屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ:納内兵村の今(平成23年)

2011-07-15 08:29:17 | 納内屯田兵村

<ルポ:現在の納内兵村(平成23年7月)>
 納内という地名、地元北海道の人にあっても馴染みの薄い地名である。国道12号線を旭川から石狩川沿いに南下し、神居古潭の峡谷を出たばかりのところにある三叉路を右折し、アーチ式の神納橋を渡ってすぐのところにある町が納内で、JRの函館本線に乗れば神居トンネルを出て最初の駅が納内である。
 納内を北空知の中心である深川市から見れば西のはずれであるが、上川の中心旭川から見れば北空知への玄関口にあたる。
 納内兵村は、そんな位置的な特色以外に、他にない大きな特色を有している。それは、納内屯田兵に配当された第1次給与地の広さである。屯田兵制度がほぼ確立した明治18年以降、屯田兵に配当された第1給与地の面積は4,500坪~5,000坪であったが、ここ、納内兵村においては10,000坪の給与地が配当された。これと同じであるのは、特科隊と言われた美唄市にある茶志内の工兵隊、高志内の砲兵隊のみである。
 当初、納内に騎兵隊を配置する計画であった。と言うのが理由のようだが、この配備位置と、10,000坪の給与地が、後の発展に少なからず影響を与えたものと考えられる。

 納内は、北海道の優良米「ななつぼし」「きらら397」「ふっくりんこ」等のブランド米の産地である。昭和40年代には北海道の米づくりビックスリーと呼ばれ、蘭越、厚真を含めた「北海道米づくりの御三家」であったと納内兵村史に記されていた。
 納内を知る上で、米のこと、それと、当時としては巨額の190万円もの資金を投入し完工した、神竜潅漑溝のことを確認しなければとの認識をもってこの地に乗り込んだ。
 まず足を運んだのは、納内屯田会会長をされているM氏のお宅である。事務局長のM氏も同席され、お二方からお話しをうかがった。
 納内においても他の兵村と同様、入植直後から手探りでの米作が始まった。それは、北山から流れる幌内川、吉野川等、付近を流れる小さな河川を利用して行われた。
 「昭和40年代に優良米の産地として名を知らしめるまでになった理由は何処にあるのですか」。と質問したところ、昭和30年代から行われた構造改善事業、農業組合法人化などの先見的な取り組み。それと、農家の米に対するこだわり。より良い米を作ろうという競争意識にあるのではないかと話された。また、これからの農業は規模拡大が宿命で、1戸当たりの作付け面積が20町歩は当たり前。近い将来は30町歩、50町歩へと拡大するのは必趨である。その為には、新しい経営形態へと変化させて行かねばならないと話された。ここにも、屯田兵の新たな道を切り開いていくというチャレンジ精神が見え隠れする。
 面談の最後に、給与地10,000坪は納内屯田兵にとってどうでしたかと尋ねたところ、当然と言わんばかりに「有利であった」。と答えられた。それと併せて、鉄道の施設計画が入植時には出来上がっており、給与地は鉄道線路を外して10,000坪もらえる様になっていたが、給与地まで行くのに鉄道を横断しなければならず苦労したと話された。

「納内屯田会会長、事務局長」

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 その後、納内の農業の発展には切り離すことのできない神竜潅漑溝の歴史を調べるために神竜土地改良区を訪ねた。そこで、昭和2年に完工した当時の写真と、潅漑溝の経路図のコピーを頂いた。
 図面を見て驚愕をした。こんな大規模、複雑な土木工事を納内屯田兵が入植した10数年後に設計。屯田兵が中心となって神竜土工組合を設立し、大正~昭和の始めにかけて工事を行った。その頃の土木技術もさることながら、明治も30年代に入った頃の屯田兵の人達は、ただ闇雲に田畑を耕し作物を育てていたわけではなく、より戦略的な農業経営を行っていたのだと言うことが分かった。
 当初、近くの小川から水を引き始まった水稲の試作が兵村全体に拡大し、潅漑溝の構築、造田、土地改良、構造改善へと進み、1世紀を経た現在は、日本の米処新潟を凌ぐくらいにまで発展した。この発展は、時には裏方として、時には表舞台の主役として事業に携わった屯田兵のチャレンジ精神に他ならない。
 土地改良区を後にし、いただいた地図を見ながら神居古潭にある現在の頭首工へ足を運んだ。

「神竜頭首工」

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「神竜頭首工碑」

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「当時の工事風景」

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 納内の中心とも言うべきJR納内駅を出て、正面の道路を南に進み、道道57号線(別名旭川深川線)へ出たところに開拓記念公園がある。そこは中隊本部のあった場所で、「第5中隊本部跡の碑」にはじまり、「100年記念碑」、「屯田の鐘」、「屯田の泉」、「りんご之碑」などが建立されている。丁度対角線上にある納内神社には「開村の碑」ある。
 過去本通りと呼ばれていた道道沿いは当時の面影を留めないが、JR函館本線の北側を東西に走る北一条通り沿いは、紛れもなくここに屯田兵屋が並んでいたと思われる雰囲気が残る。ここから北側の田園は整然と区画され、一枚5反から1町におよぶ水田が広がっている。この美しい田園風景は先人達の稲作にかけた情熱とその思いを引き継いだ今生きる人たちによって守もられている。

