屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

屯田兵制度の成立

2012-04-02 19:24:52 | A屯田兵の歴史

Ⅱ 屯田兵制度の成立」

   黒船来航の翌年(1854年)「日米和親条約」が締結されたのに合わせ、1855年ロシアとの間に「日露和親条約」が結ばれた。この条約により懸案であったロシアとの間に国境が確定し、千島列島は択捉島とウルップ島の間に国境線が引かれ、樺太は日露双方の雑居地となった。
   だが、それは、クリミヤ戦争(1853年~1856年)でイギリス、フランス、トルコ等と戦い敗戦を向かえることになるロシアと、蝦夷地をロシアの脅威から保全したいと切に願う徳川幕府間で結ばれた妥協の産物であり、将来においても安全が担保されると言うものでは無かった。勢力の均衡が破れた時には、さらに領土の拡張を目指すというロシアの南下政策の企図には変化が無く、蝦夷地と呼ばれた北海道はその脅威の最前線に立っていた。
   それから約15年の年月が経過し、維新の戦乱を経て新しい国家を建設した明治新政府にとっては北方の防衛体制をいかに敷くかが最重要課題であり、その為には北海道に多くの人を送り込み土着させることが必要であった。
   とは言うものの、熊羆など獣の住む島と言われた極寒の地に、好んで移住する人などいない。明治の時代に入り諸藩による分割付与、士族救済のための移住等色々な施策を行ったが、有効な手立てとはならなかった。
   これらのことについては「屯田兵誕生の背景」の中で見てきた。
   いかにして北海道に人々を土着させ、北辺の守りを固めるか?そんな問題を解決するために生み出されたのが北海道屯田兵制度である。
   この項では、まず、屯田兵とはどんなものであったかを前記し、屯田兵設置の根拠である「屯田憲兵条例」の制定まで経緯、同条例の概要につい記す。

1 屯田兵とは
   屯田兵というのは、兵を辺境の地に派遣し、開拓をしつつ防衛・警備に当たらせると言うもので、平時は農耕を行い、いざというときには銃・剣をもって戦う土着の兵隊のこと。
   屯田兵制度の模範となったのはロシアのコサック制度といわれるが、これに類似した制度は古くから存在した。
   中国では、漢の武帝の時、辺境の警備のため兵を駐屯させ開墾に従事させたとの記録もあり、我が国にあっても、律令時代、東北地方を防衛するため鎮守府の戍兵に農耕をさせていた。
   幕末、蝦夷地におけるロシアの脅威が増大する中、幕府が直接経営に乗り出した幕領時代に東北の諸藩に警備を命ずるとともに開墾を行わせたほか、八王子千人同心による白糠、勇払の警備の例がある。これら、幕末に蝦夷地で行った施策も屯田兵の先がけと言っても良い。しかし、人の移動を制限する幕藩制度の中で行われた試みであり、また、北海道の厳しい環境の中にあっては成功を見ることがなかった。

