屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

篠路兵村の紹介

2011-12-13 09:30:00 | 篠路屯田兵村

工 事 中

「篠路兵村」
入植年:明治22年
入植地:札幌市北区屯田
Photo   

   篠路兵村入植配置図(PDF)「sinoro1.pdf」をダウンロード 

出身地:南西部の各県を中心に7県
入植戸数:220戸
   篠路兵村入植者名簿(PDF)「sinoro2.pdf」をダウンロード

第1大隊
  大隊長
   第1代:本田親秀少佐(明治18年5月21日~明治25年2月)
  第2代:野崎貞次少佐(明治25年2月~明治29年1月)

第1大隊第4中隊
 中隊長
  初 代:渥味直茂大尉(山鼻屯田兵出身)
  第2代:平賀正三郎大尉
     (後の第3大隊(剣淵)の大隊長、日露戦争旅順攻撃において戦死)

入植
 便 船:相模丸(日露戦争時旅順港封鎖のため沈められる)
 航 路:徳島~和歌の浦~山口~博多~熊本~三国~小樽
     手宮から無蓋列車で琴似駅に停車。そこから徒歩で篠路兵村へ移動
 入植日:7月15日
 

給与地:当初給与地5,000坪(166間×30間)
    第1次追給地:5,000坪、第2次追給地:5,000坪
    第2次追給地の場所が兵村区域外石狩川を跨いだ当別地区であったため耕作することが叶わず。

篠路兵村出身県別入植者数
 福井県  20
 石川県  32
 和歌山県 37
 山口県  44
 福岡県  12
 熊本県  46
 徳島県  29
  計  220戸(家族を含め1056名)

Ⅰ 篠路兵村の特色
 
1 地理的特色
(1)道都札幌を有する石狩平野は、石狩川とその支流である豊平川、千歳川、夕張川等多くの河川により育まれた広大な平地で、蝦夷地と呼ばれていた時代から多くの人たちが住み着いていた。
(2)札幌は石狩川の支流である豊平川により作られた扇状地で、南は高燥、道庁・植物園付近から伏流水が流れ、北に至るに従い湿潤な泥炭質の土質・地形を形成。
(3)篠路は北海道の母なる川石狩川に創成川、発寒川、旧琴似川、伏古川、篠路川等が注ぎ込む場所に位置し、各河川を利用する水運が開け物流の中継地としての役割を果たしていた。
(4)篠路は札幌扇状地の底部に位置する平均海抜2~5mの低地で、春の雪解け時、秋の長雨時には常に水害の脅威にさらされる場所であった。また、地味は肥えているものの泥炭質の土地も多くあった。
(5)気候は他の札幌の兵村同様夏季は割合温暖であるが、冬季は石狩湾に近いため季節風の影響を受け、局地的な大雪に見舞われることもある。

2 時期的特色
(1)明治15年開拓使の廃止後4年間続いた3県1局時代が終わり、明治19年から北海道庁時代に入いる。これは、時の司法大輔であった岩村通俊(札幌本府設置時の初代判官)が北海道開拓の重要性を政府に説き、北海道庁設置を働き掛けたことによるものであるが、岩倉通俊が初代北海道長官に任命される。
(2)3県1局時代の開拓の成果が芳しくないことから、開拓の進捗を図るために土地の大規模所有を認める「北海道土地払下規則」が明治19年に公布され団体移民が本格化した。
(3)明治20年~21年にかけて、時の屯田本部長であった永山武四郎が米、露、清を視察。その中でコサックの屯田兵制を研究。
(4)2代目北海道長官に就任した永山武四郎(屯田本部長兼務)の下で、屯田兵制度の大々的な見直しと20個中隊増強計画が立ち上がる。
(5)明治15年屯田兵の所掌が陸軍省となり、明治18年「屯田憲兵例則(明治7年に制定)」に代わるものとして「屯田兵条例」が制定された。その後、明治23年屯田兵条例の改正(服役期間現役3年、予備役4年、後備役13年の20年となる。)、同年屯田兵土地給与規則(給与地は1万5千坪となる。)、その他、関連規則の改正がおこなわれ、屯田兵制度が確立された。
(6)この時期の屯田兵入植(除く篠路)
○重要港の防衛のため明治19年~明治22年にかけて和田(根室)、明治20年、22年にかけて輪西(室蘭)、明治23年太田(厚岸)に屯田兵が入植。太平洋側の重要港の防衛体制が確立した。
○明治20~21年にかけて新琴似(札幌)、明治22、23年にかけて滝川に屯田兵が入植。篠路兵村の配置を含め道都札幌の防衛・警備態勢が確立するとともに、石狩川流域開拓の足がかりが築かれた。

