<ルポ:現在の旭川兵村(平成23年6月取材)>
「ここを見て はじめて 北海道がわかった」。これは、旭川兵村記念館のしおりに書かれている来館者の言葉である。
旭山動物園を知らない人はいないと言っても良いほど有名になってしまったが、この動物園のすぐ西側に旭川兵村があったことを知る人は殆どいない。
旭川兵村は、旭川市の中心から約5km東側に進んだ位置にある。通称東旭川町呼ばれている地区である。本通沿いは割合早く開けた様で、旭川市の中心から町並みが中隊本部のあった旭川神社付近まで続く。
「旭川の遠景、後方、鉄塔のある付近の手前が旭川兵村」
「旭川兵村から旭山動物園を眺める」
旭川兵村で是非紹介をしたいのは。冒頭に紹介した「旭川兵村記念館」財団法人/博物館相当施設と、「上川100万石」由来の地であることである。
旭川屯田記念館についてであるが、何故これがすごいかというと、東旭川町に住む人たちの手によって一億円あまりもの資金を集め作り上げたということである。「思いがあればかなえることができる」。まさにその通りに実現をしてしまった。現在の姿になるまで並々ならぬご苦労があったと思われるが、しかし、この兵村にしかない大変貴重な資料が残されていた。それは、147冊にも上る中隊本部記録資料である。それと、北海道の稲作において主導的な役割を果たした人物を多く排出したことにもある。これらは、博物館を建てることに対する必然性が前提条件として存在したことでもある。
「旭川兵村記念館」
この館には何度かお邪魔し見学をさせていただいているが、その度に研究心を駆り立てる。陳列されている資料の一つ一つが貴重で、その展示物の先には奥深く広がる歴史の重みがある。
「伝えよう」。「伝えたい」。と思う人の心、熱意は来館者に通じる。それが「これを見て 北海道のことが分かった」。に代弁される。この館には道外からこの館を見るために来る人が大勢いると聞いた。そして、感銘を受け、帰って行かれる人が多いそうである。資料はそれほど多くあるというものではないが、一枚一枚の写真に明治20~30年代当時の北海道での生活の姿が映し出され、困難な開拓にあっても力強く生きる人々の姿がある。
旭山動物園の駐車場右手にある旭山寺脇の道路を上って行くと、幾つかの碑が建っている。その中に苔むした一本の碑がある。その碑が、旭川での稲作に貢献のあった藤田貞元、末武安次郎、中山久蔵を顕彰する碑である。
「稲作功労者を顕彰する碑」
中山久蔵とは、札幌から千歳方向へ20kmほど下ったところにある島松で駅逓業を営む傍ら稲の栽培に着手。北海道で初めて米作りを成功させた先駆者で北海道稲作の父と称せられる。
末武安次郎とは、屯田兵家族として旭川兵村に入植し、明治38年に直播機「たこ足」を発明した人物。
藤田貞元という名をはじめて聞くという人が殆どであると思うが、この人こそ、「上川100万石生みの親である」。というのは記念館館長の弁であり、大変な人であったという。
この人の調査はこれから進むものと思うが、屯田兵戸主の兄として津軽から入村。その一年前には永山兵村を視察し、この地で米は絶対に採れると確信し、米を作るため、旭川兵村に戸主の弟とともに入植したという。時の中隊長井田光承を説得し、和田正苗大隊長をも動かし試作にこぎつけた。入植1年後の明治27年には中隊で灌漑溝の掘削を行わせしめている。
これがあって、旭川兵村で本格的な稲作が行われるようになる。その後発明される、「たこ足」、「猫足」、「カラカサ馬回し機」等は、そんな、藤田の情熱に後押しされ生み出されたものであるといっても過言で無いかも知れない。
「タコ足」
「カラカサ馬回し機」
「中山久蔵が勤めた島松駅逓」
公開はされていないが、旭川兵村記念館に明治33年旧第七師団司令部が記録した『迅速図』というものがある。そこには、旭川兵村の区割りに合わせるかのように用水路が張り廻らされている。旭川兵村で本格的な稲作が行われていたのは間違いがないようである。
旭川兵村での成功が、永山、当麻兵村の稲作に勢いをつけ、上川盆地全体に広まって行った。そして、後に入植する、野付牛、士別・剣淵の稲作へと発展していった。
平成23年の6月記念館にうかがったとき、旭川兵村記念館友の会を設立したと聞いた。また、「旭川屯田会」は屯田兵子孫の方だけの集まりではなく、旭川屯田兵と郷土開拓の歴史を伝える活動に賛同する人であれば入会を拒まないと聞いた。平成23年現在で200名の会員がおり増加傾向にあるという。
「旭川屯田記念館」を建設したときの勢いは今も衰えない。日々進化するニーズに対応する活動。これが、変化する時代の中にあって、郷土の伝統と文化を継承するために必要なことであると思う。旭川屯田記念館から発した郷土旭川の歴史を学び、伝える活動の輪が東旭川の人たちだけでなく、旭川を巣立った人たちとともに全道の輪、全国の輪へと広まっていくことに期待をしたい。
旭川滞在最後の日は、倉沼川沿いを走ってきた。この川は藤田貞元の提言により上兵村の中隊全員で灌漑溝を掘削したときに水を取り入れた川だという。取水口は、旭山動物園のある旭山の南裾に位置する。この場所から雪渓を頂いた大雪山の峰々を真正面に拝むことができた。
大雪山に降り積もった雪は雪解け水となり、また、岩盤の間を地に浸透し、長い年月をかけ伏流水となって地表に現れ川の流れとなる。清き水。これが米どころ「上川100万石」を育む水である。
「倉沼川」
「お世話になった子孫会副会長のお店 石蔵」