<ルポ:現在の納内兵村(平成23年7月)>
納内という地名、地元北海道の人にあっても馴染みの薄い地名である。国道12号線を旭川から石狩川沿いに南下し、神居古潭の峡谷を出たばかりのところにある三叉路を右折し、アーチ式の神納橋を渡ってすぐのところにある町が納内で、JRの函館本線に乗れば神居トンネルを出て最初の駅が納内である。
納内を北空知の中心である深川市から見れば西のはずれであるが、上川の中心旭川から見れば北空知への玄関口にあたる。
納内兵村は、そんな位置的な特色以外に、他にない大きな特色を有している。それは、納内屯田兵に配当された第1次給与地の広さである。屯田兵制度がほぼ確立した明治18年以降、屯田兵に配当された第1給与地の面積は4,500坪~5,000坪であったが、ここ、納内兵村においては10,000坪の給与地が配当された。これと同じであるのは、特科隊と言われた美唄市にある茶志内の工兵隊、高志内の砲兵隊のみである。
当初、納内に騎兵隊を配置する計画であった。と言うのが理由のようだが、この配備位置と、10,000坪の給与地が、後の発展に少なからず影響を与えたものと考えられる。
納内は、北海道の優良米「ななつぼし」「きらら397」「ふっくりんこ」等のブランド米の産地である。昭和40年代には北海道の米づくりビックスリーと呼ばれ、蘭越、厚真を含めた「北海道米づくりの御三家」であったと納内兵村史に記されていた。
納内を知る上で、米のこと、それと、当時としては巨額の190万円もの資金を投入し完工した、神竜潅漑溝のことを確認しなければとの認識をもってこの地に乗り込んだ。
まず足を運んだのは、納内屯田会会長をされているM氏のお宅である。事務局長のM氏も同席され、お二方からお話しをうかがった。
納内においても他の兵村と同様、入植直後から手探りでの米作が始まった。それは、北山から流れる幌内川、吉野川等、付近を流れる小さな河川を利用して行われた。
「昭和40年代に優良米の産地として名を知らしめるまでになった理由は何処にあるのですか」。と質問したところ、昭和30年代から行われた構造改善事業、農業組合法人化などの先見的な取り組み。それと、農家の米に対するこだわり。より良い米を作ろうという競争意識にあるのではないかと話された。また、これからの農業は規模拡大が宿命で、1戸当たりの作付け面積が20町歩は当たり前。近い将来は30町歩、50町歩へと拡大するのは必趨である。その為には、新しい経営形態へと変化させて行かねばならないと話された。ここにも、屯田兵の新たな道を切り開いていくというチャレンジ精神が見え隠れする。
面談の最後に、給与地10,000坪は納内屯田兵にとってどうでしたかと尋ねたところ、当然と言わんばかりに「有利であった」。と答えられた。それと併せて、鉄道の施設計画が入植時には出来上がっており、給与地は鉄道線路を外して10,000坪もらえる様になっていたが、給与地まで行くのに鉄道を横断しなければならず苦労したと話された。
「納内屯田会会長、事務局長」
その後、納内の農業の発展には切り離すことのできない神竜潅漑溝の歴史を調べるために神竜土地改良区を訪ねた。そこで、昭和2年に完工した当時の写真と、潅漑溝の経路図のコピーを頂いた。
図面を見て驚愕をした。こんな大規模、複雑な土木工事を納内屯田兵が入植した10数年後に設計。屯田兵が中心となって神竜土工組合を設立し、大正~昭和の始めにかけて工事を行った。その頃の土木技術もさることながら、明治も30年代に入った頃の屯田兵の人達は、ただ闇雲に田畑を耕し作物を育てていたわけではなく、より戦略的な農業経営を行っていたのだと言うことが分かった。
当初、近くの小川から水を引き始まった水稲の試作が兵村全体に拡大し、潅漑溝の構築、造田、土地改良、構造改善へと進み、1世紀を経た現在は、日本の米処新潟を凌ぐくらいにまで発展した。この発展は、時には裏方として、時には表舞台の主役として事業に携わった屯田兵のチャレンジ精神に他ならない。
土地改良区を後にし、いただいた地図を見ながら神居古潭にある現在の頭首工へ足を運んだ。
「神竜頭首工」
「神竜頭首工碑」
「当時の工事風景」
納内の中心とも言うべきJR納内駅を出て、正面の道路を南に進み、道道57号線(別名旭川深川線)へ出たところに開拓記念公園がある。そこは中隊本部のあった場所で、「第5中隊本部跡の碑」にはじまり、「100年記念碑」、「屯田の鐘」、「屯田の泉」、「りんご之碑」などが建立されている。丁度対角線上にある納内神社には「開村の碑」ある。
過去本通りと呼ばれていた道道沿いは当時の面影を留めないが、JR函館本線の北側を東西に走る北一条通り沿いは、紛れもなくここに屯田兵屋が並んでいたと思われる雰囲気が残る。ここから北側の田園は整然と区画され、一枚5反から1町におよぶ水田が広がっている。この美しい田園風景は先人達の稲作にかけた情熱とその思いを引き継いだ今生きる人たちによって守もられている。
「開拓記念公園」
「納内駅前通り」
「兵村の風景」
国見峠から見下ろす納内の田園風景もそうであるが、納内駅の北側にある、納内墓地後方の高台から眺める景色はさらに絶景である。
この景色を目に焼き付け、納内を離れた。
「美しい納内の田園風景」