(7)明治22年に上川道路(札幌~旭川)が、明治24年に中央道路(旭川~網走)が建設される等内陸部の開発が本格化し出した。また、石狩川には蒸気機関の外輪船が航行し物流の大動脈としての機能を果たしていた。
(8)明治24年から屯田兵の応募資格に「士族であること」の条件が無くなり、以降平民屯田の時代に入る。また、20個中隊増強計画の元に毎年500戸づつの入植が行われ、上川(永山、東旭川、当麻)、北空知(一已、納内、秩父別)、空知(江部乙、美唄、茶志内、高志内)へ屯田兵が入植。石狩川沿いの開発が急速に行われた。
(9)道都札幌及び周辺では開拓使時代に開かれた官営工場が民間に払い下げられ、また、新な産業が根付き、移民者の数も増大。明治21年には、道庁赤レンガ庁舎も落成し、札幌は近代的な町へと変貌をとげつつあった。

3 入植者の特色
  北陸53戸、近畿・四国66戸、山口県44戸、九州58戸、4個地域から概ね同戸数が入植している。同時期に入植した隣接する新琴似屯田兵が西南諸藩中心、明治8、9年に入植した琴似、山鼻屯田兵が東北諸藩主体であるのとは異にする。

4 任務上の特色
(1)道都札幌の防衛及び治安の維持。
(2)後備役で日露戦争に出征 戦死者11名。

5 発展過程上の特色
(1)篠路屯田兵入植以前に状況
○篠路開拓の歴史は意外と古く。幕末の安政5年(1858年)、万延元年(1860年)にかけて幕史などが入植し一村を構えていた。また、慶応2年(1866年)篠路の南側に隣接する札幌村(現在の東区元町付近)に大友亀太郎(二宮尊徳の弟子、創成川掘削の祖)以下が入植し開拓を進めていた。
○明治の時代に入り、明治4年南部藩の士族、明治14年に福岡藩の士族が篠路に入植。

(2)水との戦い
○明治20年、石狩低地の排水のために行われた琴似川を直接石狩湾に導く「新川」の開削に始まり、明治23年、新琴似兵村で「安春川」の開削が行われ、当該地区の耕作地は増大したが、さらに低地の篠路屯田兵村では長きにわたり水との戦いが続いた。

★篠路屯田兵、現役3年間の訓練の多くは排水路掘削工事に当てられたとの記録がある。同じ様な例は剣淵屯田兵の歴史の中にもあるが、排水溝を掘削し湿地帯の土地改良を行わなければ作物の収穫を見ることが出来ず、札幌地区に入植した4個兵村の中にあって一番開拓の苦労を味わった兵村である。

○明治31年、明治35年、明治37年には大きな水害に見舞われた。中でも明治31年の水害の被害は甚大で篠津兵村の2/3が水没した。水害の心配がほぼ無くなったのは、昭和6年、約15年の歳月をかけ、石狩川の流れを真っ直ぐにする生振新水路が完成してからである。

★火との戦い
 入植3年後の明治25年5月5日、区内数カ所から白煙が上がるかと思いきや、わずか数時間後には煙が現在の北区全域に及んだ。泥炭質のこの地では、火が地中を伝わり、いたる処から火が噴き出したという。この火災で屯田兵屋にあっては10戸が全焼した。現役中であったので兵屋は新しく立て替えられた。