「開拓記念公園」

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「納内駅前通り」

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「兵村の風景」

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 国見峠から見下ろす納内の田園風景もそうであるが、納内駅の北側にある、納内墓地後方の高台から眺める景色はさらに絶景である。
 この景色を目に焼き付け、納内を離れた。

「美しい納内の田園風景」

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ルポ:現在の一已兵村(平成23年)

2011-07-15 06:55:16 | 一已屯田兵村

<ルポ:現在の一已兵村(平成23年7月)>
 一已兵村を訪問するに際して、雨龍屯田兵(一已、納内、秩父別屯田兵)が分け入った経路でもある上川道路(現国道12号線)から、滝川、音江に抜け、石狩川を渡り深川に入る経路を選んだ。
 この経路は、雨龍の屯田兵だけではなく、上川の屯田兵(永山、旭川、当麻屯田兵)も音江から神居古潭の峡谷を通り、忠別太(現在の旭川の中心地)を経由し夫々の兵村に入植している。
 音江法華の駅逓があったという音江とはどんなところだったのだろうか。また、当時屯田本部長であった永山武四郎が雨竜原野を眺望し、屯田兵の設置を考えたという国見峠から、一已、納内、秩父別兵村の姿を自分の目で確かめてみたいという願望もあった。
 国見峠からの眺めのすばらしさは、当時上川街道随一といわれただけのことはある。眼前には石狩川が蛇行しながらゆったりと流れ、その川岸から右手納内方向には整然と区画されたみどり豊かな田園風景が、前方の山(コップ山)の山裾まで続く。目を転じて一已方向は田んぼと住宅が混在し、されにその奥には秩父別がかすんで見える。
 まさに絶景である。

「音江法華駅逓」

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「国見峠からの眺め(納内方向)」

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「国見峠からの眺め(一已~秩父別方向)」

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 一已に到着して最初に訪ねたのは『拓魂碑』である。
 V字型の巨大なモニュメントが天空を仰ぎ、鍬を斜に担ぎ、今まさに振り下ろさんばかりに構えた逞しい屯田兵の像。台座には入植、日露戦争への出征の情景を刻んだ彫像がある。
 今までに道内37個兵村、全ての屯田兵村を訪ね歩いているが、この様に壮大な造形物はここにおいて他にない。ただ大きいと言うだけではなく、屯田兵による開拓物語綴る碑でもある。
 拓魂碑は昭和44年5月11日、北海道開道100年を記念し、屯田兵とその家族の偉業をたたえるために建立されたものである。
 この碑の前で行う『拓魂祭』は、今年(平成23年)で42回目を迎えるが、深川市長、秩父別町長をはじめ、町の主だった方が出席する盛大な記念祭であり、雨竜屯田兵子孫の団結力の強さを感じる。

「拓魂碑」

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「屯田兵の像」

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 この『拓魂碑』がある場所の南側に大隊本部、3、4中隊本部等主だった施設が配置されていた。通常であれば、この付近に番外地と呼ばれる商業施設が立ち並んだはずであるが、一巳の場合は、屯田兵村のはずれというべき場所(現在のJR深川駅付近)にそれらは配置されていた。ここに、一巳兵村の特色がある。
 一巳屯田兵の入植した明治28年には、もう既に、深川村が開村しており、解散した華族農場の後を継いで多くの開拓団体、開拓民が入植し、物流の中心として深川村が存在していた。現在の深川市は昭和38年に行われた深川、一已、納内、音江との合併により出来上がったが、稲作を産業の中心とした4町村の集合体である。

 今回、この地を訪ねた時、会長のH氏、前会長のK氏、以下7人の一已屯田会の皆様からお話しを聞く機会を得た。北空知は上川と並び称される米どころであり、一巳地区には北空知農協の主要な施設が設置され、米を中心とする域内の農作物が集荷、保管、出荷する管理機能を担っている。過去から現在に至るまでその役割を担う多くの人材が一巳から排出のも事実であり、一巳は北空知の農業における盟主的な存在であると聞いた。
 一巳屯田兵子孫のうち、現在も農業を経営している戸数は24あるという。この数は、一部市街地化した一已にあって、多・少の判断はできないが、未開の地を切り開き、鬼とまで例えられる位い稲作に情熱を傾けた先人の孫、曾孫の皆さんである。彼ら24人の人達が一已屯田兵の伝統を受け継ぎ、全国にその名を誇る北空知米を守り続けている。
 昨今の情勢をみると米農家は大変な様であるが、屯田兵魂とでも言うべきチャレンジ精神でこの難関を乗り越えてくれることを期待したい。

