屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ:江部乙兵村の今(平成23年)

2011-09-17 20:02:05 | 江部乙屯田兵村

<ルポ:現在の江部乙兵村(平成23年9月)>
  滝川兵村のルポでも記したが、滝川市には性格の異なる二つの兵村が存在する。それは、滝川兵村とこの項で記す江部乙兵村である。
 滝川屯田兵は明治22年~23年に入植。士族屯田兵の最後であり、出身地は西南地域の人の中に山形県人と奈良県の十津川移民が含まれる。対して江部乙屯田兵は明治27年に滝川兵村にほぼ連接する形で北側の地に入植。入植者は一般平民を対象とし、出身地は全国20府県にもおよぶ。任務的にも滝川屯田兵は、交通の要衝として発達するものと見込まれていた中空知地域の警備という要素が大きい。対して、江部乙屯田兵は内陸部の開発といった殖産という面が大きい。
 滝川兵村は滝川市の市街地化の波に飲み込まれてしまった感があるのに対し、江部乙兵村は未だに屯田兵入植時の面影を色濃く残す。実際に現在も農業を営む方が多い。
 江部乙は元もと滝川村の中にあったが、明治42年分村。昭和46年に滝川市と合併という経過を有している。明治42年頃というのはリンゴの栽培が軌道にのりだした時期で、江部乙村の財政は割合豊であったことと思われる。滝川とは性格の違う兵村であるが故に独立の機運は高かったと推測される。

 江別乙兵村では屯田兵子孫会「江部乙屯田親交会」会長のT氏からお話しをうかがった。氏自身がリンゴを栽培していると言う農家の方でもあり、江部乙の農業のことを中心にお話しをうかがった。
 ここに来るまで道内37個兵村の内30個兵村を廻り終えた。残っているのは私自身の住んでいる札幌の4個へ兵村(琴似、山鼻、新琴似、篠路)と、江別の2個兵村(江別、野幌)を残すのみとなり、道東の酪農、オホーツク圏の北見、湧別での畑作、上川、空知での稲作等、それぞれの地でお話しをうかがい農業の知識が少々ついた。そして、農業の究極は土地であることが分かった。農家の人は土地との戦いであり、土地を作るための水との戦を延々と繰り返してきたと言うことが屯田兵入植地を回ることにより少しだけ分かった。
 
 何故、江部乙りんごが隆盛を極めたのか?そんな農業のことを中心にT氏から話しをうかがった。以下は氏からの話しを要約したものであるが。
 土地に恵まれなかったからである。江部乙の給与地を眺めてもらえば分かると思うが、鉄道のレールを切断した時の切り口のような形をしている。(本書棚の「江部乙兵村の紹介」の入植配置図を確認してもらえば分かる。)、こんないびつな形となったのは泥炭地等、農耕に適さない土地であったためである。
 江部乙兵村の給与地は東に高く西に低い地形で、西側の石狩川流域の低地は泥炭地、河岸付近は砂礫の肥沃な土地であったが何時も水の被害を受けた。国12号線から東側の丘陵地は重粘土質の土地で、土地はやせ畑作もできない土地であった。
 そこで、はじめたのがリンゴの栽培で、この畑作に適さない粘土質の土地はリンゴの栽培には適していた。その結果、江部乙屯田兵のうち、東側の地域に入植した者の中からリンゴ農家が生まれた。そして、研究に研究を重ねた結果、「江部乙りんご」のブランド名で通るリンゴが生産されるようになった。
 T氏が話されるには、リンゴ栽培に影響を与えたものに留萌線の開通があるといわれた。当時の肥料はホッケの油かすで、留萠の海からそれらが運ばれるようになったことから、高品質のりんごが作られるようになったと言う。それで思い出したのは、湧別、野付牛(現北見市)の兵村が畑作で成功した例である。近くに網走港、湧別港がり、湧別川、常呂川の海運があった。街道が通じていたことから肥料が容易に手に入れることができたのも成功の理由の一つにあると直感した。
 当時小学生であったT氏は、お米の弁当を持って行ったと言われた。隣の子供の弁当は芋とトウキビだったので、母親に頼み2人分の弁当を作ってもらったと話していた。同じ屯田兵の中にあっても、リンゴの栽培ができる土地に入植した者、リンゴも、野菜も取れない地に入植した者とでは生活に違いが生じていたことが分かった。
 時とともに土地の優劣は変わる。過去泥炭地で作物が取れず、芋ばかり食べていた屯田兵家族の人達の土地は、大正のはじめから戦後にかけて潅漑溝が整備され、泥炭地の土地改良が進み、今は良質米の産地として発展を遂げている。逆に今まで江部乙りんごとして名をはせた地区は、採算が取れず若い人達の担い手もなく、過去、滝川市で660haあったリンゴの作付け面積は43haまで減少し、江部乙でリンゴを栽培する農家は35軒まで減少したという。それも、高齢化が進みじり貧状態のようである。
 江部乙の丘陵は美瑛丘陵とまでは行かないが美しい姿をしている。土地改良により畑作化を図るという構想もあると聞いたが、そこで問題となっているのは重粘土質の土地だそうだ。畑作ができる農地に改良するには客土を入れ5年くらいかかると話された。
 過去、不毛の地であった西側の地域が豊かな田園地帯になったのを尻目に、東側の丘陵では荒廃しかかった農地の姿を見せていた。
 
 夕食を江部乙付近の一杯飲み屋で取ろうかと思い付近を歩いた。店がない。江部乙の人に申し訳ないが、国道12号線からJR江部乙駅に向かう道々のショーウィンドウは40年前の姿であった。そして、やっと探し当てた。唯一1軒だけあるという居酒屋風の食堂で夕食を取った。

