日本列島旅鴉

風が吹くまま西東、しがない旅鴉の日常を綴ります。

一家言

2015-02-17 23:55:35 | 旅日記
開設七周年を機に、昨日はこのblogの変遷について語りましたが、これはいわば投稿の仕方、編集方針の移り変わりについて述べたものでした。それとともに、開設当初と今では文章表現にも多少の違いが出ています。今日はそのことについてお話しします。

「一文一内容」「こまめな改行」「主語は先に」といった文章表現の定跡については、自身全くといっていいほど気にしてはいません。それらの多くは英米語の発想を持ち込んだものであって、日本語にもそのまま妥当するとは思わないからです。
その一方で、blogを続けてきたことにより、明確に意識するようになったことがいくつかあります。それは主として「避けるべき表現」についてです。好ましく思う表現については、知らず知らずのうちに口癖、常套句になってしまうのが常であり、日頃から意識することがほとんどないのに対し、避けたい表現はきわめて明確です。以下では代表的なものを挙げてみます。

・括弧書き
最も嫌っているのがこれです。強調すべき言葉を括弧で閉じるのはともかくとして、文の途中に注釈代わりの括弧書きを挿入するのが、自分にはどうしても合いません。括弧書きが割り込むことにより、文の途中で思考を中断させられるのが非常に興ざめするのです。
典型的なのが法律の条文です。たとえば、このblogで過去に唯一引用した「国民の祝日に関する法律」には、次のような条文があります。

第三条 「国民の祝日」は、休日とする。
2 国民の祝日」が日曜日に当たるときは、その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日を休日とする。
3 その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は、休日とする。

要は、中一日で祝日が続く場合、谷間にあたる日を休日にするというのが第3項であり、今年の9月に出現する五連休も、9月21日が敬老の日、23日が秋分の日となることにより、谷間の22日が「国民の休日」となって実現するものです。そして、「「国民の祝日」でない日に限る。」との括弧書きは、具体的には5月4日を想定しています。同日は前後を祝日に挟まれてはいるものの、第2条によりそれ自体「国民の祝日」とされるため、第3条第3項のいう「休日」にはならないというわけです。しかしそういいたいなら、次のように言い換える手もあるでしょう。

「その前日及び翌日が「国民の祝日」である日は、休日とする。 」
「ただし、その日が「国民の祝日」である場合は、この限りでない。」

このように、括弧書きは文章を分けるなどの方法により解消できるものであり、よほどやむを得ない事情がない限り使うべきではないと私は思います。

・横文字
職場に必ず一人はいる、横文字言葉を多用する外資系気取りの輩に、眉をひそめたことはないでしょうか。私自身、横文字の多用は文章を軽薄にするだけと考えている人間の一人です。
七年間で一万件以上の記事を綴ってきた中で気付いたのは、大抵のことは横文字に頼らなくとも記述でき、むしろ漢字あるいは日本語に置き換えることで具体性が増すということです。例を挙げれば、「メニュー」は「品書き」、「リーズナブル」は「良心価格」、「ラストオーダー」は「看板」といったところでしょうか。画像に頼らず文字だけで記録することにより、内容がより具体的になって印象も深まると昨日申しましたが、それと同じ関係が横文字と漢字、日本語との間にはあると思います。
ただし、括弧書きと違い、横文字を断じて使わないというほど嫌っているわけではありません。たとえば、「ホワイトボード」を「白板」と言ったり、「カメラ」を「写真機」と言ったり、「キーボード」を「鍵盤」と言ったりはしません。居酒屋のカウンター、酒のラベルなどは、それぞれカウンター、ラベルとしか言いようありません。横文字の方が合っている、あるいはそれしか表現のしようがない場合に限って使うというのが、横文字の使用に関するこのblogの方針です。

・略語
横文字と同様に文章を軽薄にしがちなのが略語です。よって「デジカメ」は「デジタルカメラ」と略さず表記します。ただし、略称の方がむしろ定着している場合にそれを使うにはやぶさかでなく、たとえば「山廃」を「山卸廃止酛」と言ったりはしません。

・純然たる口語表現
横文字と同じく、文章を軽薄にしがちなのが、通常口頭でしか使わない言葉です。「してる」「思ってる」「やばい」といった表現がそうで、それぞれ「している」「思っている」「危うい」などと表現するのがこのblogの方針です。

・促音・撥音
広い意味ではこれも上記の口語表現ですが、とりわけ意識しているのが促音・撥音です。このblogでは、左側の表現を右側のように言い換えることで対応しています。

「こんな」「このような」
「そんなに」「そのように」
「あれって」「あれは」
「どうってことない」「どうということはない」

ただし、行きすぎるとかえっておかしくなるのは、横文字、略語の場合と同様です。かような観点から、いわゆる「促音便」「撥音便」はそのまま使います。今度は右側でなく、左側の表現を使うということです。

「綴って」「綴りて」
「読んで」「読みて」

実は、長年通っている居酒屋の店主に、右側のような表現を好んで使う人物がいます。もちろんその店主自身を嫌っているわけではなく、それも個性のうちと理解してはいるものの、文語調の表現を多用するのが、個人的には小恥ずかしいのです。

・現代的な表現
現代的な表現も、このblogでは極力避けているものの一つです。軽薄さを嫌っているのもさることながら、そのような表現が十年後、二十年後に果たして通用するのかが大いに疑問だからです。十年、二十年経っても残る言葉は「オタク」など例外中の例外だけであり、「ナウ」「ヤング」「アベック」などの表現は、ことごとく死語となっているわけです。百年後、二百年後のことなど知りようがないとはいえ、少なくとも自分がこの世にいる間だけは、読み返せば死語だらけなどというblogにはしたくありません。
この手の表現を言い換えるのは、横文字などよりはるかに容易で、「ドヤ顔」など「得意気な顔」と言えばそれで済む話です。「心が折れる」「普通においしい」といった表現を拝借することは希にあるものの、その場合も「現代的に表現するなら」と注釈を入れるようにしています。

・口汚い表現
以上は主として文章が軽薄になるのを嫌ってのことでしたが、それとともに嫌っているのがいわゆる「汚い言葉」です。そして、これらもほぼ例外なく穏当な表現で言い換えることができます。たとえば、「馬鹿共」というところを「輩」「連中」などに言い換えるといった具合です。

・同じ助詞の連続
日頃から「教祖」と崇めている居酒屋探訪の達人、太田和彦氏の著作にも、個人的にいただけないと思っているところがあります。「白木のカウンターの上の大皿の惣菜」といった具合に、同じ助詞を続けることが多いのです。教祖の著作の場合、その他の描写が些細な難点を補って余りあるほど秀逸なのに対し、凡人が同じ助詞を続けては文章が単調になるだけです。そこでこのblogでは、「白木のカウンターには大皿の惣菜が」などと言い換えるようにしています。

・体言止め
以前語った通り、体言止めも文章を軽薄にしがちな表現の一つと考えています。ただし、語尾が単調になるのを避けるため、必要最小限の範囲で使う意義はあり、このblogでもそのような方針をとっています。

長々と語ってしまいましたが、以上が文章表現に関する自分自身の一家言、もとい「どうでもよいことに固執する」という本来の意味でのこだわりです。それを踏まえて開設当初の記事と最近の記事を比較すると、上記の方針が近年になればなるほど徹底されているのをご理解いただけると思います。
コメント