屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ 大田兵村の今(平成23年)

2011-06-24 07:37:31 | 太田屯田兵村

<ルポ:現在の太田兵村(平成23年6月)>
 厚岸の町から標茶へ向かう道々14号線を5kmほど北上すると、S字カーブに差しかかり、その上り坂を越えると台地上に緑豊かな牧場が広がる。今は厚岸町の一部となっているがこの地に大田兵村があった。
 大田地区は屯田兵村時代の区割りが完璧に残り、その区割りの中に赤・青等に塗装した牛舎の屋根が目に付く。ところどころで放牧する牛の姿も眺めることができる。

 太田兵村は同じ3大隊の根室の和田兵村と共通する多くの条件を有している。
 入植した時期が近いこと、気象条件が近いこと、近世以来海上交通の要衝であり寛永年間には場所が開設されていたこと等である。
 春から秋にかけては海霧に覆われ農作物の生育が極めて悪く、両兵村とも血の滲むような開墾の苦労を味わったが、今は豊かな酪農地帯へと取って代わられている。
 今回訪問してみて、現在の和田と大田では少しだけ違いがあることを感じた。それは、和田は屯田兵子孫の方たちだけでその土地を守っているのに対し、大田は屯田兵子孫と戦後入植した開拓民の人達とともにこの土地を守っていることである。初めてこの地を訪ねたとき自治会長でもある屯田兵3世の方から「大田は屯田兵子孫会と言うものはなく、屯田兵だからと声高々に話すことはない」。といわれた。

 大田地区に住む屯田兵子孫の所帯はその家族の世帯数を含めると100軒近くを数えるという。その中で酪農を経営しているのは20軒近く。他は大田に居を構え酪農以外の仕事に就く人である。屯田兵子孫以外の酪農経営者も数名いる。そんな中、大田地区の自治会長に案内され特徴ある2軒の牧場を見学させてもらった。
 その一つは、ロボット搾乳機を導入し大規模に行っている牧場で、屯田兵4世の方が経営されていた。もう一軒の牧場は放牧飼育を行う小規模な牧場で、チーズ工房を持ち乳製品の製造・販売もおこなっていた。
 ロボット搾乳機を導入するということは、それに、見合った牛の飼育、牧草育成、土つくり等、それらを的確・効率的に行う必要がある。大規模経営を円滑に行えるのは基本をしっかり行っているからであると聞いた。
 乳製品の製造・販売を行っている牧場では、その販路は口コミであるといっていた。今流行のインターネット販売は行わず、電話とFAXだけのいたってレトロな方法で行っていると聞いた。

「市川牧場」
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「石沢牧場」
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  (チーズ工房)

 現在のスピードを重視する今の時代にそぐわないが、人と人の関係を大切にするアナログ人間。そんなところに、生き物を育てる酪農の仕事の原点があるのかも知れない。
 先に屯田兵3世の自治会長の「大田は屯田兵子孫会と言うものはなく、屯田兵だからと声高々に話すことはない」。の言葉を記したが、大田はしっかり屯田兵の伝統を継承している。2番通りには入植した当時のままの位置に屯田兵屋を保存し、入植当時植林した松や桑の木の保存に努め、各施設のあった場所には標柱を建て説明をしている。
 また、小学校ではふるさと教室と言う授業が、中学校では屯田ゼミナールという授業があり、屯田兵の歴史と伝統を伝えているといっていた。
 

 太陽が傾きかける頃に大田兵村を後にした。光線に反射する牧草が美しく、放牧されていた牛たちが牛舎付近に集まってきた。まさに牧歌的な風景である。
 牧場を経営すること、生き物を育てることであり、その苦労は大変であると思うが、この牧場の情景を眺めると損得では図れない何か暖かいものを感じた。

「牧場の風景」 

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大田兵村の紹介

2011-06-24 07:09:09 | 太田屯田兵村

< 工 事 中 >

「太田兵村」
入植年:明治23年
入植地:厚岸町太田地区

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「太田兵村入植配置図」「ohota1.pdf」をダウンロード

出身地:東北、北陸、中国を中心に9県
入植戸数:440戸

「北太田兵村入植者名簿」「kitaohota2.pdf」をダウンロード 

「南太田兵村入植者名簿」「minamiohota3.pdf」をダウンロード

第4大隊(1・2中隊:和田、3・4中隊太田)
 大隊長 初 代 和田正苗少佐:明治9年開拓使に出仕、西南戦争従軍、東京鎮台勤務の後、根室外9郡長拝命、明治23年から上川の大隊長
     第2代 小泉正保少佐:大隊長心得として就任、屯田兵副官として司令部転出、日清戦争で4大隊長に復帰、後に初代野付牛4大隊の大隊長
     第3代 栃内元吉少佐:永山武四郎本部長に同行し道内視察、後屯田司令部永山武四郎の腹心として活躍、和田では約5年間にわたって勤務し問題点を提起している。

