屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

琴似兵村の紹介

2011-11-17 06:30:37 | 琴似屯田兵村

工 事 中

「琴似兵村」
入植年:明治8、9年
入植地:札幌市西区琴似、発寒

   Photo

   琴似兵村入植配置図(PDF) 「kotonyi11.pdf」をダウンロード

出身地:宮城県など12道府県
入植戸数:240戸
   琴似兵村入植者名簿(PDF)「kotonyi2.pdf」をダウンロード

第1大隊
 大隊長:初 代:永山武四郎(西南戦争の大隊長)
     第1代:本田親秀少佐(明治18年5月21日~明治25年2月)
     第2代:野崎貞次少佐(明治25年2月~明治29年1月)
  
明治8年の入植
 便船:青森(斗南、庄内)廻り通済丸
    塩釜廻り(亘理)太平丸?
 移動:小樽港に入港し徒歩で移動
 入植日:5月27日

明治9年の入植
 便船:金沢丸?
 移動:小樽から徒歩で移動
 入植日:

給与地
 前提:入植時は土地給与の基準がなく、規則の制定にあわせ給与地が増加した。また、琴似屯田兵の場合、当初の作付けは屯田事務局の統制下に行われた。)
 最初に与えられたのは兵屋付の宅地150坪で、同時に500坪を給与して共同開拓し桑園とした。次いで2,000坪を、それを完了した者に3,000坪給与するという風に順次給与し明治13年までに10,000坪となった。その後、明治23年の土地給与規則改正により15,000坪に拡大した。
 給与された土地の場所は広地域に及び耕作は甚だ不便であった。

1大隊1中隊
 中隊長
  第1代:門松経文大尉 (    ~    )西南戦争で病死
  第2代:税所篤彦中尉 (    ~    )後の奈良県知事で、十津川移民に尽力
  第3代:荒城重雄大尉 (    ~    )
  第4代:寺田貞一中尉 (         )
  第5代:岡三郎大尉  ( ~明治24年4月)
  第6代:林 昌介大尉 (明治24年4月~ )元室蘭屯田兵中隊長
  第7代:粟飯原 大尉?(明治25年5月~ )
  第8代:永井実英中尉?(明治26年  ~ )

琴似兵村出身県別入植者数
 青森県    8
 岩手県    4
 宮城県  100
 秋田県    2
 山形県    9
 福島県   57(青森県の斗南に移住した元会津藩士)
 東京都    3
 新潟県    2
 富山県    1
 石川県    2
 長野県    1
 北海道   19
   計   208名

発寒兵村出身県別入植者数
 岩手県   19
 宮城県   13
   計    32名

Ⅰ 琴似兵村の特色
  琴似の地名の由来は、アイヌ語の「コッ・ネ・イ」(窪地になっている所)である。
1 地理的特色
(1)道都札幌を有する石狩平野は石狩川とその支流である豊平川、千歳川、夕張川等多くの河川により育まれた広大な平地で、これらの河川を利用する交通の要衝でもあり、蝦夷地と呼ばれていた時代から多くの人たちが住み着いていた。
(2)札幌は石狩川の支流である豊平川により作られた扇状地で、南は高燥、道庁・植物園付近から伏流水が流れ、北に至るに従い湿潤な泥炭質の土質・地形を形成。
(3)琴似は、札幌の中心の西北に位置し、手稲山域から流れる発寒川の流域で農耕に適した良地。また、明治初期の玄関口小樽港から札幌へ向かう道路の中間点に位置し交通の便は良好。
(4)気象条件は厳寒の地北海道にあって、夏場は割合温暖でカラッとした天候。