「一已屯田会の人達」

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 面談の後、案内されて深川マイナリー、ライスターミナルなどがあるJAきたそらちで米についての話しを聞き、その後、石狩川頭首工を見学した。
 農業に無知な私であるが、少しだけ米づくりのこと、北海道における米の生産の現状が分かった。そして、現場の稲作農家にとって一番大切なものは田であり、その田に必要なものは水である。管理された水がなければ稲は育たない。ここ一已においても、稲作で自立できるまで要した数十年の歳月は、水との戦いであったという史実の裏付けを現地で確認出来た。

「JAきたそらち」

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「深川マイナリー」

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「ライスターミナル」

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「深川のお米」

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「北空知頭首工」

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「石狩川付近の田園風景」

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 一已の人達は屯田兵の伝統とともに、屯田兵の入植とともにもたらされた郷土の芸能をしっかりと保存している。その一つにあるのが、深川市の重要無形文化財第一号に指定された「猩々獅子五段くずし」という獅子舞の保存である。
 この獅子舞は香川県出身の屯田兵である八代十吉、松本弥吉、正田筆吉らが、屯田兵の兵役を終え故郷に錦を飾った折に、郷里の讃岐地方に古くから伝わる獅子舞を一已へ持ち帰り、大国神社の例大祭で披露したのが始まりである。現在は地域の人達に愛される伝統芸能として発展・受け継がれている。

「猩々獅子五段くずし」

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 今回集まってお話しを聞かせて呉れた一已屯田会の人たちに「雨竜(一已、納内、秩父別)屯田兵にあって一已はその兄貴分的な存在に感じる」。と話した時、「そんな事はない無い」。と答えられたが、やはり、その様な気がしてならない。

「丸山から眺める一已の田園」

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「一已兵村の景観」

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「道の駅深川ライスランド」

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ルポ 秩父別兵村の今(平成23年)

2011-07-15 05:41:59 | 秩父別屯田兵村

<ルポ:現在の秩父別兵村(平成23年7月)>

 2011年7月12日夕刻9時、「ガゥン、ガゥン・・・」と、鐘の音が秩父別の町に鳴渡った。この音色は、秩父別町の社交場ともいうべき、ふれあい広場内『百年記念塔』に設置してある『とんでんの鐘』のものである。屯田兵の入植当時と同じように、毎日朝6時、昼12時、夕方18時、夕刻21時に鐘の音で時を伝えているという。

「百年記念塔と屯田の鐘」

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 秩父別は人口2,752人(平成23年の統計資料)で屯田兵入植の市・町にあって一番人口の少ない兵村である。
 秩父別には過去3回訪問しており常連の域に近くなったが、ここに来て一番感じるのは『小粒ながらちょっぴりスパイスの利いた町』である。
 町の玄関とも言うべき、ふれあい広場の入口には、『鐘のなるまち』の大アーチがあり、冒頭、鐘の音で紹介した百年記記念塔があり、郷土資料館、各種のスポーツ・レクレーション施設、温泉など色々な設備が整っている。また、近傍の丘には「ローズガーデンちっぷべつ」「めぇいめぇいランド」を開園し、人に優しく、来訪者を歓迎する取り組みを鋭意行っている。
 同じ時期、同じ北空知地域に入植した一已屯田、納内屯田とは違った何かがある。それは、何なのかを確認するために4回目の訪問をした。
 元々、秩父別は明治28年の入植時には深川村の一部であったが、明治34年に分村。平成15年に深川市との合併の構想があったが、結果的には合併まで至たらず独立独歩の道を歩でいる。
 秩父別町は、屯田兵によって開拓された町であることを誇りとし、他に無いもの、新しいものへの挑戦、それは開拓者精神そのものであるが、それらを実践行っている兵村であるように感ずる。

「鐘のなるまち」

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「屯田兵の像」

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 毎日定刻に『とんでんの鐘』を打ち鳴らす行為そのものが屯田兵の伝統であり、先人達の挑戦により産出した高品質の米をさらに良質なものへ進化させようと追い求めて行う飽くなき取り組み。これも屯田兵とその後に入植した人々の伝統である。また、秩父別屯田兵として香川県の綾川から入植した者の中に、四国で偉人と言われていた人の子孫が含まれていたことから、綾川町と姉妹都市提携を結び交流を図る。そんな、人とのふれあいを大切にする。それも、屯田兵の伝統の実践に他ならないと感じた。

