マンション改修工事の真っ最中、高知では「シネマの食堂」という催しが始まった。
正式名称は「高知県映画上映団体ネットワーク」とか。「高知県内でオフシアター上映会を主催する自主上映サークルなどが、お互いに協力し、宣伝し合っていこうということで2008年1月に発足」した大掛かりな企画だ。(「シネマの食堂」応援HPより。 http://homepage1.nifty.com/cc-kochi/index2.html )
5月初めから3ヶ月、高知県内のあちこちでさまざまな映画(24本!)が上映され、共通の小冊子が用意されていて、スタンプ・ラリーも出来たりする・・・というのだけれど、私は4月末から1ヵ月、とにかく映画と名のつくものを全く見なかったので、「シネマの食堂」に足を運んだのも5月下旬になってからだった。(会場で初めて見つけたその「小冊子」が、とても見やすく感じがいいのにも、私はちょっと感動した。先ほどの「応援ホームページ」もそうだけれど、いかにも映画が好きな人の意向でデザインされたものという感じがしたのだ。)
残念ながら今の私は、ちょっとオナカも本調子じゃなくて、どんなメニューでも食べられる・・・という訳にはいかない。分量も、そう沢山は食べられない。(市内の映画館で以前から観たいと思っていた映画がやっと上映されても、少なくとも2週間はあるというのに、次から次へと見逃していく。)
それでも何本か、今の私でも美味しく食べられて、十分消化吸収可能な作品に出会った。「オナカに優しい」映画といっても、勿論「他愛無い」という意味では全くない。ハッピーエンドとも限らない。ただ、どちらかというとこじんまりした、限られた範囲内での出来事、人間を描いた作品が多かったとは思うけれど。
この間不思議なくらい、そういう映画にばかり出会ったのは、これはこれで神サマからの贈り物のような気がするほどだった。
『アレクセイと泉』
「引越し」直前のドサクサの中、題名しか知らないこの映画を、なぜ観に行く気になったのか分からない。ただなんとなく胸騒ぎがするというか、行った方がいいような気がした。(私は自分のこういう直感を、努めて大事にするようにしているので、外れても腹は立たない。)
そして今、もし「今年に入って観た映画で、あなたにとって最も印象に残っている作品は?」と訊かれたら、私はこの静かなドキュメンタリーを挙げそうな気がしている。
作品の舞台は、チェルノブイリの事故から14年経った、ベラルーシの小さな農村。
そこでは、今もあちこちで放射能が検出されるが、村の大事な「泉」の水からは全く検出されず、55人の老人と1人の青年(アレクセイ)が、今も昔ながらの自給自足の生活を続けている。金銭を必要とせず、「労働がそのまま食べること、生きることそのもの」だという、しかし泉からバケツで水を汲んでくることが出来なくなった者は、そこには住めなくなるという生活・・・。
かつて600人が暮らしていたという村で、事故の後も村に残ることを選んだ老人たちと、たったひとりで村の力仕事を引き受ける暮らしを選んだアレクセイ。彼らがそれぞれ、なぜそういう選択をしたのかを、映画は日々の生活風景を映した美しい映像と、アレクセイの素朴なナレーションで、淡々と語ってくれるのだけれど・・・。
この作品は「いのちの水」をテーマにしたドキュメンタリーだと後から見たチラシにあったけれど、私の眼には人間の歴史であり、詩であり、絵画であり、哲学であり、文学でもある・・・というような、芸術作品としか言いようのないものに見えた。エンディングで使われている「泉」の水の湧き出る映像と音楽(坂本龍一の名前もここまで来て知った)に象徴されるような。
そして何より、私にとってはアレクセイという人の魅力が圧倒的だった。
私の勘違いかもしれないけれど、軽い言語障害とマヒがあるように見受けられる36歳の彼は、「力仕事が可能な年齢」のたった1人の男手として、事故後、村に残る道を選んだ理由を、自分の中を確かめるような口調でこう語る。
