人材マネジメントの枠組みに関するメモ
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(続き)
中村邦夫元社長(現会長)は松下幸之助の「実践経営哲学」を座右の書としていたということがわかった。(以下引用は「実践経営哲学:松下幸之助:PHP文庫」より)

  • 正しい経営理念というものは、・・・限りない生成発展ということがその基本になるのではないかと思う。この大自然、大宇宙は無限の過去から無限の未来にわたって絶えざる生成発展を続けているのであり、その中にあって、人間社会、人間の共同生活も物心両面にわたって限りなく発展していくものだと思うのである。
  • そういう生成発展という理法が、この宇宙、この社会の中に働いている。その中でわれわれは事業経営を行っている。そういうことを考え、そのことに基礎をおいて私自身の経営理念を生み出してきているわけである。たとえば、資源の枯渇ということがいわれている。もう何十年かしたら資源がなくなってしまう、そうなると人間は生きていかれなくなってしまうというような極端な考え方もある。
  • しかし、私は基本的にはそうは考えないのである。確かに、個々の資源というものをとってみれば、有限であり、使っていくうちになくなるものも出てくるだろう。けれども、それにかわるものは人知によって必ず生み出し、あるいは見出すことができると考えるのである。・・・限りない生成発展ということが、自然の理法、社会の理法として厳として働いているからである。
  • 自然の理法、社会の理法は限りない生成発展ということなのである。その社会を形成している大衆の求めるところも、基本的にはそれからはずれるものではない。
  • 経営というのは、天地自然の理に従い、世間、大衆の声を聞き、社内の衆知を集めて、なすべきことを行っていけば、必ず成功するものである。その意味では必ずしもむずかしいことではない。しかし、そういうことができるためには、経営者に素直な心がなくてはならない。・・・世間、大衆の声に、また部下の言葉に謙虚に耳を傾ける。それができるのが素直な心である。

水道哲学の根底には、この「限りない生成発展」という哲学がある。それが水道哲学を奥のあるものにしている。その哲学は、人間の持つ「原罪」意識をあっけらかんと脱ぎ捨てた、底抜けの楽観論の哲学である。

「日本人が牛肉を食べられるようにする」・・・中内ダイエーの創業理念、流通革命の理念ともまた違う。中内ダイエーの場合には、戦争中のジャングルの彷徨、終戦後の神戸から這い上がる怨念、ルサンチマンが感じられるが、それとは違う。

「世界の全ての知識をデータベース化して全ての人がアクセスできるようにする」・・・Googleの楽観論ともまた違う。Googleの場合には、良いとか悪いとかいう価値判断を超越しており、それによってユートピアが開けようが、終末が急速に近づこうが、あるいはその両方だろうが、そのようなことにはお構いなく科学技術の必然を突き詰めようという、あっけらかんとしたものがある。

これは宗教である。そして、(自分がたまたま伝統的キリスト教徒なので言うのだが)エセ宗教である。人類が、哲学的にも神学的にも神概念を用いる以上は必ず突き当たってきた「神との亀裂」という問題を飛び越えて、「あなたの罪はゆるされた」と大衆に宣言する、宗教革命である。

伝統の参照もしなければ、哲学的考察にも基づかない、一つの託宣によって、全ての問題を解決したのである。そこには、何もない。(PHPが世界に討って出ようとして、いかなる哲学学校に行っても、神学校に行っても、「何もない」と言われると思う。)松下の本質の残像が浮かばない、イメージすることができない、というのは当然であった。

プラズマテレビやデジタルカメラの新製品を全世界市場に同時に行き渡らせるための壮大な総力戦が終わり、その先のヴィジョンが問われる時期がすぐそこに来ているものと推察する。そしてその時、その先には実は何もなかった、ということになる可能性も高いと私は思っている。なぜなら、私にはそこに何かがあるとは想像できないからだ。松下はこれまでに築いてきた全てを用いて復活はしたが、そして上向いてはきたが、しかし、その先でストンと落ちるのではないだろうか?


しかし逆に、何も見えないことにこそ、松下が最後まで生きるかもしれない理由がある。(見えるものは滅びる。)まだ存在しない未来のことなのになぜそこに何もないと思うのか?何かが見えないとそこには何もないと思う・・・それこそが私の弱さであり、人間の弱さではないのか?

悲観指向、固定観念、疲労に身を委ねる死への性向を洗い落とすことは、いかに困難であることか。いかに人間は自ら破滅に向かって生きていることか。いかに瞬間、瞬間、人は自ら破滅していることか。

松下幸之助の理念には心が洗われる。ああ何と自分はひねくれていることだろう。世界は日々終末に向かい続けていると考えながら未来が開けるだろうか?思考が停止せずに先に進むだろうか?人がついてくるだろうか?・・・ああ俺も日々松下幸之助の理念をシャワーのように浴びながら、素直になろう。

そして、世界の大多数の人間は、太古の昔から、世界は終末に向かっていると考えてきたのである。(そしてその先のことを考えてきたのである。)・・・これが松下の競争優位の源泉でなくて何であろうか?

最後まで残るものは、「こだわり」でも「面白さ」でも「ヴィジョン」でも「メソッド」でもない。主観的なヴィジョン、イメージや構成物は滅びる運命にあるが、その時にも顧客はそこにいる。ソニーよりも、トヨタよりも、ホンダよりも、松下は長く生きるのではないだろうか。

(業種業態が松下に近い)フィリップスは、これからのメーカーの生存領域として、先進国においては医療分野、そして生活の質を高める照明分野、途上国においては省資源の家電へ、と舵をきったようである(2006/7/24号P.66)。フィリップスが生きていけるのならば松下が生きていけない筈がない。「衆知を集めた全員経営」で生成・発展し続けていくのであろう。

松下幸之助の理念は、キリスト教文明をもイスラム教文明をも、そして、ルサンチマンを捨て切れなかった共産主義をも超えている。文明の衝突を超える次の理念こそは、松下の理念である。



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