TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

1年が終わる

2022年12月26日 | エッセイ
今年初め、2,3か月経つのが本当に長く感じられ、気づけば目の前のカレンダーをにらんでいた。
表面上は淡々と過ぎたが、今年は、「喪失」に向き合う年であった。
小さなことでいえば、長らく馴染んできたブログの閉鎖。(加えて、何の設定落ち度か、未だに、記事やコメント投稿のタイムラグやエラーなどが起きてバタバタしている)。
20年ほどお世話になったクリニックの閉院。
父の認知症の診断に始まり、それに少し慣れてきたと思ったら、母の脳梗塞。
そのたびに、どうなることかと心細く、おたおたと反応してきたが、それでもどうにかこうにか生きている。
気分転換に外食や旅行に行ったりする気力もなく(コロナ禍という理由だけではない)、そのぶん、家にこもりがちだったが、書いたり読んだりということに救われた。(現実逃避、とも言う)。
介護認定の訪問調査に備えて、症状を文章にまとめるためにワードをひらくだけで、ワクワクと張り切った気分にもなった。

コロナは、全数把握が終わったとたん、興味がそれた。
というよりも、もっと個人的な大事なことに目をむけざるをえなくなった。
この感染症によって、苦手な宴会がなくなり、無駄な事業が中止になり、救われたこともかなり多い。
来年あたりは、5類相当になるかもしれない。
インフルエンザはわたしの担当であり、それが来年しょっぱなから増えそうで、むしろそちらのほうが気がかりだ。(←ジブン本位)

が、どれもこれもみな、過ぎてしまえばあっという間なのだろうな。
中島みゆきさんの歌ではないが、♪そんな時代もあったねと~♪といった感じだが、歌詞とは違って、いつか笑って話せそうなことはあまりなさそうな……。

※ブログのコメント投稿については、御迷惑おかけしています。記事を携帯から投稿しようとしたらブロックされたことが発端??ただいまヘルプデスクに問い合わせ中です。なにごとも、年内にすっきりと……というわけにはいかないらしい。

少しばかり早いですが、どうぞよいお年をお迎えください。
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介護認定

2022年12月24日 | エッセイ
先日、地域包括支援センターの職員を招いて、介護認定についての説明と代理申請をお願いした。
人の助けを得ることに抵抗を示していた父が案外乗り気になったので、意外に思いつつも、気が変わらないうちに、さっさと予約をとったのである。
約束の午前10時。バイクにまたがってやってきたのは、体格のよい、若い男性職員。
こういう仕事柄、ひとあたりがよく朗らかである。仕事上の親切さとわかっていても、言葉遣いは大事である。
同じことを話すのにも、そこに微妙に悪意や蔑みが含まれていると、表面的にはさりげなくとも、なんとなくもやもやとした余韻が残るものだ。

申請までの手順やサービス内容の説明の合間に、わたしが聞きたいと思っていたことを聞く。
母が心配事やエピソードを話す。
父がなんとか話にはいってこようと、微妙にはずれた質問をする。
それらに対して、パンフレットのそこここを指し示しながらわかりやすく説明してくれる。その時はよく理解できても、段々と情報量が積み重なっていくうちに、どれがどのサービスの話だったか、まぜこぜになってくる。
まとまりのつかない3人が相手だったためか、1時間ほどと聞いていた相談時間が優に2時間を超えた。
職員S氏、昼食を食べる時間がなくなってしまったのではないかしら。

訪問調査は来年になるらしい。
ともかく、認定がおりないことには話にならない。
基準が厳しくなっていると聞くが、不認定でも、困っていることに変わりがないのだから、症状の程度がまだ軽いのだと喜ぶわけにはいかない。
普段は3人で凝り固まった関係性に外からの人間がひとり混ざることで、緊張疲れはしたが、イベントめいて華やいだ。

 訪問調査の際の注意事などを聞いたが、試験でも受けるような気分である。
これはしかし、”できない”ほうが、認定されるという、これまでとは真逆のタイプの試験である。
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世代交代