「人は自分の運命からも、自分自身からも、逃げることはできない。」
もしかしたら、泉が自分を村に残したのかもしれない。泉の水が、自分に流れ込んでいるような気がすることがある・・・と言う彼は、たまのピクニックの時は、大きなヒキガエルを手のひらに載せ、「お姫さま、どこにいくの?」と、信じられないほど無邪気な笑顔を見せる一方、人を避けて暮らす(おそらくは統合失調症の)村人のことを「老人たちは聖人と呼んでいる。親しくなると色んなちょっと不思議な話を聞かせてくれる。ずっと聞いていたくなるような気分になる。」と説明する。
借り物の知識から来る先入観や偏見抜きの、そこはかとないユーモアを感じさせる彼の言葉は、自分の眼で見て、自分の感じることを土台に、自分の頭で考えてきた人の魅力に満ちていた。
40年以上昔、同じ「湧き水の地」で子ども時代を過ごした私には、村の生活の大変さも想像できるところがある。決して頑丈でない私などは、これをそのまま「人間らしい生活」として全面肯定など、したくても出来ない。しかし、放射能を理由にこの人たちを村の生活から引き離すことは、もっと出来ないことだろう。(例えば、放射能のリスクを最も重く背負っているのは、残りの人生の長いアレクセイ自身なのだ。)
村を離れた若い人たちも、夏の休暇や収穫の時期には、家族ぐるみで農作業の手伝いにやってくる。老人の孫たちも、収穫されたじゃがいもや小麦、鶏の肉などを食べている。これが今の日本だったら、小さい子どもの親が、たとえ祖父母の作ったものだとしても、食べることを許すかどうか・・・と、ふと考えてしまった。(勿論、そのどちらが良いとも、私には言えない。)
「この百年で、人が得たものと失ったもの」を、これほど静かに考えさせる映画に出会えたのは、私にとっては本当に幸運だったのだと思う。
『 once ダブリンの街角で』
1ヶ月映画から離れていた後で、最初に観に行ったのがこの作品。例によって予備知識があまり無かったので、観始めてから漸く、これがとてもよく出来た「音楽映画」なのだということに気づいた。
とにかく主人公が路上で、自分の部屋で、そしてスタジオで、(なぜか手元に穴の開いた)ギターを弾きながら歌う、歌の数々が素晴らしい。
メロディアスな、いかにも所謂シンガー・ソングライターの作ったエモーショナルなラブソング(と、最初私の耳には聞こえた)みたいなのだけれど、歌詞に共感できるものがあって、しかも歌い方に、押しつけがましさとは違う種類のカリスマ性というか「説得力」があるのだ。(私はこの人が、アイルランドの有名なバンドのギター兼ヴォーカルだなんて知らなかったけれど、自分で作った曲を歌っているという確信を即座に持った。)
ヒロインの移民女性が楽器店で弾かせて貰うピアノの音色といい、こういう「ただ自分に向けて紡ぎ出されるアコースティックな音楽」を、私は最近あまり聞いたことが無かったのかもしれない。
そんな音楽同様、ストーリーも、いかにも「人の手でひとつひとつ作った」雰囲気が感じられる。ステロタイプとは違う世界というか、明らかにフィクションなのになぜか「演じられている」気がしないというか・・・観ている間ずっと、なんだかダブリンの街角に自分が居るような気がした。
家政婦?をしている彼女が壊れた掃除機をゴロゴロと引きずりながら、主人公と街を歩くのも、大型のオートバイ(私には判らないけれど、きっとビンテージもの)で海を見にいくのも、深夜音楽を愛する人たちの集う店の様子も、それぞれセンスが感じられ、しかも素朴で、なぜか私にはとてもリアルに見えた。
決してスィートではない作り手の視線を感じさせる会話の数々、そして結末・・・なのに、私にとっては「コトコト弱火で煮込んだ、たっぷり野菜のあったかいスープ」のような、まさに「オナカに優しい」映画だった。
『スパイダーウィックの謎』
