及びアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した人物である。40代の若さで死去したことにより、露米会社の活動は停止してしまったが、もし活動を続けていれば太平洋の勢力地図が塗り代わっていたかも知れない。
   この時も幕府は交易を拒否した。それは、幕藩体制の崩壊に繋がるものであったからである。
   幕府の度重なる拒否の態度に業を燃やしたロシアは実力行使に出た。レザノフの部下であるフボォストフが樺太、択捉、利尻、礼文島で略奪行為を行ったのである。その報復としてロシア軍艦の艦長ゴローニンの捕獲。それに対し、高田屋嘉兵衛が捕らえられるなど日露の関係は、一時緊迫したものとなったが、ゴローニン、高田屋嘉兵衛の交換交渉の成立で一旦はおさまった。
   幕府は蝦夷地での調査結果、ロシアが蝦夷地に触手を伸ばしている事実を知るとともに、フボォストフの事件を重大視し津軽藩、南部藩に蝦夷地の警備を命ずるとともに、松前藩の領地を取り上げ直接蝦夷地の経営に乗り出した。
   この直接経営を第1次幕領時代と呼ばれる。

ア この間にあった出来事
・1778年(安永7)ロシア船厚岸に来航し交易を求める。(松前藩、幕府に報告せず)
・1783年(天明3)工藤平助「赤蝦夷風説考」を著し、蝦夷地調査の必要性を求める。
・1785年(天明5)幕府の蝦夷地調査隊、国後、択捉、ウルップ、樺太を調査
・1787年(天明7)林子平「海国兵団」を著し海防の必要性を訴え
・1789年(寛政1)クナシリ・メシナの戦い
・1791年(寛政3)最上徳内ら択捉にいたる。
・1792年(寛政4)ラスクマン漂流民大黒屋光太夫をつれて根室来航
・1798年(寛政10)近藤重蔵ら択捉に「大日本恵土呂府」の標識を建てる。
・1799年(寛政11)高田屋嘉兵衛、択捉航路を開く
                                  津軽藩、南部藩に蝦夷地警備を命ずる。
・1800年(寛政12)伊能忠敬、幕命により蝦夷地の測量開始
    ~1804年(文化1)八王子千人同心による白糠、勇払警備 
・1804年(文化1年)レザノフ、長崎に来航し通商を求めるも幕府は拒否
・1806~7年(文化3、4)レザノフの部下フボォストフ、樺太で掠奪、択捉、利尻、礼文等襲撃
・1807年(文化4)幕府蝦夷地を上知 松前藩を陸奥染川へ転封
                                斜里警備の津軽藩士72名殉死
・1809年(文化6)間宮林蔵、間宮海峡発見
・1811年(文化8)ロシア軍艦艦長ゴローニン国後で捕える。
・1812年(文化9)高田屋嘉兵衛の国後沖でロシア艦に捕らえられる。
・1813年(文化10)高田屋嘉兵衛とゴローニン交換
・関連事項として1812年(文化9)ナポレオン、ロシア遠征

イ この時期幕府の取った処置の要約
・蝦夷地の探検、調査
・蝦夷地の直接経営
      第1次幕領時代 1799年(寛政11)~1821年(文政4)
・南部、津軽藩による蝦夷地警備
・松前藩の染川転封
・ロシアの通商要求に対し拒否

「第2期(1840頃~1868年)」
    1812年のゴローニンと高田屋嘉兵衛の交換で、いったん収まったかに見えたロシアとの関係が再び緊迫し出した。日本近海にはロシアだけではなく、イギリス、フランス、アメリカの軍艦が現れるようになった。
    これは、ヨーロッパで行われていた列強の勢力争いが、極東にまで広まったことを意味する。今まで、ロシアだけが北辺の地で勢力拡大を狙っていたのが、世界の覇権国家イギリスが『眠れる獅子』と言われた清国へ触手を伸ばし出したのだ。
    1840年(天保11)アヘン戦争を契機に列強が清国を侵し始めた。1856年、1860年のアロー戦争、天津条約、北京条約により中国市場は欧米列強に開放され半植民地化されていった。ロシアもこの動きにあわせ沿海州の割譲を受け不凍港ウラジオストックを手に入れた。
    時代は前後するが中近東でクリミヤ戦争がロシアとトルコ、フランス、イギリスとの間で行われている時に、ペリーが浦賀に来航し開国をせまった。時は1853年(嘉永6)のことである。そして、翌1854年(嘉永7)に日米和親条約、1855年に(安政2)に日露和親条約が結ばれ下田、函館が開港した。
    その時、ロシアとの間で領土交渉が行われ、千島列島は択捉島とウルップ島の間で国境が引かれ樺太は雑居地となった。
    (国後島、択捉島、色丹島、歯舞諸島が我が国固有の領土というのはこの条約が一つの根拠となっている。)
    なお、この頃からロシアの領土拡張の指向は千島列島から樺太へと移行していった。
    幕府は列強との和親条約の締結、函館の開港に併せ蝦夷地を直轄(第二次幕領時代)。津軽、南部、仙台、秋田、会津、庄内等東北の各藩に蝦夷地の警備を命じるとともに蝦夷地の開発に着手した。
    国内では、この開国と不平等条約を締結した幕府に対し非難が渦巻き、尊王・攘夷運動、さらには倒幕にまで発展することになる不穏な時代に突入する。
   そして、1867年(慶応4年)大政奉還により徳川幕府は消滅し新しい明治の世になった。