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「江部乙駅」

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「江部乙のメインストリート」

 多分、この街の景観は滝川市と合併した当時と変化していないのではないかと思う。合併時にあった7,000人の人口は半分近くになってしまったと聞いたが、若い人達は、江部乙を去っていく。唯一の公共機関とも言える国道に面して建つ鉄筋3階建てのJAの建物では貯金、共済業務しか行っていなく、江部乙農協の多くの部署は滝川農協に吸収されたという。
 滝川市自体が地盤沈下を起こしている中、江部乙の衰退は屯田兵の入植地の一つとして寂しい限りである。
 最近、江部乙を有名にしているものとして、春の「菜の花」と、秋の「コスモス」があり。これらは、丸加高原から江部乙兵村の農地に一面の花を咲かせる。

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「丸加高原から江部乙を眺める」

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「丸加高原の風景」

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「江部乙の農村風景」

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「江部乙りんご」


江部乙兵村の紹介

2011-09-17 19:47:19 | 江部乙屯田兵村

<工 事 中>
「江部乙兵村」
入植年:明治27年
入植地:江部乙町

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「江部乙兵村入植配置図」「ebeotsu01.pdf」をダウンロード

出身地:東北から九州まで20府県
入植戸数:400戸
「北江部乙兵村入植者名簿」「ebeotsu02.pdf」をダウンロード

「南江部乙兵村入植者名簿」「ebeotsu03.pdf」をダウンロード

第2大隊
大隊長:初代 菊地節蔵少佐
    2代 佐藤當司少佐
入 植
 第1便 
  便 船:日の出丸
  航 路:神戸~今治~門司~境港~小樽
  入植日:5月5日
 第2便
  便 船:金沢丸
  航 路:横浜~神戸~坂井(福井県)~小樽
  入植日:5月12日
 第3便 
  便 船:日の出丸(第1便として航海後、反転回航し第3便として航海)
  航 路:博多~浜田(島根県)~青森~小樽
  入植日:5月17日
 入植経路:小樽入港~手宮発汽車で移動~空知太到着~徒歩で移動、滝川兵村では国旗で出迎え湯茶の接待

入隊式:明治27年5月18日

給与地
 第1次給与地:5,000坪(125間×40間or160間×31.25間。この区画は滝川兵村と同じ)
 追給地:10,000坪

「南江部乙兵村」
部隊名:第2大隊第5中隊→第1中隊
中隊長
 初 代:大島幸衛大尉
 第2代:大岡勝重大尉
 第3代:伊地知四郎兵衛大尉

(初代の士官)
 中尉:大岡勝重
 中尉:川上新興
 少尉:大原武慶
 曹長:菊池岩松
 軍曹:村井源太郎

出身県別入植者数
 岩手県   6
 茨城県   1
 千葉県   1
 富山県   2
 石川県  19
 福井県  13
 愛知県   1
 大阪府   1
 和歌山県 24
 鳥取県  22
 島根県  16
 岡山県   2
 徳島県  17
 愛媛県   7
 高知県  12
 福岡県  42
 佐賀県   3
 熊本県   7
 大分県   3
 鹿児島県  1
  計  200名

「北江部乙兵村」
部隊名:第2大隊第6中隊→第2中隊
中隊長
 初 代:酒井秀由大尉
 第2代:藤本専作大尉

(初代の士官)  
 中尉:名越源五郎(後の士別中隊長)
 少尉:徳江重隆(端野兵村の3代目中隊長)
 少尉:難波田憲欽?
 曹長:須田源五郎
 軍曹:古川栄蔵

出身県別入植者数
 岩手県   2
 宮城県   1
 茨城県   4
 千葉県   1
 富山県  14
 石川県  25
 福井県  15
 愛知県   4
 和歌山県 14
 鳥取県  34
 島根県  15
 岡山県   4
 徳島県   8
 愛媛県  24
 高知県   7
 福岡県  20
 佐賀県   2
 熊本県   2
 大分県   4
  計  200名.

Ⅰ 江部乙兵村の特色
1 江部乙の地理的特質
(1)北海道一の大河石狩川とその水源を夕張山系及び大雪山十勝山系とする空知川が合流する空知平野の中央上部に位置する。
(2)滝川市の中心から北方約10kmに位置し、石狩川を挟み一已兵村(現深川市)に近接。
(3)地形は東に高く西に低い丘陵地。西奥には石狩川が流れ、付近は湿地帯で湖沼多数。
(4)気候は、夏と冬の気温の差の激しい内陸性気候で、冬期の積雪は多い。

2 時期的特色
(1)入植までの屯田兵の動き
a明治22年~23年にかけて、江部乙兵村に隣接する滝川に2個中隊440戸が入植。
b明治23年、屯田兵条例(服役期間現役3年、予備役4年、後備役13年の20年となる)、屯田兵土地給与規則(給与地は1万5千坪となる)、その他、関連規則の改正が行われ屯田兵制度が確立する。また、明治24年から屯田兵の資格を一般平民に拡大。
c明治24年~26年にかけて上川地区(永山、旭川、当麻)に6個中隊(1200戸)、美唄に3個中隊の3/4(300戸)が入植を完了。
(2)道路は、明治22年には札幌から旭川まで(上川道路)、明治24年には旭川から網走まで(中央道路)が、また、同明治24年に月形から増毛まで及び増毛から神居古潭まで(増毛道路)が開削されていた。
(3)明治22年北海道炭鉱鉄道会社設立。明治24年手宮~歌志内まで、明治31年忠別太(現旭川)まで、明治33年富良野まで鉄道延伸。
(4)明治23年北海道炭礦鉄道空知採炭所(歌志内)開坑。その後、大正2年にかけて空知川沿(歌志内、赤平、芦別、上砂川)の炭鉱が開かれる。
(5)入植した明治27年に日清戦争が勃発、明治28年出動がかかり東京待機。
(6)明治25年、4代目北海道長官に就任した北垣国道は北海道での稲作を奨励。
(7)明治27年までに、上川の各兵村では稲作の試作に成功しており、旭川兵村では灌漑溝の掘削も着手。
(8)明治23年、明治27年、明治34年に屯田兵条例の改正が行われたが、江部乙屯田兵にあっては7年間の現役で、明治34年に任期満了。
(9)明治38年、後備役として日露戦争出征。