(3)農業の推移
○明治8年の琴似屯田兵に始まり、明治22年までに、山鼻、江別・野幌、新琴似等札幌を取り囲むように屯田兵の入植が行われたが、これら屯田兵の間では、開拓使等の指導により桑、大麻、亜麻、穀物、果樹等の試験的な栽培が行われていたものの、寒冷地北海道としての農業は根付いていない状態であった。
○明治24年頃から明治30年頃まで篠路大根の銘柄が道内で風靡した時代があった。収穫された大量の大根は石狩沿岸まで石狩川の水路を利用し、そこから、道内の各漁場へと運ばれた。しかし、明治31年の大水害、翌年の病虫害により全滅し、新琴似大根に取って代えられた。
○日露戦争の終わった明治38年、苗穂に陸軍省の糧秣場が建設され、牧草の育成、燕麦の栽培が奨励された。当然篠路兵村においてもその栽培に飛びついたが、篠路産のものは新琴似や野幌兵村産のものから品質が劣りし苦渋をなめた。
○篠路は輓馬の王者ペルシュロン種の一級馬産地として石狩ペル、篠路ペルとも呼ばれ、十勝ともに篠路の名前をはせた。大正7年頃には全道の種馬共進会で最高位賞(農林大臣賞)を授賞する等篠路兵村の産馬が上位を独占する時代があった。

★盛んに行われた草競馬
 農耕馬の生産が開始された明治24年、明26年には兵村の青年達によって競馬会を組織し屯田新道にコースを設け競走を行っていた。その後、明治29年篠路兵村が後備役に編入され中隊本部も引き揚げられたことから、練兵場内に一周800メートルのコースを造成。開拓記念日の7月15日には草競馬を盛んに行われていた。これは、軽種馬(競馬馬)の育成に拍車をかけ、後に数々の名馬を生み出し、篠路兵村で育てられた競走馬が東京競馬で活躍する等の成果を得た。
  
(4)度重なる水害と兵役満了により兵村を去る者が多く、明治38年代には残留者が72戸となってしまった。その後も減少を続け、大正5年には47戸、入植50年後の昭和13年にはわずか25戸、分家を含めても39戸となってしまった。
(5)稲作への転換
 度重なる水害から稲作により兵村を立て直そうと有志が立ち上がり、明治42年に土功組合を設立。明治43年公有財産を処分した資金により潅漑溝を建設。大正5年には680町歩の水田を作り上げた。屯田3番通り沿いにこの偉業を讃える「水田開発記念碑」が建つ。

(6)明治28年予備役として日清戦争に出征。明治29年後備役に。
(7)明治37年屯田兵制度廃止。明治38年後備役として日露戦争出征。
(8)明治39年篠路村から分離し琴似村に編入。昭和17年琴似町に。昭和30年琴似町は札幌市吸収され札幌市屯田町となり、昭和47年札幌市が区制を施行したことから北区屯田となる。
(9)昭和44年に道住宅公団の屯田団地が造成され、現在の屯田地区は、整然と区画化された個人住宅がならぶベットタウンになっている。

★屯田の地名がつく町
 篠路兵村の札幌市北区屯田以外に、北見市とんでん西町、とんでん東町、滝川市屯田町西がある。
 なぜ、篠路兵村が屯田となったか、それは、明治39年、篠路兵村が篠路村から分離し琴似村に編入した時に、同じ篠路と付く地名が篠路村と琴似村にあるのは紛らわしいと言うことから「屯田」と言う地名が付いた。
 
6 篠路兵村関係の著名人

Ⅱ 篠路屯田兵の伝統を伝える。
(篠路兵村ゆかりの地)

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○資料館等
「屯田地区センター郷土資料館」

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「資料館内にある屯田兵屋」

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「屯田兵屋の内部」
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○屯田兵関係の催し

○屯田兵ゆかりの神社
「江南神社」

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○屯田兵がつくった学校
「札幌市立屯田小学校」

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○今に残る屯田兵の踏み跡
「屯田兵顕彰の像」
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「屯田兵第一大隊第四中隊本部跡」
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「開拓の碑」
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「水田開発記念碑」
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「新琴似兵村との堺にある風防林」
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○屯田兵子孫の会の紹介