2022年12月18日 | エッセイ
来年はうさぎ年。
わたしの干支である。つまり還暦ってことですね。
還暦、還暦とはいうものの、何がどう変わるのか、きっと何も変わらないんだろうな、と思う。
似たような感想はよく聞くが、中身は40代の頃と変わらない。

先日は、母の通院に付き添った。
いつのまにか、わたしが保護者のようになっている。
そのように行動しておきながら、これまで自覚がなかったことに驚く。

これは通院ばかりとは限らない。
家に電器機器の修理にきた業者も、気づくと、その場にたまたま居合わせたわたしを相手に、注意事項などをしゃべっている。
電化製品は今まで父のおはこだったので、役割交代の違和感にとまどう。
これまで止まったまま放置されていたことなどなかった時計の電池を交換しながら、せつなくなる。

診察室で、ふと先生の視線を見ると、患者本人ではなく、わたしのほうに向けられている。
足元のおぼつかない母に危険がないように付いてきただけのような、軽い気持ちでいたわたしは、我に返り、自分の立場を思い知る。
親の後ろにぼさっと立っていれば、必要なことは全て彼らが聞き、手続きなんかもそつなくやっておいてくれていた、というような昔からの馴染んだ感覚から抜けきらず、つい油断して、ぼんやりしてしまうのだ。
母は母で、聞きたいことや不安なことを、あれこれあれこれ先生に聞いてしまえばホッとして、あとのことは娘が確認しておいてくれるだろうとお任せのご様子だ。
世代交代の瞬間みたいなものは、こういうなにげない場面で思い知る。

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最新の機械

2022年12月06日 | エッセイ
カットとカラーリングのために、美容院に行く。
ほぼ3か月ぶりである。
コロナウイルスと共存することにも慣れてきたせいか、飛沫を恐れて控えていた社交辞令的な会話も最近増えてきたようだ。
特に今回は、わたしの担当スタッフの女性の口数がいつにも増して多く、はずんでいる。
おせちはどうしますか、に始まって、息子たちがいい年してクリスマスケーキやケンタッキーにこだわるのよ、といったような、身内の噂話にありがちな、愚痴か自慢話かわからないような話題が続く。
そして彼女自身の情報を開示しつつも、さりげなく、わたしのプライベートの情報にもなんとかアクセスしようとしてくるのがわかる。
わたしはこういう状況が苦手でいたたまれない。
適当に答えればいいようなものの、ついたウソはすぐ忘れる。
次に来たときに矛盾したことを口走るのも、不信感を抱かれそうだ。
早くカラーリング液を塗り終わってあっちに行ってくれないかなあと思いながら、聞き役に徹する。
と、くだんの美容師さん、おもむろに
「実は新しい機械がはいりましてね」と、ラミネートされたチラシを手渡してくれる。
それには、「世界最小水粒子によって、あなたの髪もツヤッ、しっとり、すこやかに」と書かれている。
彼女曰く「500円なんですけど、たまったポイントを使えば、無料でお試しできますよ」。
もちろん、やらなくても全然いいんですよ、と繰り返す。繰り返すが、やる気まんまんである。
なるほど、本日しょっぱなからのテンション高い雑談は、営業に導くための前奏曲だったことに気づく。

これまで、炭酸水での洗髪、ワンランク上のトリートメントなどを勧められるままに”お試し”してきたが、効果のほどが全くわからず、1回こっきりでやめてしまったことは度々。
今回もそうなんだろーなーと思いつつ、すでにお断りしづらくなっている。
担当の美容師さんがいることのメリットは、好みの髪の長さや色を覚えてもらえるので、いちいち説明しないでも済むことである。
しかしこんな時は、なまじ、顔馴染みなだけに、NOが言いづらいのだ。

