屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

相内兵村の紹介

2011-07-02 07:02:19 | 相内屯田兵村

< 工 事 中 >

「相ノ内兵村」
入植年:明治30、31年
入植地:東相ノ内(1区)、美園(2区)、豊田(3区)
Photo
 
「相ノ内兵村入植配置図」「ainonai1.pdf」をダウンロード

出身地:28県
入植戸数:199戸

「相ノ内兵村入植者名簿」「ainonai2.pdf」をダウンロード
 
屯田歩兵第4大隊
屯田歩兵第4大隊(1中隊:端野、2中隊:野付牛、3中隊:相内、4・5中隊:湧別で編成)
  大隊長:初 代 小泉正保少佐(和田・太田の4大隊長から赴任)
     第2代 三輪光儀少佐(元当麻兵村の中隊長 水稲の将来性を見込む)
     第3代 徳江重隆少佐

明治30年の入植(6月7日)
 第1便 
     便船:武陽丸(6月2日網走港着)
     航路:武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
    網走港からの移動:網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
 第2便    
      便船:武州丸(6月6日網走港)
    航路:七尾~新潟~青森~小樽~網走

明治31年の入植    
 第1便 
    便船:東都丸
   航路:門司~大分~三津ヶ浜(愛媛)~尾道~神戸~四日市~館山~萩浜(宮城)~網走
 第2便
  便船:東都丸(9月)
  航路:敦賀~七尾~新潟~酒田~網走

給与地:琴似兵村以来の密居性を取る。中隊を60~70戸の3区に区分し、各区は半密居性にした。
    第1次給与地: 幅30間、奥行60間(1,800坪基準)
        追給地: 約13,000坪

第4大隊3中隊
 中隊長:初 代:平井正道大尉
      第2代:川上親與大尉
      
相内兵村出身県別入植者数
 山形県  35
 富山県  17
 岐阜県  17
 石川県  33
 愛知県   8
 福井県  12
 福島県   5
 高知県   4
 山口県   1
 埼玉県   1
 佐賀県   8
 鳥取県   5
 新潟県   6
 和歌山県  8
 三重県   4
 岡山県   1
 兵庫県   6
 熊本県   3
 宮城県   4
 愛媛県   1
 福岡県   7
 栃木県   1
 広島県   3
 徳島県   1
 佐賀県   1
 岩手県   2
 香川県   3
 島根県   2
 計 28県 199名

Ⅰ 相内兵村の特色
1 地理的特質
(1)北見盆地の西方に位置し、北は仁頃山、南は訓子府に連なる丘陵に挟まれた低地を常呂川の支流無加川が流れ、その流れの源は、さらに西に進んだ留辺蕊~温根湯~石北峠・三国峠にある。
(2)無加川の恵みを受けた肥沃な地が東西に広がる。
(3)北見盆地の気候は寒暖の差が激しく夏は温暖(平成10年8月6日37.1度を記録)、冬の寒さは厳しい。また、年間の日照時間が長いく、冬の降雪量も含め年間の降水量は少ない。
(4)オホーツク正面防衛の要点で、端野、湧別を前衛、野付牛を主戦とするならば後衛に位置する。

