TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

赤口

2010年06月28日 | インポート
 わたしは子供の頃、唇の周りをぺろぺろ舐める癖があった。
そのため、唇の周りがぐるりと赤くなっていることが多かった。
 
 母親は、それが「人を食ったみたい」で、気にくわなかったらしく、
舐めている現場を発見すると、すかさず、
「赤口!!」とぴしゃりと言って止めさせようとした。
 しかし、癖というもの、意識すると余計助長されるもの。
舐めるから乾く、乾くからまた舐める、の繰り返しで、なかなか止めることができなかった。
 当時の心境は全く覚えていないが、子供なりに何かストレスがあったのか。
今でも、神経を集中しなくてはいけない時や、緊張している時、ふと気付くと、唇をかんでいる。

さて、どのあたりにお住まいなのか知らないが、真っ赤なルージュを、
唇の輪郭を大きくはみ出させて塗りたくり、界隈に出没する女性がいる。
スカートは、金魚の尾ヒレよろしく裾がヒラヒラしたミニ、白いものが混じったざんばら髪を長く伸ばして歩いている。
 例えていうなら、カールおじさんの髭の部分がすべて赤くなったような感じである。

 彼女のことを、今までに3回見かけた。
3回とも、違う駅であるが、同一人物である。
在来線で移動可能な、極く狭い範囲のことなので、いずれにせよ、このあたりにお住まいなのであろう。
 受けを狙って、あるいは、注目を浴びようとわざと変な格好をしているといった感じではない。
精一杯おめかしをして出てきました、といったまじめな雰囲気を漂わせている。
 しかしどう考えても、変である。
受け狙いじゃないところが変、大真面目なところが、変である。

「よくそんな格好で歩けるよな」と、怒りさえ感じる。
考えてみれば、こちらが怒りを感じる筋合いのことではない。
 他人がどんな格好をしようと自由である。利害関係は全くない。
見たくなければ、見なきゃいい。
それでも、うっかり見かけてしまったら、
悪い夢でも見たと思って、すぐに目をそらせばいいのだし……。

 しかし何だか、放っておけない気がするのである。
彼女につきまとって、質問したい欲求に駆られる。
「すいませんけど、そのルージュ、思いっ切りはみ出してるんですけど、おかしいと思わないんですか?
え?本当に?スカートのヒラヒラも、ちょっとイタくないですか?」

 全く大きなお世話である。
しかし、どうしても聞かずにはいられない、そして妙チクリンだということに気付かせたいという衝動に駆られる。
 指摘された彼女が、照れ臭そうに笑って、
「やっぱりそう思いますよね? 普通そうですよね。でもいいんですの。これが趣味ですから」
とは、どう考えても、言ってくれるとは思わないけれど、そう答えてくれたら、
こちらの気持ちがどんなに落ち着くだろうと思ってしまう。
 そういう答えが返ってきたからといって、彼女の趣味を理解はできないけれど、
変かもしれないという価値観だけは共有できたという点で、それなりに許せるような気がするのである。
 この構いたくなる心理は、どういうものなのだかわからないけれど、
そんな格好が、当たり前、または素敵だと思っているらしいという、そのことが、何だか許せない。

 ごくまっとうな出で立ちをしていても、人の目を気にしてしまうわたしにしてみれば、
そんな様子で、堂々と歩いている彼女のことを、ひょっとしてうらやましいと思っているのだろうか?
う~む、それはあり得ない。(たぶん)

 いずれにせよ、彼女に出くわすと、真っ当な化粧というのは自分のためというだけでなく、
他人様の精神衛生のためでもあるということを思わずにはいられないのである。


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マニュアル

2010年06月27日 | インポート
 職場でのことである。
前日の収入金を、班長I氏が銀行に納めに出かけた。
6,550円也。
釣り銭用として、なるべく細かいお金が必要なので、くずしてもらおうと、
一万円札を持って行った。
 つまり銀行からは、3,450円のお釣りを受け取って帰るはずであった。

 が、事務所に戻ってから、数えてみると、50円足りない。
どう数えても、足りない。
 封筒を逆さに振ってみても、チリひとつ出て来ない。
あれ~おかしいなあ……。
 と思っていた時に、銀行から電話がかかってきた。
「50円渡しそびれていました」。
 I氏、「そうですよね。やっぱりね」と、ホッとした様子。

 銀行に対しては、お金に関して、絶対間違えるわけがないという、先入観のようなものがある。
だからこんな場合、まずは自分を疑ってみる。
 すでに空っぽであることを確認した封筒を、さらに未練がましく振ってみたり、
足元に落ちていないかと、床をのぞきこんだり……。
 どこで落としたのだろう―と、銀行から事務所までの道のりの記憶を、必死に手繰り寄せようと試みる。
公金をなくしたなどと口が裂けても言えないので、人知れず悩む。
 そして、最終的には、まあ、金額が金額だし、と自分の懐から、補うことになる。

