只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

身体の痛みが無いということはあり難いことです。

2016-10-23 08:30:41 | 日記
安納いもを売り場に並べてみました。
焼き芋にして食してみましたがとても美味しかったです。
後1週間ぐらい干して置くと更に甘みが出るのではないでしょうか。




【「困ったことが起きた・・」と思っているのは
  思考ですね。縁で起こる当たり前の現象をあれこれと
  自分勝手に創作するのです。そして苦悩になるのです。(笑)】


『今あったこと』は『今あったこと』で
それでお終いなのです。もう“無い”のです。

1秒以前の過去にあったこと《念》を、
まだ「在る」として自我思考に繋いでいるのです。

もう“無い”のにまだ「在る」とするからパラドックスになり
苦悩に陥るのです。

『パラドックス』はご承知のとおり、
“無い”のに「在る」・「在る」のに“無い”という迷いです。
すべて思考自我の創作です。

「在る」のに“無い”という『パラドックス』ですが、
例えば「明日は旅行だということで準備しなくちゃ」と
いうことは、明日は旅行が「在る」のですが
今は“無い”ということですね。

来月は結婚式が「在る」のですが、今は“無い”と
いうことです。

フランスという国は「在る」のですが、事実には“無い”と
いうことです。

チンゲン采の種は「在る」のですが、チンゲン采の葉は
“無い”ということです。

また同じことで私の自動車は、今は“無い”ですが
車検に出しているので「在る」のです。

今度のボーナスは、今は“無い”ですが
会社が高収益を出しているので「在る」のです。

家内は家庭にいます。
子供は学校に行っています。
家には二匹の猫がいます。
今度はアメリカに旅行に行きます。
これらはすべて思考の創作で事実とは違います。

思考は約0,01秒で幻想を創作して事実にするから
『パラドックス』になるのです。

弛まぬ“只なる実践”を継続というか、
今、今、今を離さぬようにしていますと、
約0,01秒の創作が例えば約0,1秒になり、
幻想と完全にわかる約1秒までになってきます。

ですから『今あったこと』は『今あったこと』で
それで“始終”になり、もう“無い”とわかるのです。

ですから“無いものは無い”が真実ですね。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


  『善悪はその時、その人の都合で決めることです。
  謂わば身勝手な個人的価値観であり、場合に拠れば
 排他的価値観と言うべき作用です。要するに拘りとはその事ですから、
 まさに自己本位の拘りの元です。善悪に本質的な者は何もありません。
 決定的に全て無自性空であり、因縁所生の法です。姿形の実体が無いから
 これが絶対に正しいとか、これが絶対に悪いとかはこの世に存在しないのです
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
「善悪」は思考世界のことですね。

自己中心的な捉えかたをし、他を排除する考えなのです。
これは善いことである、これは悪いことであると
幼い頃から教えられてきたのです。

これが観念となり現在に至っていますから
その事ですべては捉える癖があって
例えば戦争は悪い、平和は善いとなるのです。

戦争は悪ければ、どこの国もするところが
無いはずです。しかし世界各地で起こるのです。

ここでなぜ起こるか、その根源を探ってみると、戦争は悪いと思って
やる国などありません。どこの国も正義のためであり
これを守るためにやるのです。

つまりお互い正義と正義の戦いなので、自己主張の
戦いとも言えるのです。

ですから逆に、お互い自己主張を切り捨てれば、
話会いで戦争を止める事ができるのです。

「善悪」は私(思考)が創った幻想ということになります。
事実にはありませんね。

これに目覚めるまで弛まぬ“只なる実践”です。