2 屯田兵設置の活動は薩摩藩閥中心に行われた
   幕末の薩摩藩は開明的な藩で、早くから外国の脅威を認識し、国を守るためには国力を増強しなければならない。その為には先進的な諸外国から知識、技術を導入しようと言うことで、具体的な例が、ペリーの来航前の嘉永4年(1851)から既に行われていた洋式大型船の建造であったり、安政4年(1857)に建設された「集成館」による殖産興業事業であり、薩英戦争後の文久3年(1865年)に行われたイギリスへの留学生派遣等である。
   薩摩藩は、「尊王だ」「攘夷だ」と叫ばれていた世相の中で、殖産振興政策を着々と推し進めていた。そして、そんな時代を生きた藩士の中から、北海道の開拓を牽引するリーダーが多数育って行った。
   屯田兵制度の導入は西郷隆盛以下、薩摩藩出身の官使を中心に行われた。
   何故かと言うことで、その辺の処を少しながめてみたい。
   北海道開拓使の初代長官は第10代肥前国佐賀藩主の鍋島正直で、筆頭判官は同藩の島義勇。しかし、両者とも直ぐに交代となり、次の長官は公家出身の東久世通禧、次官に薩摩藩出身の黒田清隆が就任した。そして、黒田清隆が実質的な采配をふるった。
   発足当初の開拓使は薩摩色の強いものではなかったが、黒田清隆が次官から長官代理となった明治4年頃から、薩摩閥が幅を利かせるようになってきた。
   この要因の一つとして、明治4年2月、西郷隆盛の提言により編成した御親兵(薩摩、長州、土佐藩からの献兵)が、同年7月の廃藩置県で解散となり、それと、英国式か仏国式かで争われていた兵制が長州閥の推す仏国式となったことが上げられる。 
   これにより、多くの薩摩藩出身の軍人が身を引き、開拓使の役人となった。屯田兵「育ての親」とも言われた永山武四郎もそんな中の1人であり、明治6年6月開拓使東京出張所に屯田課が設置され、同課所属となった大山重、安田定則、時任為基、柳田友郷、永山盛弘、永山武四郎のうち大山重以外すべて薩摩藩出身である。因みに大山重は、福井越前藩出身で坂本龍馬が作った海援隊士でもあった。
   また、函館戦争で敵味方として戦った榎本武揚、大鳥圭輔等の旧幕臣を開拓使に登用したのもこの時期である。黒田清隆の息の掛かった者が開拓使にどんどん集まってきた。

3 北海道の防衛・警備態勢
   明治2年7月8日開拓使を設置。翌8月蝦夷地を11国、86郡に画定し、北海道と呼称されるようになった。開拓使は要所のみを直轄とし、1省(兵部省)、1府(東京府)、25藩、8士族、2社寺(増上寺、仏光寺)に分割し付与した。 
   北辺の防衛と開拓を各藩に分担させるのがねらいである。
   版籍奉還が行われたのは明治2年7月、廃藩置県が行われたのは明治4年である。新国家が建設されたと行っても、明治2年は未だ藩態勢が維持されており、幕政時代同様に各藩に領地を付与する形でないと容易に領民を移動させることができなかった。結果は、財政難を理由に辞退する藩が続出、入植した藩にあっても「武士の集団」と言うだけで兵力としては程遠いものであった。
  兵部省所掌の警備については、会津降伏人約17,000人を屯田兵化し同省直轄地及び樺太に入植させる構想をもっていた。それらの先陣として明治2年9月家族を含めた約700人を小樽に招致したが、開拓使と兵部省の間で対立が起こり、第一陣の700名は余市に入植することとなった。彼らが入植した土地は、黒川、山田村として現在も残る。因みに黒川村の「黒」は黒田清隆の一字を、山田村の山は、この移住に尽力をした大山重の一字を取ったという。
 それ以降の旧会津藩士の入植計画はなく、兵部省直轄地も明治4年開拓使に移管されることとなった。
 では、開拓使が持つ兵力はどうであったかというと、明治元年箱館裁判所~箱館府の時代「箱館府兵」を編成した。なぜ函館とお思いの方もいるかも知れないが、当時、北海道の中心は、函館であり、松前であった。
 「箱館府兵」は、その後、開拓使の時代になり「函衛隊」と改称され唯一の兵力として保持していた。明治3年には「函衛隊」を「護衛隊」と改称し1個中隊174名の部隊に改編した。その他、羅卒(現在の警察官)を要所に配置していたが、いずれにあっても、北海道にある防衛・警備兵力は1個中隊程度でしかなく、とても、北海道の防衛任務を果たせるものではなかった。