 さてその50円、たまたまわたしが別の用事で、銀行に行くことになっていたので、I氏の代わりに
受け取りに行くことになった。
 自分名義の通帳とハンコを持っているのに、いちいち身分証明書の提示を求められるのが、銀行である。
例え、50円といえども、現金の受け取りである。
 当然提示を求められると思って、運転免許証を持って行った。

 指定された名札を付けた職員のところへ行き、I氏から言付かってきた旨を告げると、
窓口の女性、とても恐縮した様子で、
 「(お金を受け渡しする)皿のはじっこに、50円玉がくっついていました」。

 確認しないで帰ってきたI氏もI氏であるが、受け皿に残っていた以上、銀行側の落ち度になるらしかった。
 身分証明書を見せようとすると、くだんの女性、
「あ、結構ですよ、いつもの方ですよね」とおっしゃる。
 は、顔パス? 銀行で?
確かにここの窓口には、時々来ているので、顔が見知られているというのは、自然のことである。
 それでも、わたしが確かに、I氏から委託を受けたという証拠はないのである。
せめて、誰が窓口に来たか、確認した方がよいのではないのかしら……。

 身分証明書の提示を求める場合というのは、マニュアルとして、明文化されている。
 通帳の名義を変更するとか、大金を引き出す時とか……。
  そのマニュアルには、今回のように、皿に置き忘れた(あるいは渡し忘れた)お金を渡す場合、というのは
ないに違いない。
 そもそも、渡しそびれるということ自体、あってはならないミスなのであって、
それに対して、いちいち身分を証明しろとは、言えないのか知れない。
 金額も、50円だし、何かあったとしても、弁償できない額ではないし。
 まあ、いいか~、みたいな感じ……。

 いつもは、淡々と、規定なるものに沿って、時には融通がきかないと思えるほどに
取り行われているような銀行業務であるが、こんな風に突発的なできごとが起きると、
マニュアルにおさまりきならない、ほころびのようなもの、
人間臭いようなものを、垣間見ることができるのである。

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取らぬタヌキの……

2010年06月16日 | インポート
 読売新聞朝刊掲載の4コママンガ、「コボちゃん」に、先日妹が生まれた。
出産に先立って、名前の募集がされていた。
決まった名前は、実穂ちゃん。
投稿数が、2番目に多かった名前だそうだ。

 わたしが応募した名前は、実里(みのり)である。
この一家にふさわしく畑にちなんだ名前だし、こんなに気のきいた名前を考え付くのは、
きっと、そういないに違いない。―。
 などと思いながら、意気揚々と、投稿したのだった。

 応募した名前が採用されると、コボちゃんの漫画本と、フェイスタオルをいただけるのだとか。
70巻余りもある本を、どっさり送ってもらっても、小さい子供はいない我が家のこと、
持てあましてしまいそう……
 などと、晴れて名付け親に選ばれたあとのことまで考えて、心ひそかに悩んでいた。

 さて、今回、一番投稿数の多かったのは、「実里」ちゃんだったそうである。
3803通。
 …………。

 わたしだけに違いない、と思っていた名前、フタをあけたら、一番多かったという事実。
自分の独創性のなさと、にもかかわらず、我こそはなどと思って、プレセントをいただいて困惑
しちゃってる自分を想像までしていたことの、滑稽なことよ、である。

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おやつ200円

2010年06月13日 | インポート
 五味太郎さんの『大人問題』に、遠足のおやつ200円の話が出ていた。
小学校の遠足に持ってくることのできるおやつは、200円までという制限がついていたという話。

 あったあった、そういえば。
 遠足を翌日に控え、学校から帰ると、近所の朝日屋に、友人とお菓子を買いに出かけたものだ。
 消費税のない時代。
 お菓子に貼られたシールの値段が、そのまま支払う額になる。
 これがいいか、あれがいいか。
あれこれ頭を悩ませながら、選ぶ。
自分の欲望と折り合いをつける練習、暗算の練習、
こちらを選べば、あちらをあきらめるしかないという練習、にはなったような気はする。

 氏によれば、この価格制限は、貧富の差による悲しい思いを、子供たちにさせないための策だったとか。
 
 しかし、どうとりつくろってみたって、そういう格差が存在するのは事実。
そういうものがあるということを、どうして隠そうとするのだろうか。
 貧富の差だなんて大げさなことではなくても、
その家には、その家の方針というものだってあるだろうし。
 よその家はよその家。自分自分。というようなことを肌身で感じるのも、
大事なのではなかったのかしら。

 なんでも平等にしとけば無難、というのは、 
運動会で、ビリの子供がかわいそうだからと、
順位をつけない種目が出てきたという、あのナンセンスさと同じである。
 (ちなみに、万年ビリのわたしとしては、よーいどん、というあの瞬間だけは、今度こそ
一番になれるような気がして、わくわく。
結果は相変わらずでも、そんなにみじめではなかったような気がするのです、ハイ。)