先に観にいった家族2人は、それぞれちょっと首をかしげながら、「エンディングのスプライト(花の精?)なんかがホントに綺麗だった。」とか、「ファンタジーっていうよりシリアスな『ホーム・アローン』って感じ。」などなど。それでも一応褒めている気配を感じたので、最終日近くにシネコンまで観にいった作品。
彼らがすっきり「良かった」「面白かった」と言わなかった理由は、観ているうちになんとなく分かった気がした。
多分、ちょっと「こじんまり」としていすぎるのだろう。ファンタジーにしては、あくまで現実から離れようとしないというか、場面の大半を一軒の家を中心に半径せいぜい1キロ以内?という範囲に限定して、せっかく出てくる魔法の道具もレトロというか素朴で小さく、彼らにとってはちょっと物足りない感じがしたのかもしれない。(『指輪物語』や『ナルニア』に郷愁を感じるような人には特に。)
私にとっては、逆にその「小ささ」が良かったのだと思う。今の自分にはこれくらいのサイズのファンタジーが合っているんだなとしみじみ思った。
「どうせ作り物なら、これくらい美しいものを見たい!」と、見た直後のメモに書いてあるほど、辺りの景色や「良い妖精」たちの映像は美しい。
一方、「悪い妖精」となると、ゴブリン、レッドキャップは(小さいから?)まだマシとしても、トロールやボスのオーガに至っては、外見の気持ち悪さも破壊と暴力の凄さも相当なもの。なのに、観にいった家族の1人曰く、「生命の危険を全く感じない(笑)。」。
と言っても、子どもだましで白けるというような意味じゃあない。主人公たちの運命は一転また一転、ほとんど息を吐くヒマも無いというか、十分ドキドキさせられる。ただ・・・あの「目を背けたくなるような暴力!」という感じが皆無なのだ。(なんせ肝腎のボスときたら、最も凶悪な姿の時でさえ、人間の姿の時を演じているニック・ノルティに顔がそっくり?で、ついユーモアを感じてしまう。)
私はこの映画を観て、自分が『パンズ・ラビリンス』を「頭の中で凍結させてしまった」理由が、少しだけ分かったような気がした。
私はどんな怒り、どんな破壊、どんな暴力であれ、それが「人間」によるものだからこそ恐ろしいと感じるのだろう。『パンズ・ラビリンス』の人食い鬼も、そもそもパン自体も、人間の邪悪さを感じさせるために、私はあれほどゾッとしたのだと思う。勿論、あの「壊れている」将校の行為などは、そもそも「人間の残虐さ」そのものだったのだけれど。
この『スパイダーウィック』では、妖精たちはあくまで「妖精」であって、やることなすこと人間臭いのに、生身の人間の邪悪さといったものは全く感じさせない。彼らは正に、彼ら自身が望まない限り人の眼に触れることのない、「人間とは別の生き物」にしか、少なくとも私には見えなかった。
私が本当に怖いと思うのは、「人間」から発するモノ・・・でも、それはどうしてなのだろう・・・そこまで来て、私はふと思った。
もしかしたら、擬人化された「妖精」その他を想像できる年齢に達する以前に、私は「人間」の形で、「モンスター」に相当する生き物を、それも日常的に見てきたのかもしれない。自分や周囲の人間に向けられる、同じ人間の姿をした生き物たちからの不可解な笑い、突然の、それも凄まじい怒り・・・。
この歳になっても、私が「ダーク・ファンタジー」と呼ばれるような作品を観る際、始めから終わりまで緊張のしっ放しになるのは、「ダーク」というのが多かれ少なかれ、人間に由来しているように見えるからなのかもしれない。
『スパイダーウィックの謎』は、私の眼には、人間の邪悪さが本質的には全く投影されていない、さまざまな「悪役」モンスター相手の、子どもたちと「親切な」妖精の連合軍の闘いを描いた作品だった。いかにも「安心して子どもに見せられる」ような映画だったとも言える。それなのに、私にとってこの映画が驚くほどリアルだったのは、例えば「親切な妖精」たちの気配を、幼い頃からふとした時に、実際に感じてきたからかもしれない。
