屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ:現在の一已兵村(平成23年)

2011-07-15 06:55:16 | 一已屯田兵村

<ルポ:現在の一已兵村(平成23年7月)>
 一已兵村を訪問するに際して、雨龍屯田兵(一已、納内、秩父別屯田兵)が分け入った経路でもある上川道路(現国道12号線)から、滝川、音江に抜け、石狩川を渡り深川に入る経路を選んだ。
 この経路は、雨龍の屯田兵だけではなく、上川の屯田兵(永山、旭川、当麻屯田兵)も音江から神居古潭の峡谷を通り、忠別太(現在の旭川の中心地)を経由し夫々の兵村に入植している。
 音江法華の駅逓があったという音江とはどんなところだったのだろうか。また、当時屯田本部長であった永山武四郎が雨竜原野を眺望し、屯田兵の設置を考えたという国見峠から、一已、納内、秩父別兵村の姿を自分の目で確かめてみたいという願望もあった。
 国見峠からの眺めのすばらしさは、当時上川街道随一といわれただけのことはある。眼前には石狩川が蛇行しながらゆったりと流れ、その川岸から右手納内方向には整然と区画されたみどり豊かな田園風景が、前方の山(コップ山)の山裾まで続く。目を転じて一已方向は田んぼと住宅が混在し、されにその奥には秩父別がかすんで見える。
 まさに絶景である。

「音江法華駅逓」

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「国見峠からの眺め(納内方向)」

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「国見峠からの眺め(一已~秩父別方向)」

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 一已に到着して最初に訪ねたのは『拓魂碑』である。
 V字型の巨大なモニュメントが天空を仰ぎ、鍬を斜に担ぎ、今まさに振り下ろさんばかりに構えた逞しい屯田兵の像。台座には入植、日露戦争への出征の情景を刻んだ彫像がある。
 今までに道内37個兵村、全ての屯田兵村を訪ね歩いているが、この様に壮大な造形物はここにおいて他にない。ただ大きいと言うだけではなく、屯田兵による開拓物語綴る碑でもある。
 拓魂碑は昭和44年5月11日、北海道開道100年を記念し、屯田兵とその家族の偉業をたたえるために建立されたものである。
 この碑の前で行う『拓魂祭』は、今年(平成23年)で42回目を迎えるが、深川市長、秩父別町長をはじめ、町の主だった方が出席する盛大な記念祭であり、雨竜屯田兵子孫の団結力の強さを感じる。

「拓魂碑」

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「屯田兵の像」

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 この『拓魂碑』がある場所の南側に大隊本部、3、4中隊本部等主だった施設が配置されていた。通常であれば、この付近に番外地と呼ばれる商業施設が立ち並んだはずであるが、一巳の場合は、屯田兵村のはずれというべき場所(現在のJR深川駅付近)にそれらは配置されていた。ここに、一巳兵村の特色がある。
 一巳屯田兵の入植した明治28年には、もう既に、深川村が開村しており、解散した華族農場の後を継いで多くの開拓団体、開拓民が入植し、物流の中心として深川村が存在していた。現在の深川市は昭和38年に行われた深川、一已、納内、音江との合併により出来上がったが、稲作を産業の中心とした4町村の集合体である。

 今回、この地を訪ねた時、会長のH氏、前会長のK氏、以下7人の一已屯田会の皆様からお話しを聞く機会を得た。北空知は上川と並び称される米どころであり、一巳地区には北空知農協の主要な施設が設置され、米を中心とする域内の農作物が集荷、保管、出荷する管理機能を担っている。過去から現在に至るまでその役割を担う多くの人材が一巳から排出のも事実であり、一巳は北空知の農業における盟主的な存在であると聞いた。
 一巳屯田兵子孫のうち、現在も農業を経営している戸数は24あるという。この数は、一部市街地化した一已にあって、多・少の判断はできないが、未開の地を切り開き、鬼とまで例えられる位い稲作に情熱を傾けた先人の孫、曾孫の皆さんである。彼ら24人の人達が一已屯田兵の伝統を受け継ぎ、全国にその名を誇る北空知米を守り続けている。
 昨今の情勢をみると米農家は大変な様であるが、屯田兵魂とでも言うべきチャレンジ精神でこの難関を乗り越えてくれることを期待したい。

「一已屯田会の人達」

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 面談の後、案内されて深川マイナリー、ライスターミナルなどがあるJAきたそらちで米についての話しを聞き、その後、石狩川頭首工を見学した。
 農業に無知な私であるが、少しだけ米づくりのこと、北海道における米の生産の現状が分かった。そして、現場の稲作農家にとって一番大切なものは田であり、その田に必要なものは水である。管理された水がなければ稲は育たない。ここ一已においても、稲作で自立できるまで要した数十年の歳月は、水との戦いであったという史実の裏付けを現地で確認出来た。

