屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

屯田兵誕生の背景

2012-04-02 18:55:50 | A屯田兵の歴史

Ⅰ 屯田兵誕生の背景
  この項では、地勢学上の北海道の価値、幕末の蝦夷地警備、明治新政府の北辺対応などについて概要を記述。その中で、屯田兵制度を導入することになった背景を明らかにしていく。

1「北海道の価値」
   日本における北海道の位置づけは、日本の最北の地、僻地というイメージが強いが、対ロシアから眺めた場合はどうだろうか?
   世界地図を90度左に傾け、ユーラシア大陸から日本列島を眺めると、カムチャッカ半島から南に千島列島、北海道、本州、九州、南西諸島へと伸びる長大な列島は、大陸からの出口を塞ぐバリアーを形成していることが分かる。

Kyokuto_2

   北海道は、日本にとって北の外れであっても、ロシア側から見れば太平洋への出口を塞ぐ列島の中心であり、戦略的に見た場合に非常に重要な地である。ここを手に入れた場合、オホーツク海を完全に自国の内海とすることができ、太平洋へ容易に乗り出すことが可能となる。是非とも手に入れたい地である。
   このことは、18C後半からたびたび樺太、千島列島経由で日本近海に出没し、隙あらば自国の領土にしようとしたロシアの企図がそれを表している。
   その延長線上にあるのが、第二次世界大戦終了直後の南樺太、千島列島への侵攻と北方領土の占領である。 
   終戦直後の昭和20年8月22日、留萌沖で泰東丸、小笠原丸、第二新興丸、3隻の輸送船がソ連潜水艦の攻撃を受け撃沈、大破させられたが、当時、ソ連は北海道の北半分(留萠~釧路を結ぶ線)を占領する企図をもっており、この事件はその作戦の一環として行われた。原爆を持つアメリカの圧力に屈しその企図を実現させることは出来なかったが、それ程に北海道は戦略上重要な地である。
   もう一度ロシア側から日本列島を眺めて見よう。一目瞭然、北海道の価値が分かるはずである。
 
2「幕末の蝦夷地警備」
(1)幕末頃の北辺の状況
   まず、知っておかなければならないのは、江戸の末期まで、北蝦夷と呼ばれた樺太、そして、千島列島はその領有が明確になっていない空白地帯であったこと。また、蝦夷地と呼ばれた北海道は、道南の一部を松前藩が治め、海岸部の魚場に和人が進出し、アイヌ人との交易のため場所(場所請負制度)が設けられているだけで、蝦夷地の大部分は幕府の治政が及ばぬ地であったことである。
   蝦夷地では米が穫れないことから、松前藩には石高はなく、蝦夷地の領知権、徴役権、交易の独占権が認められ、それらから上がる収益を年貢に代えるという変則的な統治を行っていた。 
   海産物を中心とした蝦夷地の住人(アイヌ人)との交易は膨大な利益を生み「松前の春は江戸にもない」と言われるほど城下町は豪華絢爛たるもので、上方の文化が近江商人からもたらされた。
   しかし、そんな、蝦夷地の住人(アイヌ人)を支配しない統治のあり方は、南下政策を続け領土の拡大を目指すロシアの前には、危険極まりない状況を露呈し、蝦夷地を不安定な状態に陥れることとなった。
   ロシアが、蝦夷地周辺の海域に出没し出したのは、1700年代の後半頃からである。