移 動
 第1便
  便 船:石崎丸?
  航 路:坂井(福井)~新潟~酒田~厚岸
  入植日:6月26日
 

 第2便(宮城県入植の12戸)
  便 船:新潟丸(萩の浜~函館を結ぶ日本郵船の定期船)、
      駿河丸(寿都~函館~根室を結ぶ定期船)
  航 路:萩の浜(石巻)~函館~厚岸
  入植日:6月27日頃
 

 第3便
  便 船:和歌の浦丸
  航 路:神戸~岩国~坂井(福井県)函館~厚岸
  入植日:6月29日
  (以上、移動については釧路大学教授高島氏の論文を参照)

給与地 宅地兼給与地:約5,000坪
      1次追給地:5,000坪
      2次追求地:5,000坪

南大田兵村
第4大隊第3中隊~第1中隊
 中隊長:岩渕繁隆大尉
    (明治29年後備役まで務め、そのまま太田に残る。昭和5年82歳で他界) 

出身県別入植者数
 山形県  89
 新潟県  74
 石川県  57
    計 220名            

北大田兵村
 第4大隊第4中隊~2中隊
 中隊長:初 代:門田見陳秀大尉(明治26年12月休職)
      第2代:

出身県別入植者数
 山形県  11
 宮城県  12
 兵庫県  13
 石川県  48
 福井県  79
 山口県  37
 和歌山県 20
    計 220名

Ⅰ 太田兵村の特色
1 地理的特質
(1)厚岸湾から北方約5km上った根釧台地の南東端に位置する。根釧台地は阿寒山地から釧路、根室方向の太平洋岸に向かってのびており、台地内に無数河川が流れ、釧路川以外は小河川で台地を鋭く切り込んでいる。また、平地を流れる河川の周囲は湿地となっている。
(2)春から秋にかけては濃霧に包まれることが多く、気温(8月の最高平均気温20度)は上がらない。冬季積雪は少ないが気温は低い。
(3)太田の大地はアイヌの往来も寄せ付けない程の大森林で土壌はあまりよくなかった。
(4)厚岸湾内は穏やかな広大な内海である。また、牡蠣の養殖で有名な厚岸湖は厚岸湾に連接している。江戸末期、千島列島方面へ航海する場合の中継地として湊が栄え、漁業が盛んで厚岸場所があった。しかし、水深が浅く大型船の接岸が出来ず近代に入り港としては発展しなかった。
(5)標茶を起点に囚人が作った道路により釧路と結ばれており、以降、網走まで道路が開かれた。現在も釧網線が釧路~標茶~網走まで走っている。

「釧路集冶監本監(現標茶町郷土館)」

  

(6)大田村から標茶までは丘陵地が広がっており所々に牧場が存在する。この地一帯は大酪農地帯である。

2 時期的特色
(1)明治19年、明治15年の開拓使廃止から4年間続いた3県時代が終わり道庁時代に入る。同年、北海道土地払下規則公布。
(2)明治20年~21年にかけて屯田本部長である永山武四郎が米、露、清を視察その中でコサックの屯田兵制を研究。
(3)明治20年、永山武四郎本部長の下で、屯田兵制度の大々的な見直しと20個中隊増強計画を立ち上げる。
(4)明治21年標茶の集冶監の囚人達によって標茶~厚岸間40km及び標茶~釧路間の道路開削。明治22年~23年にかけて和田兵村の建設に当たる。
(5)明治19年~明治22年にかけて根室和田兵村入植。太田屯田兵とで4大隊を編成。
(6)明治23年、屯田兵条例(服役期間現役3年、予備役4年、後備役13年の20年となる)、屯田兵土地給与規則(給与地は1万5千坪となる)、その他関連規則の改正が行われる。
(7)太田屯田兵は滝川とともに最後の士族屯田兵。
(8)日清戦争を4年後に控え朝鮮半島では緊張が高まる。
(9)予備役として日清戦争に出征3月四日充員招集受け。和田屯田兵とともに3月23日厚岸港を出航。5月30日帰村。
(10)明治30年後備役に入る。

3 入植者の特色
(1)3中隊(南兵村)は山形、新潟、石川の3県、4中隊(北兵村)は東方、北陸、近畿、中国にまたがり7県からの入植。
(2)南・北の兵村で入植者に特徴があり、南兵村では藩まとまって、北兵村では多くの藩が少人数で入植している。南兵村には米沢藩、高田藩、村上藩、大聖寺藩、新庄藩(新庄藩は南北兵村に分けて)が入植。
(3)南兵村3中隊には米沢藩上杉家の重鎮である本庄家、柿崎家が入植。

4 任務上の特色
(1)重要港(厚岸港)の防衛と千島からの脅威への備え
(2)日露戦争出征
   大田村から184名出征、戦死37名(内17名は戸主)