2 時期的特色
(1)北見、湧別地区屯田兵設置までの経緯
  ア 明治21年、米、露、清国の視察より帰国した永山武四郎は、ロシアの大規模なシベリア・樺太開発計画、沿海州の兵備強化、とりわけシベリア鉄道施設計画に脅威を感じ、オホーツク正面の兵備の配置が急務であると認識。
  イ 明治23年の屯田兵条例の改正等屯田兵関連の法令・規則の大規模な改正、屯田兵の増強計画を策定。
  エ 囚人労働により、明治22年の上川道路(現国道12号線)に引き続き、明治24年中央道路(現国道39号線)の開削。
  オ 明治25年上常呂原野、湧別原野の測量、区画の実施し屯田兵設置予定地として決定。
(2)明治24年~明治29年にかけて、上川、空知地区に歩兵12個、特科3個中隊の屯田兵配置。
(3)明治28年、その勝利により日清戦争終戦終結。
(4)明治29年、第7師団創設、屯田司令部廃止。
(5)明治30年「北海道国有未開地処分法」が公布。
  (北海道土地払下規則を廃し,「無償貸し付け・成功後無償付与」の「北海道国有未開地処分法」が公布され,1人当たりの貸し付け面積の上限(一人に付き開墾の土地は150万坪、牧畜には250万坪、植樹には200万坪、会社や組合には2倍まで)が大幅に引き上げられた。屯田兵の入植後多数の団体が入植した。
(6)明治31年北海道全域に徴兵令が施行。
(7)明治32年旭川の鷹栖に第7師団設置を決定、明治33年~35年にかけて第7師団が旭川に移駐。第4大隊は北海道防衛における前方配置部隊としての位置づけ。
(8)明治34年北海道会法、北海道地方費法公布に伴うところの屯田兵給与地に対する課税問題が持ち上がり、明治35年北海道屯田倶楽部結成される。
(9)各地で米の生産が開始され一部商品価値化。
(10)明治36年屯田兵現役解除、第4大隊本部も解散。
(11)明治37年屯田兵条例廃止、1年後の明治38年、日露戦争に出征。

3 入植者の特色
(1)全国の28県からの入植で、同時期に入植した野付牛、端野兵村と同一地域。山形県が35戸と一番多く、次いで石川県が33戸、岐阜県17戸、富山県17戸、福井県が12戸と北陸・東北からの入植者が多い他は数名単位で入植。
(2)指導者としての士官達はそれまでの兵村で農事の経験を積み重ねており、適切な指導が出来た。

4 任務上の特色
(1)オホーツク正面の防衛と同地の開拓
(2)日露戦争
   一部を除き全員出征、戦死9名(内1名は傷病死)

5 発展過程上の特色
(1)明治24年の永山屯田兵の入植から6年、内陸部の開拓も軌道に乗り出した時期で、上常呂原野(北見盆地周辺)、湧別の開発は、時の北海道開発における最重要正面と認識されており、多くの人・物・金が当該正面に投入された。
(2)和田・太田の第4大隊長を経験した小泉少佐(初代)、上川の当麻で中隊長を経験した三輪少佐(第2代)が大隊長として勤務し、的確な営農指導の元に北見の風土にあう適作農業を推し進め、北見農業発展につながる礎を築いた。
(3)第2陣入植直後に遭遇した明治31年の大水害は甚大な被害をもたらし、無加川沿いの相内兵村にあっても大きな被害を受けた。
(4)適作作物の生産
  ア 入植当初は自活用の芋、豆類を栽培
  イ 気候風土に適した換金作物として薄荷の栽培
    野付牛(北見)で最初に薄荷の栽培を始めたのは明治34年で、端野兵村1区寒河江直助、野付牛兵村2区前田徳五郎、相内兵村3区家族伊藤長次郎である。気候・風土が栽培に適し、保管、輸送も容易なことから、一気に作付けが拡大し、大正時代にはその名を世界にとどろかせた。
  ウ 比較的安定した換金作物として豆類の栽培
    元々自活用に栽培していた豆類であったが、野付牛の市街地化による人口の流入、鉄道の開通(明治44年に池田~野付牛間、大正元年に野付牛~網走)により、道内各地、全国への輸送が可能となり、換金作物として定着。第一次世界大戦により、海外での需要が大きく高低した時期があったが、比較的安定した需要があり、地域の発展に大きく寄与した。
  エ 念願の稲作への転換
    稲作への転換が行われたのは大正末期からで、本格的栽培が行われ出したのは昭和に入ってからである。明治31年北光社の前田駒次が道庁の委嘱を受けて試作開始。全村で試作が行われ出したのは大正6~7年頃。本格的に栽培が行われるようになったのは昭和に入ってからである。そのきっかけとなったのは、この地の天候・気象に適用する新品種(北見赤毛、坊主6号、走坊主等)の出現である。
昭和10年には2,300町歩の作付けをした。ピークは昭和46年で2,892町歩である。
(5)灌漑溝の掘削
   明治34年~35年、第2代大隊長の三輪少佐により行われた灌漑溝の開削であったが、薄荷、豆類等換金作物の成功で、その後稲作に着手することはなかった。本格的な灌漑溝の掘削が行われたのは、稲作が有望であると認識されるようになった大正の終わり頃からで、相内では大正15年相内土功組合が認可され昭和2年に完工、約900町歩の水田が造成された。昭和36年~43年に再工事を行い現在に至っている。
(6)地域の発展へ
   明治36年の現役解除、明治38年日露戦争終結後、第2の新天地を求めて転出する者が多数に上った。さらに、その後の発展過程で、投機的要素の強い薄荷、豆類の栽培で財を得た者と、無くした者の差が生じ、5町歩の給与地を手放し小作人にならざる得ないものも発生した。
   相内に残った人、北見の市街地に流れた人、留辺蕊、網走、訓子府、仁頃等周辺地区に再入植した屯田兵及び家族の人達によって地域一帯が開発されて行った。これらは、北見に入植した3個兵村共通の歴史でもある。
(7)大正10年、野付牛村から独立し2級町村制施行。その後、昭和2年1級町村制を施行。(この年の戸数731戸、人口4、488人)
(8)昭和31年9月30月北見市に吸収合併。
      