(2)大国ロシアの極東での動態
   国境を接する大国ロシアの東方への拡張は17世紀中頃から加速し、1700年の中頃にはカムチャッカ半島までその勢力を広め、矛先を千島列島から蝦夷地(北海道)へ指向していた。その辺のところを少し。
   ヨーロッパでは後進のロシア帝国は、西の出口バルト海、南の出口黒海から地中海への進出を阻まれ、空白地代であったシベリアへ指向を変更し1700年頃にはカムチャッカまで到達をした。
   ロマノフ朝第8代女帝エカチェリーナ2世統治の時代(1762年~1796年)、カムチャッカから千島列島を経由し北海道近海へ度々ロシア船が出没するようになった。
   この時期北米大陸では独立戦争(1775~1783年)を行っている頃で、アリューシャン列島からアラスカ、北米大陸の西海岸までは、未だ列強の勢力が及ばぬ時代であった。
   1792年(寛政4)ラスクマンは漂流民大黒屋光太夫らを連れて根室に来航し交易を求めた。これは、極東進出の一環で、隣接する日本から食料、燃料等の補給を受けるためであった。
   幕府は鎖国下の時代で、この申し出を拒否した。
   それから暫くした1804年(文化1)ロシア帝国の外交官、露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)の代表であるレザノフが長崎に来航し、皇帝の親書を携えて交易を求めた。ロマノフ王朝も第10代皇帝アレクサンドル1世の時代となっていた。この時も幕府は交易を拒否した。
   その結果、日露間で緊張状態が続き、ロシア艦艦長のゴローニン、高田屋嘉兵衛の捕獲にまで発展する。
   次に極東情勢が緊迫するのは、1850年頃からである。その要因は、世界の覇権国イギリスの極東進出である。イギリスは1840年のアヘン戦争を契機に清国へ触手を伸ばしだした。それは、ロシアの極東での権益を脅かすもので、座視出来ないものであった。ロシア
   はイギリスのこの行為に対するかのように沿海州から樺太へと地歩を固めだした。
   幕末から明治維新にかけての極東は、イギリス、フランス、ロシア、アメリカ等列強の覇権争いの舞台となっていた。中でも国境を接するロシアの動態は、直接我が国の国益に重大な影響を及ぼすものであった。

Rosia_2

(3)江戸幕府の蝦夷地対策
   幕府が取った蝦夷地の警備を語る場合に、ロシアの動態から2つ期に区分することができる。その第1期は、東方へ進出を続けるロシアがカムチャッカまで到達し、千島列島を南下し北海道の近海に現れ日本と接触を求めた時期。
   第2期は、一旦収まりかけた北辺での緊張が、イギリス、フランス、ロシア、アメリカ等列強の極東への進出によりにわかに高まった1840年から徳川幕府の崩壊までで、この時期のロシアの指向の重点は沿海州~樺太、そして、北海道であった。
   以下二つの期区分について眺めて行きたい。

「第1期(1780年頃~1821年)」
   第8代女帝のエカチェリーナ2世、第10代皇帝のアレクサンドル1世治世の時代で、ロシアが極東から太平洋へ権益を伸ばそうとしていた時期である。
   日本は鎖国下であったものの、唯一交易を行っていたヨーロッパの国オランダこれらの情報はもたらされていた。蘭学者であり医師でもある工藤平助が「赤蝦夷風説考」を、同門の経世家である林子平が「海国兵団」を署したほか、多数の蘭学者等がロシアの脅威を訴えた。
   丁度そんな頃にロシア軍人のラスクマンがエカチェリーナ2世の親書を携え、漂流民大黒屋光太夫を連れて根室に来航した。
   幕府はオランダ等を通じて収集した情報が真実であることを知ることになる。これにより、ロシアの脅威を認識し、蝦夷地(北海道、千島列島、樺太)の本格的な調査を開始する。この時に、調査・探検を行ったのが最上徳内であり、近藤重蔵、伊能忠敬、間宮林蔵らである。
   また、淡路島の漁師であった高田屋嘉兵衛が北前船交易で膨大な富を得、択捉島まで進出し出したのも丁度この時期である。
   ラスクマン来航の12年後の1804年(文化1)、今度はロシア帝国の外交官、露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)の代表であるレザノフが、第10代皇帝のアレクサンドル1世の親書を携えた正式な使節団として長崎に来航した。レザノフは、極東及びアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した人物である。40代の若さで死去したことにより、露米会社の活動は停止してしまったが、もし活動を続けていれば太平洋の勢力地図が塗り代わっていたかも知れない。
   この時も幕府は交易を拒否した。それは、幕藩体制の崩壊に繋がるものであったからである。
   幕府の度重なる拒否の態度に業を燃やしたロシアは実力行使に出た。レザノフの部下であるフボォストフが樺太、択捉、利尻、礼文島で略奪行為を行ったのである。その報復としてロシア軍艦の艦長ゴローニンの捕獲。それに対し、高田屋嘉兵衛が捕らえられるなど日露の関係は、一時緊迫したものとなったが、ゴローニン、高田屋嘉兵衛の交換交渉の成立で一旦はおさまった。
   幕府は蝦夷地での調査結果、ロシアが蝦夷地に触手を伸ばしている事実を知るとともに、フボォストフの事件を重大視し津軽藩、南部藩に蝦夷地の警備を命ずるとともに、松前藩の領地を取り上げ直接蝦夷地の経営に乗り出した。
   この直接経営を第1次幕領時代と呼ばれる。