4 屯田兵設置の動き
○ 会津降伏人を屯田兵化する構想
  まず、最初に屯田兵設置の必要を訴えたのは開拓使判官岡本堅輔らで、開拓使設置直後の明治2年9月の樺太視察時、樺太南端、宗谷海峡に面する日本国の拠点と言うべき函泊(現コルサコフ)にロシアが権益を拡大する姿を目のあたりにし、丸山外務丞と連名で「会津降伏人17,000人を北海道、樺太に入植させ屯田兵制を敷いて北海道と樺太の緊急の用に当たらせるべきである」と提言している。
  この提言を計画に反映させたのが、前項で記した兵部省所掌の会津降伏人による屯田兵構想である。
○ 西郷隆盛の屯田兵構想
  明治4年、西郷隆盛兵部卿は部下の桐野利明(幕末時代の名は中村半次郎、別名人 斬半次郎と呼ばれた。西南戦争で戦死)に札幌周辺の警備を調査させている。桐野はこの時の調査報告で「札幌に鎮台設置」を復命した。
  西郷隆盛はこの頃『屯田兵設置論』(明治4年8月5日。伊地知正治宛)でロシアの脅威を述べ黒田清隆等に屯田兵の設置を建策している。
  明治6年1月に徴兵令が布告され、明治4年に配置された4個鎮台から6個鎮台に増強されることになったが、西郷隆盛はこの再編に鑑み、さらに1鎮台を増強し7個鎮台として北海道に配置をすべきとの意見述べているが、いずれも実現には至っていない。
  北海道に軍隊を配置出来ない理由は、鎮台を設置するだけの予算がないことにあるが、そればかりではなく、ロシアに対し過度の刺激をあたえないと言うことも考えられたようだ。因みに最初の屯田兵は正式な軍隊ではなく憲兵という位置づけであった。

5 屯田兵設置の要因となった福山・江差の騒擾
  鰊税の課税がきっかけで明治6年5月から6月にかけて福山、江差等道南の漁民等により引き起こされた騒擾である。ことは複雑で、ただ単に漁民の不満が爆発したと言うだけではなく、旧松前藩の正義隊派、佐幕派をも巻き込み、新政府・開拓使に不満を持つ不平士族が漁民等を応援する形で一大騒擾が生起した。
  明治維新は松前の歴史にとって苦難に満ちたものであり、永年蝦夷地で築き上げてきた地位を奪い去るものでしかなかった。当時18,000人の人口を有し、蝦夷地最大の都市でもあった福山(松前)の町は函館戦争でその半分を焼失した。残った地域も、明治3年6月7日の大火で殆どが焼け出されてしまった。
  開拓使の設置と北海道の開発は、内陸部の開発を優先するものであり、農業、鉱工業を中心とする殖産であったため、沿岸の松前は開発から除かれた。また、沖之口役所、場所請負制度の廃止は、松前に入る収入を枯渇させた。
  福山・江差での漁民の騒擾はそんな窮状の中で発生したことを押さえておくことが必要である。
  反対運動の狼煙は爾志郡の熊石村から始まり、それが、福山に伝わり、最終的には江差で約1,000人もの漁民が一揆を起こした。これは、開拓使が所掌する警備兵力では対処することが不能で、仙台鎮台に軍隊の派遣を要請、青森分営の2個小隊の急派を受け争乱を鎮めることができた。
  この時、開拓使長官の黒田清隆は、急遽東京から現地に駆けつけ、事件の後処理を行った。
  折しも黒田清隆が屯田兵設置を切に願っていた時期で、この事件は屯田兵設置への追い風となり、帰朝後直ちに、開拓使東京出張所内に屯田課の設置を指示した。

6 屯田課の設置と屯田兵設置の建議
 開拓使次官黒田清隆の裁量により明治6年6月、開拓使東京出張所内に屯田課が設置された。課のトップは開拓判官の大山重で、課員として開拓七等出仕時任為基、開拓七等出仕安田定則、柳田友郷、開拓大主典永山盛弘、開拓八等出仕永山武四郎等薩摩出身の官史が就いた。
  そして、明治6年11月14日、開拓八等出仕永山武四郎、開拓大主典永山盛弘、同七等出仕時任為基、同安田定則の4名連署で、右大臣岩倉具視宛建議書を提出している。
  この直前の同年8月には、同内容の文面で、前記4名に加えて、開拓判官大山重と開拓七等出仕柳田友郷の6名連署で、「屯田兵を建設する建言」を黒田清隆開拓次官に提出している。
  この2つの建議と建言を基として、黒田次官は11月18日に建白書をなし、右大臣岩倉具視宛に提出した。

