屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ 相内兵村の今(平成23年)

2011-07-02 08:50:51 | 相内屯田兵村

<ルポ 相内兵村の現在(平成23年6月)> 

  野付牛(現在の北見)から国道39号を相内~留辺蘂に向け車を走らせた。北見の市街地の西はずれに位置する三輪地区(野付牛屯田兵村4区)を過ぎ、東相内に差し掛かった辺りから急に大型店舗の看板がなくなり、そして、石北本線の線路を超えた途端に田園風景が目に入るようになった。
  東相内が相内兵村1区のあった場所で、鉄道線路を超えたところが2区の美園地区である。美園地区の西はずれには相内神社があり、この付近に、第3中隊本部、練兵場等相内兵村の中心となる施設があった。さら西に進むと相内小学校が、そして、新しい相内支所の建物がある。ここが、現在の相内の中心であるのだが、周りには商業施設等はほとんどなく、開いている店も僅かである。3区の豊田地区はさらに西奥にある。相内は1、2、3区とも当時の区割りが明瞭に残り、農業を営む家も多く入植時の面影を色濃く残す。

「1区東相内地区」
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「2区美園地区」
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「3区豊田地区」

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 相内支所の近くに一軒の和菓子屋さんがあったので、ちょっと話を聞いて見ようと暖簾をくぐった。創業は80余年前というものの、店で応対に出られた方は年配の方ではなく、昔のことを聞き出すことはできなかった。
 80余年前というと昭和のはじめで、相内が薄荷景気に沸いていた頃。さらには、この地域で稲作栽培が本格的に始まった時期と重なる。相内が一番活気に満ち溢れていた頃ではなかったろうか。この店にも多くのお客さんが足を運び、界隈は人の往来も多く、華やいだ雰囲気がただよっていたのだろうと当時の賑わいを想像した。
 明治30年、31年、1中隊の端野、2中隊の野付牛とともに入植し、開拓の鍬を下ろした相内であるが、野付牛は地域の中核都市北見市として発展したのを尻目に、相内は、端野とともに現在に至るまで農業中心に町・村を維持してきた。
 昭和30年、国の施策により北見市と合併し半世紀の歳月が流れたが、当時の賑わいを失わせてしまい。相内の伝統を伝えて行くことも困難な状況に追い込まれているのではと感じた。

「相内支所」

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「相内支所付近の景観」

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「訪ねた和菓子屋さん」

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 和菓子屋さんで応対してくれた女性に話を聞いたところ、「北見の市街地が近くにあるため、皆さん買い物は市街地周辺でします。学校を卒業した若い人達の中で農家の跡を継ぐ人は殆どいません。この付近の住人は年配の人ばかりになってしまいました」。と話してくれた。
 端野町は北見市と平成18年に合併して5年が経過し、伝統継承をしっかり行わなければと警鐘を鳴らしているが、合併後半世紀を経過した相内は、もう取り戻すことができないほどに影響を受けてしまった気がする。端野は、元端野町時代に郷土資料館、図書館等の文化施設を開館し、郷土史資料の編纂に意を注いだが、合併から世代交代が2度行われた現在の相内にあって、どのような形で、屯田兵の歴史を含め郷土の歴史を伝えて行くことができるのか心配である。
 ちょっと暗い話しをしてしまい、相内に住む人には申し訳ないと思うが、相内支所付近の景観を観て町村合併が地域に及ぼす影響というものをひしひしと感じた次第である。

 相内は南北の丘陵がせり出し、耕地の幅は狭く、屯田兵に与えられた給与地、追給地も無加川沿いに留辺蘂付近一帯まで広がる。その距離東西約20km。給与地規則の定めのない時期に入植した琴似(明治8年)、山鼻(明治9年)を除き特異な例である。
 そんな、給与地・追給地は今どうなっているのだろか。また、三輪大隊長の発意で掘削した灌漑溝はどうなっているのだろうか。そんなことを確かめたいために、3区の豊田から西相内~泉地区~留辺蕊へと向った。
 豊田川と北側の山裾を流れる用水路に囲まれた農地が延々と続く、留辺蘂の手前である泉地区に入ったあたりから、北側の丘陵がせり出し農地の幅が狭くなった。そして、さらに進むと灌漑溝の取水口に到着した。

 その取水口は、留辺蘂の市街地の北東側にある紅葉山の山裾にあった。そこには石碑が建ち「灌漑溝竣功記念碑」と記されていた。碑の横を用水が流れ、すぐ奥には水門があった。
 竣功は昭和43年と記されていたが、三輪大隊長の時代に端野、野付牛、相内、600名の屯田兵により始められた灌漑溝の掘削。その後、大正後期から昭和の時代に至るまで1世紀に及ぶ年月をかげ延々と整備してきた灌漑溝である。相内屯田兵の人達の思いがこの一条の流れの中に込められている。碑文を読みながら相内屯田兵、その子孫の方達の農地開発かける思いを噛み締めた。

「灌漑溝竣功記念碑」

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「取水口」

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「灌漑溝」

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「西相内の玉ねぎ畑」

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 比較的定着率の高い相内兵村といっても、そこには、土地の良し悪しがあり、どうしても苦労をして開墾した土地を手放さなければならない者が出た。さらには、分家として周辺地域に再入植をした者も多く出た。過去の資料の中に留辺蘂に転出した屯田兵が14戸あったと記してあったが、その家族、関係者を含めるとかなりの人数が留辺蘂地区の開拓にあたったと思われる。
 相内だけではなく、留辺蘂地区を含めこの地域一帯の開拓に尽くしたのが相内屯田兵と家族の人達であり、その功績は大きい。


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