「JAきたそらち」

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「深川マイナリー」

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「ライスターミナル」

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「深川のお米」

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「北空知頭首工」

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「石狩川付近の田園風景」

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 一已の人達は屯田兵の伝統とともに、屯田兵の入植とともにもたらされた郷土の芸能をしっかりと保存している。その一つにあるのが、深川市の重要無形文化財第一号に指定された「猩々獅子五段くずし」という獅子舞の保存である。
 この獅子舞は香川県出身の屯田兵である八代十吉、松本弥吉、正田筆吉らが、屯田兵の兵役を終え故郷に錦を飾った折に、郷里の讃岐地方に古くから伝わる獅子舞を一已へ持ち帰り、大国神社の例大祭で披露したのが始まりである。現在は地域の人達に愛される伝統芸能として発展・受け継がれている。

「猩々獅子五段くずし」

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 今回集まってお話しを聞かせて呉れた一已屯田会の人たちに「雨竜(一已、納内、秩父別)屯田兵にあって一已はその兄貴分的な存在に感じる」。と話した時、「そんな事はない無い」。と答えられたが、やはり、その様な気がしてならない。

「丸山から眺める一已の田園」

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「一已兵村の景観」

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「道の駅深川ライスランド」

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一已兵村の紹介

2011-07-04 13:51:28 | 一已屯田兵村

< 工 事 中 >

「一已兵村」
入植年・月・日:明治28年29年
入植地:深川市一已町
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「一已兵村入植配置図」「ittyan01.pdf」をダウンロード   

出身地:北陸から九州までの24道府県
入植戸数:400戸
「南一已兵村入植者名簿」ittyan02.pdf」をダウンロード

「北一已兵村入植者名簿」「ittyan03.pdf」をダウンロード

   
第1大隊
大隊長
  初代:野崎貞次少佐(明治25年2月~明治29年1月)
  2代:渡辺水哉少佐(明治29年1月~明治30年9月)
(後の第3大隊長、歩兵25聯隊長、日露戦争で旅順攻撃における白襷隊の副隊長、その後旭川27旅団長)
 3代:菊池節蔵少佐(明治30年9月~明治32年10月)
 4代:安西 恕少佐(明治32年10月~明治33年1月)
 5代:鈴田宣貞少佐(明治33年1月~明治35年3月)

明治28年の入植
  便 船: 日本郵船の土佐丸(5,402トン)
  航 路: 四日市~瀬戸内(神戸、多度津、今治)~博多~境~敦賀~伏木~小樽
  小樽港到着:5月7日
  入植日:5月15日(遅れた理由は、石狩川が増水し小樽で1週間足止め)

明治29年の入植
「第1便」
  便 船:日の出丸(日本郵船)
  航 路:博多~多度津~神戸に寄航し太平洋回りで小樽へ
  入植日:4月17日

「第2便」
 便 船:金沢丸(日本郵船)
 航 路:宇品~今治~四日市~太平洋周りで小樽港へ
 入植日:4月23日
 
「第3便」
 便 船:日の出丸(日本郵船)
 航 路:敦賀~伏木に寄航し小樽へ
 入植日:4月25日

 小樽で一泊し鉄道で空知太へ、滝川で一泊し一已へ。
秩父別、納内の入植者は深川でさらに一泊(宿泊場所澄心寺、第3、第4小学校等)

明治29年の入隊式:5月1日

給与地:30間×150間(4,500坪)
追求地:70間×150間(10,500坪)

北一已兵村
部隊名:第1大隊第3中隊
 第3中隊長
  初代:平賀正三郎(後の第3大隊長で永山~剣淵で勤務、旅順で戦死)
  2代:鷹森赳夫(初代の東秩父別中隊長、稲作を奨励、境川導水の許可)
  3代:森山頼三郎

出身県別入植者数
富山県  20
北海道   1
石川県  10
福井県   7
三重県   4
愛知県   8
奈良県   5
和歌山県 21
兵庫県   3
岐阜県   6
岡山県   5
島根県   5
大分県   1
大阪府   2
広島県   9
山口県   9
徳島県   8
香川県  39
高知県   1
佐賀県  16
愛媛県  19
福岡県   1
計22府県 200名

南一已兵村
部隊名:第1大隊第4中隊
第4中隊長
  初代:北村 格 
  2代:林 昌介(輪西の初代中隊長、稲作を奨励し20日間の謹慎処分を受ける)
  3代:喜多鑑次
  4代:小幡 彬
  5代:鈴木元五郎