 全耕地の9割が水田という道内屈指の米産地である秩父別は、町の中心を一歩離れると、そこには整然と区画された美田が広がる。
「秩父別の田園風景」

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「百年記念塔からの眺め」

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 しかし、この美しい田園地帯となるまでには血の滲むような苦難の歴史があったはずであり、そんな歴史をもう少し詳しく知りたいとの思いから、元秩父別土地改良区の理事長をされていたというK氏からお話しをうかがった。
 秩父別屯田兵は東兵村と西兵村に別れて1中隊、2中隊を編成した。西側に入植した1中隊の給与地は畑作が可能な肥沃な地であったが、東側に入植した2中隊の給与地は農耕に適さない火山灰の堆積した酸性土であり、泥炭地であった。
 必然の成り行きと言ってしまえば、それでお仕舞いあるが、稲作への飽くなき挑戦は農耕に適さない土地を与えられた2中隊側から始まった。当初は一部の屯田兵の人達によって近くの川から水を引き、隠れるようにして行った稲作の試作であるが、翌年には果実を結び本格的な稲作への夢が膨らんだ。そして、入植2・3年後の明治31年、当時の2中隊長であった鷹森赳夫大尉は上層部の反対を押し切り「稲作立村」を決断、中隊を上げて稲作へ挑戦をしていく訳である。

「雨竜川にある滝の上頭首工」

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 1世紀の歳月を経た現在、全国に優良米の産地として秩父別の名を知らしめるまでになったが、そこに至るまでには、幾多に渡る困難を克服した苦難の歴史がった。
 そんな話しを聞いた後、町の北東側の丘陵にある「ローズガーデン」に立ち寄った。赤、黄、白、ピンクのバラが庭園一杯に咲き乱れ、ここから眺める秩父別の田園風景は美しく、雄大で、遠くは雨竜の山並みも望めた。

「ローズガーデン」

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「ローズガーデンからの秩父別の田園風景」

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 この日の行動も終え、秩父別温泉「ゆう&ゆ」に浸かった。入浴を終え売店の商品棚を物色していたら屯田兵をモチーフしたレッテルが貼られているお酒が置いてあり、早速賞味をさせてもらった。冷えたお酒は今日の疲れを癒してくれた。

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 その後に聞いた鐘の音色が、冒頭で紹介した「ガゥン、ガゥン・・・」と、秩父別町内に鳴渡った『とんでんの鐘』である。


秩父別兵村の紹介

2011-07-09 07:44:06 | 秩父別屯田兵村

< 工 事 中 >

秩父別兵
入植年:明治28、29年
入植地:秩父別町

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「秩父別兵村入植配置図」「chipubetsu1.pdf」をダウンロード

出身地:24府県
入植戸数:400戸

「東秩父別兵村入植者名簿」「higasichipubetu2.pdf」をダウンロード

「西秩父別兵村入植者名簿」「nisichipubetu3.pdf」をダウンロード

大隊長
  初 代:野崎貞次少佐(明治25年2月~明治29年1月)
  第2代:渡辺水哉少佐(明治29年1月~明治30年9月)
(後の第3大隊長、歩兵25聯隊長、日露戦争で旅順攻撃における白襷隊の副長)
 第3代:菊池節蔵少佐(明治30年9月~明治32年10月)
 第4代:安西 恕少佐(明治32年10月~明治33年1月)
 第5代:鈴田宣貞少佐(明治33年1月~明治35年3月)

明治28年の入植
  便船:日本郵船の土佐丸(当時最大の汽船で5,402トン)
 経路:四日市~瀬戸内(神戸、多度津、今治)博多、境、敦賀、伏木
    小樽港到着:5月7日
 入植日:5月15日

明治29年の入植
 「第1便」
  便船:日の出丸(日本郵船)
  経路:博多、多度津、神戸に寄航し太平洋回りで小樽へ
  入植日:4月17日

 「第2便」
  便船:金沢丸(日本郵船)
  経路:宇品~今治、四日市、太平洋周りで小樽港へ
  入植日:4月23日
 
 「第3便」
  便船:日の出丸(日本郵船)
  経路:敦賀~伏木に寄航し小樽へ
  入植日:4月27日

 小樽で一泊し鉄道で空知太へ。滝川で一泊し一已へ。翌日秩父別へ。

 入隊式:5月1日

給与地
 第1次給与地:30間×150間(4,500坪)
 追求地:70間×150間(10,500坪)

西秩父別兵村
部隊名:第1大隊第1中隊
 中隊長
  初 代:林 昌介(輪西兵村の初代中隊長、後の2代南一已兵村の中隊長)
  第2代:北村 格(初代南一已兵村の中隊長)
  第3代:菊池盡三

出身県別入植者数
 富山県  22
 石川県   8
 福井県  10
 岐阜県   9
 愛知県   6
 和歌山県 18
 奈良県   7
 三重県   9
 兵庫県   4
 岡山県   3
 鳥取県   3
 島根県   2
 広島県   8
 山口県  10
 高知県   2
 徳島県   8
 香川県  45
 愛媛県  15
 佐賀県  11-
計19府県 200名