ア この間にあった出来事
・1840年(天保11)~1850年(嘉永3)松浦武四郎による北方探検
・1853年(嘉永6)ぺーリー(米国)、プチャーチン(露国)来航
・1854年(嘉永7)日米和親条約、
                      松前城完成、箱館奉行開庁
・1855年(安政2年)日露和親条約、千島は択捉とウルップ島の間を国境、樺太は雑居地とすることで合意
               幕府蝦夷地を上知 津軽、南部、仙台、秋田各藩に蝦夷地を分領し警備を命ずる。
・1859年(安政6)国際貿易港として函館開港
            会津藩、庄内藩に蝦夷地を分領し警備を命ずる
・1864年(元治元年)箱館五稜郭完成
・1867年(慶応4年)大政奉還
・1868年(明治元年)~1869(明治2)戊辰戦争~函館戦争
・1868年(明治元年)箱館裁判所の設置
                        秋田、南部、津軽、仙台、松前の5藩に箱館警備を指示するとともに「蝦夷地開拓条項」が示される。
・関連事項として1840年(天保11)アヘン戦争、1853年~56年クリミヤ戦争(ロシア敗戦)
   
イ この時期幕府の取った処置の要約
・蝦夷地の直接経営
      第2次蝦幕領時代 1855年(安政2)~1868年(明治元年)
・松前に福山城、開港した函館に五稜郭を築城、弁天台場の設置
・津軽、南部、仙台、秋田、会津、庄内等東北諸藩及び松前藩による蝦夷地分領支配と警備
・蝦夷地調査
・御手作場の設置等産業振興、鉱業開発
・道路の開設

   これらが、江戸末期にとった幕府の処置であったが、南下政策を強める大国ロシアの前には有効な施策とはならなかった。そして、徳川幕藩政治は終わりを告げ明治の時代へ移行した。

3「明治新政府の北辺対応」
    ロシアは、幕末・維新の混乱に乗ずるかのごとく、樺太に軍隊、囚人を送り込み着々と地歩を築いていた。それは、日本の一大拠点のある宗谷海峡に面する函泊にまで及ぼすようになっていた。ロシアの目指すものは樺太、千島列島から北海道であり、徳川幕府から政権を引き継いだ明治新政府は、北辺でのロシアの脅威がただ事ではないことを知ることとなる。
    とは言うものの、新国家建設途上の日本国にあっては、経済的基盤は乏しく、防衛・警備のために北海道へ軍隊を送り込むことができるほど余力は無く、熊羆の住む北辺の地に永住しようとする者もいなかった。

(1)ロシアの占有状態となった樺太
    1855年の「日露和親条約」により、千島列島は択捉島とウルップ島の間に国境線が引かれ、樺太は日露双方の雑居地となったが、ロシアは軍隊を送り込み、囚人を移住させ、樺太の開発に着手し出した。まさにコサックによる領土拡張に等しく、樺太を自国の領土に組み入れようとするロシア帝国の意図が明白であった。
    それに対し日本はどうか言うと、東北の諸藩等に命じて警備を行わせていたが、以前として漁労を行うのみで、沿岸部に漁場を開らき、漁獲の時期だけ人は集まるが、定住する者も少なく、樺太における権益は逐一ロシアに奪われつつあった。
    慶応年間(1865年から1867年)にはロシアの勢力が日本の拠点と言うべき久春古丹(現在のコルサコフ)にまで及ぶ様になってきた。各地でロシア人による略奪、暴行等が発生し雑居制の問題が表面化した。それは、常に日本側に不利益を及ぼすものであった。
   そんな折、日露間で領土交渉が行われた。日本側の要求は、北緯50度の線で国境を引こうと言うものであるが、樺太を実行支配しているロシアに取っては呑める話しではなく、国力の差にものを言わせた問答無用の交渉に終始した。結果は、日露間で国境が確定するまでは雑居を認めると言う形で、ロシアの実行支配を認めざるをえない日本にとって不利な内容の条約が締結された。これが、「樺太島仮条約」1867年(慶応3)である。