出身県別入植者数
富山県  23
石川県   9
福井県   8
三重県   5
愛知県   6
奈良県   3
和歌山県 18
兵庫県   4
岐阜県  10
岡山県   1
静岡県   2
島根県   3
鳥取県   1
広島県  11
山口県   6
徳島県   9
香川県  37
愛媛県  26
佐賀県  13
北海道   5
 計  20県 200名 
 
Ⅰ 一已兵村の特色
  「イチャン」とはアイヌ語で「鮭の産卵する場所」、また、「鮭や鱒が産卵のために川底に掘る穴のこと」という説もある。
1 一已の地理的特質
(1)滝川の北方約20kmに位置し、石狩平野の最北である北空知の平野で、北は上川盆地、西は留萌、増毛へ連なる要地。
(2)石狩川と雨龍川に挟まれた肥沃な土地。場所によっては泥炭地あり。
(3)石狩川の右岸に位置し、上川道路と連接する場合は石狩川を渡河する必要があり。
   (石狩川をはさんで対岸の音江法華は物流の拠点として栄え、一時期北空知随一の賑わいを見せた)
(4)三条実美以下が経営しようとした華族農場の跡地。

2 時期的特色
(1)雨龍屯田(一已、納内、秩父別)設置までの経緯
    ア 明治19年の北海道土地払下規則の公布、岩村道俊の上川離宮構想に応じ、明治22年三条実美、蜂須賀茂韻、菊亭脩季、戸田康泰等で華族農業組合を設立し、雨竜原野に5万ヘクタールの土地借受。しかし、三条実美の死去により明治26年組合は解散し、出資者はそれぞれが農場を経営。
    イ 明治25年、一已、多度志、納内にまたがる蜂須賀農場の一部、1万ヘクタールを返還させ陸軍省に移管。(屯田兵はその場所に入植)
    ウ 明治23年の屯田兵条例の改正等屯田兵関連の法令・規則の大規模な改正があり、屯田兵の資格を一般平民に拡大。
    エ 平民屯田兵となった明治24年以降、上川に6個中隊、江部乙に2個中隊、美唄に3個中隊が入地を完了。内陸部(剣淵・士別を除く)最後の屯田兵である。
(2)入植した明治28年は、日清戦争最中であり大隊・中隊の幹部は出征していた。
    (幹部が戻って来たのは7月に入ってからで、軍事訓練が開始されたのは8月以降)
(3)道路は、明治22年には札幌から旭川まで(上川道路)、明治24年には旭川から網走まで(中央道路)が、また、同明治24年に月形から増毛まで及び増毛から神居古潭まで(増毛道路)が開削されていた。
(4)鉄道は、明治31年に小樽から旭川まで、明治43年には深川から留萠まで延伸された。
(5)明治25年、4代目北海道長官に就任した北垣国道は北海道での稲作を奨励。
(6)明治28年までに、上川の各兵村では稲作の試作に成功しており、旭川兵村では灌漑溝の掘削も着手。
(7)明治33年~35年にかけて第七師団が旭川近文台へ移駐。
(8)明治23年、明治27年、明治34年に屯田兵条例の改正が行われたが、一已屯田兵にあっては6年間の任期となり、明治35年に満了。
(9)明治38年、後備役として日露戦争出征。

3 入植者の特色
(1)明治28年、29年の2ヵ年にわたって入植。出身県は北陸、近畿、中国、四国地方を中心に24道府県。入植者の多い県は香川県(76戸)、次いで愛媛県(45戸)、富山県43戸、和歌山県39戸となっている。
(2)同一県の同一地域からの入植者多数。兄弟で入植したもの2組、親戚同士で入植したもの10数組あり、秩父別、納内を含めるとさらに多い。
(3)近隣の開拓農場に入植した者と同一地方のもの多数。

4 任務上の特色
(1)北空知平野の開拓による殖産。あわせて警備
(2)日露戦争に出征
       戦死者:一已屯田兵12名(一已村21名)

