TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

どこでもドア

2020年10月31日 | インポート
テレビを観ていると、アクリル板越しではあるものの、徐々にスタジオに出演者が戻り始めた。『笑点』も無観客ながら、メンバーが互い違いに座って生演出を盛り上げている。

とはいうものの、一般人を対象にしたイベントや研修の類は、依然、オンラインが主流である。テレワークで文字だけリモートを経験してみたが、“映像入り”は未経験である。なにか、楽しいオンライン行事に参加してみたい、これを機会にzoomなるものを覚えたい、と思っていたところ、見つけたのは、「マインドフルネス一日体験講座」。
マインドフルネスが話題になったころ、その指南書ばかり買い集め、「呼吸に集中!呼吸に集中!集中!」と無理くりに集中しようとしたものの、10秒も持たずに、雑念まみれ。すっかり遠ざかっていたのである。ひとりではなく、指導者のもと、みなさんで集まればまた心機一転、やりなおせるのでないかと思い、さっそく申し込んでみた。
一番の懸念は、会場に赴くのと違い、パソコン操作を教えてくれる人が誰もいないということである。果たしてちゃんとつながるのか―?
“とってもかんたん”といううたい文句の操作マニュアルをプリントアウトして読んではみたものの、思いがけないことが起こるのがパソコンなのである。
開催当日は朝からそわそわ。なにしろ、この狭い1Kの部屋が背景だけとはいえ、丸映しになるのだ。あんまりパソコン画面をさげると、ベッドに座ったままなのがばれそうで、若干上向きにしてみる。
どうせマスクしてるんだからとずっと怠っていたお化粧を、実に半年ぶりに施す。そもそも、マスク無しで、ヒトと会うのは、ほぼ7か月ぶりである。あんまりアップに映してほしくない。
入室可能の10分前になると、画面を小さく区切ったひとこまひとこまに、ひとりふたりと、参加者の顔が映しだされてくる。よくテレビなどでお見かけする場面である。思いのほか、小さい画像なのでほっとする。
そして開始時間になると、主催者の、ひとのよさそうなお鬚の男性が登場。
テレビやビデオと違い、“見られる”状況に慣れていないせいか、なんだか照れくさい。
自己紹介が始まる。総勢15人ほど。中にはドイツから参加している女性もいる。
帽子やカバンのかかったフックや、本棚、ソファなどが背景に映り込んでいて、ひとんちをのぞき見しているようでもある。
途中、音声が途切れてはあたふた、コメント入れる操作におろおろ、2時間の講座はあっというまに終了。マインドフルネスどころの騒ぎではなかったが、それでも新しいことを覚えたような達成感はあった。

会場に実際に行くと、イベントが終わっても、すぐに帰るのもどうかしら、などと入口付近でいつまでもぐずぐずしていたり、帰りの電車が気になったりするが、オンラインだと、にこやかに両手を振って、「退室するボタン」をブツッと押せばそれっきり。帰りの心配をしなくても、どこでもドアをくぐったかのように、すでに家にいる。
この便利さ、潔さ、あっけなさがなによりも、すっきりと気持ちいい。体力の節約にもなる。
腰が痛かったり、寒かったり暑かったりと、出かけるのが億劫な時でも、外の行事に参加することができる。
“コロナ効果”ともいえるオンライン行事。この選択肢だけは、ずっと残してほしいものである。



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小説のゆくえ

2020年10月21日 | インポート
10年以上も前に読んだ小説を引っ張り出して読み返している。
電話をかける場面で、子機だの親機だのという言葉が出ると、スマホどころか携帯もなかった頃に書かれた話だとわかる。
そして読みながら気がついた。
混みあった店で開かれる飲み会や、向かい合って珈琲を飲む場面、今まであたりまえだった場面の描写を読むと、ほぼ自動的に「密」という文字が浮かんでしまう。
それだけではない。“顔をそっと近づける”だの“相手の吐く白い息が頬にかかった”だのと親密性を表す描写を読むと、「あらあら、ちょっとまずいんじゃいの。マスクしてないよね」などと即座に考えてしまう。
もちろんこれを書いた時期の作者には、全く思いも及ばなかったことである。
戦争を描けば生き死にの話になり、震災を書けば津波は避けて通れない。
たとえ小説は架空の話でも、現実味のある生活様式や道具立ては必要である。
これからの登場人物はみなさんマスクをしているのが前提で、待ち合わせの店を選ぶときは、感染症対策がとられているかどうかを確認する‥‥‥。そうするか否かが、その後のストーリー展開に重要な意味を持つことになってくるかもしれない。
そして、身なりの描写。服装や背格好だけでなく、どんなマスクをしているのか。使い捨てマスクか、布マスクか。使い捨てなら、おろしたてか、それとも何度か洗濯してヒダのとれかかっているものか。布マスクなら、手作りの柄物か、だったらそれを作ったのは誰なのか。それらが主人公の人となりを知る大事な手がかりとなってくるかもしれない。
生活パターンの変化も重要だ。今まで“出勤”があたりまえだった働き方も、テレワークが主流となれば、男女ともに一日中家にいることになる。顔を合わせる時間が増えれば、よくも悪くも話の展開が大きく違ってくることは確かだ。