(2)明治新政府の取った北辺対応
ア 幕府から蝦夷地を引き継いだ明治新政府
    慶応3年(1867年)10月15日大政奉還により徳川幕府治世の時代は終わった。
    まだ、戊辰の戦役が続く明治元年4月、蝦夷地では箱館奉行所に代わり箱館裁判所が設置された。総督には公家出身で、蝦夷地鎮撫を進言した清水谷公考が就任。徴士兼権判事には、幕末に北海道、樺太を探検し、ロシアの脅威を肌身をもって感じている阿波国出身の岡本堅輔が就いた。これは、箱館戦争が起こる半年前のことである。一つ間違えば、樺太はおろか北海道もロシアの領土となってしまうかもしれない、北辺問題がいかに緊急の課題であったかがうかがえる。
    明治新政府は、秋田、南部、津軽、仙台、松前藩に命じ箱館警備を指示するとともに、次のような「蝦夷地開拓条項」(7カ条)を清水谷に指令した。 

一、総督に開拓の用務を委任する。
一、蝦夷の呼称をやめ、測量の上、南北二道に分けて呼称を定めること。
一、各藩から土地開拓の権威を招き、総督の管轄の下に現地の実用に応じて順序を建てて開拓を進めること。
一、蝦夷地からの税収は開拓費に充て他用しないこと。
一、開拓を希望する諸藩に土地を割渡し(割譲)してもよい。開拓した場合は検査の上、相応の課税をする。
一、北蝦夷地(樺太)が見える宗谷付近に一府を設定すること。
一、蝦夷地開拓の目途がつき次第、北蝦夷地開拓の方策を立てること。

    明治元年4月26日、清水谷公考らは五稜郭に入城し、旧幕府箱館奉行の杉浦勝誠から政務を引き継いだ。しかし、この時期は奥羽越列藩同盟が締結(5月6日、31藩が盟約を結ぶ)され、東北の諸藩が新政府に反抗を鮮明にした頃であり、頼みの松前藩も勤王派の正義隊が藩政を掌握するまで奥羽越列藩同盟の一員であった。
    蝦夷地警備に就いていた東北諸藩の藩士達の混乱ぶりが如何ほどであったか知るよしもないが、本藩からの緊急の報に接し慌ただしく帰藩して行った。
    蝦夷地に残された箱館裁判所、後の箱館府は、在勤の官史と近在から徴募した農兵とで2個小隊を編成したのみで孤立無援の状態と言っても良かった。

イ 函館戦争の勃発
    箱館裁判所設置半年後の明治元年10月20日、榎本武揚は開陽丸以下8隻の軍艦を率いて噴火湾の鷲ノ木に上陸した。箱館戦争の開始である。
    戊辰戦争が東北で行われている頃に佐幕派であった松前藩は正義隊のクーデター(明治元年8月)により新政府側となっていた。箱館府は榎本軍の来襲が近いとの情報に接し援軍を要請。津軽藩、備後福山藩、越前大野藩など約1,000名の藩兵の応援を受け対処したが、制海権を有する圧倒的な戦力の榎本軍の攻撃を防ぐことができず、10月25日には五稜郭を明け渡すこととなった。松前藩兵の善戦もむなしく11月初めには福山城、江差、館城も落ち、榎本軍は12月15日蝦夷地を平定し「蝦夷共和国」を成立させた。
    榎本軍の箱館占領で追われる形で離脱した清水谷公考ほか箱館府の首脳と守備兵は、対岸の青森に撤退し終結した。その後、逐一戦力を増強した新政府軍は黒田清隆を青森口総督府参謀に迎え、旧幕府がアメリカから購入した甲鉄艦を旗艦とする軍艦4隻、輸送艦4隻の青森到着を待ち反撃を開始した。
    後半戦は、明治2年4月9日新政府軍の乙部上陸から始まり。3方向から箱館へ向けて攻撃を行う形で進められた。圧倒的な戦力の新政府軍の前には榎本軍は抗するすべもなく、明治2年5月18日五稜郭の開城を以て平定された。鳥羽・伏見の戦いに始まり、1年半に渡って続いた戊辰戦争もこれをもって終了した。