5 発展過程上の特色
(1)内陸部最後の屯田兵として納内、秩父別の屯田兵とともに入植。この時期までに、空知(滝川、美唄)、上川盆地の開拓が着手されており、交通網も整備されつつあった。
(2)入植した場所は、明治22年に開拓を開始した蜂須賀農場の跡地であり、また、雨竜、北竜、深川、妹背牛、沼田、多度志等の周辺地域は各種の団体が入植しており、前人未踏の地に入植した他の兵村と比較し有利な条件であった。
(3)道央と上川を結ぶ上川道路(現国道12号線)は石狩川の左岸を走っており、一巳から上川道路へ出るには石狩川を渡河する必要があり流通という面で不利であった。
(4)農作物の栽培
  ア 入植当初は、自給自足用の作物としてアワ、イナキビ、蕎麦、馬鈴薯、大根などの野菜を、2年目から麦、豆、トウモロコシを栽培。
  ウ 数年後から換金作物として、小豆、ナタネなどを栽培。
  エ 明治30年頃から養蚕が盛んとなり、35年には空知養蚕検査所深川出張所が開設、38年には空知郡農会の深川養蚕伝習所ができ養蚕が奨励された。
  オ 大正初期頃までりんごの栽培が盛ん。
(5)稲作の栽培
    ア 当初禁止していた稲作が、明治29年に成功し、以降、稲作を奨励。
     伊藤兼太郎は稲作の成功により宮内庁から銀杯を受領。
    イ 31年頃から稲作への機運が高まり用水の確保、造田工事が行われるようになった。
    ウ 深川土功組合を設立し、大正5年に「大正用水」が完成。600haの造田。また、納内地区と共同で神竜土功組合を設立し、昭和3年には地域内の水田面積が2,019haとなる。
    エ 水害・冷害、虫害の多発
          水害:31年、34年、37年の水害は極めて大きな被害をもたらした。
          冷害:35年
          虫害:41年、42年の夜盗虫、38年のコガネ虫の被害
(6)明治43年の留萌線開通により、北空知地方の中心となり深川駅周辺の市街地、商業施設化が始まる。
(8)明治34年深川村から分村、明治39年2級村制施行し一已村となる。大正9年納内村を分村。大正10年1級村に昇格。昭和38年近隣の4町村(深川、一已、納内、音江)が合併し深川市となる。

  ★一已には番外地(市街地)はなかった。
    理由は、華族農場で入った菊亭脩季が深川に市街地計画を立てていたためで、兵村に特定の番外地を設定する必要がなかった。

  ★付籍
    屯田兵に随伴する家族のうち扶助対象になる者の数は1戸あたり5名となっていたが、それより超えて随伴する者を付籍と言い扶助の対象とならなかった。
    しかし、その後の経過で、成功する率は付籍を同伴した屯田兵及び家族に多かった。理由は、多くの労働力が得れたことと、付籍は家族教令に縛られることなく、活動の自由が認められ色々な経済活動を行えたこと等がある。

  ★屯田兵に応募した動機
    入植時期、入植者の出身地、入植地等一概に言えないが、以下が挙げられる。
  ①開拓期間中、扶助が受けられて5町歩の土地がもらえる。
  ②内地では土地が狭くて生活ができない。
  ③広い北海道で一旗挙げよう。
  ④親の勧めにより応募した。(一已では未成年の屯田兵47%)
   
  ★土地売買の禁止が解かれた時点(明治39年2月の帝国議会において「屯田兵土地給与規則」4条(土地の譲渡・質入れ、書き入れ30年間禁止)が廃止となる)で、追給地や離農者の跡地に分家して移り住むもの多数。戸主が追給地に移り、兄弟に宅地を譲る者もあり。
  ★追給地が耕作不適地の場合、未墾のまま残されるところが多かった。
  ★農耕馬がかなりの数で飼育されていた。第3中隊第1組の明治33年の記録によると8戸/18戸中が馬を飼育していたと記述。

6 一已兵村関係の著名人
  

Ⅱ 一已兵村の伝統を伝える 
○資料館等
「深川市生きがい文化センター内郷土資料館」

「一已屯田資料館」

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 屯田兵子孫が寄付してもの。

○屯田兵関係の催し
  雨竜屯田会(一已、納内、秩父別合同の会)による「拓魂祭」(7月10日)
  開拓記念式:大国神社開拓記念碑前(5月15日)
  
○ゆかりの神社
「大国神社」

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○屯田兵ゆかりの小学校
 「一已小学校」

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○今に残る屯田兵の踏み跡
「拓魂碑」

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「監的壕」

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「屯田兵屋(有形文化財)」

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「深川市生きがい文化センター内郷土資料館」敷地内にある。

「屯田歩兵第1大隊本部」

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「水田発祥の碑」

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「屯田の鐘」

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「国見峠 展望の碑」

「音江法華駅逓跡」

「猩々獅子五段くずし」

(一已 香川県讃岐地方の郷土芸能の伝承で五段は幼・少・青・壮・老の獅子の生涯を舞う)

○屯田兵子孫の会の紹介
 「一已屯田会」
  設立:昭和37年8月6日一已屯田2世会として発足。昭和46年2月11日一已屯田会と改称 
  目的:会員相互の親睦と一已町の開拓について語り伝える。
  会員数:128名(平成21年)
 
 「雨竜屯田連絡協議会」
  一已、納内、秩父別兵村合同の会
  設立:昭和43年2月29日
  主要事業:毎年7月10日(基準)、拓魂祭を行っている。