山鼻兵村の紹介

2011-12-12 06:39:06 | 山鼻屯田兵村

工 事 中

「山鼻兵村」
入植年:明治9年
入植地:札幌市中央区南6条~南23条 西7丁目~14丁目

Photo    

  山鼻兵村入植配置図(PDA)「yamahana1.pdf」をダウンロード

出身地:宮城県など東北6県
入植戸数:240戸

   山鼻兵村入植者名簿(PDA)「yamahana2.pdf」をダウンロード

第1大隊
 大隊長
    初 代:永山武四郎(西南戦争の大隊長)
  第1代:本田親秀少佐(明治18年5月21日~明治25年2月)
  第2代:野崎貞次少佐(明治25年2月~明治29年1月)
   
移動
 便船:通済丸?
 小樽から徒歩で移動
 入植日:5月29日

給与地
 入植時150坪の宅地と地続きの15,00坪及び兵村の近傍に3,500坪の耕地を配当。その後、明治11年の土地給与規則の制定により5,000坪を、さらには、明治23年の規則の改定で5,000坪が追給され、合計15,000坪の土地か給与された。しかし、追給地は兵村から離隔し甚だ不便を極めた。

第1大隊第2中隊
 中隊長
  初 代:家村住義大尉 (   ~   )
  第2代:安田 安中尉 (   ~   )西南戦争の論功に不満を持ち開拓使を去る。
  第3代:篠崎彦二大尉?

山鼻兵村出身県別入植者数
 青森県  52
 岩手県   2
 宮城県 103
 秋田県  21
 山形県   9
 福島県  53
   計 240

Ⅰ 山鼻兵村の特色
  山鼻は、その昔アイヌの居住地で「ユクニクリ」鹿の多くいるところと呼ばれていた。
  山鼻と言う地名は、和人がつけた地名で、藻岩山が迫り出してきた山麓に位置していることから、山の端、山の鼻ということで「山鼻」と呼ばれるようになった。

1 地理的特色
(1)道都札幌を有する石狩平野は石狩川とその支流である豊平川、千歳川、夕張川等多くの河川により育まれた広大な平野で、これらの河川を利用する交通の要衝でもあり、蝦夷地と呼ばれていた時代から多くの人たちが住み着いていた。
(2)札幌は石狩川の支流である豊平川により作られた扇状地で、南は高燥、道庁・植物園のある付近から伏流水が流れ、北に至るに従い湿潤な泥炭質の地形・土質を形成。
(3)山鼻は、札幌の中心の西南に位置し、定山渓の山々から発した豊平川が札幌の中心へ注ぐ場所で、札幌を象徴する藻岩山の山裾にあり、入植した当時は人跡未踏の鬱蒼とした樹林地帯。山鼻からさらに南下し豊平川を渡ると明治9年にエドウィン・ダンによって築かれる牧牛場があった。
(4)土地は砂礫質で水はけが良く作物の栽培に適した地であった。

2 時期的特色
(1)屯田兵入植以前の状況
○明治2年に函館戦争の終結をもって戊辰の戦乱は終わり、北海道開拓使が設置される。蝦夷地を北海道、北蝦夷地を樺太と改称し北海道という地名が出来あがった。
○新政府はロシアの北方からの脅威に対処するには北海道の開発が急務であると認識し、明治2年、北海道を諸藩に分与するとともに「移民扶助規則」を制定し移民を奨励。

(2)北方の脅威認識と屯田兵制度の発足
○樺太、千島列島には国境線が画定されておらず雑居の地であったが、明治2年樺太の函泊襲撃等北方におけるロシアの脅威が増大。
○明治3年、開拓使は函館港に「函館隊」(1コ中隊)を配置。同年から伊達支藩の亘理、白石、岩出山。会津藩、淡路の稲田家主従等多数が北海道に入植。
○明治6年、黒田清隆は屯田兵制施行について建議。翌明治7年「屯田憲兵例則」制定。
○明治8年、最初の屯田兵として琴似に208戸が入植。