ウ 開拓使の設置。ロシアの強硬姿勢とその対応
    箱館戦争の終結を待ち構えていたかの様に、その2ヶ月後の明治2年7月に北海道開拓使が設置された。初代長官には対ロシア強硬派の元佐賀藩主鍋島直正が、判官に同藩出身の島義勇が就任した。蛇足になるが島義勇は札幌府建設に携わり「北海道開拓の父」とも言われている人物で、その銅像が、札幌市役所の1階ロビーに、また、北海道神宮の境内に建てられている。明治7年に勃発する佐賀の乱の首謀者として斬首された。
    明治2年6月24日、統一国家を建設したばかりの日本政府の対応を見透かすかのような事件が樺太で発生した。宗谷海峡に面する日本の一大拠点である函泊に露艦が来航し兵員を上陸させ、墓地やニシン干し場を破壊して兵屋を建設するなど基地作りを始めた。我が国の役人が隣の久春古丹から駆けつけ制止をしたが、無視し我がもの顔の振る舞いを行った。明らかにロシア側の挑発行為である。
    状況把握のため樺太出張を命ぜられたた岡本堅輔判官は、ロシアの横暴極まる振る舞いに激怒を覚えるとともに、つぶさに見た樺太の現状を帰朝し報告した。
    政府は直ちに対応を協議することとなった。開拓使長官の鍋島直正は直ちに出兵すべしとの強硬論を唱え、政府も一旦その方向で動こうとしたが、イギリス公使パークスから「ロシアは軍隊を動かし、囚人を樺太に移住させ南下の機会をうかがっている。樺太は言うまでもなく、北海道も大いに危険をはらんでいる。日本はと言うと、交通機関が未だ少しの整備もなく、この期に兵を動かすのは得策でない」。との助言があり、この問題を外交交渉により解決する方針に決した。
    終始強硬論を主張した鍋島正直は開拓使長官を辞任した。代わって長官に就いたのは幕末に尊王攘夷派の公家とて活躍した東久世通禧である。
    政府は、新任の開拓使長官に示した北方領土に関する方針の中で、「樺太は日露雑居地であり、ロシアが暴慢な行動をとったとしても、勝手な行動をせず、礼節を重んじること。
    ロシア領事館と交渉をせよ。現地民を大切にし、僻地を開拓せよ」。と融和を基調とする政策を示した。
   岡本監輔が帰朝し樺太の状況を報告することにより、開拓使の人事にまで影響を及ぼす事態となったが、これにより、北方領土の問題が政府内で認識され、ロシアとの間に最悪の事態が発生するのを防ぐことができた。
    余談になるが、国家を統一したばかりの新政府が受けた強国ロシアからの洗礼。それに対し、譲歩するしかなかった日本国。この屈辱がバネとなり富国強兵の道へと突き進むことになったのだろう。
    明治2年9月25日、東久世道禧判官は開拓使の官員、東京で募集した農工民約200人を引き連れ箱館に到着した。旧函館府を開拓使出張所と改称、この時、「箱館」の表記を「函館」と改めた。
    長官は函館に留まり、島義勇判官は札幌本府建設のため銭函開拓使仮役所へ、松本十郎判官は出張所建設のため根室へ、武田信順判官は同じく出張所建設のため宗谷へ向かった。
    岡本堅輔判官は、外務丞の丸山作楽、権大丞の谷元道之と東京で募集した数百人の農工民を伴って樺太の久春古丹へ帰任した。
    直ちに雑居制の状況を詳細に調査し、ロシア側との交渉を開始した。リかし、ロシア側は具体的な道路の開削、石炭の採掘権などで全く譲る気配がないばかりか、その交渉中にも新しい紛争を起こした。
    樺太での実地調査を終え帰朝した丸山外務丞らは、政府に以下の意見を提出した。

一、国境の早期解決
一、函館の開拓使を早急に札幌へ移転
一、樺太の開拓支庁を本庁とし、外務開拓の機能するよう機構を新設
一、陸奥の鎮守府を樺太へ移し、奥羽の降伏人を屯田兵として配置
一、汽船3隻を専属

    これらの意見は時宜にかなったものであったが、正式に受理されることはなかった。しかし、明治8年樺太千島交換条約締結、明治4年開拓使本庁を札幌へ移転、明治3年樺太開拓使の設置、陸軍省所掌による旧会津藩士・家族の北海道、樺太への移住(実際には余市に700人が移住した。)等、これらの多くは実現の運びとなっている。

エ 樺太開拓使の設置と黒田清隆開拓使次官兼樺太専任
    明治3年2月樺太開拓使が設置され、5月黒田清隆が開拓使次官兼樺太専任に任命された。清隆は8月に樺太の現状確認のために出張し、アイヌ人、日本人、ロシア人雑居の現況をつぶさに視察するとともに、意見を付して結果を報告した。