東秩父別兵村
部隊名:第1大隊第2中隊
 第2中隊長 
  初 代:鷹森赳夫(後の2代北一已の中隊長)
  第2代:中村 驍 
  第3代:毛利季次

出身県別入植者数
 富山県  29
 山形県   2
 新潟県   1
 石川県   9
 福井県  10
 福島県   2
 秋田県   1
 岐阜県   9
 京都府   1
 愛知県   5
 和歌山県 22
 奈良県   6
 三重県   4
 兵庫県   6
 島根県   3
 広島県  10
 山口県   9
 高知県   1
 徳島県   8
 香川県  38
 愛媛県  11
 佐賀県  13
計22府県 200名

Ⅰ 秩父別兵村の特色
  秩父別とは、アイヌ語の「チクシベツ」(通路のある川)から転訛したもの。
1 地理的特質
(1)滝川の中心から北方約20km、深川市の中心から北西方向約10km、石狩平野の最北である北空知平野の北端に位置し、北は幌加内、西は留萌・増毛へ連なる要地。
(2)雨龍川流域の肥沃な土地。場所によっては泥炭地あり。
(3)増毛から神居潭へ通ずるルート上に位置する。
(4)三条実美以下が経営しようとした華族農場の跡地。
(5)天候はやや内陸性の特徴を有するが、寒暖差はそれ程大ではない。

2 時期的特色
(1)雨龍屯田(一已、納内、秩父別)設置までの経緯
  ア 明治19年の北海道土地払下規則の公布、岩村道俊の上川離宮構想に応じ、明治22年三条実美、蜂須賀茂韻、菊亭脩季、戸田康泰等で華族農業組合を設立し、雨竜原野に5万ヘクタールの土地借受。しかし、三条実美の死去により明治26年組合は解散し、出資者はそれぞれが農場を経営。
  イ 明治25年、一已、多度志、納内にまたがる蜂須賀農場の一部1万ヘクタールを返還させ陸軍省に移管。(屯田兵はその場所に入植)
  ウ 明治23年の屯田兵条例の改正等屯田兵関連の法令・規則の大規模な改正があり、屯田兵の資格を一般平民に拡大。
  エ 平民屯田兵となった明治24年以降、上川に6個中隊、江部乙に2個中隊、美唄に3個中隊が入植を完了。内陸部(剣淵・士別を除く)最後の屯田兵である。
(2)入植した明治28年は、日清戦争最中であり大隊・中隊の幹部は出征していた。
  (幹部が戻って来たのは7月に入ってからで、軍事訓練が開始されたのは8月以降)
(3)道路は、明治22年に札幌から旭川まで(上川道路)、明治24年には旭川から網走まで(中央道路)が、また、同明治24年までに月形から増毛、増毛から神居古潭まで伸びる(増毛道路)が開削されていた。
(4)鉄道は、明治31年に小樽から旭川まで、明治43年には深川から留萠まで延伸された。なお、幌加内を経由して道北の名寄を結ぶ深名線が開通したのは昭和16年。(平成7年に廃線)
(5)明治25年、4代目北海道長官に就任した北垣国道は北海道での稲作を奨励。
(6)明治28年までに、上川の各兵村では稲作の試作に成功しており、旭川兵村では灌漑溝の掘削も着手。
(7)明治33年~35年にかけて第7師団が旭川の近文台へ移駐。
(8)明治23年、明治27年、明治34年に屯田兵条例の改正が行われたが、一已屯田兵にあっては6年間の任期となり、明治35年に満了。
(9)明治38年、後備役として日露戦争出征。

3 入植者の特色
(1)明治28年、29年の2ヵ年にわたって入植。出身県は北陸、近畿、中国、四国地方を中心に24府県。入植者の多い県は香川県(83戸)、次いで富山県(51戸)、和歌山県(40戸)となっている。
(2)同一県の同一地域からの入植者多数。一已、納内を含めるとさらに多い。
(3)近隣の開拓農場に入植した者と同一地方のもの多数。

4 任務上の特色
(1)北空知平野の開拓による殖産。あわせて警備
(2)日露戦争に出征
   大部分の屯田兵が出征、戦死者22名?

