実感が全くないまま大晦日になった。
今年はコロナ禍のため、帰省は控えようと思っていたのだが、おせちを注文したから、それだけでも取りにきなさいと母から電話があったので実家に出かけた。
ニュースでも、帰省をするか否かが話題になっていた。忘年会や新年会、初詣だのと、話題になること自体、この場に及んでのんきだなあと思わないでもないが、やはり、毎年習慣となっていることにはこだわりがある。
しかし、つい先日までわたしは電車やバスに乗っていたのである。もしも無症状ながら感染していたら‥‥。両親とも80才過ぎ。おまけに父には糖尿病の持病がある。泊まるとなると、マスク越しとはいえ、夜中まで、ぺちゃくちゃと、積もる話をするだろう。並んで食器などを洗うだろう。ウイルスは目に見えないだけに、大丈夫なんじゃないの、と油断して”なあなあ”になるのは目に見えている。
そこで、顔見せを兼ねた日帰り帰省にしたのである。
考えてみれば、ひとり暮らしを始めてから、ひとりで年を越すのは、初めてである。
正月やお盆休みの前となると、化粧品や歯磨きセットをポーチに入れたり、滞在日数分の着替えを鞄に詰めたり、ちょっとした土産ものを買いに行ったりと、完璧なお客さんよろしく多少緊張しながら、しかしいそいそと帰省の準備にいそしんだものだ。
今日は朝から、別の意味で、そわそわと落ち着かず緊張していた。化粧品や着替えの心配はないが、それにとって代わったのが、マスクの選別。
ひとくちに使い捨てマスクと言っても、品質はピンからキリまで。特に、品薄時にネットで買ったものは、三層構造と表示があるものの、単にヒダが三層になっているだけ、という代物なのである。
両親に会うのは、今年の2月以来、実に10カ月ぶりであった。
電車やバスを乗りついで30分ほどの距離が今年ほど遠く感じられたことはない。
滞在時間は、予想通り長くなった。マスクははずさず、換気はまめにしたが、本当に大丈夫だったかしら、換気し過ぎてかえって部屋が冷えたのではないかしら、と一抹の不安とともにおいとま。
「もしも感染したとしても、気にせんでええよ。わたしたちは寿命だと思っているんだから」という母の言葉が染みる。
威勢はいいが物忘れの多くなった母と、外出自粛のせいもありますます足がおぼつかなくなった父が、寒風の中、娘を見送ろうと玄関口に出てきてに並んで立っている。何度重ねても慣れることができない光景であった。
日頃、コロナの陽性者が出た途端、職員が目まぐるしく立ち回り、花火大会のような騒ぎ(たとえが適切ではないが)となる保健所にあって、その展開に全くついていけないのであるが、そんな場面に身をおいているほうが、気が紛れていいのではないかとさえ思ってしまう。
どんなに強がってみても、ひとり迎える正月は、試練でしかないのだ。
耳の遠い父が大音量にするものだから毎年辟易してしまう年末年始のテレビのバラエティ番組も、こうなっては懐かしいばかりである。
今年はコロナ禍のため、帰省は控えようと思っていたのだが、おせちを注文したから、それだけでも取りにきなさいと母から電話があったので実家に出かけた。
ニュースでも、帰省をするか否かが話題になっていた。忘年会や新年会、初詣だのと、話題になること自体、この場に及んでのんきだなあと思わないでもないが、やはり、毎年習慣となっていることにはこだわりがある。
しかし、つい先日までわたしは電車やバスに乗っていたのである。もしも無症状ながら感染していたら‥‥。両親とも80才過ぎ。おまけに父には糖尿病の持病がある。泊まるとなると、マスク越しとはいえ、夜中まで、ぺちゃくちゃと、積もる話をするだろう。並んで食器などを洗うだろう。ウイルスは目に見えないだけに、大丈夫なんじゃないの、と油断して”なあなあ”になるのは目に見えている。
そこで、顔見せを兼ねた日帰り帰省にしたのである。
考えてみれば、ひとり暮らしを始めてから、ひとりで年を越すのは、初めてである。
正月やお盆休みの前となると、化粧品や歯磨きセットをポーチに入れたり、滞在日数分の着替えを鞄に詰めたり、ちょっとした土産ものを買いに行ったりと、完璧なお客さんよろしく多少緊張しながら、しかしいそいそと帰省の準備にいそしんだものだ。
今日は朝から、別の意味で、そわそわと落ち着かず緊張していた。化粧品や着替えの心配はないが、それにとって代わったのが、マスクの選別。
ひとくちに使い捨てマスクと言っても、品質はピンからキリまで。特に、品薄時にネットで買ったものは、三層構造と表示があるものの、単にヒダが三層になっているだけ、という代物なのである。
両親に会うのは、今年の2月以来、実に10カ月ぶりであった。
電車やバスを乗りついで30分ほどの距離が今年ほど遠く感じられたことはない。
滞在時間は、予想通り長くなった。マスクははずさず、換気はまめにしたが、本当に大丈夫だったかしら、換気し過ぎてかえって部屋が冷えたのではないかしら、と一抹の不安とともにおいとま。
「もしも感染したとしても、気にせんでええよ。わたしたちは寿命だと思っているんだから」という母の言葉が染みる。
威勢はいいが物忘れの多くなった母と、外出自粛のせいもありますます足がおぼつかなくなった父が、寒風の中、娘を見送ろうと玄関口に出てきてに並んで立っている。何度重ねても慣れることができない光景であった。
日頃、コロナの陽性者が出た途端、職員が目まぐるしく立ち回り、花火大会のような騒ぎ(たとえが適切ではないが)となる保健所にあって、その展開に全くついていけないのであるが、そんな場面に身をおいているほうが、気が紛れていいのではないかとさえ思ってしまう。
どんなに強がってみても、ひとり迎える正月は、試練でしかないのだ。
耳の遠い父が大音量にするものだから毎年辟易してしまう年末年始のテレビのバラエティ番組も、こうなっては懐かしいばかりである。