「 屯田兵設立建白書」
 北海道及ビ樺太ノ地ハ、当使創置以来専ラ力ヲ開拓二用ヒ未ダ兵衛ノ事二及バズ。今ヤ開拓ノ業漸ク緒二就キ人民ノ移住スル者モ亦随テ増加ス。
  之ノ鎮撫保護スル所以ノ者無カルベカラズ。況ヤ樺太ハ国家ノ深憂タルハ固ヨリ論ヲ待タズ。故二今日ノ急務ハ軍艦ヲ備ヘ兵備ヲ置ク二アリ。抑モ管内鎮台ヲ設ケ自ラ府県ノ法ニ準ジ施行アルヘシト雖モ其ノ全備ヲ求ムルハ費用甚鉅ナリ、容易ニ弁スヘキニ非ズ。今略屯田ノ制ニ傚ヒ民ヲ移シテ之ニ充テ且耕シ且ツ守ルトキハ開拓ノ業封疆ノ守両ナカラ其便ヲ得シ。因ッテ其ノ費用ノ出ル所ヲ計ルニ、当使嚮キニ大蔵省ヨリ借ル所ノ金百四十五万円アリ、其中本子合五十三万四千八百円余己ニ弁償セシ外、本子尚百十八万二千六百七十円余リナリ。
  明年ヨリ三年間ニ当使定額金ノ中ヨリ弁償スヘキ者アリ、今之ヲ移シテ其費ニ充テ、五十万円ヲ以軍艦一隻ヲ外国ヨリ購入シ、之ヲ海軍省ニ付シ専ラ北海道ノ用ニ供シ、旧館県及青森、酒田、宮城県等士族の貧窮ナル者ニ就テ強壮ニシテ兵役ニ堪ユヘキ者ヲ精撰シ挙家移住スルヲ許シ札幌及ヒ小樽、室蘭、函館等ノ処ニ於テ家屋ヲ授ケ金ヲ支給シテ産業ノ資クル別紙ニ載スル所ノ如クシ、非常の変アレハ之ヲ募テ兵ト為スルトキハ其費大ニ常備兵ヲ設クルニ減シ且ツ以テ土地開墾ノ功ヲ収ムヘシ。豈ニ至便ナラスヤ。封境の守、人民保護ノ道一日モ忽ニス可ラサルヲ以テ敢テ建議奏請ス、夫レ非常ノ事固ヨリ非常ノ断ニ非サレハ成ル能ハズ。今日ノ議実ニ己ムヲ得サルニ出ツ。豈ニ尋常成例ニ拘泥ス可ンヤ。伏シテ乞フ、特例ヲ以テ速ニ充裁ヲ賜ヒ大蔵省ニ下令アランコトヲ。
 頓首再拝謹言。
  

  明治6年11月18日
              右大臣 岩倉具視殿
                                 開拓使次官 黒田清隆

7 黒田清隆は開拓使長官兼ねて陸軍中将屯田憲兵事務総理
  黒田次官の建議に対し、太政官は大蔵・陸軍・海軍の関係三省に諮問の結果、いずれの省も屯田兵の設置には基本的に賛成し、同年12月25日には、太政大臣三条実美から開拓使宛に「其使管轄北海道へ・・・・」云々で、原則的に黒田の建議を承認する達書を送り、ここに屯田兵制度の設置が決定を見ることになった。
 明治7年6月23日付で黒田は陸軍中将兼開拓次官に任命され、開拓次官の黒田に直接兵務を兼務させるのではなく、次官を「陸軍官員」に任官させ、その上で屯田兵の指揮権を与えることで、「兵政両岐」の矛盾を解消しようとした。これにより屯田兵の募集と入殖を具現化する道が大きく開けた。これに基づき、明治8年5月札幌琴似屯田が創設された。