3 入植者の特色
  北・南兵村に入植者の出身県に差異はなく全国20府県からの入植。一番多いのは福岡県で62戸、次いで多いのは鳥取県56戸。

4 任務上の特色
(1)空知平野の開拓による殖産。あわせて警備。
(2)日露戦争
  戦死者22名、屯田兵以外の戦死4名

5 発展過程上の特色
(1)入植した時は日清戦争の最中であり、江部乙屯田兵は臨時七師団に編入を予定されており、入植直後から実戦的な訓練が行われた。そのため、当初の開墾は家屯田兵の父親等の家長を中心として行われた。
(2)隣接した場所に明治23年に入植した滝川兵村があり、経験を享受出来た。
(3)明治31年には旭川まで鉄道が延伸され、その鉄道工事に伴う資財の供給等で、滝川に多くの人・物が集まり消費が増大。隣接する江部乙兵村にも農作物の需要が発生。
(4)明治31年の大洪水で、低地は水没し甚大な被害を受ける。その後も、度々水害の影響を受ける。
(5)昭和に入ってから石炭産業の隆盛によって赤平・芦別など産炭地からの石炭をはじめとする物資の輸送が活発になり、滝川は中継基地として商工業が栄える。
(6)農業の発展
a麻づくり、当初は札幌へ製品を送ったが、後には滝川に製線工場ができてそこに送る。その後は豆類の栽培が盛んとなる。これは、安定した収入があり殆どの農家で栽培した。
b稲の栽培
 稲作は明治28年に試作が成功したが、水田に移行したのは大正に入ってからである。稲作を行うには潅漑溝の整備が必要であり、それには金と労力が必要で、それよりか豆類を作った方が有利であるとの者の方が有力で、稲作をと言う意見は少数であった。追給地、増給地は石狩川の流域に配当される場合は多く、そこでは稲作を欲する者が多かった。稲作が本格的に行われる様になったのは大正時代に入ってからである。その後、石狩川の氾濫による水害から農地を守るため昭和7年に「防水期成会」(会長家納繁次郎)を結成昭和10年に堰堤工事を完成させた。
c江部乙りんご
 この地方でのりんごの栽培は、当初滝川兵村で始まったが、ある程度の収入を見込めるようになった時期に、病虫害で全滅をしてしまった。そこで、その苗を江部乙兵村の東側丘陵地に移植したところ、土質にも恵まれ良好な成績を得た。それが、江部乙りんごの始まりである。なお、平成23年現在で、りんごを生産している農家は35軒となってしまった。
d現在、国道12号線を挟み東側の丘陵地では麦、蕎麦、菜の花等畑作を、石狩川に至る西側の平野部では稲作を中心の農業を営んでいる。
(7)明治42年、北海道2級町村制施行に伴い、滝川村から分立。
  大正4年、一級町村制移行。
  昭和27年町制を施行し江部乙町となる。
  昭和46年、滝川市と合併。

6 江部乙兵村関連の署名人
 「岩橋英遠(画家)」
  明治36年屯田兵岩橋浅次と妻きくの長男として生まれる。江部乙村立北辰尋常高等小学校を卒業後、農業を手伝いながら独学で絵を描く。21歳で上京、山内多門の画塾に学ぶ。師の死後は安田靫彦門下となる。日本画新時代の一翼を担う。洋画の手法も取り入れつつ、独自の自然観照による写実的でありながら幻想的でもある印象のある絵画世界を創造し続け、享年まで日本画壇の重鎮として活躍した。東京芸術大学教授、日本美術院理事を経て、日本芸術院賞、1981年日本芸術院会員、1989年に文化功労者、1994年には文化勲章を受章した。滝川市名誉市民。代表作として『庭石』『新宿浦』『歴史』『土』『彩雲』『静日』『虹輪』などがある。

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「岩崎英遠の絵」 

「一木万寿三(画家)」
  明治36年屯田兵一木百太郎の三男として生まれる。家業のりんご園を手伝いながら絵画の研究に励む。同郷の岩橋英遠同とも親しく22歳で上京し、本郷絵画研究所で学ぶ。そこで安井會太郎らの影響を受けることになる。昭和4年に帝展に初入選する。晩年は一水会の作家として自己の画風を誠実に貫く絵画活動を続けた。昭和19年には戦争により郷里の江部乙に疎開するが、江部乙の名産であるリンゴ園やそこに働く人々を明るく伸びやかな作風の作品を書き続けた。全道美術協会の創立にも参加し、北海道洋画界の重鎮として活躍した。