 時代は、それから30年。
この価格制限は、息子の時代には、撤廃されていた。
学校によって違うのだろうが、「食べ切れるだけ」という条件がついていた。
この、「食べきれるだけ」というのも、いちいち学校側が、言わなくてはいけないことだろうか。
 ごく当たり前のことなのだけど……。

 それはともかく、 価格の制限の代わりに登場したのは、品種の制限。
すなわち、チョコレートはだめ、ガムはだめ、というもの。
 なぜかというと、チョコレートは、温度が上がるバスの中で、どろどろに溶けるから。
ガムは、噛んだあとのカスをそこいらに捨てて、周囲に迷惑かけるから、だとか。

 何だか変である。
ガムを禁止する前に、噛んだら紙に包んで捨てるようにと、なぜ教えない?
チョコレートが鞄の中でどうなろうと、大きなお世話。
「軟かくなちゃってやだなあ」とその子が思えば、次回から、持ってこなければいいのだし。
それでも俺はチョコレートが好きなんだもんね、と思えば、持ってくるも良し。
 その子の判断によるところである。

 事が起きる前に先手を打っておこうとするような、そして丸く収めておこうとするような、
気が効きすぎて、かえって、面倒なことからは手を抜いているような、
そんな感じがするのです。

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疾病利得

2010年06月06日 | インポート
 肩と首のコリと痛みが強くなり、整形外科に通うようになってひと月がたつ。
まるで寝違えたような軽い痛みが続く。
 30代の頃は、放っておいても自然に治ったのにと、こんなところで、自分の年齢に向き合わされる。

 何年ぶりだかで訪れたクリニックには、新しい理学療法の機械がたくさんとり揃えられている。
一見、全部試してみたいような、ちょっと遊び心を刺激される代物である。
 先生がわたしのために見つくろってくれたのは、ふたつ。
 ウォーターベッドに横たわり、その下をローラーがまんべんなく通過していくものと、
肩に張り付けられた吸盤からの、通電作用によって刺激を与えるもの。

 これらの療法、毎日のようにせっせと通うことが、大切なのだとか。
 しかし、坂の上にあるクリニックにわざわざ足を向けるのは、億劫である。
さらに、8分ずつという短い時間とはいえ、何もせず、
じいっとしているのは、せっかち人間にとって、あまり愉快なことではない。

 おおっ、効いてる効いてる、といった明らかな効果を感じにくいということもある。
そもそも、それほど痛みが強くないので、熱心に通おうという動機づけそのものが弱い。
 そこで一週間に一度ほど申し訳程度に顔をのぞかせる。
そのせいかどうだか、症状の変化が全くない。
しかしそんなことを言うと、機械のせいではなく、こちらの怠惰のせいにされそうなので、
少しばかり痛みが和らいだようです、などと診察の時に、つい言ってしまう。
 

 先日、読売新聞の朝刊で、慢性痛についてのシリーズを組んでいた。
この痛み、器質的な原因が見つからない場合、精神的なことが原因になっていることも多いとか。
「痛いと良いことがある」と、脳が認識すると、痛みが治らないのだそうだ。
つまり、痛みをアピールすることで、重い荷物を持ってもらえるとか、優しい言葉をかけてもらえるとか、
他人からの援助を引き出せるということである。
  そういう意味では、最近流行りの、鬱なんかも同じ類かもしれない。
 実際、痛みには、抗鬱剤が効く場合も多いらしい。

 さて、わたしにとっての、「痛いと良いことがある」は一体なんだろう。
意識の中では、早く治りたいと思っていることは確か。
後ろを振り向くとき、首だけねじ曲げることができず、からだこと動かさなくてはならないのは、
不便である。

 大した痛みではないので、仕事ができないというほどでもない。
職場の誰にも、話していない。
 そもそも、仕事中は、慌ただしさに気が紛れ、かえって痛みを感じなくて
済むくらいである。
  むしろ、休日、パソコンに向かっている時が一番、肩や首筋の張りは強くなるようである。
パソコンを前に、さあ、ブログを、とページを開く。
が、ネタが見つからない。
文章がまとまらない。
 あっちのサイトこっちのサイト、天気予報までくまなくチェックしても、まだ
一文字も書けない。
 座イスの上で、じいっと座ったっきり、時間ばかりが過ぎる。
そんな時だ。
肩と首のコリと痛みが、一気にやってくる。
 もう、限界。と湿布を貼りに、立ち上がる。
心の中からは、いいよ、いいよ、もう。こんなに肩も首も痛いんだし。もう寝ようね、という声がする。
 かくして、パソコンの電源を落とす理由が見つかったわけである。

 疾病利得は、何も、他人からの助けやフォローを引き出したいがためにだけあるわけではないようだ。

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