ア この間にあった出来事
・1778年(安永7)ロシア船厚岸に来航し交易を求める。(松前藩、幕府に報告せず)
・1783年(天明3)工藤平助「赤蝦夷風説考」を著し、蝦夷地調査の必要性を求める。
・1785年(天明5)幕府の蝦夷地調査隊、国後、択捉、ウルップ、樺太を調査
・1787年(天明7)林子平「海国兵団」を著し海防の必要性を訴え
・1789年(寛政1)クナシリ・メシナの戦い
・1791年(寛政3)最上徳内ら択捉にいたる。
・1792年(寛政4)ラスクマン漂流民大黒屋光太夫をつれて根室来航
・1798年(寛政10)近藤重蔵ら択捉に「大日本恵土呂府」の標識を建てる。
・1799年(寛政11)高田屋嘉兵衛、択捉航路を開く
                                  津軽藩、南部藩に蝦夷地警備を命ずる。
・1800年(寛政12)伊能忠敬、幕命により蝦夷地の測量開始
    ~1804年(文化1)八王子千人同心による白糠、勇払警備 
・1804年(文化1年)レザノフ、長崎に来航し通商を求めるも幕府は拒否
・1806~7年(文化3、4)レザノフの部下フボォストフ、樺太で掠奪、択捉、利尻、礼文等襲撃
・1807年(文化4)幕府蝦夷地を上知 松前藩を陸奥染川へ転封
                                斜里警備の津軽藩士72名殉死
・1809年(文化6)間宮林蔵、間宮海峡発見
・1811年(文化8)ロシア軍艦艦長ゴローニン国後で捕える。
・1812年(文化9)高田屋嘉兵衛の国後沖でロシア艦に捕らえられる。
・1813年(文化10)高田屋嘉兵衛とゴローニン交換
・関連事項として1812年(文化9)ナポレオン、ロシア遠征

イ この時期幕府の取った処置の要約
・蝦夷地の探検、調査
・蝦夷地の直接経営
      第1次幕領時代 1799年(寛政11)~1821年(文政4)
・南部、津軽藩による蝦夷地警備
・松前藩の染川転封
・ロシアの通商要求に対し拒否

「第2期(1840頃~1868年)」
    1812年のゴローニンと高田屋嘉兵衛の交換で、いったん収まったかに見えたロシアとの関係が再び緊迫し出した。日本近海にはロシアだけではなく、イギリス、フランス、アメリカの軍艦が現れるようになった。
    これは、ヨーロッパで行われていた列強の勢力争いが、極東にまで広まったことを意味する。今まで、ロシアだけが北辺の地で勢力拡大を狙っていたのが、世界の覇権国家イギリスが『眠れる獅子』と言われた清国へ触手を伸ばし出したのだ。
    1840年(天保11)アヘン戦争を契機に列強が清国を侵し始めた。1856年、1860年のアロー戦争、天津条約、北京条約により中国市場は欧米列強に開放され半植民地化されていった。ロシアもこの動きにあわせ沿海州の割譲を受け不凍港ウラジオストックを手に入れた。
    時代は前後するが中近東でクリミヤ戦争がロシアとトルコ、フランス、イギリスとの間で行われている時に、ペリーが浦賀に来航し開国をせまった。時は1853年(嘉永6)のことである。そして、翌1854年(嘉永7)に日米和親条約、1855年に(安政2)に日露和親条約が結ばれ下田、函館が開港した。
    その時、ロシアとの間で領土交渉が行われ、千島列島は択捉島とウルップ島の間で国境が引かれ樺太は雑居地となった。
    (国後島、択捉島、色丹島、歯舞諸島が我が国固有の領土というのはこの条約が一つの根拠となっている。)
    なお、この頃からロシアの領土拡張の指向は千島列島から樺太へと移行していった。
    幕府は列強との和親条約の締結、函館の開港に併せ蝦夷地を直轄(第二次幕領時代)。津軽、南部、仙台、秋田、会津、庄内等東北の各藩に蝦夷地の警備を命じるとともに蝦夷地の開発に着手した。
    国内では、この開国と不平等条約を締結した幕府に対し非難が渦巻き、尊王・攘夷運動、さらには倒幕にまで発展することになる不穏な時代に突入する。
   そして、1867年(慶応4年)大政奉還により徳川幕府は消滅し新しい明治の世になった。

