只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

移り変わる風情で、今は雨です。

2016-10-28 10:12:56 | 日記
安納イモを試食で出しています。
昨日もおばちゃんがみかんを買いに来られ、安納イモは
食べたことがないと言われるものですから、蒸かしたイモを冷蔵庫に入れて
あるものを、レンジで30秒暖めて試食してもらいました。
『まあ!美味しい』と2個買っていかれました。笑
もうすぐすると薪ストーブを出しますから
焼き芋鍋を買って、薪ストーブの上で焼きあがりの安納イモを
試食していただこうと思っています。





【雨が降っています。なぜ雨が降るのか?
 私(思考)だったら、もっともらしい理屈を永遠と述べます。
 事実は自然の縁によって起こるだけです。
 縁が無ければ何も起こりませんね。】



“真の自分”と私(思考)を同一化せずに、
ちゃんと「思考自我の声」としての“自覚”があるでしょうか。

この自覚がなく、私と言う自我と同化しているかぎり
いつまでも苦悩が襲い掛かってきます。

ですから日々の日常生活において、自分自身の中にある
思考自我を観ることが大切ですね。

その心眼で観ることによって、除々に私(思考自我)は
自分自身の中から消え去っていくのです。

簡単に言いましたけど、念は自分自身の中で現れては消える雲で
掴みどころが無いそのものです。

しかしその念を現れたら一瞬に取り付くのが思考癖です。
そしてその想念と離れなければ除々に苦悩となっていくのです。

その一瞬に取り付き、頭の中で騒ぎ回る思考癖を
完全に弱めるのが“只なる実践”です。

強大な力を持つ思考自我・思考癖を、削り落とすのは
並大抵なことではありませんが“只、やる!”しかありません。

このブログや禅師、井上御老師の教えを聞いても
あくまでも道標ですのでお間違いなく!

でも“実践”をやり続けているかぎり、必ず目覚めてきて
絶対安心”の境地となります。




只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


 『私等は自分が人であることを知ったとき、この身体が有った事を知りました。
   この身体には生きる術が既存していたのです。それは過去世に於いて
     人類到達までの経歴の中で、生命を維持するための手段、
       方法、技術、機能をきちんと備えた存在だったのです
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
人間として誕生する前から、生命を維持するための手段、
方法、技術、機能をきちんと備えた存在だったと仰っています。

つまり“空”であり“無”であり“神仏”そのものを
指して“ひとつ”ということですね。

すべてはそんなこと思考でわかるはずなどありません。
意識無く“只、感じる”ということです。

“只”や“真実”は思い考えには実在しませんから
体得して感じる以外にはありません。、