<ルポ:現在の剣淵兵村(平成23年6月)>
剣淵町の中心街は国道40号線から離れている。鉄道線路も剣淵駅の手前で西側にカーブしている。これは、大都市である札幌、旭川以外にある兵村では例の無い形態である。何故なのか。何か訳があるのではないかとの疑問を持ちながら剣淵町に入った。
以前、剣淵町80年誌、同100年誌の編纂にもかかわったという副町長のS氏にそのことをぶつけてみた。
根拠となる資料はないが、やはり泥炭質の土地によるものであるらしい。
「国道40号線方向から剣淵町を眺める」
「剣淵の航空写真」
天塩街道(現国道40号線)、天塩線(現宗谷本線)は、屯田兵入植1年後の明治33年に開通した。上川方面から北上すると手塩街道は、剣淵村の入り口で西に折れ大隊本部のあった剣淵兵村に入り、そこで、北に折れ士別兵村へ向う。しかし、当時既に剣淵村入口から直接士別に向かう踏み分け道が真っすぐ北に伸びていたという。また、鉄道線路の剣淵駅は、設計の段階で現在の位置よりも北側にあったという。
これらが意味するところは、やはり、剣淵兵村周辺の土質の問題に関係があったのではないだろうか。
手塩街道、手塩線を直接に大隊本部のあった剣淵兵村の中心まで直線的に引き込込むことができなかったこと以外に考えられない。
今でこそ、剣淵は潅漑溝が整備され、土地改良が進み豊かな農耕地として生まれ変わっているが、屯田兵が入植した当時、その流域は湿地帯で、井戸を掘っても赤水が発生し生活用水として使うことができなかったという。
この苦難は過去だけではなく、現在に至るまで剣淵の人達に重くのしかかった。
「剣淵川の流れ」
明治30年に増毛支庁管轄天塩国上川郡剣淵村、士別村、多寄村、上名寄村の4村を開村し、剣淵村に戸庁役場を設置。ここに大隊本部を設置したことは、この地を中心に以北の地域を開拓しようと目論んだものと思うが、士別までの鉄道線路の開通、手塩街道の延伸等が早期に行われ、水陸の交通が容易な士別の方が先に発展してしまった。
不運かな鉄道線路の経路を曲げてまで敷設しなければならなかった剣淵で物流の拠点を作り上げることができなかったばかりか、剣淵屯田兵の現役5年間の間に与えられた給与地の殆どを開墾することもできなかった。
ここに、剣淵の教育委員会から頂いた、辺乙部川の上流から潅漑溝を構築したことを記した資料がある。
それによると、「生活用水に窮した剣淵屯田兵は、明治36年、剣淵の中心から南西約20km先にあるペオッペ川上流字西和から剣淵の中心まで用水を流すため潅漑溝の建設に着手。37年一応の完成を見たが、屯田兵は同年勃発した日露戦争に出征。潅漑溝は顧みられることなく、凱旋時には荒廃してしまっていた。そして、明治37年に屯田兵制度は廃止され、土地からの縛りを解き放された屯田兵と家族の人達は生活の目途のたたない兵村を離れ新たな地を求めて去っていった」。(要約)と記されていた。
これが、剣淵兵村のその後を見通す史実である。
「中央幹線取水口」
「豊かに広がる剣淵の農場」
では、離散した屯田兵とその家族たちは何処へ行ってしまったのか。
このことが知りたくて、剣淵町役場を訪ねたが、子孫の消息は殆ど判らない。それら屯田兵の歴史を調べるため表立った活動をしている人はいないという。
それでも、副町長のS氏から士別盆地西側の丘に再入植した屯田兵がいたことや、士別や、遠く網走に移り住んだ人もいた。現在も当初入植した地に住む子孫も数軒あるという話を聞くことができた。
役場を後にしたその足で、「絵本の館」に向かった。ここは、剣淵町が一番力を入れる施設で、「絵本が持つ夢やこころの豊かさをテーマにした町づくりをしたい」。そんな町民の思いをかなえるために作られた。平成16年に新しい現在の館が開館した。町ではこの施設を活用した色々なイベントが企画されている。
たまたま入館した時には押し花の展示会が催されていた。町内に住まわれてるている方が説明員として勤務をされていたので、少し屯田兵の話をしたところ、私も屯田兵の子孫で3世ですよといわれた。屯田兵で入植した祖父には1男5女の子を授かり、5女のすべては剣淵に住む人のところに嫁いだと話された。と言うことは孫の世代になると10名以上の子孫がいることになる。4年前に『絵本の館』を訪ねた時に郷土資料館を案内してくれた職員の方も屯田兵の子孫ですといっていた。剣淵には屯田兵の子孫の方が大勢いることは間違いない。
「絵本の館内部」
剣淵の歴史は土地改良の歴史でもある。今ある剣淵の農地は、碁盤の目のように区画され、手塩川本流をせき止め作った岩尾内ダムから水を導入し、緑豊かに広がっている。
この、剣淵の豊かな自然と農地を守るのは『絵本の館』で絵本を読んで育った子供たちである。
大志を抱く青年へと育ってほしい。