   ★日露戦争で戦死した屯田兵7名の妻のうち6名が再婚した。
    それほどに、結婚適齢期の女性が少なかったといえる。
    この状況は他の兵村でも、あるいは一般入植団体でも同じと思われる。

6 相内屯田兵関係の著名人

Ⅱ 相内屯田兵の伝統を伝える。
○資料館等
  なし
○屯田兵関係の催し

○ゆかりの神社
 「相内神社」
 Photo_2  

 
○屯田兵が開いた学校
 「相内小学校」

 Photo_3

○今に残る屯田兵の踏み跡
 「開村の碑」(相内神社内)
 Photo_4

 「中央道路開削犠牲者慰霊碑」
 Photo_5  

 「練兵場跡」
 Photo_6  

○屯田兵子孫の会の紹介
 「相内屯田会」
  目 的:屯田兵の開拓の偉業に感謝し、地域の発展に協力するとともに会員相互の親睦を図る。

  発足の経緯:

  行っている活動:毎年10月最終日曜日に開拓記念碑際を行っている。
  
  会 員:平成10年現在相内で農業を行って者の数、屯田戸主直系子孫30人、分家子孫8人、戸主の兄弟子孫26人


3 コメント

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今月父が祖父母の故郷を訪ねて旅行した話を聞き、... (相の内屯田について)
2014-06-01 21:18:31
今月父が祖父母の故郷を訪ねて旅行した話を聞き、相の内屯田兵であった祖父のことを調べてこちらの頁にたどり着きました。
祖母と祖父は互いに屯田兵の家同士の結婚で、上湧別の屯田村と相の内の屯田村から出て白滝へ移住したと聞いています。
名簿では上湧別の祖母の家は確認出来たのですが、曽祖父吉助の名がないようでした。
このことが気になり底本をたどりたく思うのですが、お教え頂けるでしょうか?
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投稿者様 (屯田太郎)
2014-06-02 18:19:59
投稿者様
訪問有難うございます。
お尋ねの件ですが、こちらでは、これ以上のことは分かりません。
相内には屯田兵子孫会が活動をしています。
一番可能性が高いのは、そちらで確認されることかと思います。
しかし、過去の記録はあまり残っていないというのが現状ですので、あまり期待をなさらない方か宜しいかと思います。
子孫会とコンタクトを取るためには、相内支所に連絡を入れ、連絡先を教えてもらって下さい。
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わかりました。 (相の内屯田について)
2014-06-04 01:12:20
わかりました。
祖父は相内を出ましたが大伯父は相内に住んでいたようなので、子孫会の方が覚えていらっしゃる可能性にかけて聞いてみたいと思います。

お教え頂き、ありがとうございました。
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