残念ながら、当時の私にとって、彼らは「人間」という名のモンスターの圧倒的な恐ろしさとは次元の違う、ごくごくささやかな存在だった。私はそういった「人間」とは無縁の世界で、この映画に出てくる子どもたちのように、彼らと思う存分駆け回ってみたかったのかもしれない。
『勇者たちの戦場』
この映画を「オナカに優しい」というのは、ちょっとヘンと思われるかもしれない。けれど、上映会場でのアンケートに、私は「静かな映画を観たと思いました。作り手の語り口の静かさが、なんだか胸に迫って・・・」といったことを書いたと思う。
実は私は、主催者によるこの映画の紹介を読むまでは、アメリカの「州兵」のことをほとんど知らなかった。(存在を知っているだけで、とにかく国外での戦闘に駆り出されることなどあり得ない人々と、なぜか思い込んでいたのだ。)彼らは職業軍人でも徴兵されたのでもない、仕事を持っていたり学生だったりする、所謂「一般市民」なのだということを、私はその文章で初めて知った。
実際、この映画に登場するイラクの戦場から帰国したワシントン州の兵士たちのその後は、私には「同じ今を生きる人間同士」としか言いようのないものだった。
それぞれの事情、考えがあって志願したとはいえ、おそらく、本当になりたくてなった兵士たちではないと思う。それでも九死に一生を得て母国に帰ってみると、戦争反対の機運が高まっていたり、元の職に戻れる筈がそうではなかったり・・・何より自分自身がもう、精神的には勿論、ある者は身体的にも、「元の自分」ではなくなっている。すんなり元の人生に戻れる筈がないのだ。
家族や友人がいても孤立や孤独を余儀なくされる一方で、戦場での体験によるPTSDに苦しむ彼らが、どうやって自分自身、自分の人生を取り戻し、混乱した「今」を「明日」に繋いでいくのかを、イラク戦争の是非を正面きって追及するのとは違ったやり方で、この映画は「静かに」描いて見せているように、私には感じられたのだと思う。
彼らの怒り、孤独、苦しさは、殆ど常に国外のどこかの戦争に関与しているかのようなアメリカという国で生きる人たちのものではあっても、それはそのままかつての、或いは現在、そしておそらくは近い将来の、私や私の家族、友人、知人、その他に共通するものだと、私は映画を見ながらつくづく感じた。そして、ちょっと前『大いなる陰謀』を観て、微かな違和感を感じたのを思い出した。
『大いなる陰謀』は、イラクではなくアフガン関係の話だったけれど、ベトナム以来アメリカが関わってきた世界各地での戦争について、さまざまな立場の登場人物たちが真剣に議論する。それはそのまま、作り手の真剣さでもあって、私はレッドフォード監督の熱意と迫力に敬意を感じたけれど、それとは別に、寧ろ指揮を執っている軍人などの方に、シンパシー?も感じた。彼らの方が「戦争の現実」を、生で知っているように見えてしまったのだと思う。
それくらい、知識人や学生たちの議論は、話としては面白くはあっても、私の現実には響いてこなかった。上手く言えないけれど、「戦争」がこのレベル(話し手たちのの階層、議論の内容、両方について)で語られている間は、アメリカはこれからも「正義のための戦争」を続けていくしかないのかな・・・といったような気分に襲われた。(こんなエラソーなこと書いていいのかしら・・・。でも本当に、あの時そう思った。)
識者が大局的な見地から、歴史上での「現在」の位置を見極めた上で、「この戦争をどうするべきか」を考えるのは重要なことであり、それが本当に出来る人たちにこそ、やってもらいたい・・・と、そんなことは到底出来ない私は思う。私などが「戦争」をそんな大きなサイズで考えたら、絶対判断を誤るという予感がある。
この『勇者たちの戦場』は、市井の人の現実だけに焦点を当てて作られているからこそ、「戦争の現実」の一端を私に見せてくれたのだと思う。