(樺太視察後、黒田清隆が提出した対樺太に関する建議(明治3年8月))
「日露接戦の形勢を以って言えば、樺太は斥候、北海道は根斥候、奥州は先鋒、東西京摂は中軍、中国、四国は後軍、九州は輜重方に当たる。今や両国の斥候、己に相接するに当たり、何よりも中軍の空虚を顧みざるを得ず。今命を受けて、更に斥候をなし、経路を計って帰り、その便宜を奏すべしと雖、要するに開戦の場合の予想を以って、まず露国に留学生を派遣し、兼ねて間蝶に具へらるべし。思ふに戦争は人材と会計とに基づく。その人材を養うには、軍学生凡そ200人を撰び(中略)。英仏に渡らせ苦学業成るを待ち、彼らに委任してことをなさしむべきである。若かして、其間非常の節倹を行ひ、蓄財して臥薪嘗胆、富強並び行はれんことを望む」

「黒田清隆の北地経営に関する主要な提言」
一、石狩に鎮府を置き大臣を総督として樺太を包括して経営する
一、北地経営には年間150万両を要する
一、諸藩以下の支配地を廃して開拓使に併合すること
一、外国人を招致して各種開拓政策を講ずること
一、大臣など高官が巡視して基本方針を樹立する
一、諸国に留学生を派遣する

    これらの建言は、政府に認められ、後に行われる開拓使の事業の中で反映されていった。
    黒田清隆はロシアとの対決を避ける考えであった。これは、英国外交官からの助言によるところが大きいと言われるが、現状の日本の国力を分析、ロシアとことを構える事は利益にならず、先ずは国力の増強にあたることが先決であると認識していた。
   そして、命ぜられて米国視察の旅に出かけた。

(3)明治元年年から4年にかけての北辺での出来事
 (明治元年)
   1月     鳥羽伏見の戦~戊辰の役
      4月     箱館裁判所設置~箱舘府
             小樽、銭函の漁民騒擾(小樽内騒動)
   11月20日  榎本武揚以下鷲ノ木に上陸、函館戦争が始まる。
   
(明治2年)
    5月18日  函館戦争終結
    6月      版籍奉還
    7月8日  北海道開拓使を設置。初代長官鍋島直正、判官島義勇
                       北海道を一部直轄するほか、1省(兵部省)、1府(東京府)、25藩8士族、2社寺に分与
  8月    蝦夷地を北海道、北蝦夷地を樺太と改称。11国、86郡を置く
      9月    場所請負制度廃止
     
(明治3年)
  2月    樺太開拓使を設置
     5月    黒田清隆開拓次官兼樺太専任に
・開拓使は函館港に「函衛隊」(1個中隊)を配置(唯一の北海道警備部隊)
・開拓使、屯田兵の設置案を太政官へ提出
・北海道の分与方針に基づき伊達支藩主従、有珠、室蘭、白石、当別に、稲田家家臣静内に移住。この時期に旧各藩士族各所に移住
・旧会津藩士家族を含め700人余市へ移住

(明治4年)   
 1月~6月 黒田清隆米国留学
    5月      開拓使本庁札幌に移設、函館、根室を出張所に
    7月      廃藩置県により館藩(旧松前藩)が館県となる
          ケプロン来日
    8月    樺太開拓使を閉鎖
・開拓使10年計画(予算1,000万円)の策定
・桐野利明、札幌周辺の警備を調査

4「樺太千島交換条約」
    北海道とほぼ同一の面積を有し地下資源の豊富な樺太と、水産資源以外に何もないような千島列島。日本国民にとってこの屈辱的に見える条約がどうして締結されたのであろうか。
    それまでにあったロシアとの北方領土条約は、1855年に締結された「日露和親条約」で、樺太は日露の雑居地、千島は択捉島と得撫島(ウルップ)との間を国境とするであったが、ウルップ島からカムチャッカまでの島々は現在でも殆ど人が住んでいない。どう考えても割に合わない。 
    1855年以降、ロシアは南下政策の目的を達成するために、樺太の実行支配を目指し、軍隊を送り、囚人達を住まわせ、炭鉱を採掘し、道路を掘削し着々と地歩を固めていった。それに対し、日本はと言うと、幕藩体制下では人・物を移動させることができず。東北の諸藩に警備担任を命ずることが関の山であった。結果は沿岸部に漁場を開設し、漁期になると漁民達が移住し漁をする。そして、漁期が終わるとそれぞれの地に戻る。そんな、支配を行っていた。
    この事は、明治初めの北海道においても似たようなもので、松前、函館、江差、厚岸、根室等、すべて沿岸部の漁場を中心に開かれ、内陸部の開拓は一切行われていなかった。
    「樺太の次は北海道が危ない」そのことを、イギリスの外交官は指摘した。
    開拓使長官に就任した黒田清隆はいち早くそのことに気づいており、「樺太を捨てでも北海道を守る」。そんな考えを持っていた。その方針を述べたのが、樺太視察後に発した建議であり、北海道に人、金、物を集中しロシアに負することなく開拓すべしである。
    そんなことは、西郷隆盛、大久保利通等薩摩の英傑にとっては当然承知の上であった。 
  黒田清隆はロシアとの領土交渉を、函館戦争で敵として戦ったが、盟友でもある榎本武揚に一任した。幕末海外留学の経験があり、国際法に明るく、旧幕府海軍の副総裁であった経歴を持つ榎本以外にこの交渉に臨める適任者はいないと考えた。
    榎本武揚を当時海軍の最高位海軍中将にし、従四位の官位を授け、駐露日本公使に就任させ交渉に当たらせた。
    結果は樺太の全部がロシア領となり、千島群島の得撫島(ウルップ)から占守島(シュムシュ)までの18島全部が日本領となった。