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「一木万寿三の絵」

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「二人の絵が展示してある滝川市美術自然史館」

Ⅱ 江部乙屯田兵の伝統を伝える
○資料館等
 なし
○屯田兵関係の催し
○ゆかりの神社

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「江部乙神社」

○今に残る屯田兵の踏み跡

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「屯田兵屋」

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「兵屋内部」

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「屯田兵家族の像」

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「風雪90年屯田魂の碑」

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「百年記念碑」

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「決死之標(練兵場跡)」
 入植の明くる年の28年4月3日、江部乙屯田兵に出動命令が下り、出征の前日第5中隊の隊員が東10丁目から角材を運び、練兵場の一隅にあったニレの木の下木この標柱を立てて翌日出征していった。その後、昭和15年紀元2600年の記念事業として石碑に立て替えたもの。題字は「陸軍大将荒木貞夫」

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「練兵場跡」

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「中隊本部跡」

「射的場跡」

○屯田兵子孫の会の紹介
 「江部乙屯田親交会」
  結  成:昭和36年5月5日
     入植68年を迎え一部の屯田兵2世の発意により結成
  目  的:屯田兵生存者12名の慰問と屯田兵の偉業を讃え新たなる開拓者精神の昂揚に努め、もって郷土の発展に寄与するとともに遺跡・遺品等の保存に努め、物故者の慰霊に努めること
  活動状況:屯田兵の遺跡、遺品の保存、遺跡の指示標の建立、昭和52年収集した遺品等を郷土館へ寄贈、56年屯田兵屋を復元。
  行  事:毎年5月5日総会、慰霊と親睦の集いを開催
  会  員:江部乙地区に居住する後継子孫95戸、内給与地に居住する後継子孫36戸(平成2年調査)


ルポ:滝川兵村の今(平成23年)

2011-09-17 19:10:01 | 滝川屯田兵村

<ルポ:現在の滝川兵村(平成23年)>
 滝川市には性格の異なる二つの兵村が存在する。それは、この項の対象である滝川兵村と、昭和46年市町村合併で滝川市に組み込まれた江部乙兵村である。
 滝川屯田兵は明治22年~23年に入植。士族屯田兵の最後であり、出身地は西・南地域の人の中に山形県人と奈良県の十津川移民の人達が含まれる。対して江部乙屯田兵は明治27年に滝川兵村にほぼ連接する形で北側の地に入植。入植者は一般平民を対象とし、出身地は全国20府県にもおよぶ。任務的にも滝川屯田兵は、交通の要衝として発達するものと見込まれていた中空知地域の警備という要素が大きい。対して、江部乙屯田兵は内陸部の開発といった殖産という面が大きい。また、滝川は明治、大正、昭和、平成と移り変わる時代の中で、中空知の中心地として歴史の舞台に立ってきた地である。
 そんなことから、それらの踏み跡を少しでも感じ取ろうと精力的に動き回わり取材をした。
 事前に地元郷土史研究家のS氏、滝川屯田兵子孫会「滝川市屯田遺徳顕彰会」の副会長であるS氏に取材依頼を取りつけてあった。郷土史研究家のS氏には過去から現在に至るまでの滝川の移り変わりを、子孫会のS氏には自身が育った滝川兵村の当時の姿等を主題としてお話しを聞いた。

 郷土史研究家のS氏は元滝川市の博物館の館長をされた方で、現職時代から現在に至るまで、滝川市史の編纂や各種郷土資料の収集・整理に携わり、滝川の生き字引と行っても過言でないほど詳しい知識を持たれていた。
 滝川盛衰の歴史を時代を追って説明してもらった。
 この中で、滝川の歴史は巡風なものではなく、屯田兵が入植した明治22年頃から30年頃にかけは滝川が北海道開発の拠点であり、人・物資が滝川に集中され繁栄を極めたが、明治31年、鉄道が忠別太(現旭川)まで延伸されたことにより、また、同年に大水害に見舞われ滝川が大打撃を受けたことにより、開発の中心地は旭川に取って代わられた。滝川の町は火の消えたように低迷してしまった。その後の復活は富良野まで延びる鉄道の開通(現在の根室線)であり、歌志内、赤平、芦別等採炭地の繁栄である。
 また、先の大戦の最中に人造石油会社が滝川に設置され、約1万規模の人口の増加と知的財産の集積を生んだ時代もあった。当然その工場は終戦とともに閉鎖し貴重な人材は散り散りとなってしまった。そんな話しを例話を交えながら伺った。丁度話しも終わりかけた頃に滝川青年会議所の方がS氏と用談のために来られた。丁度良いので三人で話しをしましょうと言うことになり、古写真を眺めながら説明を聞いた。時間にして約1時間、写真の枚数は約100枚。滝川の歴史を象徴する写真であり、「これは明治何年の何々の時の写真」。「これは、何々で、これは誰々」。とか、一枚一枚丁寧に説明をされた。それらの写真から滝川の姿が見えてきた。

「滝川市屯田遺徳顕彰会」副会長のS氏は屯田兵3世の方で御歳90歳という高齢ではあるもの、面談をした滝川神社まで自転車で来られるほどに元気であった。
 親子2代にわたって国鉄マンで、農業に携わることはなかったが、兵村のあった給与地の状況をよく覚えられていた。昭和の始め頃の状況として、兵村の南側では牛を、中程では馬を飼い、北側ではリンゴを、石狩川沿いでは畑作を行っていたという。稲作が行われるようになったのは戦後であると言われた。また、空知川河畔の北側に製麻工場があったことから麻の栽培も行われていたのだろう。
 空知川が石狩川に注ぎ込む付近の地域は大雨の時に必ずと言っていいほど洪水に見舞われ、石狩川の沿岸部では雪解けの時期、大雨の時には水に浸かった。兵村は高台にあり水に浸かることはなかったと話された。
 この話で見えてくるのは、上川道路と言われた国道12号沿いの給与地は市街地化するまで牛・馬の牧場であり、リンゴ畑であったと言うことである。地区ごとに農耕の仕方が違う。これは生活の知恵というか、屯田兵の人達は、当時においても適地適作の農業を行っていたと言うことであろう。 
 S氏は、馬を飼っていた人の中から馬産地である太田兵村(厚岸)へ、牛を飼っていた人の中から酪農の地である安平へ移り住む者がいたと話された。屯田兵子孫の方達は新たなる地を求めて再チャレンジをする人が大勢いたようである。