(3)北海道の開拓状況
○明治4年、函館より移し札幌に開拓使本庁を設置。
○明治4年、開拓使顧問としてケプロンが来日。その他、米国を中心に多くの技術者が来日した。その中に草本培養方のルイス・べーマーが明治4年に、農業方としてエドウィン・ダンが明治6年(両者が札幌に来たのは明治9年)に来日した。
○明治9年、札幌農学校が開校し西洋式の近代的農業を指導。
○明治4年、開拓使により札幌空知通り(現北6条、偕楽園に隣接)に御手作畑を設置。明治6年偕楽園試験場と改称。明治8年、開拓使本庁の西側に新たに試験地を増設。明治9年、札幌村に水田を、真駒内に牧牛場を、山鼻村に綿羊場を、札幌村に養豚場を開設。札幌農学校の開校と併せ開拓使による農事指導の体制が整った。
○明治5年、銭函~札幌間に6間道路が開通し札幌までの陸上輸送路が確立された。その他に、明治4年本願寺道路(現国道230号線)が、明治6年札幌新道(現国道36号線)が開通。明治13年には札幌~手宮間に鉄道が開通した。
○本願寺道路(現国道230号線)の開削に相前後し、新潟県から本願寺宗徒ら40戸が山鼻地区に入植。
(4)明治8年、樺太千島交換条約の締結により対露国との国境が確定。樺太の全てが露国の領土に、千島列島は全て日本の領土となった。
(5)明治6年征韓論がやぶれ西郷隆盛ら下野。明治7年佐賀の乱、明治10年に西南戦争勃発。
(6)明治15年開拓使が廃止となり、三県一局時代を経由し明治19年から北海道庁時代に入る。

3 入植者の特色
 東北諸藩の士族を中心に編成された屯田兵で、伊達藩、会津藩、庄内藩等戊辰戦争で朝敵の汚名を着せられ屈辱を味わったそれぞれ藩と、早期に奥羽越列藩同盟を脱し新政府軍側についた津軽藩、秋田藩の入植者も混じる。これは、琴似兵村の入植者との違いである。

4 任務上の特色
(1)道都札幌の防衛と治安維持、あわせて北方地域の脅威に対処。
(2)当初、兵役の期間の取り決めはなく、兵役は相続するとなっていた。
(3)西南戦争に出征。戦死1名、戦病死14名
(4)明治12年開拓使札幌本庁舎の火災時に消防・治安の維持のため出動。また、明治14年明治天皇の札幌行幸時の警護を行う。
(5)日清戦争には兵役を相続した2代目の屯田兵が出征。東京待機で終戦。

5 発展過程上の特色
(1)入植した前年に琴似屯田兵が入植しており、彼らの経験を手本とすることが出来た。その中で、兵村の配置は、琴似兵村で行った密集型の不便性から分散型に取って代わられた。琴似兵村で行われた共同作業による開墾は、山鼻屯田兵においても当初の段階でとられた。
(2)明治7年に屯田憲兵例則は制定されたものの、具体的な制度が整わない中での入植であり、兵としての訓練、開拓、開墾、作物の栽培等、先ずは実行し、その結果をもって軌道修正するという様な試行錯誤を繰り返しながらの開墾であった。それは、琴似兵村同様、寒地北海道の農業を研究する試験農場としての役割を担うものであった。
(3)入植した年の翌明治10年に西南戦争が勃発し、別働第2旅団第1大隊として琴似屯田兵ともに出陣。戊辰戦争の仇敵を討ち怨念を晴らす。この戦争において戦死1名、戦病死14名を出す。(病没者の多くはこの時期流行ったコレラによる。)慰霊する招魂碑が札幌護国神社(中島公園内)にある。この戦争への出陣は開拓に大きな影響を及ぼし、通常3年で切れる扶助期間を、1年延長し4年とする処置が取られた。