正式名称は「高知県映画上映団体ネットワーク」とか。「高知県内でオフシアター上映会を主催する自主上映サークルなどが、お互いに協力し、宣伝し合っていこうということで2008年1月に発足」した大掛かりな企画だ。(「シネマの食堂」応援HPより。 http://homepage1.nifty.com/cc-kochi/index2.html )
5月初めから3ヶ月、高知県内のあちこちでさまざまな映画(24本!)が上映され、共通の小冊子が用意されていて、スタンプ・ラリーも出来たりする・・・というのだけれど、私は4月末から1ヵ月、とにかく映画と名のつくものを全く見なかったので、「シネマの食堂」に足を運んだのも5月下旬になってからだった。(会場で初めて見つけたその「小冊子」が、とても見やすく感じがいいのにも、私はちょっと感動した。先ほどの「応援ホームページ」もそうだけれど、いかにも映画が好きな人の意向でデザインされたものという感じがしたのだ。)
残念ながら今の私は、ちょっとオナカも本調子じゃなくて、どんなメニューでも食べられる・・・という訳にはいかない。分量も、そう沢山は食べられない。(市内の映画館で以前から観たいと思っていた映画がやっと上映されても、少なくとも2週間はあるというのに、次から次へと見逃していく。)
それでも何本か、今の私でも美味しく食べられて、十分消化吸収可能な作品に出会った。「オナカに優しい」映画といっても、勿論「他愛無い」という意味では全くない。ハッピーエンドとも限らない。ただ、どちらかというとこじんまりした、限られた範囲内での出来事、人間を描いた作品が多かったとは思うけれど。
この間不思議なくらい、そういう映画にばかり出会ったのは、これはこれで神サマからの贈り物のような気がするほどだった。
『アレクセイと泉』
「引越し」直前のドサクサの中、題名しか知らないこの映画を、なぜ観に行く気になったのか分からない。ただなんとなく胸騒ぎがするというか、行った方がいいような気がした。(私は自分のこういう直感を、努めて大事にするようにしているので、外れても腹は立たない。)
そして今、もし「今年に入って観た映画で、あなたにとって最も印象に残っている作品は?」と訊かれたら、私はこの静かなドキュメンタリーを挙げそうな気がしている。
作品の舞台は、チェルノブイリの事故から14年経った、ベラルーシの小さな農村。
そこでは、今もあちこちで放射能が検出されるが、村の大事な「泉」の水からは全く検出されず、55人の老人と1人の青年(アレクセイ)が、今も昔ながらの自給自足の生活を続けている。金銭を必要とせず、「労働がそのまま食べること、生きることそのもの」だという、しかし泉からバケツで水を汲んでくることが出来なくなった者は、そこには住めなくなるという生活・・・。
かつて600人が暮らしていたという村で、事故の後も村に残ることを選んだ老人たちと、たったひとりで村の力仕事を引き受ける暮らしを選んだアレクセイ。彼らがそれぞれ、なぜそういう選択をしたのかを、映画は日々の生活風景を映した美しい映像と、アレクセイの素朴なナレーションで、淡々と語ってくれるのだけれど・・・。
この作品は「いのちの水」をテーマにしたドキュメンタリーだと後から見たチラシにあったけれど、私の眼には人間の歴史であり、詩であり、絵画であり、哲学であり、文学でもある・・・というような、芸術作品としか言いようのないものに見えた。エンディングで使われている「泉」の水の湧き出る映像と音楽(坂本龍一の名前もここまで来て知った)に象徴されるような。
そして何より、私にとってはアレクセイという人の魅力が圧倒的だった。
私の勘違いかもしれないけれど、軽い言語障害とマヒがあるように見受けられる36歳の彼は、「力仕事が可能な年齢」のたった1人の男手として、事故後、村に残る道を選んだ理由を、自分の中を確かめるような口調でこう語る。