ア この間にあった出来事
・1840年(天保11)~1850年(嘉永3)松浦武四郎による北方探検
・1853年(嘉永6)ぺーリー(米国)、プチャーチン(露国)来航
・1854年(嘉永7)日米和親条約、
                      松前城完成、箱館奉行開庁
・1855年(安政2年)日露和親条約、千島は択捉とウルップ島の間を国境、樺太は雑居地とすることで合意
               幕府蝦夷地を上知 津軽、南部、仙台、秋田各藩に蝦夷地を分領し警備を命ずる。
・1859年(安政6)国際貿易港として函館開港
            会津藩、庄内藩に蝦夷地を分領し警備を命ずる
・1864年(元治元年)箱館五稜郭完成
・1867年(慶応4年)大政奉還
・1868年(明治元年)~1869(明治2)戊辰戦争~函館戦争
・1868年(明治元年)箱館裁判所の設置
                        秋田、南部、津軽、仙台、松前の5藩に箱館警備を指示するとともに「蝦夷地開拓条項」が示される。
・関連事項として1840年(天保11)アヘン戦争、1853年~56年クリミヤ戦争(ロシア敗戦)
   
イ この時期幕府の取った処置の要約
・蝦夷地の直接経営
      第2次蝦幕領時代 1855年(安政2)~1868年(明治元年)
・松前に福山城、開港した函館に五稜郭を築城、弁天台場の設置
・津軽、南部、仙台、秋田、会津、庄内等東北諸藩及び松前藩による蝦夷地分領支配と警備
・蝦夷地調査
・御手作場の設置等産業振興、鉱業開発
・道路の開設

   これらが、江戸末期にとった幕府の処置であったが、南下政策を強める大国ロシアの前には有効な施策とはならなかった。そして、徳川幕藩政治は終わりを告げ明治の時代へ移行した。

3「明治新政府の北辺対応」
    ロシアは、幕末・維新の混乱に乗ずるかのごとく、樺太に軍隊、囚人を送り込み着々と地歩を築いていた。それは、日本の一大拠点のある宗谷海峡に面する函泊にまで及ぼすようになっていた。ロシアの目指すものは樺太、千島列島から北海道であり、徳川幕府から政権を引き継いだ明治新政府は、北辺でのロシアの脅威がただ事ではないことを知ることとなる。
    とは言うものの、新国家建設途上の日本国にあっては、経済的基盤は乏しく、防衛・警備のために北海道へ軍隊を送り込むことができるほど余力は無く、熊羆の住む北辺の地に永住しようとする者もいなかった。

(1)ロシアの占有状態となった樺太
    1855年の「日露和親条約」により、千島列島は択捉島とウルップ島の間に国境線が引かれ、樺太は日露双方の雑居地となったが、ロシアは軍隊を送り込み、囚人を移住させ、樺太の開発に着手し出した。まさにコサックによる領土拡張に等しく、樺太を自国の領土に組み入れようとするロシア帝国の意図が明白であった。
    それに対し日本はどうか言うと、東北の諸藩等に命じて警備を行わせていたが、以前として漁労を行うのみで、沿岸部に漁場を開らき、漁獲の時期だけ人は集まるが、定住する者も少なく、樺太における権益は逐一ロシアに奪われつつあった。
    慶応年間(1865年から1867年)にはロシアの勢力が日本の拠点と言うべき久春古丹(現在のコルサコフ)にまで及ぶ様になってきた。各地でロシア人による略奪、暴行等が発生し雑居制の問題が表面化した。それは、常に日本側に不利益を及ぼすものであった。
   そんな折、日露間で領土交渉が行われた。日本側の要求は、北緯50度の線で国境を引こうと言うものであるが、樺太を実行支配しているロシアに取っては呑める話しではなく、国力の差にものを言わせた問答無用の交渉に終始した。結果は、日露間で国境が確定するまでは雑居を認めると言う形で、ロシアの実行支配を認めざるをえない日本にとって不利な内容の条約が締結された。これが、「樺太島仮条約」1867年(慶応3)である。

