只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

今、今、今と流れて行く世の中ですね。

2016-10-17 10:18:22 | 日記

【つらい時はゆっくり休むのです。頑張ったら尚つらいです。
 調子いい時は調子よく頑張るのです。】


山頂に登るには、一足飛びに駆け上がることはできません。
やはり麓の登山口から一歩が始まります。

「早く頂上から周りを一望したい」と思うのは
思考自我です。
これがあるから山登りは大変だ…大変だ…になるのですね。

もし無かったら只の一歩、只の一歩と足の動きになるのです。
そして頂上に登り着けば、何ともいえない達成感が
訪れるのですね。

すべてのことがそれと同じです。
「お金が欲しい」と思っても『それでは・・はい!』と
出てくるわけではありません。

主に働いた労化で『お金』が戴けるのですね。
また『お金』、『お金』と先走っていると『お金』は逃げていくのです。
「お金ゲーム」になってしまうのです。

例えばパチンコですが、パチンコ店がみすぼらしい
造りの建物でしたら誰も入店はしません。

やはり豪華な造りの煌びやかなパチンコ店を選んでいます。
その豪華な造りの建物は、せっせとお客さんが
儲けようと思って注ぎ込んだ、
お金で運営されていることもわからないのです。

お客さんはそして負けた負けたと言って
ぼろくそ!言っているのです。(爆笑)

反対に、パチンコ店は儲ければ『お客さんは神様!』と
褒め称えています。(爆笑)

別にこれでいいのですが、幻想世界というのを
わかっていないと問題が起こるのですね。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


  『見るままが禅修行です。そうしたら犬の死骸を見ようと、
  糞を見ようと、食べ物を見ようと、何を見ようと目に映るままであれば、
      一切の迷いは起こらない
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
何かを見て思考に繋いだが最後、心は自我に
もてあそばれます。

ですから見て見ない、見たまんまの状態で
思考に繋がないということです。

それと同じく聞いても聞かないことです。
これも“只なる実践”です。

“実践”で思いを落とさなければ、いかに思考が
思いのままに心を掻き乱すかということです。

以前にも述べましたが、思考は例えば道具なのです。
釘を打つトンカチという道具で、打ち終わったら
道具箱に入れて片付けて置くものです。

残念ながら、思考という道具は事あるが如く出てきて、
頼みもしないのに自分勝手に荒らしまわるのです。(笑)

この思考癖という暴れん坊を収めなければ
心穏やかな“絶対安心”の境地は訪れません。

ですから何をおいても実践ですね。