     調 印 1875年(明治8年)5月7日
     署 名 日本:榎本武揚
                ロシア:アレキサンドル・ゴルチャコフ
  
    その後の、北方領土はどうなったか。
    日露戦争の勝利により、北緯50度線までの南樺太を日本領土に組み入れることができ、「樺太千島交換条約」の屈辱を晴らすことができた。
    そして、大東亜戦争の敗戦で樺太だけではなく、「樺太千島交換条約」で我が国の領土となった千島群島の得撫島(ウルップ)から占守島(シュムシュ)までの18島全部、さらには我が国の固有の領土であるが国後島、択捉島、色丹島、歯舞諸島がロシアに占領された。
  蛇足になるが、北方領土問題もさることながら、「竹島」、「尖閣諸島」も我が国の固有の領土である。しかし、その領土が未来永劫自国の領土であるとは限らない。国民一人一人の領土を守る意志、領土を守るためには犠牲を惜しまない気概があってこそ領土は守られると思う。北方領土の過去の歴史の中に、その答えが見え隠れしている。


篠路兵村の紹介

2011-12-13 09:30:00 | 篠路屯田兵村

工 事 中

「篠路兵村」
入植年:明治22年
入植地:札幌市北区屯田
Photo   

   篠路兵村入植配置図(PDF)「sinoro1.pdf」をダウンロード 

出身地:南西部の各県を中心に7県
入植戸数:220戸
   篠路兵村入植者名簿(PDF)「sinoro2.pdf」をダウンロード

第1大隊
  大隊長
   第1代:本田親秀少佐(明治18年5月21日~明治25年2月)
  第2代:野崎貞次少佐(明治25年2月~明治29年1月)

第1大隊第4中隊
 中隊長
  初 代:渥味直茂大尉(山鼻屯田兵出身)
  第2代:平賀正三郎大尉
     (後の第3大隊(剣淵)の大隊長、日露戦争旅順攻撃において戦死)

入植
 便 船:相模丸(日露戦争時旅順港封鎖のため沈められる)
 航 路:徳島~和歌の浦~山口~博多~熊本~三国~小樽
     手宮から無蓋列車で琴似駅に停車。そこから徒歩で篠路兵村へ移動
 入植日:7月15日
 

給与地:当初給与地5,000坪(166間×30間)
    第1次追給地:5,000坪、第2次追給地:5,000坪
    第2次追給地の場所が兵村区域外石狩川を跨いだ当別地区であったため耕作することが叶わず。

篠路兵村出身県別入植者数
 福井県  20
 石川県  32
 和歌山県 37
 山口県  44
 福岡県  12
 熊本県  46
 徳島県  29
  計  220戸(家族を含め1056名)

Ⅰ 篠路兵村の特色
 
1 地理的特色
(1)道都札幌を有する石狩平野は、石狩川とその支流である豊平川、千歳川、夕張川等多くの河川により育まれた広大な平地で、蝦夷地と呼ばれていた時代から多くの人たちが住み着いていた。
(2)札幌は石狩川の支流である豊平川により作られた扇状地で、南は高燥、道庁・植物園付近から伏流水が流れ、北に至るに従い湿潤な泥炭質の土質・地形を形成。
(3)篠路は北海道の母なる川石狩川に創成川、発寒川、旧琴似川、伏古川、篠路川等が注ぎ込む場所に位置し、各河川を利用する水運が開け物流の中継地としての役割を果たしていた。
(4)篠路は札幌扇状地の底部に位置する平均海抜2~5mの低地で、春の雪解け時、秋の長雨時には常に水害の脅威にさらされる場所であった。また、地味は肥えているものの泥炭質の土地も多くあった。
(5)気候は他の札幌の兵村同様夏季は割合温暖であるが、冬季は石狩湾に近いため季節風の影響を受け、局地的な大雪に見舞われることもある。