(2)明治新政府の取った北辺対応
ア 幕府から蝦夷地を引き継いだ明治新政府
    慶応3年(1867年)10月15日大政奉還により徳川幕府治世の時代は終わった。
    まだ、戊辰の戦役が続く明治元年4月、蝦夷地では箱館奉行所に代わり箱館裁判所が設置された。総督には公家出身で、蝦夷地鎮撫を進言した清水谷公考が就任。徴士兼権判事には、幕末に北海道、樺太を探検し、ロシアの脅威を肌身をもって感じている阿波国出身の岡本堅輔が就いた。これは、箱館戦争が起こる半年前のことである。一つ間違えば、樺太はおろか北海道もロシアの領土となってしまうかもしれない、北辺問題がいかに緊急の課題であったかがうかがえる。
    明治新政府は、秋田、南部、津軽、仙台、松前藩に命じ箱館警備を指示するとともに、次のような「蝦夷地開拓条項」(7カ条)を清水谷に指令した。 

一、総督に開拓の用務を委任する。
一、蝦夷の呼称をやめ、測量の上、南北二道に分けて呼称を定めること。
一、各藩から土地開拓の権威を招き、総督の管轄の下に現地の実用に応じて順序を建てて開拓を進めること。
一、蝦夷地からの税収は開拓費に充て他用しないこと。
一、開拓を希望する諸藩に土地を割渡し(割譲)してもよい。開拓した場合は検査の上、相応の課税をする。
一、北蝦夷地(樺太)が見える宗谷付近に一府を設定すること。
一、蝦夷地開拓の目途がつき次第、北蝦夷地開拓の方策を立てること。

    明治元年4月26日、清水谷公考らは五稜郭に入城し、旧幕府箱館奉行の杉浦勝誠から政務を引き継いだ。しかし、この時期は奥羽越列藩同盟が締結(5月6日、31藩が盟約を結ぶ)され、東北の諸藩が新政府に反抗を鮮明にした頃であり、頼みの松前藩も勤王派の正義隊が藩政を掌握するまで奥羽越列藩同盟の一員であった。
    蝦夷地警備に就いていた東北諸藩の藩士達の混乱ぶりが如何ほどであったか知るよしもないが、本藩からの緊急の報に接し慌ただしく帰藩して行った。
    蝦夷地に残された箱館裁判所、後の箱館府は、在勤の官史と近在から徴募した農兵とで2個小隊を編成したのみで孤立無援の状態と言っても良かった。

イ 函館戦争の勃発
    箱館裁判所設置半年後の明治元年10月20日、榎本武揚は開陽丸以下8隻の軍艦を率いて噴火湾の鷲ノ木に上陸した。箱館戦争の開始である。
    戊辰戦争が東北で行われている頃に佐幕派であった松前藩は正義隊のクーデター(明治元年8月)により新政府側となっていた。箱館府は榎本軍の来襲が近いとの情報に接し援軍を要請。津軽藩、備後福山藩、越前大野藩など約1,000名の藩兵の応援を受け対処したが、制海権を有する圧倒的な戦力の榎本軍の攻撃を防ぐことができず、10月25日には五稜郭を明け渡すこととなった。松前藩兵の善戦もむなしく11月初めには福山城、江差、館城も落ち、榎本軍は12月15日蝦夷地を平定し「蝦夷共和国」を成立させた。
    榎本軍の箱館占領で追われる形で離脱した清水谷公考ほか箱館府の首脳と守備兵は、対岸の青森に撤退し終結した。その後、逐一戦力を増強した新政府軍は黒田清隆を青森口総督府参謀に迎え、旧幕府がアメリカから購入した甲鉄艦を旗艦とする軍艦4隻、輸送艦4隻の青森到着を待ち反撃を開始した。
    後半戦は、明治2年4月9日新政府軍の乙部上陸から始まり。3方向から箱館へ向けて攻撃を行う形で進められた。圧倒的な戦力の新政府軍の前には榎本軍は抗するすべもなく、明治2年5月18日五稜郭の開城を以て平定された。鳥羽・伏見の戦いに始まり、1年半に渡って続いた戊辰戦争もこれをもって終了した。

