オミクロン感染が岡山でも増え、高齢者施設にも感染者がたくさん出ています。
母が一昨年の12月に、完全な寝たきりとなってからは、
私はリビングのソファにゆっくりと座ったことはないです。
家の中は片づける時間がないから、めちゃくちゃですが
母が死んだら片づけられる。
母は昨年の今頃は、
2月初めの誕生日は迎えられるか?わからない状態で
夜のチェーンストークスが続き、
いつ死ぬか、いつ死ぬか、という状態であったから、
私は母の隣で寝起きして
いつ死んでもいいように、
徳島ハリストス正教会の小川神父様から教わった、
亡くなる時に、仏教でいうところの
引導を渡せるよう
私の心身を準備していました。
そんな状態の中でも、
私が、少しのおかゆなど母にあげると
いらないとは断らなかったので
食欲はある、ということは、
ひょっとして、大丈夫なんじゃないか?と思い始めました。
母の訪問診察医からは、
在宅で死なせる予定だから、
救急車は呼ばないで、とか
最期の呼吸はこうなる、とか
医者が来るのが間に合わない時に、最期に少しでも楽になる薬のセットとかを渡されていたし、
医者も看護士も2月まではもたないだろうと思っていたが、
私は自然にまかせていました。
神様、母を生かしてください、
と祈ったことは一度もない。
神様、おまかせします、と何度もお願いしました。
神様しか死ぬ時期は知らないんだから、おまかせでいいんです。
そうしたら、
食欲が全く落ちないので
あれっ?
ひょっとして生きたい?
という感じになり、
みるみる元気になり始めたのが、昨年の1月末です。
これには、医者も看護士も驚いた。
病院や施設にいたら、死んでいただろうと思う。
死にかけと判断されて、飲食はほとんどなくなり、
点滴状態となり、弱って死ぬ。
今でも母が生きているのは、
時間は関係なく、私が母の様子を見て
飲食を与えているからだと思う。
早朝でも、深夜でも、全く関係なく、
母が食べたい時に食べさせて
お茶など飲み物をたっぷりとらせている。
寝たきりとなったが、
母の身体はまだ消化できる身体なのだ。
食べて、飲んだら生きる。
訪問看護士さんたちがかわりばんこに週に2回きて摘便をしてくださる。
床ずれの大きなものはない。
訪問入浴の看護士さんやスタッフの方々には、心から感謝しています。
聖職という言葉がぴったりです。
私の身体は、おかげさまで、
重度のぎっくり腰から回復して、
コルセットは今はつけていない、
筋肉量も増えてきて、
歩いていける場所には、なるべく歩いて行く、
母の介護と同時に自分の介護予防をしなくてはならないから
毎日の体力作りは欠かせない。
母の在宅介護で得た知識が私に役立っています。
昨年、母を預けて離れたのは、
ペースメーカーの入れ替え手術の1週間だけです。
ずっと母の隣で寝ているけど、
これが苦なくできるのは、
若い時に、自分のしたいように制作し、仕事をして、
外に散々、出ていたこと、
年をとれば、出なくなるだろうと考えていたから、
今は家でマイペースで仕事ができています。
私が40代の時に、
将来の介護を予測して、
若い時にがんばって自分のスタンスを作っていてよかったと思いました。
その考えは、小学生の時に私はヤングケアラーだったから。
母も仕事をしており、
祖母の布オムツを干してから、学校に通ってましたから、
介護は当たり前と思ってました。
ですから、若い時から、介護を忘れたことはない。
母を介護したことで、私も生きながらえたように思います。
今年、60歳になりますが、
毎朝、起きた時に、
身体が動く、と確認しますが、
それだけでもありがたく、うれしいです。
「介護漬けでかわいそう」と、よく言われますが、
実は、私が先に死ぬところを、
生かしてもらっているんじゃないかと思います。
若い時に散々、やりましたからね。
今は、ババアなりの生き延び方をしています。
ミュンヘンやヒューストンでのキルト展示をしておいてよかったな、
今はいつできるか、わかりませんから。
したい時にしなくちゃ、できなくなるって、
本当にそうだと思います。
パッチワーク業界も今は虫の息です。
見たことのある作品がフリマサイトにたくさん出ています。
コロナは最低5年続くと言われていますが、
もう2年少し過ぎました。
まだまだ、続くだろうと思います。
みんな、大変な状況は同じですから、
慌てず、じっくり考えた生き方をした方がいいです。
将来って、どうなるかわからない。
わからないから、
私は、じーっと考えながら行動する。
若い時から変わらない。
みんな、ババアやジジイになるんだからね、
じっくり生きなきゃ損よ。
おかげさまで、
母は90歳のお誕生日を迎えられそうです。