8 「屯田憲兵例則」制定(明治8年10月30日)

  緒 言
  開拓ノ業漸ク緒ニ就キ、戸口従テ繁殖ス。之ヲ保護スルノ兵備ナカルヘカラス。故ニ今般政府ノ允許ヲ経、往古兵ヲ農ニ寓スルノ意ニ基キ、屯田兵ノ制ニ做ヒ、新ニ人民ヲ召募、兵隊ニ編入シ、永世其地ノ保護ヲ為サシム。凡ソ其選ニ當ル者専ラ力ヲ耕稼ニ盡シ、有事ノ日ニ方テ其長官ノ指揮ヲ受ケ、兵役ニ従事スベシ。故ニ平生農隙ノ日ヲ以テ調練ヲナシ、極テ闕乏ナキヲ要ス。因テ條例規則ヲ左ニ掲ク。

  編 制
一、屯田兵ハ徒歩憲兵ニ編成シ有事ニ際シテ速ニ戦列兵ニ轉スルヲ要ス

一、上下士官ノ数多キヲ以テ聯隊、大隊等ニ属スル列外諸員ノ内平常ハ格別ニ之ヲ置カサルモノ多シ、故ニ聯隊、大隊ノ長官適宜ニ編成諸隊ヨリ取リテ其員ヲ充タスヘシ

一、屯田兵ノ一伍ヨリ組テ終ニ聯隊ニ至ル即チ左ノ如シ但シ一分隊ハ六伍、

一小隊ハ四分隊、

一中隊ハ二小隊、

一大隊ハ二中隊、

一聯隊ハ三大隊ニシテ之ニ附属スル諸官ヲ合ス者ナリ
   
  一伍 
     準伍長一名、兵卒四名
 一分隊
     六伍
     準少尉分隊長一名、準軍曹二名、準伍長六名、兵卒二十四名 
                                  合計三十三名
  一小隊
      四分隊、
      準中尉小隊長一名、準少尉四名、準軍曹八名、準伍長二十四名、兵率九十六名、喇叭卒四名、
                                  合計百三十七名

  一中隊 
     二小隊
     準大尉中隊長一名、準中尉二名、準少尉八名、準曹長一名、準軍曹十六名、準伍長四十八名、
      卒百九十二名、喇叭卒八名、
                              合計二百七十六名

  一大隊 
      二中隊
      準少佐大隊長一名、準大尉二名、準中尉四名、準少尉十六名、会計方一名、医官一名、
     下副官準曹長一名、準曹長二名、準軍曹三十二名、準伍長九十六名、喇叭準伍長一名、
     兵卒三百八十四名、喇叭卒十六名、
                              合計五百五十七名

  一聯隊 
      三大隊
      準中佐聯隊長一名、準少佐三名、準大尉六名、準中尉十二名、準少尉四十八名、
      会計方準少尉三名、医官三名、下副官準曹長三名、準曹長六名、準軍曹九十六名、
      準伍長二百八十八名、喇叭準伍長三名、兵卒千百五十二名、喇叭卒四十八名、
                              合計千六百七十二名