結局、会話の勢いに逆らえず、その最新の装置を試してもらうことになった。
昔々、母親の世代がパーマをかけるときに頭にかぶっていたおかまの形によく似ている。
それを頭の上にあてがうこと10分。
世界最小粒子というだけあって、目にも見えず、冷たくもなく、音もせず、それだけに達成感にいたらない。
ブローで仕上げたあと、「ねえ、〇〇さん、頭をちょっとおさえてみて。いつもよりしっとりしてるでしょ」と聞かれたものの、いつもと同じである。
しかしそんなことを言っては、身もふたもない気がして、「ああ~なんとなく」と言葉を濁す。
やはりあの500円分のポイントは、値引きのほうに使えばよかったと、みみっちい未練をひきずって帰宅したのでした。
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愚痴とも腹立ちとも……

2022年12月04日 | エッセイ
先週の金曜日は、父の通院に付き添う日だった。
自分の通院、親の通院の付き添いと、金曜日はほぼ毎週休みである。
今回は緑内障の父の視力がずいぶん落ちているようなので、大きな病院に診てもらうことになったのである。
かかりつけのクリニックに9時過ぎに寄って紹介状をいただき、病院に向かうためにタクシーに乗り込んだのだが、受付時間が10時半までである。
間に合うかどうか心配だったので、父が運転手さんに、「〇号線は混んでますかね?」と道路の混み具合を尋ねると、彼曰く「〇号線っていったって隅から隅まであるんですからね!お客さんの言ってる〇号線はどの部分なんですか」とそりゃもう、偉そうに声張り上げて揚げ足をとってくる。
もう、あっけにとられたわね。
その病院に行くために通る〇号線のあたりに決まってるじゃないの!
あまりにも失礼でぶしつけなもの言いに、例によって、負けん気の強い父が、言い負かそうとするのだが、なにぶん認知症なので、うまいこと言葉が出てこない。
相手の挑発にのってしゃべればしゃべるほど、とんちんかんな発言になって、その場の空気だけが険悪になってくる。
やめなさいよ、と母がこっそりと隣から父をつつく。
狭い車内でいたたまれなくなったわたしが、するりと別の話題に変えて、運転手抜きの話にもっていく。
すると、くだんの運転手、「(病院までの〇号線の混み具合なら)、普通」と今さらおっしゃる。
それをさっき、聞いたんじゃないの。
知ってるんだったらサッサと言えばいいものを。
それに「普通」っていう言い方も木で鼻をくくったようである。

以前にもその運転手にあたったことがあるらしく、「駅までお願いします」とこちらが言うと、「どこの駅かわからない」と声を荒げたあげく、下車するまでずっとブツブツ文句を言い続けたのだそうだ。
確かに、駅は近隣に3つほどあるので、どこの駅かを言わなかったのはこちらの落ち度だが、なにも文句を言い続けるほどのことでもない。
要するにこちらが年寄りだと思って、小ばかにしたらしい。
わたしは自分がばかにされたよりも、高齢の両親がうまく言い返せないのをいいことに、あんなふうな扱いをうけたことが悔しくてたまらない。

わたしにも、父譲りの、無駄に負けん気の強いところがあり、その時は言い返す言葉がうまく浮かんでこなくて、家に帰ってから、あの時、ああ言ってやればよかった、こう言い返せばよかった、と身もよじれるほど悔しくてたまらなくなることがあるのだが、いつも後の祭りである。
今回は、緑内障の診察の結果が思わしくなく、これ以上の回復が望めないと聞いて帰宅したばかりとあって、その悲しみと、タクシーの中での悔しさが2重になって思い返される。
ああ、せめてあいつ(すでにあいつ呼ばわりになっている)が道路の混み具合を、「普通」と答えたとき、「普通って、何平方メートルに車が何台走ってることを言うんですか」とでも聞いてやればよかった。目には目を!揚げ足には揚げ足を!などと詮無いことをいつまでもぐずぐずと思う。
職場では、同僚、上司、来客諸氏から、随分冷たい言い方じゃないの、というようなもの言いをされることもあるが、それも給料のうちと我慢ができる。しかし今回は、こちらが客なのである。
まあ、物騒な世の中、相手にこちらの家の所在地を知られている以上、変に勝ち誇って恨まれて、放火などされるよりはよかったかもしれない、とちょっと大げさな負け惜しみに気持ちを慰めてみるしかない。
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