ウ 開拓使の設置。ロシアの強硬姿勢とその対応
    箱館戦争の終結を待ち構えていたかの様に、その2ヶ月後の明治2年7月に北海道開拓使が設置された。初代長官には対ロシア強硬派の元佐賀藩主鍋島直正が、判官に同藩出身の島義勇が就任した。蛇足になるが島義勇は札幌府建設に携わり「北海道開拓の父」とも言われている人物で、その銅像が、札幌市役所の1階ロビーに、また、北海道神宮の境内に建てられている。明治7年に勃発する佐賀の乱の首謀者として斬首された。
    明治2年6月24日、統一国家を建設したばかりの日本政府の対応を見透かすかのような事件が樺太で発生した。宗谷海峡に面する日本の一大拠点である函泊に露艦が来航し兵員を上陸させ、墓地やニシン干し場を破壊して兵屋を建設するなど基地作りを始めた。我が国の役人が隣の久春古丹から駆けつけ制止をしたが、無視し我がもの顔の振る舞いを行った。明らかにロシア側の挑発行為である。
    状況把握のため樺太出張を命ぜられたた岡本堅輔判官は、ロシアの横暴極まる振る舞いに激怒を覚えるとともに、つぶさに見た樺太の現状を帰朝し報告した。
    政府は直ちに対応を協議することとなった。開拓使長官の鍋島直正は直ちに出兵すべしとの強硬論を唱え、政府も一旦その方向で動こうとしたが、イギリス公使パークスから「ロシアは軍隊を動かし、囚人を樺太に移住させ南下の機会をうかがっている。樺太は言うまでもなく、北海道も大いに危険をはらんでいる。日本はと言うと、交通機関が未だ少しの整備もなく、この期に兵を動かすのは得策でない」。との助言があり、この問題を外交交渉により解決する方針に決した。
    終始強硬論を主張した鍋島正直は開拓使長官を辞任した。代わって長官に就いたのは幕末に尊王攘夷派の公家とて活躍した東久世通禧である。
    政府は、新任の開拓使長官に示した北方領土に関する方針の中で、「樺太は日露雑居地であり、ロシアが暴慢な行動をとったとしても、勝手な行動をせず、礼節を重んじること。
    ロシア領事館と交渉をせよ。現地民を大切にし、僻地を開拓せよ」。と融和を基調とする政策を示した。
   岡本監輔が帰朝し樺太の状況を報告することにより、開拓使の人事にまで影響を及ぼす事態となったが、これにより、北方領土の問題が政府内で認識され、ロシアとの間に最悪の事態が発生するのを防ぐことができた。
    余談になるが、国家を統一したばかりの新政府が受けた強国ロシアからの洗礼。それに対し、譲歩するしかなかった日本国。この屈辱がバネとなり富国強兵の道へと突き進むことになったのだろう。
    明治2年9月25日、東久世道禧判官は開拓使の官員、東京で募集した農工民約200人を引き連れ箱館に到着した。旧函館府を開拓使出張所と改称、この時、「箱館」の表記を「函館」と改めた。
    長官は函館に留まり、島義勇判官は札幌本府建設のため銭函開拓使仮役所へ、松本十郎判官は出張所建設のため根室へ、武田信順判官は同じく出張所建設のため宗谷へ向かった。
    岡本堅輔判官は、外務丞の丸山作楽、権大丞の谷元道之と東京で募集した数百人の農工民を伴って樺太の久春古丹へ帰任した。
    直ちに雑居制の状況を詳細に調査し、ロシア側との交渉を開始した。リかし、ロシア側は具体的な道路の開削、石炭の採掘権などで全く譲る気配がないばかりか、その交渉中にも新しい紛争を起こした。
    樺太での実地調査を終え帰朝した丸山外務丞らは、政府に以下の意見を提出した。