  検 査

  年 齢 十八歳乃至三十五歳身体強壮ナルモノ

  下士以下昇級法
一、曹長以下ノ欠員アルトキハ之ヲ補フニハ少クモ左ノ時問ヲ経シ者ニ非サレハ之ニ任スルヲ得ス

   伍長 屯田兵トナリテ六ケ月ヲ経シ者

   軍曹 屯田兵伍長トナリテ六ケ月ヲ経シ者

   曹長 屯田兵軍長トナリテ六ケ月ヲ経シ者

   下副官 屯田兵軍曹トナリテ一ケ月ヲ経シ者

 勤 務
一、聯隊長ハ其保護ヲ要スル最大緊要ノ地ニ在テ部下諸大隊ヲシテ個所及連絡ヲ失ハス有事ニ際シテ直ニ一定ノ地ニ集合セシムルヲ要ス

一、有事ニ際シテ集合ノ場所ハ各小隊毎ニ適宜ニ定メ置キ兵卒全ク集合スルトキハ小隊之ヲ引率シテ又各々定メラレタル地ニ到ルベシ

一、屯田兵諸勤務ハ凡ソ憲兵ノ規則ニ據ルヘシト雖モ目下北海道ニ於テハ人民寡少事務閑暇ナルヲ以テ其細目ノ如キ之ヲ行フトキハ却テ径庭ヲ生スヘキカ故ニ各長官ノ適宜ニ処分スルヲ以テ可トスヘシ

一、火災、洪水、其他非常ノ際ニ於テハ屯田兵直チニ其場所ニ出張シ人民ノ危急ヲ救ヒ又其物品保護ヲ為スベシ

一、銃器、農具等ニ損所アルトキハ伍長ニ申出、伍長ヨリ係リ軍曹ニ申報スベシ

一、一ケ月ニ一度伍長ハ伍中ノ武器ヲ検査シ錆、損所、破綻ヲ改ムヘシ

一、練兵ハ十二月ヨリ四月ニ至ル農事ノ間ニ当テ各所ニ中隊或ハ大隊ノ生兵ヲ集合シ生兵小隊撤兵射的ノ演習ヲ一過スルヲ要ス、巳ニ一過セシ兵ニ於テハ農間ニ当リ各長官ノ見ヲ以テ時々復習セシムルヲ以テ足レリトス

  休 暇
一、私用ニテ十里以外ニ出ル者、或ハ一泊ノ旅行ハ小隊長ノ許可ヲ得、二泊以上ハ中隊長ノ許可ヲ得ヘシ

一、定例ノ休日ヲ除ク外開墾地へ出勤スベシ 但シ病気其他事故アル時ハ其長へ届出スベシ

一、年中休日左ノ如シ
     元始祭一月三日
     孝明天皇祭一月三十目
     紀元節二月十一日
     神武天皇祭四月三日
     札幌神社祭六月十五日
     天長節十一月三日
     外ニ父母ノ祭日
     十二月二十七日ヨリ一月七日マデ

  諸給助及貸渡定則
一、諸給与ハ屯田ノ家宅ニ入ルヨリ満三年ヲ限トス

一、疾病アル者ハ給助年限中医薬ヲ給シ死スル者アレバ埋葬料ヲ給スヘシ

一、軍功死傷等ノ処分ハスベテ一般ノ軍隊ニ準スベシ

 官 物

武器 一切

  給与品

農具 鍬大小二挺、砥荒中二個、山刀一挺、鐇一挺、鋸一挺、鎌柴刈草刈二柄、莚一枚

家具 鍋大小二個、釜一個、椀三ツ組三人前、手桶一荷、小桶一具、担桶一荷、夜具(但十五歳以上四布一枚三布一枚、十四歳ヨリ七歳マテ四布一枚、六歳以下給セス)