「人は自分の運命からも、自分自身からも、逃げることはできない。」
もしかしたら、泉が自分を村に残したのかもしれない。泉の水が、自分に流れ込んでいるような気がすることがある・・・と言う彼は、たまのピクニックの時は、大きなヒキガエルを手のひらに載せ、「お姫さま、どこにいくの?」と、信じられないほど無邪気な笑顔を見せる一方、人を避けて暮らす(おそらくは統合失調症の)村人のことを「老人たちは聖人と呼んでいる。親しくなると色んなちょっと不思議な話を聞かせてくれる。ずっと聞いていたくなるような気分になる。」と説明する。
借り物の知識から来る先入観や偏見抜きの、そこはかとないユーモアを感じさせる彼の言葉は、自分の眼で見て、自分の感じることを土台に、自分の頭で考えてきた人の魅力に満ちていた。
40年以上昔、同じ「湧き水の地」で子ども時代を過ごした私には、村の生活の大変さも想像できるところがある。決して頑丈でない私などは、これをそのまま「人間らしい生活」として全面肯定など、したくても出来ない。しかし、放射能を理由にこの人たちを村の生活から引き離すことは、もっと出来ないことだろう。(例えば、放射能のリスクを最も重く背負っているのは、残りの人生の長いアレクセイ自身なのだ。)
村を離れた若い人たちも、夏の休暇や収穫の時期には、家族ぐるみで農作業の手伝いにやってくる。老人の孫たちも、収穫されたじゃがいもや小麦、鶏の肉などを食べている。これが今の日本だったら、小さい子どもの親が、たとえ祖父母の作ったものだとしても、食べることを許すかどうか・・・と、ふと考えてしまった。(勿論、そのどちらが良いとも、私には言えない。)
「この百年で、人が得たものと失ったもの」を、これほど静かに考えさせる映画に出会えたのは、私にとっては本当に幸運だったのだと思う。
『 once ダブリンの街角で』
1ヶ月映画から離れていた後で、最初に観に行ったのがこの作品。例によって予備知識があまり無かったので、観始めてから漸く、これがとてもよく出来た「音楽映画」なのだということに気づいた。
とにかく主人公が路上で、自分の部屋で、そしてスタジオで、(なぜか手元に穴の開いた)ギターを弾きながら歌う、歌の数々が素晴らしい。
メロディアスな、いかにも所謂シンガー・ソングライターの作ったエモーショナルなラブソング(と、最初私の耳には聞こえた)みたいなのだけれど、歌詞に共感できるものがあって、しかも歌い方に、押しつけがましさとは違う種類のカリスマ性というか「説得力」があるのだ。(私はこの人が、アイルランドの有名なバンドのギター兼ヴォーカルだなんて知らなかったけれど、自分で作った曲を歌っているという確信を即座に持った。)
ヒロインの移民女性が楽器店で弾かせて貰うピアノの音色といい、こういう「ただ自分に向けて紡ぎ出されるアコースティックな音楽」を、私は最近あまり聞いたことが無かったのかもしれない。
そんな音楽同様、ストーリーも、いかにも「人の手でひとつひとつ作った」雰囲気が感じられる。ステロタイプとは違う世界というか、明らかにフィクションなのになぜか「演じられている」気がしないというか・・・観ている間ずっと、なんだかダブリンの街角に自分が居るような気がした。
家政婦?をしている彼女が壊れた掃除機をゴロゴロと引きずりながら、主人公と街を歩くのも、大型のオートバイ(私には判らないけれど、きっとビンテージもの)で海を見にいくのも、深夜音楽を愛する人たちの集う店の様子も、それぞれセンスが感じられ、しかも素朴で、なぜか私にはとてもリアルに見えた。
決してスィートではない作り手の視線を感じさせる会話の数々、そして結末・・・なのに、私にとっては「コトコト弱火で煮込んだ、たっぷり野菜のあったかいスープ」のような、まさに「オナカに優しい」映画だった。
『スパイダーウィックの謎』