一、国境の早期解決
一、函館の開拓使を早急に札幌へ移転
一、樺太の開拓支庁を本庁とし、外務開拓の機能するよう機構を新設
一、陸奥の鎮守府を樺太へ移し、奥羽の降伏人を屯田兵として配置
一、汽船3隻を専属

    これらの意見は時宜にかなったものであったが、正式に受理されることはなかった。しかし、明治8年樺太千島交換条約締結、明治4年開拓使本庁を札幌へ移転、明治3年樺太開拓使の設置、陸軍省所掌による旧会津藩士・家族の北海道、樺太への移住(実際には余市に700人が移住した。)等、これらの多くは実現の運びとなっている。

エ 樺太開拓使の設置と黒田清隆開拓使次官兼樺太専任
    明治3年2月樺太開拓使が設置され、5月黒田清隆が開拓使次官兼樺太専任に任命された。清隆は8月に樺太の現状確認のために出張し、アイヌ人、日本人、ロシア人雑居の現況をつぶさに視察するとともに、意見を付して結果を報告した。

(樺太視察後、黒田清隆が提出した対樺太に関する建議(明治3年8月))
「日露接戦の形勢を以って言えば、樺太は斥候、北海道は根斥候、奥州は先鋒、東西京摂は中軍、中国、四国は後軍、九州は輜重方に当たる。今や両国の斥候、己に相接するに当たり、何よりも中軍の空虚を顧みざるを得ず。今命を受けて、更に斥候をなし、経路を計って帰り、その便宜を奏すべしと雖、要するに開戦の場合の予想を以って、まず露国に留学生を派遣し、兼ねて間蝶に具へらるべし。思ふに戦争は人材と会計とに基づく。その人材を養うには、軍学生凡そ200人を撰び(中略)。英仏に渡らせ苦学業成るを待ち、彼らに委任してことをなさしむべきである。若かして、其間非常の節倹を行ひ、蓄財して臥薪嘗胆、富強並び行はれんことを望む」

「黒田清隆の北地経営に関する主要な提言」
一、石狩に鎮府を置き大臣を総督として樺太を包括して経営する
一、北地経営には年間150万両を要する
一、諸藩以下の支配地を廃して開拓使に併合すること
一、外国人を招致して各種開拓政策を講ずること
一、大臣など高官が巡視して基本方針を樹立する
一、諸国に留学生を派遣する

    これらの建言は、政府に認められ、後に行われる開拓使の事業の中で反映されていった。
    黒田清隆はロシアとの対決を避ける考えであった。これは、英国外交官からの助言によるところが大きいと言われるが、現状の日本の国力を分析、ロシアとことを構える事は利益にならず、先ずは国力の増強にあたることが先決であると認識していた。
   そして、命ぜられて米国視察の旅に出かけた。

(3)明治元年年から4年にかけての北辺での出来事
 (明治元年)
   1月     鳥羽伏見の戦~戊辰の役
      4月     箱館裁判所設置~箱舘府
             小樽、銭函の漁民騒擾(小樽内騒動)
   11月20日  榎本武揚以下鷲ノ木に上陸、函館戦争が始まる。
   
(明治2年)
    5月18日  函館戦争終結
    6月      版籍奉還
    7月8日  北海道開拓使を設置。初代長官鍋島直正、判官島義勇
                       北海道を一部直轄するほか、1省(兵部省)、1府(東京府)、25藩8士族、2社寺に分与
  8月    蝦夷地を北海道、北蝦夷地を樺太と改称。11国、86郡を置く
      9月    場所請負制度廃止
     