5 発展過程上の特色
(1)内陸部最後の屯田兵として一已、納内の屯田兵とともに入植。この時期までに、空知(滝川、美唄)、上川盆地の開拓が着手されており、交通網も整備されつつあった。
(2)入植した場所は、明治22年に開拓を開始した蜂須賀農場の跡地であり、また、雨竜、北竜、深川、妹背牛、沼田、多度志等の周辺地域は各種の団体が入植しており、前人未踏の地に入植した他の兵村と比較し有利な条件であった。
(3)農作物の栽培等
  ア 入植当初は、自給自足用の作物として粟、イナキビ、蕎麦、馬鈴薯、玉蜀黍、蔬菜などの野菜を、2年目から麦、豆、トウモロコシを栽培。
  イ 数年後から換金作物として、小豆、ナタネなどを栽培。
  ウ 明治30年頃から養蚕が盛んとなり、明治40年のピーク時には200~250石の繭を生産した。しかし、明治42年以降は一気に衰退した。
  エ その他、牛、馬、羊の飼育、りんごの栽培等、色々な作物の栽培、家畜の飼育が行われたが、稲産の発展により拡大を見る事はなかった。
(4)稲作の栽培
  ア 明治29年、和歌山県出身東秩父別兵村の植田栄太郎、吉田民吾によって稲の試作。
  イ 明治31年、時の2中隊長鷹森赳夫は「稲作立村」を決断し、演習名目で導水工事を行う。
   (2中隊長が決断した理由は、東兵村は西兵村より地味が劣り湿地帯も多く畑作に向かなかったため。)
  ウ 当初東兵村で行われた稲作の試験的栽培は、次第に広まり、1中隊の西兵村でも稲作が行われるようになった。
  エ 明治34年1、2中隊合同で灌漑工の工事に着手するも難工事で中止。
  オ 明治37年に水源を滝の上にもとめ600町歩の灌漑に成功。日露戦争が勃発し殆どの戸主は出征することとなったが、その後、39年に兵村の公有財産と立木を処分した資金をもって灌漑工事行い明治44年に完成。800町歩の増田に成功した。
  カ その後、秩父別土功組合の設立。大正4年には2,900町歩の灌漑用水路の拡張、改修を行い現在に至っている。
(5)明治34年深川村から分村、明治39年2級村制施行し秩父別村となる。昭和34年町制を施行し秩父別町り現在に至っている。

6 一已兵村関係の著名人
  土井淳平:和歌山県出身の屯田兵で、現役終了後医学を志し上京、遊学中明治37年徴兵され出兵、明治38年12月16日戦傷死。乃木将軍から感状を受ける。

Ⅱ 秩父別兵村の伝統を伝える 
○資料館等
「秩父別郷土館」

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「風雪に碑」

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「屯田の鐘」

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○屯田兵関係の催し
  雨竜屯田会(一已、納内、秩父別合同の会)による「拓魂祭」(7月10日)
  とんでん祭り

○ゆかりの神社
「秩父別神社」

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「開村の碑」

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○屯田兵ゆかりの学校
「秩父別小学校」

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○今に残る屯田兵の踏み跡
(各施設跡地に記念碑が建っている)
「中隊本部跡」

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「練兵場跡」

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「稲作発祥の地」

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○屯田兵子孫の会の紹介
「秩父別拓屯田会」
 昭和40年に設立された「屯田二世会」が、その発端
 活動の概要: 「屯田二世会」は、郷土館の建設、郷土資料館の蒐集製作、屯田兵入植に関する遺跡表示柱の設置、回想録の発刊、屯田会発足20周年誌発刊、「風雪の碑」の建立
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納内兵村の紹介

2011-07-08 11:16:09 | 納内屯田兵村

「納内兵村」
入植年:明治28、29年
入植地:深川市納内町
Photo

「納内兵村入植配置図」「osamunai01.pdf」をダウンロード

出身地:20府県
入植戸数:200戸

「納内兵村入植者名簿」「osamunai02.pdf」をダウンロード

第1大隊長
  初 代:野崎貞次少佐(明治25年2月~明治29年1月)
 第2代:渡辺水哉少佐(明治29年1月~明治30年9月)
     (後の第3大隊長、歩兵25聯隊長、日露戦争で旅順攻撃における白襷隊の副隊長)
 3代:菊池節蔵少佐(明治30年9月~明治32年10月)
 4代:安西 恕少佐(明治32年10月~明治33年1月)
 5代:鈴田宣貞少佐(明治33年1月~明治35年3月)

 ★1大隊本部は明治27年8月5日、札幌大通10丁目から一已5丁目に移転

明治28年の入植
 便 船: 日本郵船の土佐丸(5,402トン)
 航 路: 四日市~瀬戸内(神戸、多度津、今治)~博多~境~敦賀~伏木~小樽
      小樽港到着:5月7日
 入植日:5月15日(遅れた理由は、石狩川が増水し小樽で1週間足止め)

明治29年の入植
 「第1便」
  便 船:日の出丸(日本郵船)
  航 路:博多~多度津~神戸に寄航し太平洋回りで小樽へ
  入植日:4月17日

 「第2便」
   便 船:金沢丸(日本郵船)
   航 路:宇品~今治~四日市~太平洋周りで小樽港へ
   入植日:4月23日
 
 「第3便」
   便 船:日の出丸(日本郵船)
   航 路:敦賀~伏木に寄航し小樽へ
   入植日:4月25日

 小樽で一泊し鉄道で空知太へ、滝川で一泊し一已へ。
 秩父別、納内の入植者は深川でさらに一泊(宿泊場所澄心寺、第3、第4小学校等)