(4)営農に関して
○山鼻は大消費地札幌の近郊という立地条件に恵まれ農作物の生産基地として重要な役割を担った。それは、後の僻地に入植する多くの兵村と比較し非常に有利であった。
○まず重視されたのは養蚕で、3年間の扶助期間を終えた後に屯田兵の生計を維持するため最適の農作物として捉えられ、桑の栽培、養蚕技術の指導が組織だって行われた。篠津太に養蚕場を設置し琴似・山鼻屯田兵家族を派遣、維持運営に当たらせたのはそんな計画の一環であった。
○その他、穀物、野菜、大麻、亜麻等、琴似兵村同様に栽培を行うとともに、畜産にも力を注ぎ農業博覧会で数多く入賞するなどの好成績を上げた。
○隣接する真駒内には開拓使時代の牧牛場から発した種畜場が設けられていており、それらの指導を受け、馬匹の飼育を共同経営で行い農耕馬を育て道内の農家に提供をするようになった。また、中島公園に競馬場が開設され、盛んに競馬が行われており、その名馬、騎手の殆どは山鼻兵村出身だったという。

(5)山鼻屯田兵が設置された当時、兵役の義務は子孫まで相続するとされていたが、明治24年の屯田兵条例の改正により任期が決定し、明治24年から予備役に、明治28年後備役に編入。

(6)山鼻兵村のその後
○北都札幌は道庁のある中心地から大通り付近までを官公庁、その南側に商業施設、さらに南側には飲食・遊興施設(薄野、中島公園)を計画的に作り大都市の景観を呈した。山鼻地区はその直近南側に位置し、大正7年「開道50年記念博覧会」が中島公園で行われたのを契機として、住宅地、文教の地として発展していった。
○宅地化により土地を手放す者が多くなり、屯田兵の2代目、3代目の人達の中で官史、教師、警察官、銀行員など農業と関わりのない仕事につくものが多く出るようになった。
○現在の山鼻は住宅地、文教の地(札幌南高校、札幌工業高校、静修高校、北星女子高校、教育大学(昭和62年あいの里に移転)等多数の学校が所在)として存在するものの、札幌市のドーナツ現象化により成熟期に入っている。

(7)明治39年山鼻村と円山村が合併し札幌郡藻岩村に、明治43年山鼻村は札幌区に編入。昭和47年札幌市が政令都市となり区制が施行され札幌市中央区の一部となる。

6 山鼻兵村関係の著名人
(1)山鼻屯田兵出身の中隊長
   渥味直茂 篠路兵村の初代中隊長
   福井重吉 当麻兵村、剣淵兵村の中隊長  
(2)将校になって他兵村を指導した人
   鈴木元五郎、鈴木元治、笹沼寅五郎、守谷民冶
   
Ⅱ 山鼻兵村の伝統を伝える
○資料館等
「山鼻記念館」
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 財団法人山鼻記念保存資産が所有する施設で、鉄筋3階建てのメルヘンチックな建物で一階がケーキ屋となっている。

○屯田兵関係の催し
 入植日である5月29日に、山鼻公園の「山鼻兵村開設碑」前で記念祭を開催。

○屯田兵ゆかりの神社
「札幌護国神社」

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○屯田兵ゆかりの学校
「山鼻小学校」

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○今に残る屯田兵の踏み跡
「屯田兵の像」

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「山鼻兵村開設碑」 
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 明治27年9月 兵村開設20周年を記念し建設
「旭可丘の碑」
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 屯田兵第1大隊の弾薬庫があった場所

「射的場跡付近の地」

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「明治天皇巡行の碑」
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 明治14年、明治天皇行幸を記念し建立。山鼻小学校の脇にある。

「屯田兵招魂碑」
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 札幌護国神にあり西南戦争で戦・病死した屯田兵の霊を慰める。

○屯田兵子孫の会の紹介
 財団法人山鼻記念碑保存資産(大正元年9月27日)設立、山鼻記念館の建設基本財産収益、その他の諸収入で碑の保存維持と祭典の経費に充当
 昭和56年6月27日、開村記念祝賀会と明治天皇行幸百年を記念し道知事以下を招待し祝賀会を開催
 平成8年1996「屯田兵入植して120年」記念誌発行
 地区に住む屯田兵子孫は44戸(平成23年現在)