(明治3年)
  2月    樺太開拓使を設置
     5月    黒田清隆開拓次官兼樺太専任に
・開拓使は函館港に「函衛隊」(1個中隊)を配置(唯一の北海道警備部隊)
・開拓使、屯田兵の設置案を太政官へ提出
・北海道の分与方針に基づき伊達支藩主従、有珠、室蘭、白石、当別に、稲田家家臣静内に移住。この時期に旧各藩士族各所に移住
・旧会津藩士家族を含め700人余市へ移住

(明治4年)   
 1月~6月 黒田清隆米国留学
    5月      開拓使本庁札幌に移設、函館、根室を出張所に
    7月      廃藩置県により館藩(旧松前藩)が館県となる
          ケプロン来日
    8月    樺太開拓使を閉鎖
・開拓使10年計画(予算1,000万円)の策定
・桐野利明、札幌周辺の警備を調査

4「樺太千島交換条約」
    北海道とほぼ同一の面積を有し地下資源の豊富な樺太と、水産資源以外に何もないような千島列島。日本国民にとってこの屈辱的に見える条約がどうして締結されたのであろうか。
    それまでにあったロシアとの北方領土条約は、1855年に締結された「日露和親条約」で、樺太は日露の雑居地、千島は択捉島と得撫島(ウルップ)との間を国境とするであったが、ウルップ島からカムチャッカまでの島々は現在でも殆ど人が住んでいない。どう考えても割に合わない。 
    1855年以降、ロシアは南下政策の目的を達成するために、樺太の実行支配を目指し、軍隊を送り、囚人達を住まわせ、炭鉱を採掘し、道路を掘削し着々と地歩を固めていった。それに対し、日本はと言うと、幕藩体制下では人・物を移動させることができず。東北の諸藩に警備担任を命ずることが関の山であった。結果は沿岸部に漁場を開設し、漁期になると漁民達が移住し漁をする。そして、漁期が終わるとそれぞれの地に戻る。そんな、支配を行っていた。
    この事は、明治初めの北海道においても似たようなもので、松前、函館、江差、厚岸、根室等、すべて沿岸部の漁場を中心に開かれ、内陸部の開拓は一切行われていなかった。
    「樺太の次は北海道が危ない」そのことを、イギリスの外交官は指摘した。
    開拓使長官に就任した黒田清隆はいち早くそのことに気づいており、「樺太を捨てでも北海道を守る」。そんな考えを持っていた。その方針を述べたのが、樺太視察後に発した建議であり、北海道に人、金、物を集中しロシアに負することなく開拓すべしである。
    そんなことは、西郷隆盛、大久保利通等薩摩の英傑にとっては当然承知の上であった。 
  黒田清隆はロシアとの領土交渉を、函館戦争で敵として戦ったが、盟友でもある榎本武揚に一任した。幕末海外留学の経験があり、国際法に明るく、旧幕府海軍の副総裁であった経歴を持つ榎本以外にこの交渉に臨める適任者はいないと考えた。
    榎本武揚を当時海軍の最高位海軍中将にし、従四位の官位を授け、駐露日本公使に就任させ交渉に当たらせた。
    結果は樺太の全部がロシア領となり、千島群島の得撫島(ウルップ)から占守島(シュムシュ)までの18島全部が日本領となった。

     調 印 1875年(明治8年)5月7日
     署 名 日本:榎本武揚
                ロシア:アレキサンドル・ゴルチャコフ
  
    その後の、北方領土はどうなったか。
    日露戦争の勝利により、北緯50度線までの南樺太を日本領土に組み入れることができ、「樺太千島交換条約」の屈辱を晴らすことができた。
    そして、大東亜戦争の敗戦で樺太だけではなく、「樺太千島交換条約」で我が国の領土となった千島群島の得撫島(ウルップ)から占守島(シュムシュ)までの18島全部、さらには我が国の固有の領土であるが国後島、択捉島、色丹島、歯舞諸島がロシアに占領された。
  蛇足になるが、北方領土問題もさることながら、「竹島」、「尖閣諸島」も我が国の固有の領土である。しかし、その領土が未来永劫自国の領土であるとは限らない。国民一人一人の領土を守る意志、領土を守るためには犠牲を惜しまない気概があってこそ領土は守られると思う。北方領土の過去の歴史の中に、その答えが見え隠れしている。


コメントを投稿