「滝川市遺徳顕彰会」は年1回の7月1日に滝川市長臨席のもとに屯田兵慰霊行事を行っているそうである。残念かな、現在参加される子孫の方は3世を中心に15人程度であるという。皆さん高齢になってしまい、慰霊碑を誰がどの様に守っていくのか今後のことが心配であると話された。
 お二方のS氏から話を受けた翌日、屯田兵の住居があった給与地、その周辺にあった追給地、番外地と言われた市街地等を見て回った。
 国道12号線と、国道38号線が交差する街の中心にレトロな建物が二棟建っている。その一つは昭和7年に建築された「北海道銀行滝川支店」の建物で現在「北洋銀行滝川支店」として使われている。もう一つの建物は明治23年に「丸井今井商店滝川支店」として建てられた現「中川金物店」である。中川金物店に入らせて頂き見学をさせてもらった。店の人はなれているのかテキパキと説明をしてくれた。柱には丸井のマークが刻印されていた。梁は一本の大木を荒削りにしたもので黒く輝き、年輪と当時の栄華がしのばれた。奥にある蔵は現在物置代わりに使われているが、何処かで見た豪商の蔵のように立派なものであった。

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「旧北海道銀行滝川支店」

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「旧丸井今井商店滝川支店」

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「太い梁と丸井のマーク」

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「滝川の中心十字街」
 ここまで来たのだからと、駄目もとで滝川の自衛隊に電話を入れた。元人造石油工場の本部であり、現在滝川自衛隊の本部庁舎として使われている建物の写真撮影をお願いした。衛兵が厳重な警戒をする正門前で、担当自衛官の立ち会いの下写真を撮影させてもらった。

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「旧人造石油工場本部」

 滝川、いや中空知の農地は今まさに実りの秋である。整然と区画されたに田んぼで太陽と水の恵みを受け、すくすく育った稲穂が黄金色に輝いていた。
 そして、丁度稲刈りが始まった。

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「滝川の農村風景3景」

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「三日月湖(ラウネ川)」

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「滝川市庁舎」

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「滝川駅」


滝川兵村の紹介

2011-09-17 18:51:44 | 滝川屯田兵村

<工 事 中>

「滝川兵村」
入植年:明治22、23年
入植地:滝川市一の坂町、朝日町、黄金町、二の坂町、滝の川町など

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「滝川兵村入植配置図」「takikawa01.pdf」をダウンロード 

出身地:九州中心に7県
入植戸数:440戸

「北滝川兵村入植者名簿」「takikawa02.pdf」をダウンロード

「南滝川兵村入植者名簿」「takikawa03.pdf」をダウンロード 

第2大隊
大隊長
 初 代:野崎貞次(M23.6.23~)後の第1大隊長(一已)
 第2代:吉田清憲(M25.2.2~)
 第3代:菊池節蔵(M27.1.26~)(日清戦争時の大隊長)
 第4代:佐藤當司(M28.7.23~M32の大隊廃止まで)

入植
○十津川移民の入植
  奈良県十津川村から陸路神戸港へ移動、神戸港~小樽港へ海路移動、明治22年11月6日~18日の間に滝川兵村に到着。
○主力の入植
☆第1便
 便 船:日の出丸 
 航 路:岩国~八代(熊本)~博多~小樽(7月3日着)
☆第2便
 便 船:日の出丸(第1便として輸送した後、酒田港へ回送し第2便として使用) 
 航 路:酒田(山形)~小樽
 小樽からの移動:手宮から無蓋貨車の石炭車で市来知(三笠)まで列車移動。そこから徒歩で沼貝村(美唄)へ、石炭を発掘するため設置された空知監獄署出張所で一泊、翌日滝川兵村に到着。
入植日:明治23年7月  日

給与地
 第1次給与地:5,000坪(125間×40間or160間×31.25間)
 追給地:10,000坪

「南滝川兵村」
部隊名:第5大隊第1中隊→第2大隊第3中隊
中隊長
 初 代:県 左門(M22.12.27~)
 第2代:吉田清憲?
 第3代:友田 正(M26~M29.10.17)
 第4代:菊池節蔵?
 第5代:平井正道(M30.1.16~M30.3.31)

(初代の中隊士官)
 中尉:伊地地四郎兵衛(後の南江部乙兵村3代目中隊長)
 中尉:福井重吉(後の当麻、剣淵の中隊長)
 少尉:藤本専作(後の北滝川兵村3代目中隊長)
 見習士官:菊池直人
 曹長:北郷小一郎
 軍曹:鷲山実平
 軍曹:片山勝太郎
 軍曹:古川栄三郎

出身県別入植者数
 山形県   45
 奈良県   57
 熊本県   15
 山口県   47
 佐賀県   31
 福岡県   17
 鹿児島県  10
        計   222名

「北滝川兵村」
部隊名:第5大隊第1中隊→第2大隊第4中隊
中隊長
 初 代:山県俊信(M23.5.21~)
 第2代:星 願造(M24.11.20~)
 第3代:藤本専作(M29.4.24~M30.3.31)