2 時期的特色
(1)屯田兵入植以前の状況
 ○1854年の函館開港後、明治維新まで続く幕府による蝦夷地直轄時代、琴似周辺の発寒、篠路等に士族の集団が入植し開墾をはじめる。
 ○明治2年に函館戦争の終結をもって戊辰の戦乱は終わり、北海道開拓使が設置される。蝦夷地を北海道、北蝦夷地を樺太と改称し北海道という地名が出来あがった。
 ○新政府はロシアの北方からの脅威に対処するには北海道の開発が急務であると認識し、明治2年、北海道を諸藩に分与するとともに「移民扶助規則」を制定し移民を奨励。これに基づき、琴似、発寒に本願寺宗徒(宗徒ではないとの説あり)など多数が入植。(琴似二十四軒、十二軒、八軒の地名はその時につけられた地名。)
(2)北方の脅威認識と屯田兵制度の発足
 ○樺太、千島列島には国境線が画定されておらず雑居の地であったが、明治2年樺太の函泊襲撃等北方におけるロシアの脅威が増大。
 ○明治3年、開拓使は函館港に「函衛隊」(1コ中隊)を配置。同年から伊達支藩の亘理、白石、岩出山。会津藩、淡路の稲田家主従等多数が北海道に入植。
 ○明治6年、黒田清隆は屯田兵制施行について建議。翌明治7年「屯田憲兵例則」制定。
(3)北海道の開拓状況
 ○明治4年、函館より移し札幌に開拓使本庁を設置。
 ○明治4年、開拓使顧問としてケプロンが来日。その他、米国を中心に多くの技術者が来日した。その中に草本培養方のルイス・べーマーが明治4年に、農業方としてエドウィン・ダンが明治6年(両者が札幌に来たのは明治9年)に来日した。
 ○明治9年、札幌農学校が開校し西洋式の近代的農業を指導。
 ○明治4年、開拓使により札幌空知通り(現北6条、偕楽園に隣接)に、御手作畑を設置、明治6年偕楽園試験場と改称。明治8年、開拓使本庁の西側に新たに試験地を増設。明治9年、札幌村に水田を、真駒内に牧牛場を、山鼻村に綿羊場を、札幌村に養豚場を開設。札幌農学校の開校と併せ開拓使による農事指導の体制が整った。
 ○明治5年、銭函~札幌間に6間道路が開通し札幌までの陸上輸送路が確立された。その他に、明治4年本願寺道路(現国道230号線)が、明治6年札幌新道(現国道36号線)が開通。明治13年には札幌~手宮間に鉄道が開通した。
(4)明治8年、樺太千島交換条約の締結により対露国との国境が確定。樺太の全てが露国の領土に、千島列島は全て日本の領土となった。
(5)明治6年、征韓論がやぶれ西郷隆盛ら下野。明治7年佐賀の乱、明治10年に西南戦争勃発。
(6)明治15年開拓使が廃止となり、三県一局時代を経由し明治19年から北海道庁時代に入る。

3 入植者の特色
  伊達藩、会津藩、庄内藩等戊辰戦争で朝敵の汚名を着せられ屈辱を味わった東北諸藩の士族を主体に編成された屯田兵で、それぞれ藩の名誉をかけ不退転の決意をもって屯田兵に応募したものと思われる。今なお、我々の先祖は「会津だ」「亘理だ」と言う方が多く同郷の意識が強く団結心が強い。

4 任務上の特色
 ○道都札幌の防衛と治安維持、あわせて北方地域の脅威に対処。
 ○当初、兵役の期間の取り決めはなく、兵役は相続するとなっていた。
 ○西南戦争に出征。戦死7名、戦病死14名。
 ○明治12年開拓使札幌本庁舎の火災時に消防・治安維持のため出動。また、明治14年、明治天皇の札幌行幸時の警護を行う。
 ○日清戦争には兵役を相続した2代目の屯田兵が出征。東京待機で終戦。

5 発展過程上の特色
(1)琴似の歴史は意外と古く、札幌市中心から少し北西に向かった琴似川と発寒川にはさまれた地区は多くのアイヌの人たちが住んでいた地で、作物の成育には適した地であった。幕末の函館奉行所の時代には多くの開拓民が発寒、手稲など琴似周辺の地に入植していた。明治に入ってからも本願寺宗徒の移民、南部藩、伊達支藩白石等から入植をする者が多数あり集落を形成していた。
(2)明治7年に「屯田憲兵例則」は制定されたものの、具体的な制度が整わない中での入植であり、兵としての訓練はおろか、寒冷地農業の知識も少なく、指導体制の確立されていない中での開拓、開墾、営農であり、先ずは実行し、その結果をもって軌道修正するという様な試行錯誤を繰り返しながらの開拓であった。
(3)第2陣が入植した翌明治10年に西南戦争が勃発し、別働第2旅団第1大隊として山鼻屯田兵ともに出陣。戊辰戦争の仇敵を討ち怨念を晴らす。この戦争において戦死7名、戦病死者中隊長准陸軍大尉門松経文以下14名(病没者の多くはこの時期流行ったコレラ等の伝染病による。)を出す。慰霊する招魂碑が札幌護国神社(中島公園内)にある。この戦争への出陣は開拓に大きな影響を及ぼし、通常3年で切れる扶助期間を、1年延長し4年とする処置が取られた。
(4)開墾、営農に関して
 ○琴似においては、割り当てられた土地に差異があり、互いに助け合って開墾する共同作業が行われた。(この方式は他の兵村とは違う。)
 ○入植当初は、自給用の作物の栽培に併せ、屯田兵の授産と言うことから開拓使(屯田事務所)の指導に基づき養蚕に重きを置かれた。養蚕室の設置、養蚕技術の伝授、事業に関する補助等を行ったが、必ずしも良好な成果を得ず。明治11年頃からは需要の大きかった大麻の栽培を始め、養蚕と大麻の二本立てとなった。その大麻も地力の減退から生産が低下する。その後、主流になってきたのは亜麻の生産で、明治20年に北海道製麻会社が設立され、琴似兵村がその作付・生産をにない兵村の経済を支えることとなった。