先に観にいった家族2人は、それぞれちょっと首をかしげながら、「エンディングのスプライト(花の精?)なんかがホントに綺麗だった。」とか、「ファンタジーっていうよりシリアスな『ホーム・アローン』って感じ。」などなど。それでも一応褒めている気配を感じたので、最終日近くにシネコンまで観にいった作品。
彼らがすっきり「良かった」「面白かった」と言わなかった理由は、観ているうちになんとなく分かった気がした。
多分、ちょっと「こじんまり」としていすぎるのだろう。ファンタジーにしては、あくまで現実から離れようとしないというか、場面の大半を一軒の家を中心に半径せいぜい1キロ以内?という範囲に限定して、せっかく出てくる魔法の道具もレトロというか素朴で小さく、彼らにとってはちょっと物足りない感じがしたのかもしれない。(『指輪物語』や『ナルニア』に郷愁を感じるような人には特に。)
私にとっては、逆にその「小ささ」が良かったのだと思う。今の自分にはこれくらいのサイズのファンタジーが合っているんだなとしみじみ思った。
「どうせ作り物なら、これくらい美しいものを見たい!」と、見た直後のメモに書いてあるほど、辺りの景色や「良い妖精」たちの映像は美しい。
一方、「悪い妖精」となると、ゴブリン、レッドキャップは(小さいから?)まだマシとしても、トロールやボスのオーガに至っては、外見の気持ち悪さも破壊と暴力の凄さも相当なもの。なのに、観にいった家族の1人曰く、「生命の危険を全く感じない(笑)。」。
と言っても、子どもだましで白けるというような意味じゃあない。主人公たちの運命は一転また一転、ほとんど息を吐くヒマも無いというか、十分ドキドキさせられる。ただ・・・あの「目を背けたくなるような暴力!」という感じが皆無なのだ。(なんせ肝腎のボスときたら、最も凶悪な姿の時でさえ、人間の姿の時を演じているニック・ノルティに顔がそっくり?で、ついユーモアを感じてしまう。)
私はこの映画を観て、自分が『パンズ・ラビリンス』を「頭の中で凍結させてしまった」理由が、少しだけ分かったような気がした。
私はどんな怒り、どんな破壊、どんな暴力であれ、それが「人間」によるものだからこそ恐ろしいと感じるのだろう。『パンズ・ラビリンス』の人食い鬼も、そもそもパン自体も、人間の邪悪さを感じさせるために、私はあれほどゾッとしたのだと思う。勿論、あの「壊れている」将校の行為などは、そもそも「人間の残虐さ」そのものだったのだけれど。
この『スパイダーウィック』では、妖精たちはあくまで「妖精」であって、やることなすこと人間臭いのに、生身の人間の邪悪さといったものは全く感じさせない。彼らは正に、彼ら自身が望まない限り人の眼に触れることのない、「人間とは別の生き物」にしか、少なくとも私には見えなかった。
私が本当に怖いと思うのは、「人間」から発するモノ・・・でも、それはどうしてなのだろう・・・そこまで来て、私はふと思った。
もしかしたら、擬人化された「妖精」その他を想像できる年齢に達する以前に、私は「人間」の形で、「モンスター」に相当する生き物を、それも日常的に見てきたのかもしれない。自分や周囲の人間に向けられる、同じ人間の姿をした生き物たちからの不可解な笑い、突然の、それも凄まじい怒り・・・。
この歳になっても、私が「ダーク・ファンタジー」と呼ばれるような作品を観る際、始めから終わりまで緊張のしっ放しになるのは、「ダーク」というのが多かれ少なかれ、人間に由来しているように見えるからなのかもしれない。
『スパイダーウィックの謎』は、私の眼には、人間の邪悪さが本質的には全く投影されていない、さまざまな「悪役」モンスター相手の、子どもたちと「親切な」妖精の連合軍の闘いを描いた作品だった。いかにも「安心して子どもに見せられる」ような映画だったとも言える。それなのに、私にとってこの映画が驚くほどリアルだったのは、例えば「親切な妖精」たちの気配を、幼い頃からふとした時に、実際に感じてきたからかもしれない。