銭糧米 一五歳以上米七合五勺一日一人分、一四歳以下七歳マテ米五合一日一人分、六歳以下米三合一日一人分

塩菜料 一五歳以上金五拾銭一人一ヶ月分、一四歳以下七歳マテ金三拾七銭五厘一人一ヶ月分、六歳以下金弐拾五銭一人一ヶ月分

移住支度金 一五歳以上一人分、十四歳以下ハ金一円

旅費日当 七歳以上金三十三銭、六歳以下ハ半ヲ減ス

駄 賃 一日十里詰金二円六十銭、一戸馬二匹ノ割、単身者ハ此半ヲ減ス

居 宅 一戸、但家族アル者ハ一戸給シ独身ノ者ハ一戸四人トス給助年限中妻ヲ娶ル者ハ別戸ヲ給シ妻子ノ救助ハ夫ノ満期マテトス

埋葬料 兵員金十三円、家族七歳以上金七円五十銭、家族六歳以下ハ金三円二十五銭

  罰

一、有事、平常ニ関セス凡ソ屯田兵兵器ヲ以テ犯セシ罪科ハ軍律ヲ以テ処分ス其外平常ニ在テ武器ヲ用ヒサル者ハ国憲ニ依テ処分スヘシ

    屯田兵諸官ノ職務

聯隊長: 部下屯田兵諸隊ノ事務ヲ総理シ会計等ノ書類ヲ監シ中隊長以下徴細ノ諸件ニ関ルコト無シ 例年一度適宜ニ集合ノ地ヲ定メ部下ノ諸隊ヲ検閲ス

大隊長: 部下中隊勤務ノ良否及会計書類ヲ監シ、聯隊長ト中隊長ノ中間ニ在テ事務ヲ為シ中隊長ヨリ出ス諸件、書類ヲ聯隊長ニ呈ス

中隊長: 部下屯田兵ノ勤務ヲ指揮シ又専ラ会計諸務ニ任シ小隊長ヨリ差出ス諸件ノ書類ヲ大隊長ニ呈ス、又此官ハ部下小隊ノ人員諸官ノ取締ヲ管理スベシ

小隊長: 屯田兵勤務上ノ細件ヲ管シ之ヲ指揮ス、又分隊長ヨリ出ス勤務ノ書類ヲ検シ部下ノ人員調及諸取締等ヲ司トル

分隊長: 平常諸伍ノ勤務ヲ監シ諸伍ヨリ出ス所ノ書類ヲ小隊長ニ出ス

勘定方: 大隊長ノ指揮ヲ受ケ用度金及諸物品武器等諸入費ノ精算ヲ為シ事務多端ナルトキハ軍曹ヲ以テ助役トス、大隊長ノ文書ハ此官之ヲ任シ中隊、小隊、分隊ノ長官及伍長等ヘ直ニ往復ス、中隊ノ人員及馬匹ノ名簿モ又此官ノ司トル所ナリ

下副官: 大隊長ノ側ニ在テ中隊一般ノ勤務及首地ニ在ル諸伍ノ事務取締等ヲ司トル

軍 曹: 分隊長ヨリ部下ノ諸伍ニ下シタル命令ヲ能ク遵守スルヤ否ヤニ注意シ又諸伍ノ武器、諸器械ニ損所アリテ引換或ハ修繕等ノ願イ出ルトキハ精細ニ之ヲ改メ其破損ノ原因ヲ書記シテ分隊長ニ出シ処分ヲ受クベシ

伍 長: 伍中ノ取締ヲ為シ勤務ヲ指揮シ命令ノ布達等ヲ司トル、晝夜ヲ限ラス差シ起リタル事件アルカ又ハ勤務ヲ為シタルトキハ直チニ分隊長ニ報告ス、至急ノ事件アルトキハ小隊長、分隊長双方ニ報知スルコトアルヘシ、伍長疾病不在等ニ当リテハ古参ノ屯田兵代勤ヲ務ムベシ

9 開拓使本庁内に屯田事務局の開設(明治8年3月15日)
(1)事務局長
      初 代:大山 重 (越前 福井藩出身)
      2代目:堀  基 (薩摩藩出身)
      3代目:永山武四郎(薩摩藩出身)
(2)事務局の業務
       作成中

(3)編成
   明治13年の屯田事務局の編成表添付:作成中

★これを見て分かるのは、琴似、山鼻兵村の下士官は屯田事務局員であったことである。
★屯田兵の階級は准の字が前につく。准陸軍少佐、准陸軍大尉、准陸軍軍曹等。これは、憲兵であるとの意味であり、明治15年に陸軍省所掌となった段階で、この冠詞がとれ、一般の軍隊と同じ扱いとなった。


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