★北海道における養蚕業の始まり 
 山形県人が丘珠で自生している桑を原料として養蚕をはじめたのを見た松本十郎(大判官)は、明治8年、山形県の庄内から300名の養蚕経験者を招へいし、現在の桑園といわれる札幌市中心の西側地域一帯に桑畑を造成し養蚕を開始したのが始まりで、琴似、山鼻の屯田兵が受け継いだ。同時期、篠津(後に江別兵村の分村が配置された)に養蚕所が設置され、琴似、山鼻屯田兵の家族が養蚕所の維持運営に派遣された。いかに屯田兵と養蚕事業の関わりが強かったか分かる。

 ○他に官営麦酒工場用として大麦の栽培、軍馬用の飼料として燕麦、大豆、小豆等その当時の需要に合わせ各種の作物を生産した。

  琴似屯田兵は山鼻兵村とともに各種の農作物を栽培し、後に入植する人達に試験結果を伝授するという農業試験的要素が多分に含まれていた。

(5)農業試験場、工業試験場の誘致
   大正10年の工業試験場仮庁舎の設置に始まり、大正14年にかけて農業試験場、工業試験場全施設が琴似に設置された。琴似は都市近郊農村としての性格を一層強めるとともに工場誘致の基盤が出来た。
(6)琴似屯田兵が設置された当時、兵役は子孫まで永久に相続するとされていたが、明治24年の屯田兵条例の改正により任期が決められ、明治24年から予備役に、明治28年後備役に編入。
(7)明治39年に2級町村制施行により琴似村、大正12年に1級町村制、昭和17年に町制が施行され琴似町に、昭和30年札幌市に吸収合併、昭和47年札幌市が政令都市となり区制が施行され札幌市西区となった。
(8)密集型の兵屋配置の問題
   開拓使大主典村橋久成(札幌麦酒の創設者で元薩摩藩士)によりなされた密集型の兵村の配置は耕地が離隔し不便を来した。
   明治24年、現役を終え予備役に入ると、屯田兵の間で分散した給与地を集約出来るよう地区改正して再配分しようと言う意見が持ちあがった。それらの意見について兵村諮問委員会で協議したが移転賛成派と反対派に別れ紛糾した。その解決までには協議開始後3年間もの長期間を要したが、明治27年(1894年)に兵屋移転を決行した。その結果、琴似兵村は分散疎開することとなった。
(9)琴似屯田兵は農業試験場的な役割を負い、後に入植した屯田兵や一般入植者達に西洋式農業の普及に果たした役割は大きい。また、琴似屯田兵から多くの有能な人材が育った。後に新琴似の中隊長となる三澤毅大尉をはじめ琴似から11名の将校を輩出した。これらの人達は、以降入植した屯田兵の指導者として、あるいは北海道の畜産、農業指導者として活躍をした。
(10)現在、琴似屯田兵の中隊本部のあった地に札幌市西区役所が置かれ、兵村のあった地区は商業地、住宅地として変貌を遂げている。

6 琴似兵村関係の著名人
(1)琴似屯田兵出身の中隊長
    三澤  毅  新琴似中隊長
    太田 資忠  旭川第3中隊長、永山第2中隊長
    林 源次郎  一已中隊長
    山田 貞介  湧別第4中隊長
    縣  左門  三澤毅の後を継ぎ2代目新琴似の中隊長

Ⅱ 琴似兵村の伝統を伝える
○資料館等

「琴似屯田歴史資料室」

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○屯田兵関係の催し
 
○ゆかりの琴神社

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「琴似神社」

○屯田兵ゆかりの学校

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「琴似小学校」

○琴似兵村の史跡等

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「琴似屯田兵村兵屋跡(国指定史跡)」
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「琴似神社内屯田兵屋」
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「琴似屯田兵本部跡の碑」

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「発寒屯田兵開拓居住の地」

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「琴似屯田授産場跡」
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「農業試験場跡」

○屯田兵子孫の会等の紹介
 「琴似屯田子孫会」
  結  成:昭和49年7月、琴似屯田三世会を設立
      昭和51年6月、名称を琴似屯田子孫会に改め
  会の目的:琴似屯田兵が北方の警備と開拓に果たした偉業を顕彰し、これを後世に伝えるため、会員相互の親睦と連帯感を深めあわせて、北海道屯田倶楽部との連携をみつにして屯田精神を現代に継承すること。
  会  員:

 「NPO法人札幌郷土文化推進センター」 
 
「琴似屯田歴史館建設期成会」
  平成17年、琴似屯田兵入村130周年を記念し「かがやけコトニ屯田兵の里まつり」一大イベントの開催。最初入植した屯田兵として区をあげて伝統の継承に努めている。


2 コメント

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琴似兵村入植配置図(PDF)について (岡村 淳)
2014-04-23 09:44:38
琴似兵村入植配置図(PDF)について
中隊本部の上に記載されている「岡村吉次」は「岡村吉太」の誤りです。
返信する
岡村 淳様 (屯田太郎)
2014-04-23 18:22:22
岡村 淳様

失礼をしました。
記入の誤りでした。
早速修正をいたしました。
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