2 時期的特色
(1)明治15年開拓使の廃止後4年間続いた3県1局時代が終わり、明治19年から北海道庁時代に入いる。これは、時の司法大輔であった岩村通俊(札幌本府設置時の初代判官)が北海道開拓の重要性を政府に説き、北海道庁設置を働き掛けたことによるものであるが、岩倉通俊が初代北海道長官に任命される。
(2)3県1局時代の開拓の成果が芳しくないことから、開拓の進捗を図るために土地の大規模所有を認める「北海道土地払下規則」が明治19年に公布され団体移民が本格化した。
(3)明治20年~21年にかけて、時の屯田本部長であった永山武四郎が米、露、清を視察。その中でコサックの屯田兵制を研究。
(4)2代目北海道長官に就任した永山武四郎(屯田本部長兼務)の下で、屯田兵制度の大々的な見直しと20個中隊増強計画が立ち上がる。
(5)明治15年屯田兵の所掌が陸軍省となり、明治18年「屯田憲兵例則(明治7年に制定)」に代わるものとして「屯田兵条例」が制定された。その後、明治23年屯田兵条例の改正(服役期間現役3年、予備役4年、後備役13年の20年となる。)、同年屯田兵土地給与規則(給与地は1万5千坪となる。)、その他、関連規則の改正がおこなわれ、屯田兵制度が確立された。
(6)この時期の屯田兵入植(除く篠路)
○重要港の防衛のため明治19年~明治22年にかけて和田(根室)、明治20年、22年にかけて輪西(室蘭)、明治23年太田(厚岸)に屯田兵が入植。太平洋側の重要港の防衛体制が確立した。
○明治20~21年にかけて新琴似(札幌)、明治22、23年にかけて滝川に屯田兵が入植。篠路兵村の配置を含め道都札幌の防衛・警備態勢が確立するとともに、石狩川流域開拓の足がかりが築かれた。

(7)明治22年に上川道路(札幌~旭川)が、明治24年に中央道路(旭川~網走)が建設される等内陸部の開発が本格化し出した。また、石狩川には蒸気機関の外輪船が航行し物流の大動脈としての機能を果たしていた。
(8)明治24年から屯田兵の応募資格に「士族であること」の条件が無くなり、以降平民屯田の時代に入る。また、20個中隊増強計画の元に毎年500戸づつの入植が行われ、上川(永山、東旭川、当麻)、北空知(一已、納内、秩父別)、空知(江部乙、美唄、茶志内、高志内)へ屯田兵が入植。石狩川沿いの開発が急速に行われた。
(9)道都札幌及び周辺では開拓使時代に開かれた官営工場が民間に払い下げられ、また、新な産業が根付き、移民者の数も増大。明治21年には、道庁赤レンガ庁舎も落成し、札幌は近代的な町へと変貌をとげつつあった。

3 入植者の特色
  北陸53戸、近畿・四国66戸、山口県44戸、九州58戸、4個地域から概ね同戸数が入植している。同時期に入植した隣接する新琴似屯田兵が西南諸藩中心、明治8、9年に入植した琴似、山鼻屯田兵が東北諸藩主体であるのとは異にする。

4 任務上の特色
(1)道都札幌の防衛及び治安の維持。
(2)後備役で日露戦争に出征 戦死者11名。

5 発展過程上の特色
(1)篠路屯田兵入植以前に状況
○篠路開拓の歴史は意外と古く。幕末の安政5年(1858年)、万延元年(1860年)にかけて幕史などが入植し一村を構えていた。また、慶応2年(1866年)篠路の南側に隣接する札幌村(現在の東区元町付近)に大友亀太郎(二宮尊徳の弟子、創成川掘削の祖)以下が入植し開拓を進めていた。
○明治の時代に入り、明治4年南部藩の士族、明治14年に福岡藩の士族が篠路に入植。

(2)水との戦い
○明治20年、石狩低地の排水のために行われた琴似川を直接石狩湾に導く「新川」の開削に始まり、明治23年、新琴似兵村で「安春川」の開削が行われ、当該地区の耕作地は増大したが、さらに低地の篠路屯田兵村では長きにわたり水との戦いが続いた。

★篠路屯田兵、現役3年間の訓練の多くは排水路掘削工事に当てられたとの記録がある。同じ様な例は剣淵屯田兵の歴史の中にもあるが、排水溝を掘削し湿地帯の土地改良を行わなければ作物の収穫を見ることが出来ず、札幌地区に入植した4個兵村の中にあって一番開拓の苦労を味わった兵村である。

○明治31年、明治35年、明治37年には大きな水害に見舞われた。中でも明治31年の水害の被害は甚大で篠津兵村の2/3が水没した。水害の心配がほぼ無くなったのは、昭和6年、約15年の歳月をかけ、石狩川の流れを真っ直ぐにする生振新水路が完成してからである。