5 発展過程上の特色
(1) 太田への屯田兵入植は地域の住民の嘆願があって実現された。
   
   「厚岸方面へ屯田兵御配置相成度儀ニ付願」(明治18年4月2日)
                 宛 県令 湯地定基

(2)夏の海霧と低温で作物が育たず。開墾は困難を極める。
   開墾状況:10年経過した開墾状況29%、最も良いのが永山兵村で94%

   (一戸当たりの平均年収)
     新琴似:188円
     永 山:185円
     太 田: 63円(新琴似、永山の1/3)
     和 田: 56円

(3)自給自足が困難なことから、現金収入の獲得のため積極的に出稼ぎに出る。6月から8月にかけての鰊業には厚岸の漁場(厚岸、奔渡、真龍、苫多、仙鳳趾等)に、その他、集治監の監視人、亜麻の職工等へ転職するもの多数。
(4)入植者の大部分が離村し村は荒廃
   明治31年(入植8年後、後備役に)時点で半数近くが離村。日露戦争はさらに拍車をかけ、給与地は荒廃し、第2給与地は顧みられることはなく、作付けされている耕地は兵屋の周りの3~4反という有様で馬鈴薯、麦、蕎麦、稲黍、燕麦等自家用の食料を補う程度になってしまう。給与地を没収された者29戸(南兵村5名、北兵村24名)なお、和田兵村64戸、輪西20戸と農耕に適さぬ地に配置させられた兵村で没収多数。
(5)その後、残った者と新に入植した人達の手によって馬産~酪農に活路を見いだす。
(6)農耕の状況
  ア 畑作
    粟、燕麦、豆類等17種類の作付けをするも、地域の気象等条件に応ずるか否か不明で多くは失敗に終わる。
  イ 養蚕
    明治26頃、自生していた桑をえさに養蚕を始め、明治政府の奨励もあり年々盛んとなり一時期1200本以上を植え付ける農家20戸を数えたが、森林の伐採などで海霧の発生のため成育不良となり衰退して行った。5番通に残る桑並木は養蚕を試みた名残。
  ウ 稲作
    試みはあったが、不成功。 
  エ 酪農
   「馬産地としての太田」
    明治23年入植とともに、軍馬、農耕馬として根室から30頭の馬を導入。その後、新冠の御料牧場、明治35年には真駒内の種畜場から種牡馬を買い入れるなど馬の改良と繁殖を行う。大正2年には道東の重要な馬産地として釧路の大楽毛とともにその名をはせる。
   「肉牛から乳牛へ」
    明治24年、青森県から6頭の牡牛を購入し繁殖を図る。当時苦しい農業の傍らに肉牛を飼育。大正8年北海道乳製品株式会社が5番通りに進出し集乳事業を開始するも販売不振。昭和10年代に入り乳価の高騰により肉牛から乳牛への転換が図られる。これが、現在の太田の酪農につながっている。
(7)太田村の合併
   1955年(昭和30年)大田村は分村し厚岸町と標茶町と合併

6 太田屯田兵関係の著名人
  太田紋助:弘化3年(1846年)厚岸場所の請負人山田文衛門の番人であった南部出身の中西紋太郎とアイヌ女性の子として生まれる。8歳の時から国泰寺で下働をし、当時の住職から読み、書き、そろばんと農業のことについて学ぶ。明治2年、佐賀藩が厚岸郡を支配した祭、開墾係りとなりアイヌの人達を誘導しこの地方の開墾に尽力。熱心さを買われ開拓使になってからも牧畜取扱係に任ぜられる。屯田兵設置に関しての働き他数々の功績を認められ兵村に太田の名がつけられる。
        
  
  庄田萬里:高田藩出身の庄田直道の3男。戸主稲美とともに太田に入村。後に、札幌農学校を卒業し湧別兵村の看護卒として勤務。住民の湧別に医師をとの希望をかなえるため、東京慈恵医学校に学び、明治37年医術開業試験に合格。大阪の病院で臨床実習を努め湧別に帰り生涯この地で医療に尽くす。

Ⅱ 太田兵村の伝統を伝える

  (太田兵村の史跡等配置図)

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○資料館等
「太田屯田開拓記念館」
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○屯田兵関係の催し

○ゆかりの神社
「豊受神社」

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○屯田兵ゆかりの学校
「太田小学校」

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○太田兵村の文化財等

「開村の碑」

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「屯田兵屋(道指定)」

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  兵屋番号119番松本英男氏宅に復元「裏返し型」により立てられている。

「太田屯田の赤松(町指定)」

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  第3中隊長の岩渕大尉が寒さ厳しいこの地方で開墾を行う屯田兵や華族の人達の心
  を少しでも慰めようと郷里の青森から苗を取り寄せ植え付ける。

「太田屯田の桑並木(町指定)」

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「西野家行のう帳(町指定)」

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「太田紋助の墓」  

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「中隊本部の碑」

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本庄家古文書:
 本庄家は米沢藩(上杉家)の重鎮で、本庄孝長が太田屯田兵として入植、南北朝期から戦国期の多数の文書を持参(道庁赤レンガ文書館に本庄家文書として多数保管)

西野家行長嚢帳(厚岸町有形文化財):
 西野嘉太郎の屯田兵志願から郷里の新庄を旅立ち、太田への移住、屯田兵としての生活などを絵日記風に綴ったもので、嘉太郎の弟、要三郎が往時を追想して記したもので、太田屯田開拓記念館において所蔵。

○屯田兵子孫の会の紹介
 なし。
 屯田兵子孫と大田村に移り住んだ人たちにより伝統の継承活動を行っている。