(初代の中隊士官)
 中尉:友山 正(後の南滝川兵村2代目中隊長)姓名?
 少尉:秋山有明
 見習士官:川上親興
 曹長:佐藤現八
 軍曹:永森余所三郎
 軍曹:四ノ宮立本
 軍曹:大坪与市

出身県別入植者数
 山形県  57
 奈良県  38
 熊本県  12
 山口県  53
 佐賀県  27
 福岡県  22
 鹿児島県  9
 計7県 218名

Ⅰ 滝川兵村の特色
  地名の由来は、空知川の語源であるアイヌ語の「ソーラプチペッ」(滝のある川)を意訳したことによる。
1 地理的特質
(1)北海道一の大河石狩川とその水源を夕張山系及び大雪山十勝山系とする空知川が合流する空知平野の中央部で、入植した地域は北東方向が小高くなった丘陵地。
(2)北へは石狩川沿いを遡上すると上川盆地へ、東へは空知川沿いを遡上すると十勝方面へ結ぶことが可能な交通の要衝。また、空知平野が狭まる場所に位置し、石狩川を渡河し増毛街道(現国道275号線)との連接が容易。
(3)近隣の歌志内、赤平、芦別、上砂川に炭鉱が開かれ、それらの地域を支える物流の中心地。
(4)気候は、夏と冬の気温の差の激しい内陸性気候で、冬期の積雪は多い。

2 時期的特色
(1)屯田兵制度・組織関連
a明治20年~21年にかけて屯田本部長である永山武四郎が米、露、清を視察その中でコサックの屯田兵制を研究。
b明治20年、永山武四郎本部長の下で、屯田兵制度の大々的な見直しと20個中隊増強計画を立ち上げる。
c明治23年、屯田兵条例(服役期間現役3年、予備役4年、後備役13年の20年となる)、屯田兵土地給与規則(給与地は1万5千坪となる)、その他、関連規則の改正が行われ屯田兵制度が確立する。
(2)明治19年、開拓使廃止から4年間続いた3県時代が終わり道庁時代に入る。同年、北海道土地払下規則公布。これにより、会社、結社組織による団体移民が始まる。
(3)明治22年、奈良県で大規模な水害が発生し、十津川の住民約600家族、2,600人が北海道(新十津川)へ移住。その年、滝川の屯田兵屋で冬を越す。
(4)明治22年樺戸集冶監の囚人達の手によって滝川兵村の建設、上川道路の開削。
(5)明治22年北海道炭鉱鉄道会社設立。明治24年手宮~歌志内まで、明治25年滝川まで、明治31年忠別太(現旭川)まで鉄道延伸。大正2年富良野線開通。
(6)明治23年北海道炭礦鉄道空知採炭所(歌志内)開坑。以降大正2年にかけて空知川沿(赤平、芦別)上砂川に炭鉱が開かれる。
(7)明治27年、滝川兵村に隣接して江部乙屯田兵が入植。
(8)日清戦争を4年後に控え朝鮮半島では緊張が高まる。
(9)予備役として日清戦争に出征。
(10)明治30年兵役満了、後備役に入る。

3 入植者の特色
(1)士族最後の屯田兵。
(2)十津川移民92戸を採用
(3)九州、中国地方出身者が中心。その中に山形県人101戸。

4 任務上の特色
(1)空知平野の要衝警備及び中空知地区の開拓。
(2)日露戦争
    名出征、戦死者10名、屯田兵以外の戦死5名

5 発展過程上の特色
(1)十津川移民が明治22年11月に移住し兵屋を間借りしたため、主力の入植時期が23年7月にずれ込む。(その為初年度作物の収穫皆無)
(2)明治22年の上川道路、その後の鉄道延伸工事に伴う資財の供給等で、滝川に多くの人・物が集まり消費が増大。兵村の南側地域は商業施設が建ち並び大いに栄える。屯田兵に
(3)明治31年の大洪水で甚大な被害を受ける。また、忠別太(旭川)まで鉄道が開通したため景気は一気に減退する。滝川屯田兵は明治30年で兵役が満了し、この景気後退は屯田兵の離村を即した。
(4)大正2年、滝川と道東を結ぶ富良野線(現根室本線)の開通によって再びその地位を回復。さらには、昭和に入ってから石炭産業の隆盛によって赤平・芦別など産炭地からの石炭をはじめとする物資の輸送が活発になり、中継基地として商工業が栄える。
(5)農業の発展
a中隊本部からの指示もあり入植当初、麻の作付けを開始。その後、予備役時代になっても麻が主作物であった。他の作付けは格戸ごとに決めていた様で豆類、麦類、牧草などを作付けしたと記録に残っている。苦しい生活であったが、第1次大戦の好景気で一時期をしのいだ。
bりんごの栽培
 屯田司令部からの奨励もあり各戸で作付け。収穫は3、4年後となるので、その間の生計に苦労。有望との期待に反し、明治34年と明治39年の害虫の被害を受け全滅した。
c稲作
 入植の年から個人的な試作の記録が残っている。しかし、本格的に水稲を考え出したのは大正5年に土功組合を結成してからで、明治35年北海道土功組合に関する法律が施行されることにより、道からの助成受け潅漑溝を開削。大正時代後半になって本格的な稲作が始まった。
(6)他の兵村と同様でもあるが、明治末期から大正初期にわたる時代は大変で、耕地に恵まれたと言われる滝川兵村にあっても、この時期に半数以上の屯田兵が離村した。
(7)大東亜戦争中、滝川に石炭から石油を精製する人造石油工場の設置され工員と家族を含めると1万人規模の人員、また、優秀な頭脳集団の流入した。しかし、戦後工場の閉鎖により、それらの人材は離散し一時衰退した。
(8)昭和30年、人造石油工場跡地に自衛隊移駐し、70年の歳月を経過し屯田兵の伝統を継承した。  
(9)明治23年滝川村戸町役場設置、奈江村(現在の砂川市)分村。
  明治32年音江村戸町役場(現深川市)分立。
  明治39年2級村制施行。
  明治42年1級村制施行、江部乙村分立。
  明治43年町制施行「滝川町」。
  昭和33年市制施行「滝川市」
  昭和46年滝川市、江部乙町合併

