只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

山畑の草取り、草刈り大変です。笑

2016-10-21 09:11:32 | 日記

山から移植した南天の小木です。まだ他に移植してありますので
正月頃は見ごろになるでしょうね。




【そんなに急いでどこへ行くという言葉があります。
 ゆっくりしていたら間に合わないのでしょうね。
 でも真実には「急ぐ」も「ゆっくり」もありません。
 そして「どこへ」も無く、いつも“只・今・ここ”だけです。】




すべては“無”であり“空”であるのです。
こんなことを言うとあの人は「頭がおかしいのでは?」と、
この幻想世界では受け止められます。(笑)

しかし、これはこの幻想世界から抜け出せば
すべてわかることですね。
抜け出すということは“真実に目覚める”ということです。

それは難しいことではなく、簡単に言えば「幻想」と
“事実”を見極めて“只、今”に生きるということですね。

真実は“無”であり“空”と例えで示していますが、
これは思考が働かなければ・・ということです。

もし思考が働かないとすれば記憶もなく、
人間として存在もわかりません。

私達は思考が働かない、記憶も無い、
人間として存在もわからないということはありません。

残念ながらあまりにも思考が働きすぎ、
自分として成り代わったことが
問題を抱えることになったのです。

思考と“真の自分”はまったく違って、
「思考は思考」であり“真の自分”は“真の自分”ですね。

しかし、それを思考は一体化しているのです。
思考というのはわからないことや、面倒なこと、
やらなければならないこと、またやりたくないこと等を
感じたら即出てきて、何ひとつ出来ないのに思い考えるのですね。

事実にはわからないことや、面倒なこと、やらなければならないこと、
またやりたくないことなどは何ひとつ無いのです。
もし在ったらテーブルの上に出してください。(笑)

繰り返し述べますが、思考は計算したり
漢字や英語を書くときに使用するもので、
使い終わったら“空”に帰属するものです。

“真の自分”はこの世界で現わす思考の自分ではなく、
例えば、“無”であり“空”であり、大自然であり
宇宙であり、神仏であり“すべてがひとつ”ということです。

この身体は“真の自分”から生かされているのですね。
思考で生きているのではなく、“空”気が無かったら
この身体は生きていけません。

弛まぬ“只なる実践”がこれを教えてくれます。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


  『認識したらもう迷いが始まってしまうのですから、
  もはや解決がつかないのです。何故一大事因縁なのかというと、
  生きながら身体を超えて行くことであり、身体を忘れることであり、
   捨てる道だからです。「只」一息が大変なことですから、
  軽く見ないことです。真剣にやっていけば、「只」に近づき、
   「只」一呼吸が出来、「只」見れるようになるのです
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
真実に出会うことがないのは、認識が邪魔をし
事実を覆いかぶすからです。

ですから真実に出会うということは、
認識する思考を忘れ去ることです。

簡単に言うと認識しない、浮かんだ念に取り付かないということです。
そのためには“只”の一息の継続が重要になってきます。

余談ですが、私の下手な唄も継続することで、
うまく聞こえるようになりました。(爆笑)

これからも身体の柔軟も、最近始めた口笛演奏も
工夫の継続をしていきます。
人生楽しんで流れていきましょう。