こんなにも急に、生活や考え方、感じ方の隅々にまではいりこんでしまったものは未だかつてない。
それなのに、“新しい生活様式”は、完全に習慣化されたわけでもなく、本当にこれからもずっと続いていくのかもわからない。
プロの作家も、今の時期、この状況をどうとらえて、どの程度までストーリーにとりこんでいいかわからずにとまどっているのではなかろうか。
スマホが登場しました、程度の変化ではないのだから。


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映画「82年生まれ、キム・ジョン」を観にいく

2020年10月10日 | インポート
夏休みも残り1日。
昨日は台風が近づき最高気温が15度という予報。夏休みという気分には程遠いが、お休みならなんでもよろし、というわけで、韓国映画『82年生まれ、キム・ジョン』を観にいった。
原作は何年か前にベストセラーになったらしいのだが、今年になって初めて読んで大いにうなずく場面が多く、映画封切りを心待ちにしていたのである。
本との出会いは不思議である。話題になっているときは気にも留めずに平積みの棚を素通りしていたのが、ある日ふと手にして読んでみたら、そのときの自分の気分にピタリとはまる作品だったということは時にある。これもそんな本の1冊だった。

映画館のエントランスでは、今やお決まりとなった検温。一瞬緊張するが無事に通過。(この時点で入場禁止になった方は果たしているのかしら? ひとりならいいけど、連れがいる場合だと、連れも本人もつらい‥‥)。
慣れとはよくも悪くもオソロシイもので、密閉空間のはずの映画館も、2度3度と経験すると、前後左右の空席と寒いほどの換気に、安心感を抱き始めている。
本編が始まる前の予告編も、滞在時間を短くするためか、短い時間に設定されているようでうれしい。コロナ禍前は、これでもか、これでもかというほど予告作品が延々と続くので辟易していたのである。
劇場内を見まわしてみると、平日の荒天のせいだろうか、席はがら空き。わたしを含めて4人しかいない。前後左右の座席に張られた“ここに座るな”のバッテン印が無意味に思われる。

 さて、映画の中身は本で読んだ覚えのある話題が、少し順番と設定を変えて登場する。
最後の場面、男性の精神科医が出産を控えて退職することになった有能な若い女性カウンセラーを見送ったあとに、「後任には、未婚の人を探さなくては……」とつぶやく結末に、心底がっかりしたのだが、そこを配慮したのか、映画では女性医師になっている。
これは映画の余韻に関わる大事な設定である。
 主役のキム・ジョンは線の細い、吉高由里子似の女優さんで、夫のデヒョン役は横顔がイノッチに似たイケメンである。ずいぶん前のヨン様ブームを思い出す。(好みの問題だがヨン様よりもいいかも)
であるからなのか、本を読んだ時ほどには、感情移入しづらかったのも確かである。
キム・ジョンは、兄弟や母親、元の職場の女性上司など、気にかけてくれる人たちに恵まれている。さらに夫のデヒョンはイケメンで(そこは大事)、なんとか妻を理解しようと苦しんで、精神科に相談に行ったり、保育園に娘のお迎えにいってくれたりする。とにかく優しいのである。
だったら、キムさん、無理して働きに出なくたって、かわいい娘の成長を夫とともに楽しみにして暮らすのも幸せなんじゃないか、子供がかわいいのは今だけなんだから、などと姑のような感想に終わってしまったのである。

 映像は迫力もあり、生々しく、それはそれでいいけれど、キャストの雰囲気や人相が話の受け取り方にとても影響してしまう。活字の場合は自分でいかようにも想像を膨らませられる分、何にも惑わされずに話のテーマがまっすぐにはいってくるようである。


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