6 滝川兵村関係の著名人

Ⅱ 滝川屯田兵の伝統を伝える
○資料館等
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「滝川郷土館(昭和52年開館)」

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「郷土館の屯田兵屋」

○屯田兵関係の催し

○屯田兵ゆかりの学校
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「市立滝川第二小学校」

○「ゆかりの神社
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「滝川神社」

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「滝川屯田兵移住記念碑」

○今に残る屯田兵の踏み跡
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「屯田兵第二大隊本部跡碑」

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「練兵場跡碑」

○屯田兵子孫の会の紹介
「滝川市屯田遺徳顕彰会」
 旧滝川市に住む後継子孫77戸、給与地に居住する後継子孫25戸内農業経営者16戸(平成2年調査)


ルポ:輪西兵村の今(平成23年)

2011-09-12 09:54:59 | 輪西屯田兵村

<ルポ:現在の輪西兵村(平成23年9月>
  根室の和田兵村を手始めに道内37個兵村を訪ねる旅。輪西を訪れるのは31番目で、それまでに得た成果から、少しは他の兵村と比較し、関連付けながら見ることができるようになった。
  防衛優先で配置されたため悲惨な目にあった屯田兵として、輪西同様に和田(根室市)、太田(厚岸町)兵村の名前が挙げられるが、それら兵村は、太平洋側に面し海流の影響で春から秋にかけて海霧が発生し作物が育たないという特色を有している。
  そんな中、輪西兵村には和田、太田兵村にない特色がある。それは、和田、太田兵村が道東有数の酪農地帯として発展し、少ない戸数ながらも屯田兵子孫がその牧場を守り続けているのに対し、輪西兵村は現在に至るまで一度も農業の火を灯すことができなかったことである。
 その理由として、入植した5年後には鉄道が開通し、石炭の積出港として、製鉄の町として、更には重化学工業の拠点として発展を遂げ、屯田兵の入植地がそれらの用地として組み込まれてしまったことにあると思われるが、中島神社境内にある記念碑以外に屯田兵の踏み跡を残すものは何も残っていない。 

  輪西兵村のあった室蘭は、松前藩治政の時代、絵鞆(モロラン)場所として歴史の表舞台に立ち、その後、ロシアの脅威が迫る中、第2次幕府直轄時代には南部藩による警備が行われ出張陣屋が築かれ、明治維新後の各藩分領時代には伊達支藩角田藩による開拓が行われ、その後の屯田兵の入植。第五海軍区軍港に指定等、幕末から先の大戦に至るまで常に北海道防衛の第一線にあった。また、明治6年札幌と室蘭を結ぶ札幌新道の開通、明治27年岩見沢と室蘭を結ぶ北海道炭鉱鉄道の開通、輪西製鉄所、日本製鋼所の創業等、産業・流通の拠点としても重要な地であった。
  これらが示すとおり輪西屯田兵は、農業中心に開拓をおこなった他の屯田兵とは明らかに違う。
  室蘭発展の中で、屯田兵はどの様な位置づけにあったのか?そんな思いを持って室蘭に乗り込んだ。

  百聞は一見にしかずではないが、先ずは歴史の舞台となった現地を訪ねるのが一番と、訪問初日は屯田兵入植前後の歴史跡を現地で確かめた。
「室蘭市民俗資料館」で学芸員から地域情報を収集し、南部藩が警備をした地、伊達支藩の角田家家臣の入植地、鉄道の駅舎、波止場等を回った。

「南部藩陣屋跡」

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「モロラン台場跡」

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「室蘭の地名発祥の地」

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「八幡神社と輪西村開村の碑」

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「屯田兵上陸の地 トチカラモイ」

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「プロビデンス号到着の碑と大黒島」

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「旧室蘭駅舎」

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  また、札幌新道の起点を測量するために使ったという測量山に登り、室蘭の地形、地物を大観し、何処に何があったかを確認した。測量山の展望台に登るのは今回が初めてで、こんなに展望の良いところとは知らなかった。現在は埋め立て地の上に製鉄所、製鋼所などの工場が立ち並び、湾に突き出した埠頭が点在するが、それらの埋め立て地に島のように浮かぶ丘陵の中に入江の形が連想された。
  測量山からは望む360度の大パノラマは圧巻である。室蘭港は当然のこと、室蘭岳ほか対岸の山々、さらに遠くに羊蹄山をも望むことができた。南の方向には噴火湾と太平洋の海原が続いている。その対岸には駒ヶ岳を頂く亀田半島が望める。この地形をみて、先人達がここに陣屋を築き、角田藩に開拓をさせ、屯田兵を配置し、軍港を配置するなど防衛の拠点にしようと意図したことが分かった。