明治29年の入隊式:5月1日

給与地
 一次給与地:50間×200間(10,000坪)
 追求地:5,000坪
  給与地が10,000坪と大きいのは、納内には当初騎兵を配置する予定であったため。

部隊名:第1大隊第5中隊
 第5中隊長
  初 代:伊地知季次(明治28年7月1日~明治29年)
  第2代:徳江重隆(明治29年~明治32年11月)
  第3代:沼野芳郎(明治32年11月14日~明治33年9月)
  第4代:大岡勝重(明治33年9月~明治34年)
  第5代:永井實英(明治35年1月~明治35年3月)

出身県別入植者数
 山形県   1
 富山県  20
 石川県   7
 福井県  10
 岐阜県   8
 静岡県   2
 愛知県   6
 三重県   7
 京都府   1
 兵庫県   2
 奈良県   6
 和歌山県 16
 島根県   3
 広島県  10
 山口県   6
 徳島県  10
 香川県  48
 愛媛県  17
 高知県   1
 佐賀県  19
 計22府県 200名

Ⅰ 納内兵村の特色
  納内はアイヌ語の「オサナンケップ」が由来で、「オ」・「サ」・「ナンゲ」・「プ」、(川尻 にて・葭を・刈る ・ところ)から名づけられた。
1 納内の地理的特質
(1)石狩平野の最北である北空知の北東端で、その源を大雪山の雪解け水とする石狩川が神居潭の峡谷を流れ北空知の平野に出でたところに位置する。
(2)札幌以北に配置された江別、美唄、滝川、旭川・当麻の兵村にあって、唯一石狩川の右岸に配置された深川、秩父別の兵村の一つ。
(3)西から秩父別兵村、一已兵村、当該兵村と東西に配置された兵村にあって一番東端に位置し、石狩川に橋梁が架設されるまで交通に不便な地であった。
(4)北は幌加内、江丹別の山地、南は石狩川が流れ、耕地としての地積は少ない。(納内は一已、秩父別とは違い1個中隊200戸の入植である)
(5)気候は、やや内陸性の特徴を有するが、寒暖差はそれ程大ではない。

2 時期的特色
(1)雨龍屯田(一已、納内、秩父別)設置までの経緯
  ア 明治19年の北海道土地払下規則の公布、岩村道俊の上川離宮構想に応じ、明治22年三条実美、蜂須賀茂韻、菊亭脩季、戸田康泰等で華族農業組合を設立し、雨竜原野に5万ヘクタールの土地借受。しかし、三条実美の死去により明治26年組合は解散し、出資者はそれぞれが農場を経営。
  イ 明治25年、一已、多度志、納内にまたがる蜂須賀農場の一部1万ヘクタールを返還させ陸軍省に移管。(屯田兵はその場所に入植)
  ウ 明治23年の屯田兵条例の改正等屯田兵関連の法令・規則の大規模な改正があり、屯田兵の資格を一般平民に拡大。
  エ 平民屯田兵となった明治24年以降、上川に6個中隊、江部乙に2個中隊、美唄に3個中隊が入植を完了。納内は内陸部(剣淵・士別を除く)最後の屯田兵である。
(2)入植した明治28年は、日清戦争最中であり大隊・中隊の幹部は出征していた。
  (幹部が戻って来たのは7月に入ってからで、軍事訓練が開始されたのは8月以降)
(3)道路は、明治22年には札幌から旭川まで(上川道路)、明治24年には旭川から網走まで(中央道路)が、また、同明治24年に月形から増毛まで及び増毛から神居古潭まで(増毛道路)が開削されていた。
(4)鉄道は、明治31年に小樽から旭川まで、明治43年には深川から留萠まで延伸された。
(5)明治25年、4代目北海道長官に就任した北垣国道は北海道での稲作を奨励。
(6)上川の各兵村では稲作の試作に成功しており、明治27年、旭川兵村では灌漑溝の掘削も着手。
(7)明治33年~35年にかけて第七師団が旭川近文台へ移駐。
(8)明治23年、明治27年、明治34年に屯田兵条例の改正が行われたが、納内屯田兵にあっては6年間の任期となり、明治35年に満了。
(9)明治38年、後備役として日露戦争出征。

3 入植者の特色
(1)28年、29年の2ヵ年にわたって入植。出身県は北陸、近畿、中国、四国地方を中心に20道府県。入植者の多い県は香川県(48戸)、次いで、富山県(20戸)、和歌山県(16戸)となっている。
(2)同一県の同一地域からの入植者多数。一已、納内を含めるとさらに多い。
(3)近隣の開拓農場に入植した者と同一地方のもの多数。