★火との戦い
 入植3年後の明治25年5月5日、区内数カ所から白煙が上がるかと思いきや、わずか数時間後には煙が現在の北区全域に及んだ。泥炭質のこの地では、火が地中を伝わり、いたる処から火が噴き出したという。この火災で屯田兵屋にあっては10戸が全焼した。現役中であったので兵屋は新しく立て替えられた。

(3)農業の推移
○明治8年の琴似屯田兵に始まり、明治22年までに、山鼻、江別・野幌、新琴似等札幌を取り囲むように屯田兵の入植が行われたが、これら屯田兵の間では、開拓使等の指導により桑、大麻、亜麻、穀物、果樹等の試験的な栽培が行われていたものの、寒冷地北海道としての農業は根付いていない状態であった。
○明治24年頃から明治30年頃まで篠路大根の銘柄が道内で風靡した時代があった。収穫された大量の大根は石狩沿岸まで石狩川の水路を利用し、そこから、道内の各漁場へと運ばれた。しかし、明治31年の大水害、翌年の病虫害により全滅し、新琴似大根に取って代えられた。
○日露戦争の終わった明治38年、苗穂に陸軍省の糧秣場が建設され、牧草の育成、燕麦の栽培が奨励された。当然篠路兵村においてもその栽培に飛びついたが、篠路産のものは新琴似や野幌兵村産のものから品質が劣りし苦渋をなめた。
○篠路は輓馬の王者ペルシュロン種の一級馬産地として石狩ペル、篠路ペルとも呼ばれ、十勝ともに篠路の名前をはせた。大正7年頃には全道の種馬共進会で最高位賞(農林大臣賞)を授賞する等篠路兵村の産馬が上位を独占する時代があった。

★盛んに行われた草競馬
 農耕馬の生産が開始された明治24年、明26年には兵村の青年達によって競馬会を組織し屯田新道にコースを設け競走を行っていた。その後、明治29年篠路兵村が後備役に編入され中隊本部も引き揚げられたことから、練兵場内に一周800メートルのコースを造成。開拓記念日の7月15日には草競馬を盛んに行われていた。これは、軽種馬(競馬馬)の育成に拍車をかけ、後に数々の名馬を生み出し、篠路兵村で育てられた競走馬が東京競馬で活躍する等の成果を得た。
  
(4)度重なる水害と兵役満了により兵村を去る者が多く、明治38年代には残留者が72戸となってしまった。その後も減少を続け、大正5年には47戸、入植50年後の昭和13年にはわずか25戸、分家を含めても39戸となってしまった。
(5)稲作への転換
 度重なる水害から稲作により兵村を立て直そうと有志が立ち上がり、明治42年に土功組合を設立。明治43年公有財産を処分した資金により潅漑溝を建設。大正5年には680町歩の水田を作り上げた。屯田3番通り沿いにこの偉業を讃える「水田開発記念碑」が建つ。

(6)明治28年予備役として日清戦争に出征。明治29年後備役に。
(7)明治37年屯田兵制度廃止。明治38年後備役として日露戦争出征。
(8)明治39年篠路村から分離し琴似村に編入。昭和17年琴似町に。昭和30年琴似町は札幌市吸収され札幌市屯田町となり、昭和47年札幌市が区制を施行したことから北区屯田となる。
(9)昭和44年に道住宅公団の屯田団地が造成され、現在の屯田地区は、整然と区画化された個人住宅がならぶベットタウンになっている。

★屯田の地名がつく町
 篠路兵村の札幌市北区屯田以外に、北見市とんでん西町、とんでん東町、滝川市屯田町西がある。
 なぜ、篠路兵村が屯田となったか、それは、明治39年、篠路兵村が篠路村から分離し琴似村に編入した時に、同じ篠路と付く地名が篠路村と琴似村にあるのは紛らわしいと言うことから「屯田」と言う地名が付いた。
 
6 篠路兵村関係の著名人

Ⅱ 篠路屯田兵の伝統を伝える。
(篠路兵村ゆかりの地)

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○資料館等
「屯田地区センター郷土資料館」

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「資料館内にある屯田兵屋」

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「屯田兵屋の内部」
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○屯田兵関係の催し

○屯田兵ゆかりの神社
「江南神社」

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○屯田兵がつくった学校
「札幌市立屯田小学校」

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○今に残る屯田兵の踏み跡
「屯田兵顕彰の像」
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「屯田兵第一大隊第四中隊本部跡」
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「開拓の碑」
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「水田開発記念碑」
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「新琴似兵村との堺にある風防林」
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○屯田兵子孫の会の紹介