「製鉄所の後方にあるのが測量山」

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「室蘭駅周辺の景観」

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「トチカラモイ付近の景観」

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 室蘭では地元の郷土史研究会で副会長をされているH氏と、中島神社の宮司からお話しを伺った。
  H氏の先祖は、薩摩から滝川屯田兵として入植した人で、その3代目、元高校の日本史の教諭をされていたという方で、室蘭の市史編纂など色々な歴史資料の収集整理に当たられた室蘭の生き字引というような方であった。南部藩の蝦夷地警備のこと、添田龍吉以下の角田藩家臣の入植のこと、屯田兵のこと、終戦直前の艦砲射撃のこと等、ご当地の人でしか分からない興味ある話しを聞かせて頂いた。
  当然初対面の方で、当初ぎこちない会話も、歴史談議になるとお互い熱が入り、ついつい時間の経つのも忘れ話しに夢中になった。特に印象的であったのは終戦末期に受けた艦砲射撃のことである。
  ここ室蘭では昭和20年7月14日の空襲に始まり、15日の艦砲射撃により400人近くの方が亡くなられた。この数字の中には軍関係者は含まれていなく、湾内外で沈没した艦船も多数に上っていることから、死亡した人の数はさらに多い。道内では室蘭以外に函館、根室、釧路、旭川、帯広等20数カ所の都市がアメリカ軍の空襲を受けた。また、終戦直後の留萌沖では3隻の輸送船がロシア軍の潜水艦に攻撃され撃沈・大破したが、そんな歴史も風化されようとしている。この話を聞いて、あらためて思い起こされた。

「艦砲射撃をした艦船が遊弋した海」

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「艦砲射撃殉難者慰霊碑、製鉄所宿舎地区」

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  H氏の所属する室蘭郷土史研究会には50人近くの会員がおり、若い世代の方も入会していると聞いた。今年30代の若さで就任した市長さんにも会員になってもらっているという。
  帰り際は、これからの交流をお願いし別れた。

  輪西屯田兵ゆかりの神社は輪西神社ではなく中島神社である。この中島という社名、何処から来ているのか。それほど由緒あるものではなかった。中隊本部のあったこの地が、室蘭湾の東側に広がる湿地帯の中に島のように浮かんで見えたことから中島と呼ぶようになり、その通称が講じて神社の社名となったという。また、現在の輪西町というのは、新日本製鉄所のある場所のことを言うが、元はと言えば、現在の中島町を含めた屯田兵の入植した地域一帯のことを言ったという。
 地名の俗称が社名となった兵村は何処にもない。こんな話の中にも輪西兵村の苦難の歴史が見えてくる。
 自身が屯田兵子孫であるという中島神社の宮司から色々な話しをうかがったが。その中で、輪西兵村を特徴づける一言があった。それは、「幼かった昭和の30年頃、中島地区はまだ湿地帯で、その中に池のように大きな水たまりが多数有り、その池でフナ獲をして遊んだ」。である、この水たまりこそ、終戦間近い昭和20年7月15日の艦砲射撃でできた16インチ砲弾の弾着跡である。屯田兵の入植から70年あまり経った昭和30年代においても入植地一帯は一面の湿原地帯であったことを物語っている。
  宮司とは夕食もご一緒し色々な事を話し合った。輪西屯田兵子孫会は平成15年5月をもって解散となり、3世の方にあっても屯田兵の歴史を知る人が少なく、ましてや、4世となると感心も示さなくなっている現状を憂いた。日本人としての精神、歴史、文化を伝えていかなければと言う話しで盛り上がった。
  今回の訪問で輪西屯田兵の踏み跡をあまり調査することができなかった。それ程に屯田兵の歴史は室蘭の盛衰の中に埋もれてしまっている。農耕の適さぬ地に入植されられたことにより、その成果を見ることなく、任期満了とともに土地を手放し新たな職を求め離散してしまったとあるが、屯田兵が室蘭の歴史の中心になる時代は無かったのかもしれない。

「現在の中島地区」

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「東室蘭駅」

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 製鉄所のあった現輪西地区を縦横に走り回った。この界隈は製鉄所の発展とともに繁栄し商店街、繁華街であったことを物語る街並みはまだ残る。幾条にも小路が走り、ネオンの看板跡が残り、当時の賑わいが想像出来た。しかし、今は多くの店でシャッターを下ろし、店号のはがれた商家、骨組みだけのアーケード、空き地が所々に存在する。鉄鋼産業の衰退とともに室蘭の人口は半分近くとなったが、この地区だけを取ると、1/3~1/4に人口が減少しているかも知れない。コーヒーを飲んだ喫茶店の店主は「昔はやくざが幅を利かせていたくらいにこの界隈は賑わっていた」。と話していた。今、街はひっそりと静まりかえり、小さな食料品店、雑貨店、食品製造所が細々と営業を行っている。ここで育った人々は、借家住まいの人が多く、仕事を求めて他の地へ出ていった後、戻ってくる人は殆どいないという。主のいなくなった借家が空き地となって残っていく。

「現在の輪西の景観」

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「輪西駅」

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 室蘭から札幌へ帰宅する途中、登別温泉の某ホテルの亭主と面談を行った。その時、登別、洞爺湖、大滝、室蘭等の地を広域観光地域と位置づけ交流を深めている話しを聞いた。そして、その中で、室蘭の景観は素晴らしいという話しとなった。
 今回、室蘭の街中を走り、測量山に登り室蘭の景観を見て、もし、ここに製鉄所、製鋼所等の建物が無く煙突が無かったならば、野鳥の飛来する場所として自然資産にでもなっていそうな地であると思った。明治20年に入植した屯田兵と家族の人達は、開拓の苦労を味わう中、そんな美しい湾の景色をも見たことだろう。

「地球岬灯台」

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「白鳥大橋」

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