4 任務上の特色
(1)北空知平野の開拓による殖産。あわせて警備
(2)日露戦争に出征
   154名出征、戦死者8名

5 発展過程上の特色
(1)内陸部最後の屯田兵として一已、秩父別の屯田兵とともに入植。この時期までに、空知(滝川、美唄)、上川盆地の開拓が着手されており、交通網も整備されつつあった。
(2)入植した場所は、明治22年に開拓を開始した蜂須賀農場の跡地であり、また、雨竜、北竜、深川、妹背牛、沼田、多度志等の周辺地域は各種の団体が入植しており、前人未踏の地に入植した他の兵村と比較し有利な条件であった。
(3)道央と上川を結ぶ上川道路(現国道12号線)は石狩川の左岸を走っており、納内橋(昭和7年架橋)、神納橋(昭和34年架橋)が建設されるまで、渡船によらざるを得ず、流通という面で不利であった。
(4)農作物の栽培
  ア 入植当時はトウキビ、大豆、蕎麦、野菜類など、副業として養蚕、養鶏などが行われた。
  イ りんごの栽培
    明治29年、空知太からりんごの苗木を譲り受け、植えつけたのが始まりで、10年の歳月をかけ「納内りんご」が世に出た。昭和30年代には160haの栽培面積があり隆盛を誇った。
  ウ 畜産
    大正6年に音江の酪農家から指導をうけ、その後、旭川から乳牛5頭を導入したのが始まりで、以降、増殖を計ったが、定着をするまでには至らず。
  エ その他
    変わったところとして藺草(いぐさ)の栽培がある。明治32年に北出長一はじめ石川県出身の屯田兵達が試験的に栽培をする。昭和6年には組合員30名を有するまで発展した。

    これらから言える事は、屯田兵達のチャレンジ精神と定着するために換金作物の生産を欲していたこと。
 
(5)米どころとして発展
  ア 入植当初から米作への欲求は高かった。米作は禁止されていたものの、近隣の兵村より種籾を分けてもらい、明治30年頃から手探りで米作が始まった。北山から流れる幌内川、吉野川、その他の小さな河川を利用し小さな田を作って栽培した。
  イ 一已で行われた「大正用水」の灌漑事業に背中を押される形で大正9年に神竜土功組合を設立、これに一已も参加し大正13年に起工。190万円の巨費を投じ昭和2年に完工。域内約3、800町歩の田が完成した。
  ウ 水害・冷害、虫害の多発
     水害:31年、34年、37年の水害は極めて大きな被害をもたらした。
     冷害:35年
     虫害:41年、42年の夜盗虫、38年のコガネ虫の被害
  エ 土地改良と水田構造改善の実施により水田の大規模化
   (水田1枚2~3アールを30~40アールへ拡大し大型のトラクター、コンバインを使えるようにするもの)
  オ 国営土地改善事業
    気象変化にとらわれない農業用水の安定的な確保、水害・冷害から稲を守るという構想の下に水源の確保、用水路の整備が行われた。これには、江部乙等周辺の自治体もかかわり大規模な工事が行われた。
(6)大正9年、一已村から納内村分村。昭和38年近隣の4町村(深川、一已、納内、音江)が合併し深川市の一部となる。
(7)学校の誘致
   昭和41年、北海道拓殖短期大学を誘致。これは、平成4年深川市芽生(メム)に移転。その跡地に、三浦雄一郎が校長を努めるクラーク国際高等学校を誘致。

6 納内の功労者
  
  村上清孝:日露戦争において勲八等、金鵄勲章功7級、農会長、土工組合長、村長等、深川市名誉市民。郷土功労者として納内神社に「頌徳碑」建立
  
  大平秀雄:土地改良の改稱と水田構造改善の功労者。深川市の名誉市民

Ⅱ 納内兵村の伝統を伝える 
○資料館等
 なし
 
○屯田兵関係の催し
 雨竜屯田会(一已、納内、秩父別合同の会)による「拓魂祭」(7月10日)
  
○ゆかりの神社
 「納内神社」
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 「開村記念碑」

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○屯田兵ゆかりの小学校
 「納内小学校」

○今に残る屯田兵の踏み跡
(開拓記念公園内の碑)
 「開拓百年碑」

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 「歩兵第1大隊第5中隊本部碑」

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 「屯田の鐘」

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 「屯田の泉」

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○屯田兵子孫の会の紹介
 「納内町開拓屯田会」
 会の設立:昭和8年2月11日納内村開拓老兵団の創立に始まり、昭和11年2月11日軍友会と改称、昭和21年納内町北拓同志会に改称し屯田兵2世を中心に活動を継続。平成2年2月納内開拓屯田会と改称し現在に至る。
 目的:開拓に従事した先人の偉業を讃え開拓精神を継承するとともに、会員相互の親交を深め地域の発展に寄与する。

 活動の概要:毎年5月15日開村記念式
       昭和38年深川市が誕生したことにより、一已、秩父別兵村との交流を深め、44年雨竜屯田2世の連合会結成。「開拓記念の像」の建立。 
       平成6年開拓100年 
 会員:屯田兵の後継者及びこの会の目的に賛同するもの