残念ながら、当時の私にとって、彼らは「人間」という名のモンスターの圧倒的な恐ろしさとは次元の違う、ごくごくささやかな存在だった。私はそういった「人間」とは無縁の世界で、この映画に出てくる子どもたちのように、彼らと思う存分駆け回ってみたかったのかもしれない。
『勇者たちの戦場』
この映画を「オナカに優しい」というのは、ちょっとヘンと思われるかもしれない。けれど、上映会場でのアンケートに、私は「静かな映画を観たと思いました。作り手の語り口の静かさが、なんだか胸に迫って・・・」といったことを書いたと思う。
実は私は、主催者によるこの映画の紹介を読むまでは、アメリカの「州兵」のことをほとんど知らなかった。(存在を知っているだけで、とにかく国外での戦闘に駆り出されることなどあり得ない人々と、なぜか思い込んでいたのだ。)彼らは職業軍人でも徴兵されたのでもない、仕事を持っていたり学生だったりする、所謂「一般市民」なのだということを、私はその文章で初めて知った。
実際、この映画に登場するイラクの戦場から帰国したワシントン州の兵士たちのその後は、私には「同じ今を生きる人間同士」としか言いようのないものだった。
それぞれの事情、考えがあって志願したとはいえ、おそらく、本当になりたくてなった兵士たちではないと思う。それでも九死に一生を得て母国に帰ってみると、戦争反対の機運が高まっていたり、元の職に戻れる筈がそうではなかったり・・・何より自分自身がもう、精神的には勿論、ある者は身体的にも、「元の自分」ではなくなっている。すんなり元の人生に戻れる筈がないのだ。
家族や友人がいても孤立や孤独を余儀なくされる一方で、戦場での体験によるPTSDに苦しむ彼らが、どうやって自分自身、自分の人生を取り戻し、混乱した「今」を「明日」に繋いでいくのかを、イラク戦争の是非を正面きって追及するのとは違ったやり方で、この映画は「静かに」描いて見せているように、私には感じられたのだと思う。
彼らの怒り、孤独、苦しさは、殆ど常に国外のどこかの戦争に関与しているかのようなアメリカという国で生きる人たちのものではあっても、それはそのままかつての、或いは現在、そしておそらくは近い将来の、私や私の家族、友人、知人、その他に共通するものだと、私は映画を見ながらつくづく感じた。そして、ちょっと前『大いなる陰謀』を観て、微かな違和感を感じたのを思い出した。
『大いなる陰謀』は、イラクではなくアフガン関係の話だったけれど、ベトナム以来アメリカが関わってきた世界各地での戦争について、さまざまな立場の登場人物たちが真剣に議論する。それはそのまま、作り手の真剣さでもあって、私はレッドフォード監督の熱意と迫力に敬意を感じたけれど、それとは別に、寧ろ指揮を執っている軍人などの方に、シンパシー?も感じた。彼らの方が「戦争の現実」を、生で知っているように見えてしまったのだと思う。
それくらい、知識人や学生たちの議論は、話としては面白くはあっても、私の現実には響いてこなかった。上手く言えないけれど、「戦争」がこのレベル(話し手たちのの階層、議論の内容、両方について)で語られている間は、アメリカはこれからも「正義のための戦争」を続けていくしかないのかな・・・といったような気分に襲われた。(こんなエラソーなこと書いていいのかしら・・・。でも本当に、あの時そう思った。)
識者が大局的な見地から、歴史上での「現在」の位置を見極めた上で、「この戦争をどうするべきか」を考えるのは重要なことであり、それが本当に出来る人たちにこそ、やってもらいたい・・・と、そんなことは到底出来ない私は思う。私などが「戦争」をそんな大きなサイズで考えたら、絶対判断を誤るという予感がある。
この『勇者たちの戦場』は、市井の人の現実だけに焦点を当てて作られているからこそ、「戦争の現実」の一端を私に見せてくれたのだと思う。
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